出会い
第一部
一、出会い
風が少年の神を撫でていく。
木々は両手いっぱいに若葉を抱え、青空から降ってくる朝強い光に喜びの声をあげていた。木漏れ日の中、石畳の小道が古い洋館に向かって続いている。
金色の髪に光が反射して、きらきらと輝いて見える。瞳は、今日の空と同化してしまいそうな青色だ。少年は大きなトランクを持って小道を歩いていた。濃紺のスーツはおろしたてで、まだ畳み皺がついていた。
「アル! アルディラーン!」
木々の間から見え隠れする洋館の窓から少年に向かって、大きく手を振っている人影が見えた。
少年は目を細める。
「…マルシオン?」
窓から人影が消えた数秒後に、玄関口から童顔の少年が飛び出してきた。
「やぁ! 久しぶり! 元気にしていたかい?」
マルシオンと呼ばれた少年は、同じく新品のスーツを身に着け、薄茶色の柔らかそうな髪を揺らしながら走り寄り、アルディラーンの手を握り締めた。
「シオン! おまえもここの館なのか?」
アルディラーンは嬉しそうに手を握り返した。
「そうなんだよ!」
「へぇ、心強いな」
小さくウィンクするマルシオンを見て、アルディラーンは微笑んだ。
「それにしても。古いなぁ~…」
「僕は昨日ここに来たんだけど、驚いたね。外観だけじゃなくて中身はもっと凄いよ。博物館ものだね。ここに四年も住むなんて、ぞっとするよ」
と、肩をすくめた。
その威圧感ある館は、手入れこそしっかりとなされているが、ゆうに築二〇〇年は超えているだろうことは素人目にも明らかだった。
「おいでよ、君が最後だ。他の入学者はもう揃っているよ。午後からは式がはじまる」
マルシオンが中に促した。
統合暦八〇〇年、経済学者ハロラン=モスの指揮により、パンゲアは大西洋に人工島を建設する。
七百ヘイホウキロメートルのその島は『ガイア』と名付けられ、あらゆる機能を備えることとなった。
まず、パンゲアの本拠地がガイアに置かれ、さらに各自治区共同の学校であるユニが建設された。それに伴い、警察、消防機関、生活雑貨店が整備された。
中でも、各自治区のトップが集まる統合会議がパンゲア本部で開かれるとあって設立された、対テロリスト、有事専門の自警集団ヘスティアはどの自治区にもない機関であった。その起動能力は凄まじく、パンゲア直属の機関であるタクラマカンにも対抗できる機関にまでなった。事実上、地球上に五つ目の自治区が誕生したといっても過言ではないだろう。
ガイアは教育区とされ、ユニには法学、行政学、経済・経営学、軍事学、医学、工学、情報学、科学、理学、芸術学などあらゆる専門家たちを集め、万全の教育機関とした。
年に一度行われるユニの一般入学試験には、毎回志望者が殺到し、倍率は一〇万倍近くになるという。入学すれば、学費は各自治区から支給される。また、一般入学試験とは別に、ユニ独自の選抜方法で、推薦人とよばれる試験監督官が世界各国を回り、適正者を見つけ出し、入学を許可する推薦入学制度、特技のある者、一芸に秀でている者は自己を推薦する自己推薦制度などがあり、ユニには毎年、優秀でユニークな若者が集まってくる。
四年制教育で落第は二回が限度となっており、それ以上は退学となる。また、年齢制限があり、入学時に一六歳以上、二六歳以下でなくてはならない。ユニはあくまで若年者を対象とした教育機関として成立していた。
各自治区からきた入学者たちは、ユニが所有する寮で生活するか、島内の住居を借りることとなる。ユニが所有する寮館は全部で八館あり、テン、リュウ、ヤシャ、ケンダッパ、アスラ、カルラ、キンナラ、マゴラガという。合計二〇〇〇人収容することができる。ただ、その館は古く、設備を兼ね備えていないとの噂があり、大変不便な生活を強いられるため、ほとんどの学生は利用しようとしないので、常に半数以上は空室となっている。
「ようこそ、アスラへ」
洋館の中に入ると、大きなエントランスホールがあり、その横は談話室となっていた。そこで談笑していた二人の男女がマルシオンとアルディラーンに気づき、立ち上がった。
女性がアルディラーンに向かって差し出したその腕は小麦色で細かった。
「ようこそ」
にっこりと笑った顔はそばかすだらけでチャーミングだった。こげ茶色の大きな瞳に短い黒髪は小柄な彼女をより一層幼く見せているに違いない。
──女性だ…。
ユニの入学者には年齢の他何の規制もないが、圧倒的に男性が多く、全学生一〇万人の内女性はわずか一〇〇〇人足らずしかいない。
しかも、かわいい。
アルディラーンは随分長い間固まっていたのか、マルシオンから肩をつつかれてようやく、目の前で笑顔の彼女と、待っている手に気が付き、慌てて自分の手を上着で拭いて、その細い手を握り締めた。
彼女の手は柔らかく、暖かだった。
ロッテは、白いブラウスに臙脂色のスカーフ、カーキのズボンをはいていた。
──そうか、彼女は芸術科か…。
ユニでは、各科ごとに制服が指定されている。しかし、科ごとに大きく違い、芸術科などは臙脂色のスカーフを身に着けること、ということ以外の規則はなく、ほとんど私服同然だった。対して、軍務科は男性女性とも濃紺の制服があつらえてあり、一見して軍人のようであった。実際、これは自警団ヘスティアの制服を模倣したものである。
