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01 「人間は、そう簡単には死なないんですよ」

これで義理は果たしただろう?

 噂に聞いていた通り、そこにはゆうに百名は超える奴隷がいた。

 奴隷の年齢は様々で、男性と女声が半々といったところだった。

 誇りを失わずに、胸をはってしゃんとしているものもいれば、頭をたれ、肩をすぼませて地面を見つめているものもいる。

 ほとんどは後者で、奴隷たちの後ろで、鞭を片手に見張りが巡回し無言の圧力を与えていたが、いずれも形だけのものだった。


 トトノ商会の奴隷は調教が行き届いているという前評判は、どうやら本当のことらしかった。


 奴隷たちは襲われ、鎖に繋がれたのち、激しく鞭を振るわれるという。

 そこで、自分の存在について再教育されていくうちに、頭をたれうつむき続けることが、己の身の上に災厄が降りかからぬようにするための最良の手段だと学ぶのだとか。


 他の商会であれば、生まれながらの奴隷もいるのだろうが、ここはトトノ商会の市場。

 粋の良さこそを信条とする彼らが、生まれながらの奴隷を仕入れいているという噂は、市場をみた今のディンなら、くだらない話と一蹴できた。


 まだ日は落ちたばかり。

 ブラジウスの小高い丘から吹き下ろす冷たい風が、たいまつをあおり、広場と海とを奴隷たちの影を揺らした。 

 奴隷たちは使い古された鉄鎖に繋がれ、いくつかの列に並んでいる。

 市場では男や少年たちと、女性と少女たちで分けられいる。

 労働力を求めるものは男たちへ、潤いや欲望を生業にする者たちは女の列へ。

 農場を持つわけでもなく、別段労働力を欲していないディンは、別段迷わずに女性たちの列へ向かう。

 

 女たちは、様々な土地から連れて来られていた。

 褐色の肌にちじれた髪の少女に、ディンがこれまで見たことのない艷やかな黒髪をもつ、黄色い肌の女性。このあたりでは馴染み深い淡い金髪に白髪の女たち。

 皆がみな、同じように少々痩せ気味ではあったが、顔立ちは整っていた。


 それに、以外なことに、彼女たちはそれほど臭わない。

 売り物として、特に労働力以外を求められる女性たちは、身ぎれいすることが義務付けられているためかもしれなかった。


 彼女たちは、いくらなのだろう。

 わずかばかりの好奇心が芽生え、ディンは売人を探して視線をさまよわせる。

 売人は、性行為の匂いがするような、太った商人と交渉にあたっていた。

 彼らのそばに、試着をすませたと思しき娘が、固く目を閉じ、死んだようにうつむいているのが見えた。


 ディンは、胸にやりきれない思いを抱きながら、太った商人らに背を向ける。

 奴隷たちの列に視線を戻す気にもなれず、なんとなく視線をさまよわせた。

 

 女性たちが居並ぶ列の先に、いくつもの倉庫が横並びになっているのを見つけた。

 側には商船が停泊し、遥か東方より運んできた絹や象牙、檻に入れられた動物などがゆっくりと降ろされている。

 その端に、倉庫というにはやや小さめの、石造りの小屋で、ディンの視線が止まった。

 その付近だけはたいまつがなく、周りからの明かりでひっそりと外観がわかる程度である。


 ひょっとして、あれが噂に聞こえる、調教小屋であろうか。


 誰かに見咎められならば、すぐにでも引き返そう。

 ディンはそう心に決め、ゆっくりと歩み寄る。


 そして、あっさりと小屋の戸口まで到着してしまった。

 

