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紫陽花

作者: 皐月シオン

 小さな自動車整備工場にグレーのスーツに白いブラウスの女性が訪れてきた。

「ごめんください」

 女性が事務所に声をかけると、「はーい」と中年の女性の声が奥から聞こえてくる。

「あら、どうもお世話さんです」

 この自動車整備工場の経営者、大隈克彦の妻、佳子が訪問者を対応する。

「ずいぶん暑くなりましたねえ」

 D生命保険会社のセールスレディ、鶴崎明日美はブリーフケースの中から一枚のパンフレットを佳子に渡す。

「こちら新しい保険になりますので、ぜひご覧くださいね。ところで、最近お変わりありませんでした?」

「もう相変わらずよ」

 そう言いながら佳子は少し足を痛そうにしながら、ゆっくりと明日美に差し出すお茶を用意していた。

「あら?足はいかがされました?」

「ああ、ちょっとひねっただけよ。さっき病院から帰ってきたところ」

「そうですか・・・、あまり無理しないでくださいね」

 明日美はお茶をご馳走になった後、その自動車整備工場を後にした。


 生命保険のセールスレディとなって三年になる明日美は、S重工業に勤める保彦と結婚して五年になるが、未だ子供に恵まれていない。

 その一方で、実家の事が気がかりでもある。

 明日美には弟の松山幸也と妹の知恵美がいる。幸也はショッピングモールYの清掃スタッフとして働いているが、知恵美は高校時代からうつ病を患っており、未だに仕事に就けない状態だ。そして、父親の義郎はトラックドライバーをしているが、かつては大手タイヤメーカーBで製造と営業を渡り歩き、一念発起して独立してタイヤ販売店を始めたものの、競争激化で業績が落ち込み店を畳んだ。

 その頃から家庭内の状況は悪くなり、母の和美が家計を支えるために働きに出ていたが、四年前にがんが発覚、既にステージⅣと末期状態だった。そして三年前に亡くなった。

 時間は既に夕方になっていたので、事務所には戻らずそのまま自宅に帰ろうと思った。大隈の自動車整備工場からしばらく行ったところに実家、松山の家がある。

「ただいま」

 そう言って明日美は合鍵で家に入ると、テーブルの上には無造作に食器と缶ビールが並んでいた。シンクの中も二人分の食器がつけられたまま放置されている。

 明日美は一旦仏間に行ってお鈴を鳴らすと、幸也が帰ってきた。

「ただいま」

「早かったね」

「今日は早番だから。姉ちゃんは?」

「一応直帰ついでに寄ったところ」

 幸也はシンクに放ったらかしにされた食器類を見て、「あいつ」と舌打ちした。

「姉ちゃんがしようか?」

 明日美がそう言うと「いいよ」と言って、幸也はテーブルに残されていた食器も一緒に洗い始めた。

「ちょっとちーちゃんの様子見てくる」

 そう言って明日美は二階にあがり、知恵美の部屋の前に立ちノックする。中からは何も返事がない。

「ちーちゃん、入っていい?」

 そう言って中の様子を伺うように明日美はゆっくりとドアを開けた。


 閉めっぱなしのカーテン、無造作に散らかった洋服とペットボトル、そして部屋の片隅に積まれた布団の山の中に、知恵美はうずくまっていた。

 足の踏み場もないほど散らかった部屋をゆっくり進むと、布団の山がもぞもぞと動き出した。とても二十歳の女子の部屋じゃないほど荒んでいて、恐らく知恵美の体臭だろうか、鼻を突く酸っぱい臭いが立ち込めている。その臭いに思わず眉間に皺がよるが、布団の中から知恵美が顔を出すと、「ちーちゃん、おはよ」と優しく明日美が言う。

 しかし、明日美の顔を見ても知恵美は再び布団に顔を埋めていた。

 思わずため息を尽きそうだったが、一つ息を呑み、

「また、来るからね」

と言って、知恵美の部屋を出て行った。


 台所に降りると幸也は夕食の支度をしていた。

「あら、手伝うよ」

「いいよ、どうせオレとちーの分だけだし」

「父さんは?」

「多分今日帰ってこれないんじゃないかな」

 そう言いながら淡々と支度をする幸也。まだ二十八ではあるのに、至る所から白髪が見えてくる。彼女がいて結婚してもおかしくないはずの年頃だ。しかし、自分の事を犠牲にして家族、というより妹のために身の回りの世話を買って出ている。

「あの時何にもしてやれなかった分、今オレ達で支えないと」

 そう幸也は呟いた。

「あんまり追い込みなさんな」

 明日美はそう幸也にいうが、逆に「姉ちゃんもな」と言われてしまった。

 確かにと思いながら、「じゃ、また来るね」と言って明日美は家に帰った。



 自宅の最寄り駅に着いて、家に向かう途中、紫陽花の花が咲こうかしていた。

「もう咲き始めたったいね」

 突然背後から男の声がした。

「ただいま」

 保彦だった。

「たまがったろ(びっくりしただろ)?」

「人が悪いわ、まったく」

 福岡で生まれ育った保彦は、未だに筑後弁が抜けられない。明日美が誂われたことに対してふてくされていると、まるでいたずら少年のような笑顔を見せる保彦だった。


「実家に行ってきたよ」

 二人が暮らすアパートに向かう途中、明日美は保彦に打ち明けた。

「ちーちゃん、どうやった?」

「私の顔を見て、すぐお布団に引っ込んだ」

「そうか・・・、しょんなかなァ(しょうがないなぁ)」

 一瞬、しょうがないと言ったってと言いかけた明日美だったが、口に出してしまうと角が立ってしまうと思い、言葉を飲み込んだ。

「そばってん、いつか良くなるさ」

 明日美は根拠が無い保彦の言葉に疑いの念を持ったが、うつ病というものは時間を掛けないと良くならないと思っている。

 知恵美がうつ病を発症してからというもの、実際支えているのは幸也だけだ。義郎は仕事のこともあるが、今まで子供のことは全て和美に任せっぱなしだった。それ故、子供の接し方がわからず、知恵美が廃人と言ってもおかしくない状態であろうと、いたずらに気合が足りない、どっか気分転換に連れて行ってやると、うつ病の患者に対してやってはいけないことを平然とやってしまい、その行為を幸也に咎められ親子喧嘩になった。