彼女は小脇に抱えた冊子を開いた。
「…えぇ~と。アルディラーン? アルディラーン=バラスティー?」
「はい、そうです」
アルディラーンの顔と、冊子を見比べると、にっこり笑った。
「私は、このアスラの館長のロッテ=クレメン。二年生よ。一年間よろしく。わからないことや、困ったことがあれば何でも言ってね」
「え? 館長?」
アルディラーンはマルシオンに確認を求めるように聞いた。マルシオンはにこやかに笑って頷いた。
──いくら半数以上が空室だとしても。各館に一〇〇人前後は収容されている。それを女性が仕切るなんて…。よっぽどやり手なんだな…。
アルディラーンは思わず、足の先から頭のてっぺんまで見つめてしまった。
ロッテはアルディラーンの不躾な態度にも笑顔を崩さず、横にいる男性に顔を向けた。
「こちらが副館長のキルシー=ガラ、2年生よ」
そう言って手を向けた先には不思議な男がいた。
彼の立っているそこだけ、別の空間のように静かだった。
漆黒の髪に漆黒の瞳、それに二人と同じ濃紺のスーツは何ものをも飲み込んでしまいそうな闇だった。切れ長の瞳に何もかも見透かされていそうで、しかし、本人は何も見ていない、そんな印象を受けた。左右の瞳の色が少し違う。
──珍しいなオッドアイか。
「…よろしく」
ゆっくりと開かれた口から漏れた声は、思っていたより柔らかな声だった。
アルディラーンはその手を戸惑いながら握り返した。差し出された手は、ロッテとは違って、とても冷たかった。
「さて、バラスティー君、式の時間が近づいているので、荷物を部屋に置いたら、またここに戻ってきてくれるかな? 部屋はミレニー君と一緒よ。ミレニー君、知り合いのようだし、案内してあげてくれる?」
ロッテは冊子をパタンと閉じて、にっこり笑った。
「わかりました。行こう、アル。五〇五号室、五階の角部屋だ」
マルシオンは二人に会釈すると、アルディラーンを階段に促した。
「…もしかして、エレベーターもエスカレーターもないのか?」
当然のように、階段を上っていくマルシオンにアルディラーンは尋ねた。マルシオンは一段高い位置で、アルディラーンに顔を近づけ、囁いた。
「そうだよ。それに、エアコンもついてない」
小さくウィンクする。
「…一体何世紀前の生活をさせられるんだ?」
ため息をつきながら、マルシオンの後についていく。
「二階に食堂があるんだ。その大広間がそうだ。朝はバイキング形式で六時から八時まで開いてる。夜は原則的に、七時集合らしいよ。事前に言えば、後で部屋に持ち運んで食べることができるらしい。ユニがまだ始まっていないこともあって、今日までは食堂は休みなんだ。本日の夕飯はどうするか後で考えよう。門限は二二時、その時間になるとクレメンさんかキルが正面玄関を閉める。だけど、それ以降でも窓からの出入りは激しいみたいだ」
喋りながら、どんどん階段を上って行く。
「…キル?」
聞きなれない名前に、アルディラーンが聞き返す。
「あぁ、キルシー=ガラだよ。副館長」
手の中に、先ほどの冷たい感触が甦った。
「…知り合いなのか? …ガラって、もしかしてアメガンのガラ家?」
「あぁ、そうだ。父同士に付き合いがあってね。小さい頃から何回か会ってる。彼、いい奴だよ」
アメガンのガラ家といえば、政界にまで影響を与える名家だ。
どう見ても、一筋縄でいきそうにない雰囲気を醸し出していた男の風体を思い出し、アルディラーンは苦笑した。
「シオンにかかったら、世の中に悪い奴がいなくなる」
アルディラーンの言葉に足を止めたマルシオンは極上の笑みを浮かべた。
──ほら、またこの笑顔だ。
アルディラーンは苦笑した。
マルシオンは不思議な才能の持ち主で、会うもの誰もが、彼に好かれたいと思うのだった。薄茶色の髪に淡いグリーンの瞳は春の若葉を連想させ、それ以上に物腰の柔らかさ、輝く微笑みには誰もが焦がれた。
幼い頃から、出入りしていたミレニー家は、マルシオンという人格が形成されるに納得する家庭だった。父がいて、母がいて、姉妹がいる。あったかく、夢のような家庭…。
そんなマルシオンと友達ということが、アルディラーンは幼い頃から自慢だった。
階下に目をやると、まだ二人は何事かを話し合っていた。
「目立つ二人だろ?」
マルシオンの声に、足が止まっていたことに気が付いた。
「そうだな…」
「キルは一七歳、僕らと同い年だ。クレメンさんは二〇歳。二人とも昨年入学だから、学年は一つ上。何と、キルは一般入試で入学している。クレメンさんは推薦入学者らしいよ」
ユニの入試形態で最も入学者が多いのが、自己推薦だ。九万人以上がこの自己推薦制度を使って入学している。残り五〇〇〇人が一般入試合格者。五〇〇人弱がユニの推薦人により、世界中から選出された者たちだ。
