ーー イカナクチャ ーー (2)
螺閃の前に見えた悲痛な光景。そして、頭に浮かぶ言葉。螺閃は感情的になってしまいます。この先に見えることが、より螺閃を苦しめてしまうかもしれません。それは、以前、霞が自分の居場所を答えることに頑なに拒んだことにも繋がっていきます。よろしくお願いします。
時間にしてほんの数秒。俺にはスローモーションのように鮮明に見えていた。
目の前にいた霞が、強風にあおられるように、小さな体を背中からゆっくりと地面に倒れた。
霞っっっ。
腹の奥から叫んだつもりでいたのに、声は届かず、霞は地面に身を寝かせたまま、動く気配はまったくない。
風が流れる。倒れた霞の胸の辺りの草が紅く染まっていく。放たれた弾丸は霞の胸を貫いていた。
霞っ、しっかりしろっ。おいっ。
こんな状況になっても、俺の体は動こうともしない。
クソッ、こんなときぐらい動けっ。このクソ野郎っ。
ーー マモリタイヒト、マモレナカッタ ーー
あぁっ、そうだよっ。邪魔だっ。
俺を責め立て、視界を遮るように現れる言葉。だが、俺は動転してそれどころじゃなかった。
言葉が消え、再び霞が現れると、今にも途絶えそうだが、霞の体は動いていた。
「……話が違う…… は助けて…… くれるんじゃ……」
意識が遠退きそうななかで、霞は痛みに耐えながら身を起こし、顔を男の方に向け、辛そうに訴える。
「あぁ、助けてやるさ。こいつはほかの奴らの体の一部となって生きるんだ。それは仕方がないだろう? ん?」
野郎っ。
自分の命を犠牲にしながらも、俺を気遣ってくれる霞を平然とした態度であしらう男に、我慢の限界に達しそうだ。
血が上り、心臓が爆発しそうに暴れている。
「……そんな」
死の淵に追いやられながらも、さらに絶望を与えられた霞から力なき声が漏れると、意識を失うように目を閉じ、また倒れようとした。
霞っ。
ーー カエラレナイ、ケレド…… ーー
刹那、散々苦しめられていた呪縛から解放され、体の自由が戻った。俺は迷うことなく、霞のそばに駆け寄り、その小さな体を支えた。
体の自由が戻った途端、不思議と視界も元に戻り、声も思うように出てくれた。
「おいっ、霞っ、しっかりしろっ、おいっ」
小さな肩に手を回し、霞の意識を引き戻そうと、体を揺さ振ってしまう。
「霞っ、何、目瞑ってんだよっ、おーー」
反応のない霞の胸の傷口付近が、揺さぶるたびに紅い染みが広がっていき、すぐに揺さ振るのを止めた。
胸の染みはじっとしていても止まらず広がるばかり。霞の体からその血に吸い出されるように、温もりが奪われていくのが肩を抱く手から伝わってくる。
ようやく体が動き、霞のそばに来られたのにもう手遅れで、為す術なく、歯を食いしばるしかなかった。
「ダメじゃ…… ない。勝、手に動いちゃ……」
血相を変え、必死に呼びかける俺に霞は間を開き、子供を宥めるような態度で途切れ途切れに声を絞り出す。
普段なら、「お前もガキだろ」となどと、言い返していただろうが、そんな余裕もない。
痛みを微塵にも見せず、笑顔を浮かべる霞だが、その目には薄く膜が張られたみたいに曇っていた。もう、視力は失われつつあるようだ。
「ハァ…… ハァ…… ねぇ、私たちって…… どれぐらい、一緒にいられた…… んだろう…… ね?」
「もう、いいっ。喋るなっ」
「そんな、怒らなくても」
息が次第に上がってくる。やはり、喋るのはもう限界に近づいているようだった。そんな霞を見てられず、怒鳴ってしまう。
俺の怒鳴り声にも、もう霞は返事する力も残ってない。ただ苦しそうに深く息をしていた。
「じゃぁ、最後に…… いい?」
「何、ふざけたこと言ってるっ。最後なんてっ」
聞く耳を貸す気はなかった。けれど、そのとき霞は俺の右手を握り締めてきた。赤子が握り締めたような弱い力に、彼女自身すでに覚悟しているらしい。
「なんだ、言ってみろ」
聞き逃しては一生後悔してしまう。そんな不安が胸を包んだ。俺は霞の手を握り直す。
こんな状況でも、無垢な笑顔を崩さなかった。
「私ね、空が見たいの。もう、そろそろ、“雪花の星”でしょ? 私、あの雪が見たい…… お願い…… あの雪を……」
「“雪花の星”? あぁ。連れてってやる。絶対に見せてやるよっ」
俺は霞を外へ連れて行くべく、体を抱きかかえようとしたとき、つい今まで俺の手を握っていた手が、スウッと力が抜けるように垂れ下がってしまった。
華奢な指先が地面の草に触れて揺れた。
霞は笑顔を絶やさないまま目を閉じていた。俺の体は小刻みに震えている。
信じたくなかった。
信じられなかった。
「おいっ、霞っ。何ふざけてるんだよっ。何勝手に寝てんだよっ」
