目覚め
その日、俺はいつものように仕事を終え、帰宅ラッシュで込み合うホームに立ち、電車が来るのを待っていた。
俺こと榊圭司は、そこそこ恵まれた人生を送っていた。生まれつき顔や運動神経に恵まれていたわけではないが、学校を出て、それなりの企業でサラリーマンとして働いている。
仕事ははっきりいって苦痛だが、今の環境は恵まれた方だと思う。ブラック企業というわけではないし、好きなものを食べたり、遊ぶ金もそれなりにある。
だから俺は、自分の人生に後悔などない。
などと自分の二十余年の人生を振り返っていたところで、電車が接近する音によって現実に引き戻される。いつもと同じように殺人的に混みあっているであろう車内に備え、俺は持っていたスマホをポケットにしまおうとした。
と、そのときだった。背中に誰かが強くぶつかり、思わず前によろめく。
おいおい。
俺は自分の視界が線路に吸い込まれていくのを、映画でも見ているかのように客観的に眺めていた。
人間、いざってときこそ体が動かないというのは本当らしい。視界の右側から見慣れた車両が迫る。
これ、本気で死ぬんじゃないか?
そう思い身を捩ろうとするも、とっくに手遅れだった。さっきから思考ばかり無駄に働いているのは走馬灯の一種だろうか。そういえば飛び降りで電車止めたら途方もない賠償金を請求されるのでは、という馬鹿みたいな心配が頭を過ぎる。
どうやら俺の人生は、ここで終わりらしい。
とりとめのない思考は、やがて一つに収束する。
死にたくない。
死ぬのが怖い。
助けを求めるように何かを口にしようとして―――俺の意識は闇に消えた。
◆ ◆ ◆
目を開けると、そこには暗闇が広がっていた。
「……」
湿った空気で肺が満たされると同時に、俺は自身がうつ伏せに倒れていることに気づいた。これは死後の世界というやつだろうか?
俺はゆっくりと身を起こす。どうやら五体は無事らしい。しばらくすると目が暗闇に慣れてきた。そして俺は、自分が直径1メートル程の円柱の空間にいることに気づかされた。
(これは……枯井戸か?)
手を伸ばすと、苔むした岩肌の感触が伝わってきた。いや、よく見ると表面には人工物を思わせる継ぎ目がある。コンクリートだろうか?
ふと上を向くと、そこには丸く切り取られた星空があった。どうやらここは枯井戸の底で間違いないらしい。
(さて、どうしたものか)
電車に轢かれてミンチになったはずの自分が何故こんな場所にいるのかは分からない。だが井戸の底に閉じ込められているという現状は、ミンチと比べてどれだけマシなのだろうか。このまま餓死する方がよほど苦痛なのではないか。
楽観視できる状況でないことは明らかだった。自分が道具も無しに数メートルもある壁を登れるほど運動神経の良い人間でないことは自分がよく分かっている。
となれば、出来ることをやるしかない。そう、まずはプライドを捨てることだ。
「誰かー!いませんかー!」
恥も外聞も捨てて、俺は思い切り叫んだ。大声を出すのなんて何年ぶりだろうか。
はっきり言って希望は薄かった。都合よく近くに人がいるとは限らない。だが、俺に出来るのはそれだけだったのだ。
そして俺の努力は、奇跡的に実ることとなる。
「だれか、いるの?」
見上げるばかりだった丸い空に、おずおずと小さな丸い影が浮かび上がった。
投げかけられた声は小さく、か細いものであったが、俺にとっては間違いなく救いの糸でった。
「助けてくれ、頼む!」
俺の必死の呼びかけに対し、影はしばらく黙り込んだ後に
「……おかあさん呼んでくる」
と言って姿を消した。どうやら助かりそうだと、俺は深いため息をついた。大声を出しすぎて喉が痛い。
それからまた少しすると、上から声が聞こえた。先ほどとは別の、野太い中年女性の声だ。
「おおい、本当にそこに誰かいるんかね?」
「そうです! 助けてください!」
相手が年上らしいということと、まさしく命綱を握られているという状況から、俺は自然と敬語になっていた。声の主らしき影と、先ほどの小さな影がまたも頭上に現れた。
「なんだってそんな所に……まあいい、ここに縄でもかければ固定できるだろう。おいアンタ! 納屋から適当なモン持ってきな!」
「はい」
小さな影が頭上から消える。一時はどうなるかと思ったが、なんとか一命はとりとめたようだ。俺はようやく一息ついた。
しかし気のせいだろうか、大きな影はやけに耳が長く見えたのだが。
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