ーー イカナクチャ ーー (3)
かなり前になるのですが、以前にちょっとだけ出ていたものが、今になって出てきます。今回、螺閃は前回の出来事もあり、ミロクの意思を尊重した考えになっています。そして、ミロクが中庭に来た経緯に繋がっていきます。よろしくお願いします。
静寂し、ツーンとした空気の重圧が耳を刺激した。地面に横たわっていた俺は、その痛みに目覚めさせられた。
虚ろな頭を押さえながら、身を起こして胡座を掻いた。呆然とする意識を取り戻すべく、額を擦っていると、その感覚の懐かしさに手を見た。
指は工具の握りすぎでゴツゴツとしていたが、俺自身の手だった。
手だけでなく、全身を確かめたくなって、すぐに視線を落として自分の体に目をやると、ちゃんと自分の体に戻っていた。
「よっしーー」
嬉しさから歓声を上げようとしたが、高まった鼓動が一転して止まり、辺りを見たときの異変に目を疑った。
その異変を疑いつつ、ゆっくり立ち上がって目を凝らすと、絶句した。
そこにはさっきまでいた、あの草むらがなくなっていた。それは元の中庭に戻ったわけでもない。
「何もない? 草も、木も…… 真っ白……」
誰に説明するでもなく、周りを見たまま口に出して言った。そこには本当に何もなく、すべてが真っ白だ。
空も大地も何も分からない。その二つを隔てる水平線しら存在しない。そんな虚空の空間に俺は置き去りになり、浮いたような感覚がした。
「目が覚めた?」
誰かがどこかからか俺に声をかけた。その声を聞き間違えるはずがない。霞だ。
耳を疑いながらも辺りを見渡し、その声の元を探した。そして、後ろを振り返ると、幼い霞の遺体があの草むらから切り離されたように、横たわっている。
宙に浮くようにも見える横たわった姿には、「幻であってほしい」と願う俺の思いを打ち消されたみたいで息が詰まる。
だが、今までと違うのは、その横に唐突に霞を見下ろす女性の後ろ姿が現れたこと。黒髪を伸ばした女性の後ろ姿が。
じっと霞を見据える後ろ姿。この後ろ姿はどこかで見覚えがあった。
思い出せ、あれは……。
じっと見詰める俺の目に、この後ろ姿に重なる後ろ姿があった。それはあの雨の日。初めて幼い霞の姿を映像で観たとき、一瞬だけ現れた女性に似ていたのだ。
今度は幻ではないようだ。何度も瞬きを繰り返すが、女性は消えなかった。
俺は声をかけられない。霞にこの女性のことを訊くと、彼女も知らないと言っていた。そんな得体の知れない者に声をかけるのを臆してしまった。
「目は覚めた?」
彼女も気がかりなのだが、その方向からするはずもないかすの声も気になっていた。
「目は覚めた?」
彼女の姿に眉をひそめていると、もう一度問われた。一度だけなら「空耳」かと流せたが、もう否定のしようがなかった。彼女の声は聞き間違えるはずがない霞そのものだった。
頭のなかで渦を巻くように、考えが絡み合う。息絶え横たわる霞。霞の声を放つ女性。俺の頭は混乱して破裂しそうだ。
「お前は……?」
やっとの思いで出た言葉がそれだけだった。それ以上は発せられない。
俺の質問に、彼女は一つため息を吐いたようだ。後頭部が少し下がったのが見えた。
「螺閃なら、声を聞いてくれるだけで、私だって分かってもらえると思ったんだけどな」
あどけない口調でぼやきながら、彼女はこちらに振り返った。その顔は、残念そうに曇らせながらも、微笑んでいた。
初めて見るはずなのに、どこか懐かしさを抱いてしまう顔は、リスみたいに目はクリッとしていて、窪んだ笑窪がはっきりと分かった。
赤いノースリーブのシャツに、黒いスカートの容姿で、肌を出した肩に、長く伸びた黒髪が触れていた。歳は俺と同じぐらいか。
「まだ、分からない?」
彼女は場に似合わない無垢な笑みで訊く。
「……霞…… なのか?」
半信半疑でありながらも、そうあってほしいという願いから答えた。すると、彼女は笑って頷いた。
「よかった。私の小さいときしか頭にない本当のロリコンかと思っちゃったわよ」