ユニの推薦人よって選出された者は、そのほとんどが芸術面での才能を見出された者だ。未開地の民族楽器演奏者や、画家、歌い手、舞い手などである。しかしその多くは民族の違いや生活環境の違いから、ユニに四年間籍を置き続けることが出来ない場合が多い。
「昨年の一般入学試験合格者、ということは…」
「そう、僕たちが落ちた試験の突破者だよ」
マルシオンは苦笑いする。
昨年、ユニの入学規定年齢に達した二人は、一般入試を受けた。結果は、二人とも不合格。かといって、二人が落ちこぼれかというと、そうではない。ユニの一般試験が難しすぎるのだ。
一般入試は他の入学方法とは違い、誰の推薦も、保証も必要がなく、誰でも受けることができるのが魅力の一つだ。ただ、その試験期間は三日と長丁場で、試験範囲は宇宙工学から、時事、娯楽、生活習慣にまで及んでいるという。さらに全世界から入学予定者の一〇万倍以上が申し込むという、地球で最も難しい試験の内の一つといわれている。
「去年のことはできるなら思い出したくない、人生の汚点だな…。お互い…」
二人は顔を見合わせて笑った。
「そうでもないさ、貴重な経験だったよ。例によって姉さんたちにはつつかれたけどね」
「当たり前だ。シオンは俺に付き合って一般入試を受けなくても、もともと自己推薦の方でいけたのに…」
「そうかなぁ~。僕は今回もたまたま引っかかった感じだけど…。アルは凄かったよね。あれから、フェンシングの大会に出まくって、ユメアのチャンピオンと世界ジュニア・チャンピオンのタイトル奪取に成功したんだから」
「フェンシングのタイトルなんて平凡なものでいけるかどうか不安だったから、火星の生態系に関する論文も一緒に出したんだ。どちらかというと、論文の方が評価が高かったみたいだよ」
シオンがそれを聞いて、笑った。
「君こそ、火星探査の実績があるんだから、そっちで自己推薦を使えばよかったんだよ」
「違うよ、俺には実績がない。あるのは叔父だ。俺はついて行ったださ。しかも、その間の記憶はない、ときている。その論文の材料もほとんど叔父の持ちものを引っ張り出してきただけのものだし…。結局、自分自身だけの力じゃ、ユニには入れなかったということだよ」
肩をすくめながらため息をついて、マルシオンのところまで階段を上がる。
「ここ、三階の奥にバスルームがある。部屋にもシャワーはついてるけどバスタブはないから、湯に浸かりたかったら、こっちに来ないといけない。ただ、大浴場なんだ…」
恥ずかしそうに言うマルシオンに、ぴんときたアルディラーンは、
「ははぁ~ん。アメガンには共同浴場の習慣がないからな。ユメアには民間経営の浴場もあるし、俺は平気だな」
得意そうに言った。
「僕も、すぐに慣れるさ」
マルシオンはすねたように、そっぽをむく。
「シオン、クレメンさんの出身は?」
「…アリカナだ」
アリカナ、それは古代からの未開地がまだ残っている大陸だった。しかも、統合される前に行われた、度重なる核実験の後遺症がまだ生々しく残っている。さらには、同じ人間が、人間を肌の色で区別し、敵対意識を持って、絶えず諍いを起こしているという。
「近年は、アリカナからの推薦が多いな」
「…アリカナには貧困者が多く、ユニのことなんか知らない人間がいっぱいいるんだよ。えてして、そういうところに天才っていうのは生まれるもんだ」
「天才? クレメンさんのことか? シオンにそこまで言わせるなんてすごいな」
「…僕の演奏なんて、彼女に比べたらお粗末なもんさ」
「おいおい、そんなこと言うなよ。シオンらしくない。後でまた聞かせてくれよな」
どうにかこうにか五階まで上がってきた二人は、五〇五号室と書かれたプレートのかかっているドアの前に立った。
「ようこそ、アルディラーン。お入り下さい」
マルシオンが勿体ぶった態度で、扉を開けた。
目に飛び込んできたのは、窓から入ってくる日光に、光る漆黒のグランドピアノだった。
どこにでもある、アパートメントの一室がそのピアノがあるだけで、格の違う空間に変貌していた。
「…いつ見ても、すごいな」
幼いころから見てきたピアノだ。アルディラーンのミレニー家の記憶は、このピアノとともにある。
「悪い、先に置かせてもらったんだ。ここが一応リビングになる。君の荷物も届いてるよ」
そう言って、奥にある扉を開けた。
「ここがベットルーム。とりあえず、僕が左側のベットと机を貰ったけど、都合が悪ければ言ってよ」
そこは、ピアノの置かれているリビングよりは、狭く。左右にベットと勉強机が対になって置いてあった。右側には梱包が解かれてない荷物が数個、積み上げてあった。
「それから…。向こうがキッチンとバス、トイレットルーム」
リビングを間に置いて、ベットルームと反対側にもう一つ扉が見えた。
「残念ながら、キッチンはまだ使っていない。今夜二人で格闘しようと思って、何もしてないよ」
「…してないんじゃなくて、できなかったんだろ?」
持ってきたトランクを、ベットの上にほうり投げて、マルシオンを睨んだ。
「ばれたか」
舌を出して、髪に手をやる、
「ばれいでか! 合格して、自炊しなければならないとわかると、不安がって、毎日のように回線をつないできたくせに!」