ーー カエラレナイ…… カエラレナイ…… ーー
またしても白い文字が浮かぶ。それでも俺は霞の名前を叫び続けた。
どんな些細なことでもよかった。俺は霞の反応を待つ。すると、霞は小さく唇を動かした。
「ん? なんだ?」
「…… ………」
「ーーっ」
口元に耳を寄せても聞き逃しそうな声に、深く頷いた。
霞も自分の言葉が伝わったのを知ると、安心したようにえくぼを浮かべ、目を細める。
それが、霞の最期だった……。
微笑んだままの霞を腕からゆっくり下ろし、そっとその場に寝かせつけた。この寝顔だけを見れば、今にも起きてワガママを言いそうだ。
「…………」
「さて。これで処置は終わりだな。霞は後で若い奴に片づけさせるか」
今まで黙って何を聞き、何を見ていたのかを問い詰めたいほど、男は冷たく淡々と独り言を吐いていた。男の大きなため息が聞こえると、どこに行くつもりなのか、歩いて行く。
背中で遠退く足音。異様な威圧感から解放される安心感が積もるなか、憎しみの感情が俺を支配する。
霞はこいつに殺された。
こいつがいなければ、霞は死なずに済んだ。
ーー ユルセナイ、ユルシタクナイッ ーー
「あぁ、そうだっ。許せるはずがないよな……」
血走った文字に俺は背中を押されるような気持ちだ。
あいつがいなければっ。
奥歯をこれまでかと言うほどに強く噛み締める。
「うおぉぉぉぉぉぉっ」
俺のなかで理性を抑制するスイッチが、完全に抜けてしまった。
飛び起きて振り返ると、血走った眼光でその忌々しい標的を定め、目標へと地面を蹴った。
標的を捉えたとき、距離はもう目と鼻の先だった。この男が白衣を着ていた後ろ姿は辛うじて覚えていたが、顔までは確認していない。男が俺に気づいて振り返ったとき、俺の拳は男の頬にめり込んでいた。
最初の一撃で男は地面に叩きつけられ倒れた。俺は隙を与えずその身に馬乗りになり、さらに拳を浴びせ続けた。
殺してやるっ。
殺してやるっ。
殺してやるっ
殺してやるっ
殺してやるっ
コロシテヤルッ。
殴り続ける。
白衣ももう白さを残していない。男から飛び散った紅い血が紅く乱雑な模様に白衣を染めていく。男の意識があるのか、ないのかは知ったことじゃない。俺はこの男を狂ったように殴り続けていた。
何発、何十発殴ったのか分からない。それでも気持ちは治まらない。
「……… ………」
歪み、腫れ上がって血で汚れた男の口元が微かに動いたのが目に止まり、ようやく殴るのを止めた。
原形を留めていない男の顔を見据えながら、荒々しくなっていた息を落ち着かせていた。男は俺の気迫に負けたのか、体力が残っていないのか、抵抗はしない。
感情に流されてここまでやったが、俺が望んでいたのはこんなことではない。胸のなかでそう囁く声が聞こえ、無意識のうちに俺は立ち上がった。
ーー イカナクチャ、ソラヲトリニ…… ーー
白い文字に導かれるように、急に外に出たい衝動に駆られ、俺は出口を探した。
出口を探し、首を大きく左右に振る俺の姿を、寝そべっていた男が、恐怖に満ちた目で捉えていた。
それに気づいてすかさず睨み返してやった。
「……鬼だ……」
俺の血走った形相を目の当たりにして、男は小さく呟く。
「お前は、やはり…… 鬼だ、三十…… 六…… 番」
男は吐き捨てると、目を見開いたまま顔を横に倒し、そのまま息絶えた。
息を吹き返そうとしない男の姿に、俺は急に恐怖に苛まれた。
「俺、人を殺したのか?」
ようやく理性を取り戻し、我に返った俺は事態の重さに気づき、ふと今まで殴っていた自分の手に目をやった。
「ーーっ」
血で真っ赤に汚れた拳を目にして驚愕した。
視界から手が消えるように動かし、額に当てた。
額に当てた右手からは体温をまったく感じられない。目線を斜め下に下ろすと、左腕が見えてくる。
右手と同様に血に染まった左手は、左右対称であるはずの右手とは一見にしてバランスがおかしかった。肘から下は異常に太く、その先に伸びた掌は無骨で、角張った指が生えている。明らかに人間の姿とは異なる。
今まで自分の姿だと信じていた体が人の体でないことに怯え、狂ったように辺りを見渡した。すると、そこはさきほどまでいた屋敷の中庭の風景とは、似ていてもまったく別の場所なんだと気づかされた。
それでもまだ信じられず、不意に空を見上げた。
「ーーなっ」
見上げた先にある空を見て、言葉を詰まらせた。そこにあった空は青く澄み渡っておらず、灰色に曇ったドーム状の建物のなかだった。それは以前、霞が語っていた彼女の育った環境と酷似していた。
焦った俺は振り返り、草むらに横たわる霞の遺体に目をやった。