「なっ、てめぇっ、何言い出すんだっ」
自然と声を荒げてしまう。間違いない。
この人をからかう喋り方をするのは…… 霞だ。
彼女の行為は俺の不安を和らいでくれる。なぜ、突然ここに霞が現れたのかは謎だが、彼女が霞だと信じたい。
成長した霞がいるのなら、さきほどの霞が死亡した場面はやはり幻であったと片づけられるから。
安堵して胸を撫で下ろした俺は、力が抜けるように腰を落とした。
「だよな。あんなバカな話、信じられねぇってな」
胸を締めつけていた何もかもが吹き飛んだ思いで、久しぶりに笑えた。
悪い冗談だな、と笑って霞を見ると、霞は俺とは裏腹に、唇を噛んで曇った表情を浮かべていた。
「ゴメン。あれは事実なの」
俺の期待を裏切るように霞は話すと、足を崩さして座り、その場に横たわる、もう一人の霞の遺体に手をそっと当てた。
言っている意味が分からない俺は、霞のそばに駆け寄るのに立ち上がろうとしたが、足がもつれて立てなかった。体勢を立て直せばいいのだが、焦って地面に手を着いて顔を上げて霞を見た。
「意味分かんねぇよ。どういうことだ?」
惑わすような言動を吐き、責められているのは霞で、俺は責めている側なのに、俺が動揺して声が震えた。
この質問に、霞は虚ろな視線をじっと俺に注いでいた。
「私はここにいてはいけない存在。そんな感じかな」
俺から視線を外し、真っ白な宙に視線を傾けると、霞はそっと呟き苦笑した。
霞は胸に空いた片方の手を当て、今度は遺体に視線を落とした。
「これから話すことは信じられないかもしれないけど、お願い、信じてね」
霞は俺からワザと顔を背けるようにして言った。そんな霞に俺は返事などできず、その顔をじっと見詰めていた。
「あの日、私はミロクに出撃命令を下せなくて、あなたがさっき見たように、あの男に殺された。そしてその後、今度はあなたがさっきやったように、ミロクがあの男を殺した」
「それって、俺がやったのと同じ……」
「えぇ。あなたが感じたことを、ミロクも感じていたのよ」
「それじゃぁ、やっぱり……」
何度もそう言われていたからだろうか? 俺のなかでも事実として受け止めようとしている感情が生まれていた。けれど、それはそこまでの話までなら、だ。
自分の気持ちを伝えるのを抑え、霞の声に耳を傾けた。
「私がまだ子供だったから、いけなかったのかもしれないわね」
霞は悲しげな目を彷徨わせた。
「覚悟を決めていたのに、急に怖じ気づいちゃって。自分の弱さに負けたの。そして、あんな無茶な願いをミロクに言ってしまって、ミロクを狂わせてしまった」
自分を責める霞の目に涙が滲む。
言葉に出さなくても、その願いはもう知っていた。「“雪花の星”を見たい」それが霞の願いだと。
その後のミロクの足取りは、罪を咎めるように霞は口を閉ざした。
「何も自分を責めることはないだろう?」
「だってっ。あんなことを言わなければーー」
「違うっ。あのときは本当に俺自身がーー」
罪の責めどころで言い争いになり、霞は目を真っ赤に腫らして叫ぶ。俺も負けずに反論するが、自分の言葉に声を詰まらせて首を傾げた。
気づかずに話していれば、そのまま言っていた台詞。けれど、よく考えてみれば、俺は変なことを言おうとしていた。
「そうだ。本当に、俺自身、そうしたいと思ったんだ」
威勢よく怒鳴ろうとしていた俺が急に静まり、浮かんでくる感情を整理して、ゆっくり話し出した。
「俺はあのとき、本当に外に出たいと思ったんだ。外に出て、“雪花の星”をお前に見せたくて。撮りに行こうと…… 撮って?」
自分の言ったことに首を捻りながら自問した。わけが分からず霞に視線を向けるが、急に向けられた視線に面喰らい、霞も首を傾げる。
俺の不可解な行動、不思議そうに見詰める霞の目の奥に、俺は答えになりそうな何かが見えた。
「教えてくれ。あの光景の後、ミロクはどうなったのかを」