手元にあった枕をマルシオンに投げつけた。片手でそれを受け止めて、恨みがましい声を上げる。
「アル…、君は、あれから僕が姉さんたちにどんな目にあったか知らないだろう? 僕は、あの短期間で、はっきり言って、家事は完璧というところまで仕込まれたんだぞ…。だけど、こんな旧式のキッチンは使ったことがなくて、わからなかったんだよ。ま、結局、食堂があるんで、ここを使うのもユニの長期休暇期間中だけかな」
アルディラーンは、ミレニー家の元気な双子の姉妹を思い出し、笑い出した。
「それはいい。今日はシオンの手料理だな!」
「何を言ってるんだよ。君も一緒に作るんだよ!」
投げ返ってきた枕を避けて、アルディラーンはベットルームから飛び出した。
「さて、そろそろ式が始まるんじゃないか? 行こうぜ」
そのまま、部屋を飛び出し、階段を下りていった。
「…ったく」
ベットからずり落ちた枕を手で叩くと、もとの位置に置き、扉を閉め、鍵を掛けて、アルディラーンの後を追った。
「…壮絶な景色だな」
周囲は濃紺一色だった。隣に座っているマルシオンにそっと声を掛けた。
「今年の入学者は二万人らしいよ。例年より少し少ないね」
ユニの入学式は四月に行われる。桜が満開のこの地に、初々しい青年たちが故郷を離れ、希望を胸にやってくるのである。
式は、各科ごとに校舎に集まり、パンゲアの代表者、ユニの学校長の演説が壇上の大画面モニターで中継されるのを聞く。
その決まり文句の中、アルディラーンは欠伸をかみ殺すことが出来ずに、小春日和の中、コックリ、コックリ、と瞼を落とし始めた。
「アル…。起きろよ」
マルシオンがつつく。
「…まだ終わらないのか?」
大きく伸びをした。
「そこ! 金色の奴!」
鋭い声に、アルディラーンの動きが止まった。
壇上で、仕切っていた上級生がつかつかとアルディラーンの方へ向かってきた。
前までくると、踵を合わせ、アルディラーンを見下ろす格好となった。胸元の名札は黄色、最上級生だ。ライノ=キャラバンと書いてある。
「…式の最中に居眠りするとは」
まだまだ、欠伸が出てきそうな、口に手を当て、アルディラーンは目を白黒させた。
「すみません。あまりにも、つまらないんで…」
と言って、またもや目を白黒させた。
横では、マルシオンが頭を抱えていた。
「…ほほう、パンゲアの代表者と学校長の話がそんなにつまらんかね?」
怒りで顔を真っ赤にしたキャラバンは、アルディラーンの胸元を掴み、椅子から立たせた。
持ち上げられる格好となったアルディラーンは、むっとして、挑むようにキャラバンに言い放った。
「…えぇ、通り一遍の演説はもうあきあきです。わざわざ、この場所で聞かなくてもいいような、どこかで聞いたような内容の話ばかりだし…。これ録画じゃないですよね? それに、いつ聞いても、平和ボケで、的外れな演説ばかり…」
アルディラーンの口は、そこまでしか動かなかった。代わりに生暖かいものが流れ出た、血だった。
キャラバンの拳が大きな音をたてて、アルディラーンの頬に向かったからだ。
マルシオンが立ち上がり、キャラバンの手を制した。その騒動に気づき始めた周囲は、ざわめき始める。
「やめて下さい! クレメン館長を呼んでください!」
「…生憎だが、館長、副館長は全員会議中だ」
マルシオンの手を叩き、胸を押した。その勢いで、バランスを崩したマルシオンは、椅子にぶつかり、派手な音をたてて倒れこんだ。周囲は立ち上がり、キャラバンの様子を見ながら、マルシオンを起こす手助けをした。
「…何やってるんだよ!」
アルディラーンは手の甲で口を拭い、声を荒げて、胸元を握りしめていたキャラバンの拳を掴んだ。
「シオン! 大丈夫か?」
マルシオンは顔をしかめるが、頷く。その手には小さなかすり傷が見えた。
「…手が」
アルディラーンはキャラバンに向き直った。
「何だ? やるつもりかね? 入学の式も終っていない内から、退学者になるかい?」
キャラバンは、口の端で笑った。
アルディラーンはじっ、と驚くほど冷たい瞳でキャラバンを見つめると、彼の横を抜けて、壇上へ向かった。
「何をするんだ! 止まれ!」
キャラバンが追いかけてくるが、アルディラーンはずんずん進んでいく。
壇の下にいる生徒からマイクをもぎ取り、そのまま壇上に上った。
後ろのスクリーンには、まだ学校長の演説が続いていた。そこにアルディラーンの影が大きく映る。騒ぎに気づいてなかった生徒も、騒ぎ始めた。
壇上に立ったアルディラーンは、約二〇〇〇人が入っている会場を見回し、瞳を深く閉じ、深く息を吸い込むと、マイクを握り締めた。
ブロンドが、後ろのスクリーンの光を浴びて輝き、アルディラーンの周りを幻想的に包み込んだ。
周囲からは、ほぅ~、とため息がもれる。頬に赤黒い痣が浮かび上がっているにも関わらず、彼のその姿に群衆は惹きつけられた。
第一声だけで充分だった。
「ユニの標語は『自由と調和』」
不思議な現象だった。長年一緒にいるマルシオンでさえ、そのときのアルディラーンの声には驚きを隠しきれなかった。
──…アル?