 恐る恐る、扉に鉄の取っ手を回す。

 扉は微かに軋みながら、ゆっくりと開いた。

 途端に、とてつもない異臭が、ディンを襲った。

 よどんだ汚水の匂いに、汗がこもったようなカビ臭さ。

 そして、仕事で何度か嗅ぐことになった、赤い粘っこい液体の生乾きの臭い。


 部屋は、外見から想像するより狭かった。

 原因は、扉をあけてすぐ、視界に圧倒するように並んだ、何本もの鉄格子である。


 鉄格子で区切られた反対側の壁からは、等間隔で伸びる、鉄鎖と、その先端に結わえられた木製の手枷。

 垢や涙やその他感情を飲み込んだような汚れた手枷は、奴隷たちの手首を、彼ら、あるいは彼女らの頭上で拘束していた。


 奴隷らは、極端にやせ細っていた。

 あらわになった腕からは骨がくっきりと浮かび上がっている。手首も細く、すぐにでも手枷が抜け落ちそうなのに、奴隷たちの手首はしっかりと結わえられている。

 あらかじめ、やせ細ったものたちを拘束するための枷として、一回り小さめに作られているようだった。

 だが、よしんば、枷から抜け出せたとしても、ほとんど骨と皮だけの両足で、満足にあるくことができるのかどうか。


「いま、断食中なんですよ」


 場違いな幼い声で話しかけられ、ディンは我に返った。

 ずっと奴隷たちに釘付けで、全く気づかなかったのだ。

 声の方に視線を向ける。

 まだ声変わりもしていない、少年とおぼしき身ぎれいな子どもが椅子に深く腰掛けている。

 見習いのようで、動きやすそうな袖の短い服を着ていた。

 少年は、ディンに向けて可愛らしい笑顔を向けていった。


「教会のお客さまとは、めずらしい。なにかございましたか?」


 少年の挨拶は、どこかの店先で聞いたのならば、よく仕込まれていると関心したことだろう。

 今日は何になさいますか、と続くような日常の挨拶。


 日常であれば。

 

 空を切る音と、破裂音。

 くぐもった悲鳴。ディンは悲鳴で、鞭が振るわれたのだと知る。

 生唾を飲み込んだ。


「死ぬんじゃないかと、お思いですか? 

 大丈夫。人間は、そう簡単には死なないんですよ」


 邪気のない声音で、少年はいった。

 ディンは、苦虫を噛み潰した声で答えた。


「うわさ以上ですね、あなた方は」


「トトノ商会は、何事においてもお客さまの期待以上をお約束致しますので」


 少年が穏やかな笑みを浮かべた。

 再び、空を切る音がする。

 くぐもった悲鳴。

 奴隷は、口元に、木の棒を結わえられていた。

 声を押し殺す余裕なんて、ないに違いない。隙間からよだれが垂れ、糸をひいていた。

 よだれを拭えないことも、心を壊すひとつの手段として用いられているのだろう。


 また、獄卒が振りかぶった。

 しなる鞭の動きが、ディンの目を釘付けにした。

 振るわれた鞭が、蛇のように奴隷に巻き付いた。

 痛みを殺しきれず、身悶えする奴隷。

 微かに膨らむ胸の形がかろうじて、奴隷を女性であることを主張している。


 つかのま、その奴隷と視線が交差した。


 瞬間、呼吸が止まった。ディンの世界から、石畳から伝わる冷たさも、獣の如く漂う汗の混じった酸いた匂いも、耐え難い痛みに呻く他の奴隷たちのうめき声も、全てが一緒くたになって消え去った。


 瞳が、ディンの心を捉えた。


 彼女の身体は汚れていて、全身が細かな裂傷や打撲で傷だらけだった。

 くしゃくしゃの髪はあまりにも脂ぎっていて、本来の色もわからないほどだ。

 苦悶の表情に歪む眉も、苦痛に悶える身体も、暗どこもかしこも汚れていた。


 しかし、そこだけは。

 彼女の瞳だけは、汚れていなかった。


 正確には、鞭打たれた瞬間、あきらかな意志を宿した。

 