俺が起こした行動がミロクそのものだと言うのなら、さっき俺が感じたのもミロクがかんじたのと同じということ。なら、その後、俺が起こそうとした行動と一致しているのかを知りたかった。
真剣な表情で訊くと、霞はしばらく思案してから口を開いた。
「ミロクはあの後、施設を脱走したの。それでいろんな場所を一人で歩き回ったわ。雨の日も、風の強い日も。ただ、“雪花の星”を求めて」
「そして施設を脱出してから“雪花の星”の時期が訪れたの」
俺は息を呑んだ。鬼兵はその雪が原因で停止したと言われている。それがあの場所だったのか。
俺は思い切って尋ねた。
「それが、あの場所なのか?」
霞は首を縦に折る。
「正確に言えば、雪を浴びても被害は幸いなことに片方の腕だけで済んだの。ほら、ミロクって左腕がなかったでしょ?」
「あ、あぁ」
すぐさまミロクの座っている姿を思い浮かべた。確かに、左腕の肘から下はなく、千切れた配線が剥き出しになっていた。
しかし、それでは世間で流れる情報と異なる。事実、昔の映像でも、白衣姿の男が話していたのだから。
「でも結局、力尽きてしまって、あの屋敷の中庭で動きを止めたの」
疑問が増える間際、それは解消された。ミロクが凭れていた木が隙間はあっても、傘代わりになったのかもしれない。
「その間、捕まらなかったのか?」
「もう、終戦間際だったからね。それに、「抑」のいなくなった「鬼兵」はスペアのパーツにしかならないみたいだから」
話が終わると、霞は大きく深呼吸して目を擦った。
どうやら涙が込み上げてきたらしい。
あのままの気持ちなら、進んでいたかもしれない俺の道。その道と違ってほしいと願い、確かめたミロクの軌跡は変わらなかった。
なら、あいつの本当の気持ちって。
答えに迷いが生じる。だから、俺はそこに辿り着きたくないと、遠回りをしたのかもしれない。
霞はまだ目を擦っている。辛い思いを傷つけそうで嫌だったが、訊いてしまった。
「どうして、お前はそうやって、ミロクと一緒だったような言い方をするんだ?」
そう。霞の話し方では、ミロクをずっとそばで見ていた口調だったのだ。
「困ったなぁ。言ったじゃない。私はもう死んでるって」
真っ赤な目を向けながら、駄々をこねるガキに参るように、困った表情で霞は俺を見てきた。
どれだけ不可解なことが起きようと、渋々納得していた。けれど、このことだけはやはり、信じる気にはなれなかった。
難しい表情で睨む俺に、傷心した気持ちも払いのけられたのか、霞は目尻を指で拭いながら目を細め、本当に困った顔をしていた。
「どう言ったらいいかな。そうね、“思念”。私の思念ってところかな」
どう反論、いや、どう返事をしていいのか言葉が見つからなかった。
「でも、お前はそこにいるだろっ。存在してるじゃねぇかっ」
やっと出た返事に、霞はかぶりを振って俺の言葉を否定する。
俺が心を揺るがしていると、おもむろに霞は、ずっと遺体に触れていた右手を俺の方にそっと差し出した。
「……?」
意図が掴めず、首を傾げる。
戸惑っている俺に、霞は黙ったまま目を細めた。俺はその柔らかい表情に誘われるように立ち上がり、霞のそばまで行くと、右手を差し出して霞の体を引き上げようとした。
右手の手が霞の手を掴もうとした刹那、
「ーーっ」
驚く俺に対して霞は悲しそうに笑った。俺の手は霞の手に触れることなく、そのまま空を切った。
手元が狂ったのかと、何度も霞の手を握ろうとした。それでも、繰り返せば繰り返すだけ、空しく空回りするだけ。
「ね? 私には“実態”がないの。まぁ、簡単に言えば、幽霊ってことかな?」
場の空気を読まず、あくまでふざけた口調で笑いながら、可笑しく説明する霞。
俺は、気に入らない。
つくづく、短気な自分がバカだと痛感させられる。けれど、そのときにはすでに口が開いていた。
「ふざけんなっ。お前はそこにいるだろうっ。それになんだ、幽霊? ふんっ。笑わせるなっ。なら、なんでお前はそんな格好をしてんだよっ。どう見たって、俺とタメじゃねぇかっ。それに、、前に自分は十七だって言っただろうがっ。それとも何か? 死んでも幽霊は歳を取るのかよっ」