違和感なく、耳に入ってくる声。背後のモニターから流れ学校長の音声の方が明らかに大きいのにも関わらず、場内にいる人間の耳に入ってくる音はアルディラーンの声だった。
一瞬で場内が静まり返った。
学校長の声が虚しく響き渡る。
アルディラーンは再び続けた。
「…軍務科というところに居る以上、この意味をはき違えずに四年間を過ごさなければならない! 我々は過去を知っている! 過去の過ちを犯さないように学ぶことができるはずだ!」
一気に言うと、マイクを高々と掲げた。
それだけでも人々を魅了するのには充分だったが、開けられた曇りのない青空のような瞳が群集を見つめると、会場の人々は既にアルディラーンの虜だった。その壇上にはなんと凛々しい青年が立っているのだろう。その場の誰もが思った。
そんな群集を尻目に、アルディラーンは、口の端を上げて、ニヤっと笑うと、大きな声を響かせた。
「こんな演説、聞きたい奴だけ聞けばいい!以上!」
先ほどの崇高な雰囲気からは打って変わって、圧迫感のある声が鳴り響いた。
会場は数瞬の間、物音一つしなかったが…、 漣のように、拍手が会場全体へと広がっていくのにそんなに時間はかからなかった。アルディラーンがマルシオンのところに戻るころには、張り裂けんばかりの拍手の渦が生まれていた。
大音響の拍手を背負い、自分に差し伸べられた手を取ることに、誇らしげな気持ちになっていることを、マルシオンは気づかざるをえなかった。
──一瞬で会場の皆を釘付けにし、心を持って行った…。なんてカリスマ性…。
幼い頃から感じていた器を見せ付けられて、頬が紅潮した。
怒りで震えるキャラバンを尻目に、アルディラーンはマルシオンを促して、会場を後にした。
「あれはまずいよ。アル…」
ソファに寝転がって、本を読んでいるアルディラーンに声を掛ける。
二人は、マルシオンの手を医務室で治療してもらった後、部屋に戻ってきていた。
アルディラーンは本を畳んだ。
「何が?」
「何が、って。さっきの態度だよ」
「あぁ~…」
かったるそうに、足を床に降ろし、体を持ち上げた。
「おまえの手がかすり傷じゃなかったら、あんなもんじゃすまさなかったぜ」
ぞっとするような、冷たい目をした。
「……」
マルシオンは包帯の巻かれた手を、知らず知らず握り締めた。
幼い頃から、アルディラーンの本質は変わっていない。マルシオンは自分に、人から好かれる、という能力があることを充分に認識していた。
しかし、その便利な能力と引き換えに、彼は執着というものを持たずに成長していた。自分が好きになる前に、向こうから寄ってきてくれるのだ。執着など、持つはずがない。
そこに、アルディラーンが現れた。
それまで周囲にいた人間たちとは、全く違った、圧倒的な生命エネルギーを纏って、マルシオンの前に存在したのだ。マルシオンは始めて、この人間と一緒に何かをしたい、と強く思った。アルディラーンはマルシオンに執着を教えた、最初の一人だった。
アルディラーンはマルシオンとは違った意味で、人を惹きつけた。誰にでも好かれる代わりに強い印象を持たれにくいマルシオンとは対照的に、誰へも自分のエネルギーをぶつけるその存在は、時には厭われることもあった。
良くも悪くも、アルディラーンの存在は凡人には強烈すぎるのだ。
今回のこともこれで済めばいいのだが…。
握り締める手に力がこもった。
こん、こん…。
ドアをノックする音が聞こえた。
二人は顔を見合わせる。
アルディラーンが立ち上がり、扉の前に立った。
「はい? 誰だ?」
「クレメンです」
マルシオンを振り返り、扉を開けた。
前には、ロッテとキルシーが立っていた。
「…今日の件ですが、説明してくれるかしら?」
ふっくらとした唇が動いた。
「…どうぞ」
アルディラーンは扉を大きく開けて、ロッテとキルシーを招き入れた。
「では、バラスティー君の行動には一応、理由はあったのね?」
アルディラーンとマルシオンの双方から事情を聞いていたロッテが口を開いた。
「えぇ、そりゃあ、アルディラーンの態度がよかったとは思っていません。しかし、あの上級生もあまりに一方的で…」
マルシオンが必死に弁明する傍らで、張本人はそっぽを向いていた。
「…バラスティー君、君の言いたかったことはわかります」
ロッテの声にアルディラーンは顔を向けた。
「確かにユニの標語は『自由と調和』です。しかし、あなたが学ぶべき学問をわかってる?」
ちらり、とロッテに視線を向ける。
「…軍務、です」
「そう軍務よ。他学生が『自由と調和』を求め、追求するのはいいでしょう。しかし、君たちは最終的に軍属になることを目的としているわ。そういう人間があまりに『自由と調和』を求め続けることは感心できないわね」
「……」