 目は心を写す鏡だ。

 その瞳は、他の奴隷と同じように、うつろに乾き、諦観に支配されていた。

 それが、突然、冷たく澄み渡り、挑発するようなきらめきを放った。

 理不尽な暴力に対する怒り。

 いわれなく拘束されることに対するいらだち。

 その瞳を押し殺すすべを学ばなければ、文字通り死ぬまで鞭打たれるに違いない。

 生来の、彼女の命の輝きが垣間見え、ディンの心を強く揺さぶった。


 それから、またしても突然、彼女の視線は意志の力を失い、おそらくは死ぬまで鎖に繋がれたままの運命にある絶望とあきらめに塗りつぶされていった。

 ディンには、彼女が自らの殻のなかに閉じこもる様が見えるようだった。

 まるで、自らの死を待ち望んでいるかのように。


「あれは」


「彼女、ですか……」


 少年は、わずかばかり考えこむように、あごのしたに手を当てた。


「顔立ちは、悪くないですよね」


 ディンは、曖昧にうなずいた。少年は、彼女を見つめたまま言葉をつづけた。


「やや、痩せ過ぎた感はありますが、長くて細い手足を持っています。

 しばらく食事をさせれば、女性らしさを取り戻すでしょうね。

 彼女は、西方海岸沿いの小国の出自です。

 敗者の常として、奴隷として売られたところを、わが商会で買い取ってまいりました。

 もちろん、処女です」

 

 ディンは答えに詰まった。少年は、畳み掛けるようにいう。


「扱いやすいと思いますよ。

 残念ながら、調教が完璧とは言えませんが、しばらくボロを着せたままでしたから、きれいに洗ってあげれば、自然と恩義を感じてくれると想いますし。

 調教後が良いというのであれば、契約後、しばらく商会で面倒をみることも可能です。

 しっかりした食事をご希望であれば、少しばかりお高くなりますが」


 それから、たった今気づいたとでもいうように、少年は、両手をこすりあわせて、ディンを見つめた。


「ひょっとして、贈り物ですか」


「いや……」


 ディンのためらいを見てとった彼は、続いて提案する。


「ご試着なさいますか?」


 汚れが気になるようであれば、湯浴みをさせて参りますよ、と少年はいった。


 ディンは、静かに首をふった。

 弱りきった無抵抗なものをいたぶり、彼の命を使い切ることが楽しい人間も、確かにいるに違いない。

 でも、ディンには、やせ細った彼女を性の対象にみることはできなかったし、仮に彼女と行為に及んだとして、彼女がそれに耐えられるとは到底思えない。


「彼女を、いただこう」


 少年が、獄卒に声をかける。

 まもなく木枷がはずされ、彼女が連れられてくる。血がにじむ細い背中と小刻みに震える身体を、ほとんど骨と皮だけの足が必死に支えていた。

 少年は隅の卓から、机から羊皮紙を取り出し、筆をとって書き連ねた。


「服はおつけしましょう。他になにかご入用ですか」


「馬車の手配を。送り届けてもらいたい」


「承知いたしました」


 少年は羊皮紙に契約内容を書き記しながら、言葉を重ねる。


「もし、彼が粗相をはたらくようなことがあれば、遠慮なくおっしゃってください。

 背中から、何度でも肉を剥ぎ取って差し上げますので」


 その発言は、ディンへというより、震える彼女に対して言っているようだった。


 彼女は、おもむろに顔をあげた、薄く目をみひらいた。

 瞬きすれば音がしそうなほどに長いまつげ、伏せられたそれがゆっくり開く。


 青とも緑ともとれそうな、淡い色を持った瞳。

 その瞳に、先ほど感じた意志の力はどこにもなく、かわりに底のない闇を連想させた。

 引きずり込まれそうなほどに深い、瞳に映る憂愁の陰り。

 彼女のたどってきた過酷な経験を彷彿させた。


 彼女は深く息をはくと、うつむくように視線を落とした。

 ほんの少し力を加えただけで小枝のように折れてしまいそうなほど華奢な腕に、ディンの心はざわついた。

 少年はとの商談はあっさりとまとまった。


 彼女の値段は、ディンの一ヶ月分の働きに相当した。

 ディンは、決して高給取りとは言えない。

 人ひとりの運命を左右するには、あまりにも。

 

 額にして、銀貨10枚。

 それが、彼女の値段だった。

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