勢いが止まらず、思ったことを霞の心境など何も考えずに吐き出していた。
言い終えると、息が上がっていた。
横暴とも取れる俺の言動を、霞は黙っていた。
「この姿は“願望”かな。私の。このころの私が思い描いていた十七歳の私の姿。その思いが強くて、この思念を成長させたのかもしれない」
「…………」
「こんな答えじゃダメ?」
唖然とする俺に、霞は無邪気に首を傾げていた。俺は何も答えず、その場に腰を下ろした。
霞は俺をじっと見ているだろうが、俺はそんな霞から目を逸らすように、掌で頭を抱えてうつむいた。
「……で、そんな辛そうな体になってまで、何をしようとしているんだ?」
「ふぅ。やっと、事実を認めてくれたのね」
認めたんじゃない。諦めたんだ。
そうでもしないと、俺がおかしくなってしまいそうだったから。
「私の願いは変わっていないわ。ただ、ミロクに生き続けてほしかったの。けれど、意識が薄れるなかで見たミロクの姿がすごく怖かったの」
「怖い? お前がミロクを、か?」
意外な返事にようやく顔を上げた。
「ううん。恐怖とかの怖さじゃないの。まるでミロクが死にたがっているような、そんな怖さだったの。
ミロクが死んでしまうかもしれないって知りながらも、私があんなことをお願いしてしまったのも悪いんだけどね……」
「そして、お前はそれに苦しみながらも、ミロクを見守ってきたのか」
「でも、結局“雪花の星”を浴びてしまったのよね……」
行き着く先は、どうしてもそこになってしまう。鬼兵にとっては避けられない道。
二人は沈黙した。
でも、現実にミロクは左腕を失いながらも、ほぼ原形を残していた。
「だから、私は待つことにしたの。何年経っても、ミロクを直してくれる人が現れてくれるのを」
「そんな無茶苦茶な」
無謀な決心に俺はかぶりを振ると、霞は満面の笑みを献上してきた。
「けど、その人は現れた。螺閃って男の子がね」
酷なのは知っている。さらに霞を追い詰めてしまいそうなのも。でも、ちゃんと初めに言ってくれていれば、こんなにショックを受けることもなかったから。
「焦っていたのかもしれない。何年も、誰にも気づかれないでいたから、このまま時間だけがすぎて。ミロクも修理できないほどに腐敗してしまったらどうしようって。だから黙っていたの。ゴメンね」
「なんだよ、それ」
「けれど、私はあなたに出会えてよかったって心から思えたわ。まぁ、最初は嫌がっていたみたいだけどね」
「何、言ってんだよ」
からかいながら俺を指差す霞の姿に俺は照れてしまい、頬が熱くなってくるのを、顔全体で感じていた。
目の前で笑っている霞の顔。よく考えれば、今まで何度も笑い声を聞いていても、この年齢の顔を見るのは初めてなのに気づいた。
だが、屈託なく笑う霞のそばで横たわる、もう一人の幼い霞。ふと、そっちに目を向けると背中に悪寒が走ってしまう。
冷静になってみれば、本来の姿はこちらになる。まだ、顔も手も、すべてが小さく、俺がこの歳のころには世界のほんの一部しか見据えていなかった。
そんな霞に感心するばかりだ。
辛かったんだろうな、ゴメンな。
幼い背中に背負った大きな宿命。そんな姿に、俺は謝るしかなかった。
心で謝ったつもりでいたのに、俺の心を読み取ったように、今の霞が俺を見ていた。
「ありがとう」
霞が言った瞬間だった。横たわった遺体が淡く青い光を帯びた。
その光は瞬く間に小さな体を包み、光は小さな砂になり、渦を巻くように四方に飛び広がっていった。
その輝く砂に目を瞑り、収まったのを見計らって目を開くと、そこはもう、元の屋敷の中庭に戻っていた。
この作品を続けていくなかで、霞は“声”としての存在でした。それでも、どこかで螺閃と対面した状態で話をさせたいな、と思っていました。それが今回の形になりました。以前のミロクが見せた幼い霞の隣にいた霞でしたが、それは霞のミロクに対する強い思いの現れとしてみました。