「統合された後でも、自治区ごとに兵力を保持している世の中よ。この矛盾の中、私たちは生きていくの。『自由と調和』ばかりに目を奪われていると、必ず失敗することになるわよ。…そこのところをしっかり認識した方がいいわね」
ロッテは変わらぬ笑顔でそう言うと、ソファから立ち上がった。
「とはいえ、キャラバンから要求されている『放校』というのはあまりにも一方的すぎるので、私の方でなんとかしておくわ。では、以後気を付けてね」
扉に向かうロッテに、アルディラーンが立ち上がった。
「あの…、すいません。軽率でした」
ぺこんと頭を下げるアルディラーンに、ロッテは立ち止まり、微笑んだ。
「…初めての館での夜ね、楽しんでね。キルシー、失礼しましょう。…では、お休みなさい」
扉の向こうに消えたロッテの後を追って、ずっと一言も口を挟まなかったキルシーも立ち上がった。
「キル、すまなかった」
マルシオンが立ち去ろうとしたキルシーに声を掛けた。
キルシーは立ち止まり、彼の冷たい雰囲気からは想像できないような、柔らかな微笑みを浮かべた。
「かすり傷で何よりだが…。シオン、あまり心配かけるなよ」
マルシオンの髪に手を置き、アルディラーンに向き直った。
「…騒動を起こすのは勝手だが、シオンにまで害を及ぼすな」
その言い様に、あからさまにアルディラーンはむっとした表情をした。
「…わかってる」
「…まぁ、もうちょっとうまく立ち回ることだな」
ぽん、とアルディラーンの肩を叩いて、出て行った。
「いけ好かない奴…」
長身のキルシーが身に着けた濃紺の制服は、まるで彼のためにあつらえたのかと思うほど、似合っていた。黒髪を小さく揺らしながら、扉の外へ出て行った。
「よく言うよ。キルがいなかったら、君の放校は、ほぼ確定だよ」
マルシオンがため息混じりに言った。
「…なんで?」
アルディラーンは憤慨した表情のまま、マルシオンに問い返した。
「なんで、って。キャラバンがいきなり軍務科の会長まで、君の『放校願い』を持っていこうとしたところを、キルが見つけて、止めてくれたんだよ」
憮然と言い放った。
「…それは」
──それは恐らく、シオン、君が関係していたから、止めたんだよ…。
先ほどの、マルシオンに向けた敬愛の表情から、それは容易に想像することができた。
──…あんなやっかいな奴にまで、気に入られるとは、シオンも罪人だな…。
『やっかいな奴』、アルディラーンのキルシーに対する評価は、初めて会った時から生涯変わることはなかった。
「キル、どう思う?」
「…天才肌ですね」
「キルにして、そう言わせるの?」
ロッテは、こげ茶の瞳を細めて、柔らかく微笑んだ。
「私たちが着いた時の、会場の様子が、既に物語っていますよ。聞けば、彼一人の三〇秒にも満たない演説が原因らしいじゃないですか。しかも、中身はそんなに重要じゃない。例えば、私が同じことを言ったとしても、皆、あそこまで騒ぎはしないでしょう。それを、彼はやってのけた。…生まれながらに、人を惹きつける才能というものを持っているのでしょう。カリスマというものを…」
それを聞いて、ロッテは、はぁ~、と盛大なため息をついた。
「…今年はなんて年なの? よりによって、私が館長の時に…。キル、まさか、こうなることがわかって私を館長に据えた んじゃないわよね?」
口をへの字に結んだロッテは一段と子供っぽく、キルシーは思わす苦笑してしまった。
「まさか…。私にそんな先を読む才能はないですよ」
──ただ、シオンが入学してくるというので、なんらかのことが起こることは予想できましたけどね。まさか、あんな奴と一緒にやってこようとは…。アルディラーン=バラスティー…。
「彼…、味方と同じくらい、敵も多いわよ。諸刃の剣だわ…。良くも悪しくも人を惹きつける…」
ロッテの呟きに、キルシーもため息をついて、空を仰いだ。
──知っているんだろうか? 自分がどれだけ難しい立場の人間か…。味方につけておけば頼もしいが、敵にまわすならば殺してしまいたいほどの力を持っていることを…。
『やっかいな奴』、キルシーのアルディラーンに対する評価も、初めて会った時から生涯変わることはなかった。
「…何だ? この匂い」
春休み前に出された課題を、提出期限を明日に控えてやっと取り掛かりだしたヤン=コズミックは、そこはかとなく漂う、妙に食欲を刺激する香りに鼻をひくつかせた。
「おい、ルィーダ、何だ、この匂いは? 食堂は今日まで休みのはずだろ?」
リビングにいるルームメイトに声を掛ける。
ルィーダは窓から身を乗り出していた。
「…五〇五号室だ。新入生が何かやってるみたいだな」
「おいおい、やめてくれよ。こちとら明日までの課題で食べる暇もないっていうのに、こんな匂いの中じゃ拷問だよ…」
ぐるるぅ~、っと鳴く腹を、げんなりと抱え込んだ。
がん、がん、がん!