ーー 逃げて…… ミ…… ロ…… ク…… ーー
霞が息を引き取る直前、俺の耳元で呟いた言葉。なぜ俺の前でミロクの名を放ったのかは疑問だったが、今なら理解できそうだ。
その言葉の意味を確認すべく、恐る恐る左肩に視線を落とした。
「ーーー」
予想通りと言えばいいのか、それとも一番望んでいなかったのか、肩には「三十六」と紅い文字で番号がつけられていた。
俺が知る知識で、このような異形な腕の持ち主は一つしかなかった。それは「鬼兵」であり、この番号と一致すろのはミロクだけ。
「何が言いたいんだよ。俺は何を知ればいいんだよ、ミロク……」
誰の仕業でもない。これはミロクの仕業だと、不思議と直感し、大声で問いかけた。
これはただの幻なんだと信じたかったんだ。霞は死んでいない。これは俺に何かを伝えるための幻覚の一種に違いないと。
返事はない。俺の耳に掠れる風の音がやけに痛かった。
眼前に横たわる男の死体。自分の拳がその原因であるのを考えると、急におぞましくなり、逃げようとした。
早く出口を見つけて走り去ろうと思うのだが、体が重いように動かず、走っている途中で足がもつれて倒れてしまう。
自由の利かない体が歯痒いなか、事態が掴めず不安が俺を蝕む。
頼むよ、教えてくれ。
「知ってほしかった。ただそれだけ」
「……っ」
すると、どこからともなく霞の声がした。しかも、俺の知っている“今”の霞の声が。
その声はどこかからか聞こえたのでもない。頭のなかに直接聞こえた。
「知ってほしい? 何を?」
「よく思い出してみて。今のあなたの気持ちを」
言われるがまま、俺は目を閉じ、一度気を落ち着かせた。
霞の声を聞くと、なぜか心が落ち着いた。さっきまでの動揺した鼓動が治まっていた。
今の俺の気持ち……。
ーー ハナレタクナイ ーー
俺の問いにあの文字が答えた。
「そう、離れたくない。離れたくなかった」
ーー ヒトリニナリタクナイ ーー
「あぁ、そうだ。独りになりたくない。それは、霞と別れるのが怖いんだ」
答えを求めようとすれば、白い文字が現れ、その答えを述べてくれる。まるで、今の俺の気持ちを見透かしたように。
そんなことはない。
結論を急ぐなかで浮き上がる一つの仮説に、冷静さを取り戻した俺の心が投げかける。けれど、その結論を否定したい自分がもう一人いた。
「この胸に渦巻く思いはお前なのか? ミロク?」
目を開ければ入ってくる無骨な体。その左肩に記された「三十六」の番号に右手を当て、問いかけた。
ここは中庭なのか?
それも分からない。ただ疑念が膨らむばかりである。
鬼兵にこんな機能がついているとは信じたくない。けれど、目を瞑って考えてみると、納得させられるものが次々と浮かんできた。
俺のいた屋敷の中庭とは違う室内の庭。目の前に現れた幼い霞。そして、そんな霞に違和感なく接しようとしていた俺の気持ち。あの見ず知らずの男への恐怖心。何より、霞が息絶えたときの悲しみ。男に向けられる怒り。すべてを一つの結論へと導けば、納得だきた。
「これはミロク、お前の“気持ち”なのか?」
明確な返事はやはりないのに、俺の胸が晴れていく感覚がした。それは一つの返事なのかもしれない。
そうこれは、ミロクが伝えたかった、彼自身の気持ちだった。
その結論は俺を安心させた。
「そうだよ。だから、俺が見たのは全部幻なんだ。俺に気持ちを伝えたいために、ミロクが見せた幻なんだよ。霞のそばに帰りたいって気持ちなんだ」
ーー チガウ ーー
自分を納得させようと呟くと、文字が強く反論してきた。
「それは、あなた自身がそうであってほしいと望む“願望”にすぎないのよ……」
追い込むように、霞が俺を否定する。悔しいがそれは当たっている。だからこそ、何も言い返せず、目を泳がせていた。
霞の反論に考えたくもない仮説が脳裏を掠めた。
「あなたが見たものはミロクの気持ちであり、ミロクの“記憶”。ミロクが見てきた、現実の光景なのよ……」
揺れ動く心に、大きな一撃を投げつけるように霞は言う。
「嘘だろ、おいっ」
ーー ウソジャナイ ーー
「嘘だっ」
ーー シッテホシイ ーー
「嘘だっ」
「嘘だぁぁぁぁっ」
迫る白い文字に耳を塞ぎ、そのざわめきを掻き消したくて絶叫した。
気が狂いそうな自分の絶叫した声が轟くなか、意識が薄れていった。
螺閃が見ていたのはミロクの記憶。螺閃に中庭にいる状態で、ミロクと霞がいたときの状況を伝えるために、こういう表現にしました。感情的になった螺閃の行動は、そのままミロクの気持ちと行動になります。その上で見た光景を否定する螺閃。ならば、これまで、螺閃と話していた霞が誰なのかが、今後に繋がっていきます。