馬小屋の少女
「全く! 苦労して助けてやったっていうのに、ただの野良人間とは! 勝手にうちの井戸に入り込んで、なんのつもりだい!?」
「……はあ、すみません」
垂らされた縄梯子をやっとの思いで登りきり、命の恩人に謝礼を述べていたところ聞きなれない言葉で罵倒されてしまった。好きで井戸の中にいたわけではないのにあんまりではなかろうか。
しかし俺は、一切の反論をしなかった。相手が恩人だというのもあるが、それ以上に気になる点があったからだ。
「失礼ですが、あなたは人間ではないということですか?」
「本当に失礼な奴だね! この自慢の耳が見えないのかい? あんたらみたいな人間なんぞと一緒にするんじゃないよ!」
そう怒鳴り散らす女性の耳は、確かに人間のものではない。横に長く尖った形状の、いわゆるエルフ耳だった。
ということはこの女性はエルフなのだろう。しかし自然とそう受け入れられないのは、その顔や態度があまりにも俺の持つエルフというイメージからかけ離れたものだからだ。はっきり言って、その辺にいる威勢のいいオバチャンにしか見えないのだが。
「では、エルフの方ですか?」
「そうともさ。正確には美しきエルフと力強きドワーフのハーフだがね!」
「それは……なるほど。」
ようやく合点がいった。この豪快さはまさしく俺のイメージするドワーフと合致している。しかし半分エルフの血が流れていても耳以外はこうなるのか、と失礼な考えが頭をよぎったが、さすがに口には出さない。
「失礼しました。こちらの少女は人間に見えたので……」
「そりゃそうさ、こいつはうちで飼ってる人間だからね。全く、余計なもん見つけよって、いらんことしか出来ないのかいアンタは!」
「ごめん、なさい」
俺は少女のほうに目を向ける。薄汚れたボロ布を身に纏い、黒い髪は伸び放題でその表情は窺い知れない。彼女もあまり良い待遇を受けていないことは明らかだった。
もっとこの世界について色々と情報を聞き出したかったのだが、これ以上女性の機嫌を損ねると自分の立場も危ういと思い、この場を離れることにした。
「ともかく、ありがとうございました。では、自分はこれで――」
「待ちな。どこへ行くって言うんだい。」
「それは……」
思わず口ごもった。適当なことを言えば何をされるか分からない。何せ相手はエルフとオークのハーフ、異世界の住人である。こちらの常識が通じるとは思えない。
だが、続く言葉は意外にも真っ当なものだった。
「どうせ行く当てもないんだろう? いいさ、明日局員を呼ぶから、今夜はソイツと同じ小屋で寝な。ほら、案内しろよ。」
「わかり、ました」
「局」とやらが何かは分からないが、どうやら今夜は寝る場所には困らなそうだ。こちらの少女に対する態度はともかく、世話になることは間違いないので一応礼は言わなければ。
「ありがとうございます」
「は? ああ……」
中年女性は何やら怪訝な顔をしたが、それ以上何も言わずに家に戻っていった。俺は少女のほうに目を向ける。
「君もありがとう。助けてもらってばかりで悪いけど、案内してもらえるかな?」
「は、い」
少女は目線を合わせないまま、フラフラと庭の一角へと歩き出した。よく見れば靴を履いておらず、その素足は泥に塗れている。
なんとなくだが俺はこの時点で、この世界に対して嫌な予感がしていた。
さて、普通『小屋』とは何を指すだろうか。人が寝泊りする小屋といえば、スキー小屋とか、キャンプ場にあるようなログハウスなんかをイメージするのではないか。
そんな俺の知識は、最悪の形で裏切られることになる。
「……馬小屋じゃないか」
比喩表現ではなく、どう見ても馬小屋だった。実際馬が寝ているのだから、馬小屋以外ではありえない。
「こっち」
少女は俺の反応を無視して、奥へと進んでいく。そこには馬が寝ている区画の半分ほどのスペースがあった。少女は敷き詰められている藁の一部をどかすと、そのままゴロンと寝転んだ。勝手に入れということらしい。
俺は着ていたジャケットを脱ぐと、同じように寝転んだ。牧場を思わせる、快適とは言えない臭いに包まれる。
「……」
少女は何も言わず、じっと壁のほうを見ている。俺は迷惑を承知で話しかけてみた。
「君は、毎日ここで寝ているのか?」
「そう」
「起きている間は何を?」
「お馬のおせわとか、お庭をきれいにしたりとか、あとは、ときどき工場にいくの」
「そうか。立派に働いているんだね」
俺は口では彼女を褒めながらも、心中は穏やかではなかった。やはりというか少女の暮らしは奴隷同然のものらしい。どう見ても小学生位の年齢だと思うのだが。
「おじさんは」
初めて彼の方から俺に話しかけてきた。
「なにをして生きている人なの?」
「……難しいことを聞くんだな」
少女が言っているのは哲学的な話ではなく、文字通り何を生業にして生きているか、ということだろう。つまりこの世界では、人間は何かをしなければ生きていてはならない存在なのだ。
「なあ、おじさんが君とは違う世界から来たって言ったら、信じるか?」
「ちがう、せかい?」
初めて少女が私のほうを振り向いた。相変わらず顔は前髪で隠れていてよく見えないが。
「そうだ。そこでは人間はみんな家の中で寝るんだ。もちろんベッドの上で」
「……人間が?」
そう聞き返す彼女の様子から、俺は自分がいかに馬鹿なことを言っているか理解した。
「……ごめん、忘れてくれ」
どうやらこの世界の人間は、思っていた以上に深刻な立場にいるらしい。
この少女が偶々そうなのかもしれないと考えたが、ここの家主と思われるあの女性の態度を見るに、人間そのものがあまり良い扱いをされていないことは明らかだった。
「へんなの」
そんなことを考えていると、少女はまた壁のほうを向いてしまった。今度こそ寝るつもりのようだ。
「邪魔して悪かったね。おやすみ」
少女から返答はない。俺が嫌われたか、あるいは『おやすみ』という言葉の意味を知らない可能性すらある。
そもそもこの世界は何なのだろうか。俺が死後の世界で見ている夢か何かだと思っていたが、この鼻につく臭いや藁の感触はあまりにもリアルすぎる。だとすれば異世界というやつだろうか―――
俺はこの辺りで考えるのを止めた。考えてもどうにもならないことだ。とりあえず明日『局員』とやらに会えば、この世界のことについて少しは教えてくれるだろう。寝心地の悪さを感じながらも、俺はようやく眠りについた。
そして翌日、俺はこの世界が想像よりも遥かに狂ったものであることを知ることになる。
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