突如、鉄板を打ち鳴らしたような、けたたましい音が聞こえてきた。
「何だ?」
二人して、窓から身を乗り出す。
五階の角部屋の窓が開け放たれて、そこから人のシルエットが浮かび上がっていた。がやがや、と他の部屋の窓も次々と開く。それを確認すると、フライパンとおたまを持ったシルエットが元気よく叫んだ。
「アスラの皆さん! 本日はお疲れ様です! 俺は五〇五号室のアルディラーン=バラスティー、アルって呼んでください。今日は同室のマルシオンと料理を作りました! たくさん用意してあるので、是非ともお集まりください!」
そう言うと、最後にまたフライパンの大音響を残し、ペコリと頭を下げ、引っ込んだ。
言うだけ言って、引っ込んだ影に、ざわめきがおさまらない。
「アルディラーン? あぁ~、今日のあの坊主か…」
ヤンとルィーダは顔を見合わせて笑った。
「…行ってみるか!」
五階に上がると、その香りはもっと濃厚なものとなって、二人の鼻腔をくすぐった。扉を開けると、グランドピアノの手前に置かれた大きなテーブルがあり、その上に所狭しと並べられた皿の上には、先ほどの匂いの源が湯気を立ててのっかっていた。パンに肉、スープにサラダ、パスタに…、見た事もない物体が多数…。しかし、全てから芳しい匂いが迸りでていた。
横では、白シャツに綿パンといったラフな格好のアルディラーンと、エプロンをつけ、鍋掴みをはめながら、シチュー皿と格闘するマルシオンが慌しく動いていた。
「いらっしゃいませ」
二人に気づいたマルシオンが最上の笑顔を浮かべ、皿とフォーク、グラスを持ってやってきた。
「お招きにあずかりまして…」
柔らかい薄茶色の髪と淡いグリーンの眼差しに、二人はどもって、硬直した。
にっこり笑ったマルシオンは、
「バイキング形式です。お一人様一枚の皿とフォーク、ナイフ、スプーン、グラスを持って下さい。数が少ないので取替えができません。汚れたら、キッチンで洗って使ってくださいね。飲み物はそちらです」
と指差した方を見ると、大きな樽が無造作に置いてあった。横には氷とミネラルウォーターも、これまた無造作に置いてあった。
呆然としている二人の背後から、続々と騒ぎを聞きつけた館生が詰め掛けてきていた。
「皆さ~ん。食器類はこちらに置いておきますから~」
その夜は大宴会となった。
「こんな料理、一体どこで習ってくるんだ? 俺は美食家を自認しているんだが、こんなもの見た事もない」
ヤンが、フォークに突き刺した一口大の丸い物体を弄びながら、マルシオンに尋ねた。
「あぁ、それはアルが作ったんです」
マルシオンが、アル! と声をかけると、部屋の隅に何人かと座り込んでいたアルディラーンが、腰を上げてこっちにやってきた。
宴もたけなわで、七時頃に始まった食事会だったが、もう三時間も経過しているのに、いっこうに人が絶える気配がない。
「何だい? シオン」
「アル、こちらは文学科、三年生のヤン=コズミック先輩」
よろしく、と二人は握手を交わす。
「この料理、何て言ったっけ?」
皿の上にころころと転がっている、丸い物体を指した。
「あぁ~、『たこ焼き』ね。おいしいでしょ? ユメアの極東にある島国の郷土料理なんだ」
「…じゃあ、この一際異彩を放っているこっちのは?」
その横にある、茶色の物体にフォークをざっくりといれる。そのまま引っ張ると、フォークには糸をひいた茶色の物体が付着し、離れずついてきた。
「どうやら、豆のようだけど、これ腐ってないか?」
「それは、『納豆』です! そう、腐ってるんですよ。ヨーグルトみたいなもんです、発酵食品ですよ。体にいいらしいです」
引っ張っても、引っ張っても伸びてくる納豆にヤンは呟いた。
「発酵食品…。こんなもの食べる民族がいるのか。発狂食品だろ…」
「俺も最初は抵抗あったんですけど、慣れてくると癖になりますよ。朝は、白い、あつあつライスにそれをぶっかけて食べるんです」
想像したのか、ヤンはうぷっ、と口を手で覆って、フォークと納豆をテーブルに置いた。
「…君はどうして、その島国の料理なんか知ってるの?」
「俺の父親がユメアの渉外官なんです。だから小さいときから、ユメアのあっちこっちに連れて行かれて…。ここに入る直前までいたのが、その島国だったんです。ユメアの料理なら大抵作れますよ」
渉外官とは、自治区をいくつかに分けてできた地区の外交官的役割をする者のことである。
得意そうに言ったアルディラーンの背後から、ノックの音が聞こえた。
開けっ放しになっている扉から、ロッテとキルシーの姿が見えた。
「失礼、私たちも入れて頂いていいかしら?」
「ロッテ、もう会議は終わったのかい?」
ヤンが立ち上がる。
「えぇ、少し揉めたんだけど…」
笑って、いたずらっこのように小さく舌を出した。
「あぁ…、現会長は芸術科の人間だからな」
ヤンは合点がいったように頷いた。
「バラスティー君、君の処分が決まったわ」
ロッテの声に部屋中が静まり返った。
「…執行猶予三ヶ月よ」
ロッテの笑顔を見て、マルシオンがアルディラーンに飛びついた。
「よかったな~、アル! まだ授業も受けてないうちから退学になるかと思ったよ」
「よかったな!」
皆口々に激励の言葉を投げかけ、アルディラーンの髪を触っていく。
そんな中、ロッテに続いて入ってきたキルシーが冷めた目で立っていた。
「せめて三ヶ月は模範生でいろよ」
そう呟くと、ロッテの頬に軽くキスをし、「あまり、遅くならないように…」と言って、扉を閉めて出て行った。
「…クレメンさん、あの人いつもあんなに無愛想なんですか?」
「ロッテ、でいいわ。私もアル、と呼ばしてもらっていいかしら?」
くってかかるアルディラーンにロッテは苦笑した。
「さぁ、ロッテ、お目当てのミレニー君だよ」
ヤンはニヤニヤしながら、マルシオンの肩を押し出した。
「え? 僕?」
マルシオンが戸惑いながら、ロッテの前に立つ。
「え…。何よ、突然」
平静を装うとするロッテだが、顔は真っ赤だった。マルシオンもつられる。
「何だ? 何だ?」
ヤンが首を傾げる。
「ずっと会いたがっていたじゃないか。同じ寮に入ってくる、って騒いでただろ? 今さら、何を照れてるんだよ」
今までとは打って変わって、もじもじと手を合わせるロッテは、子リスを思わせた。
その雰囲気に、周囲の者の方が、恥ずかしくなってきていた。
中々続かない会話に、ヤンがロッテをつつく。
「…あの! ミレニー君!」
「はい!」
突然、顔を上げ、叫んだロッテにシオンが面食らう。
「私と一緒に演奏して下さらない?」
手を胸の前で組んで、見上げるロッテにシオンは、
「はい…」
という答えしか、知らなかった。
「ありがとう!」
瞳を輝かせて、シオンの手を握るロッテを見て、呆然とする部屋の住人にロッテは肩をすくめてみせた。
「すぐ用意をするわね!」
「え? あの今すぐですか?」
ドアの外に出て行こうとするロッテに、慌てて声をかける。
「えぇ!」
マルシオンの戸惑いの表情を見つけて、
「…ダメかしら?」
急に、しゅん、となるロッテを前に、誰が「ダメです」と言えるだろうか?
「いえ、そんなことは…。ただ場所が…」
と、後ろを振り返ると、既に何人かが片付け始めていた。
ドアの外から、ロッテのか細い声が聞こえる。
「…すみません。誰か手伝ってくれない?」
アルディラーンがグラスをヤンに渡して、出てみると、そこにはロッテが、自分の背丈ほどもあるハープと格闘していた。
「…でかい」
アルディラーンは初めて見たその荘厳な楽器に、感嘆の声を上げた。
「これを中に入れたいの」
「…俺一人じゃ無理だな」
アルディラーンは潔く敗北の旗を上げ、中の連中何人かに助けを求め、試行錯誤の末、何とかハープを部屋の中に入れた。
「こんな大きな楽器を、あんな小さな彼女が弾くのか…。さて、シオン、この労働の代償だ。いいやつ弾いてくれよ」
汗だくになったアルディラーンはシオンの肩を叩いた。
困った顔をしながらも、ピアノを開け始めたマルシオンの姿を見て、
「…あぁ、彼だったのか。ロッテが言ってた、素晴しいピアノ奏者ってのは…。せっかくユニにピアノの自己推薦で入学したのに軍務科を選択したって変わり者だろ?」
ルィーダはやっと合点がいったというように、ヤンの肩に手を置いた。二人は床に腰を下ろし、アルディラーンの横でグラスの中のワインを飲み干した。
マルシオンは今年、アルディラーンと共に、ピアノ奏者として、自己推薦の枠でユニに入学した。だが、周りの思惑とは別にピアノに執着を持たない彼は(といっても、嫌いではないらしい)ピアノをユニ入学の手段として利用するだけ利用して、入学後の科選択では軍務科を指定した。
──小さな頃から、シオンのピアノを聴くと、俺、すぐに眠ってたっけな…。すごく安心するんだ、こいつの曲…。
そう感じていたのが、自分だけでないことを知るのに、そんな時間はかからなかった。プライマリーに進む頃には、地区内外から賞賛の嵐で、アメガンでは知らない者の方が少なかっただろう。
また、ピアノの腕前同様、その人気に拍車をかけたのは、マルシオンの柔らかな容姿だったということは、自他共に認める事実である。
──去年、俺に付き合って、わざわざ一般入試で受けなくても、よかったのに…。
うきうきが、目に見えてわかるロッテに、戸惑いながらも、まんざらでない表情をしたマルシオンに苦笑する。
二人とも、その華奢な体からは想像し難い、筋肉質の腕を持っていた。
アルディラーンは隣にいるヤンをつついた。
「クレメンさん、ってどんな奏者なんですか?」
「ん…? ロッテか? そうだなぁ~。ここにいる芸術家って奴は大なり小なり素晴しい奴だと思うよ。けど、その中でもロッテは格別だ…。知ってるかい? 彼女はアリカナ出身なんだよ」
「…あ、はいシオンから聞きました」
「うん…。じゃあ、アリカナの状態は知ってるかい?」
「えぇ、まぁ、常識程度ですけど…」
「…そうだな。どうせ誌上や回線上でだろ?…君の知識の恐らく一〇倍は酷い場所だと思うよ。彼女はそこで一八年間生きた。それが彼女の演奏そのものだ。聴けば納得するさ」
調律の済んだ二人は頷き合うと、拍子をとり始めた。
「…ラッキーだな、今日は。こんな演奏を聴けるなんて…。夢の競演だな…」
ヤンの声は、すぐに広がったハープの優しい音色と、軽やかな鍵盤の音にかき消された。
「すばらしい…」
第一音で、皆惹き込まれた。
二人が創り出す空間が波紋のように広がった。
その音色は、時には激しく、雄雄しく、また時には消え入りそうに悲しく、細い調べが
であった。
ロッテの指からは、豊饒な大地の香りがし、マルシオンの指からは草原の青草の香りがした。
絡み合い、時には離れ、奏でられる曲に、皆、宇宙を感じていた。
二人は宇宙を奏でていた。
夜中にも関わらず、部屋に来る人間、窓を開く音が後を絶たなかった。
──…海? 空? 大地? まるで地球に抱かれてるみたいだ…。
荘厳であり、素朴でもあるその調べは、無限に広がっていった。
やさしく、やさしく…、アルディラーンを包み込んでいった。
──…昔から、ちっとも変わらない。シオンの演奏…。そうだ、昔を思い出すんだ…、シオンの調べは…。昔…、暖かい胸があった日々のことを…。
アルディラーンは消え行く意識の中で、そんなことを考えていた。