 それを止めるのはいつも明日美だった。

 結婚してもう明日美は松山の人間ではない。しかし、血の繋がった弟妹のことをいつも気にしている。

 そんな明日美に対しても、保彦は何も言わない。

 保彦はY工業高校を卒業後、S重工業に就職し製造部門一筋で働いている。三十路を迎える前に生産管理部門の係長級に昇格した。今日はそのお祝いをしてあげたいぐらいだったが、何となく乗り気ではなかった。


 ********


 東名自動車道のとあるサービスエリア、義郎はフードコートでラーメンとご飯のセットを食べていた。食事をしたらしばらく仮眠をとって、その後とある物流拠点に荷受けに向かう。そして翌朝には都内の港に届ける予定になっている。

 夜通し走ることには慣れた。しかし、義郎の心の中には未だ納得しがたい何かがある。

 店の廃業、今の仕事の事もあるが、やはり一番は末娘である知恵美の事だ。

 自分なりに心配している「つもり」だ。しかし、義郎がやろうとしていることは全て裏目に出ている。

 うつ病に関して義郎は関心がないわけではない。だがどういう対処をしたらいいのか、ましてや今まで子育てを全て妻に任せてしまっていた分、子供との向き合い方が全く分からない。

「義郎、今まで和美さんを大事にしなかったからだよ」

 二歳年上の姉、原田リツ子から言われた言葉が今でも頭の中を駆け巡っている。


(俺は俺で家族のためにやってきたのに)


 良く言えば頑固、悪く言えば意地っ張りな性格の義郎、しかしそれが家族との軋轢を生んでいる原因だ。

 それを間に入って緩衝してくれていたのは、間違いなく和美だった。

「家を手放さなかっただけよかったね」

 タイヤメーカーに勤めていた時に購入した家。

 最初は家を売却して店舗兼住宅を作るつもりだったが、「この先どうなるか分からんから、借地で建てた方がいいぞ」と知人の助言でバイパス沿いに店を構えた。


 自宅から車で大体十分。忙しい時は事務所で寝泊まりすることもあった。


 店を始めて三年間は従業員を数人雇うほど忙しく、充実した日々を送っていた。また和美も計算勘定の苦手な義郎を支え、若い従業員に毎朝お弁当を作ってあげるほどだった。

 そんな好調だった店がある時を境に売上が落ちてしまう。


 今でも義郎は忘れられない出来事だった。



「そんな話を聞いていないぞ!」


 毎朝従業員の朝礼が終わり、タイヤメーカーに注文の連絡を入れていた時の事だった。

 かつて勤めていたタイヤメーカーBと専売契約を結んでいて、いわゆるフランチャイズ店の様な形で看板を掲げることを許してもらっていた。

 義郎は製造から営業まで、総合職を除いては殆どの仕事を経験しており、重役の面々と毎晩のように酒を組み合わすほど、タイヤメーカーBとは切っても切れない仲だった。


 しかし、この日いつもの注文をした時に、窓口になっていた販売部門の山都が退職する事を告げた。

「こっちも色々と状況が変わったんだ」

 山都は力なく言った。

「どういうことなんだ」

「お前、知っているか?うちの大株主が外国の投資会社に変わったってこと」


 この頃、にわかに欧米ファンドが日本の大企業の株を買い付けていた時期であった。諸外国と比べるとガラパゴス化している日本の企業風土に改革をするべく、金の力であらゆる企業に巨額のお金が動いていた。株が買われることは企業にとっていいことではあったが、比率が上がってくると発言権は自ずとついてくる。一対百で意見が別れたとしても、株数によって勝敗は決まる。


 タイヤメーカーBの株を多く持っているのはMDファンドと呼ばれる会社だ。イギリスに拠点を置く投資会社だが、フィナンシャルプランナーや経営コンサルタントなど、取締役として次々と人材を送り込んでいっている。


「これまで一地区一店舗の販売制度をなくし、本社直轄の販売店を作るんだってよ。松山のところだけじゃなく、全国ほとんどやるっていいやがった」


 山都は会社の方針が理解できなかった。MDファンドから送られた副社長曰く「競争をさせることで商品価値を高める」ということらしいが、結局フランチャイズとしてぶら下がる店舗の切り捨てといえる行為だった。

 しかもMDファンドは全国最大手のカー用品店Cの大株主でもある。狙いとしては、「最適なルート」でカー用品店Cにタイヤを流通させるものだと考えられていた。

 特にFC部会という部門が、MDファンド介入後に解散したことから、そういった疑念が膨らむ大きな要因となった。


「じゃ、この近くに店を作るとか言い出すんじゃねえだろうな?」

「わからん、あいつらのやろうとしていることは分からん」

 山都は義郎の問いにそれだけしか言えなかった。

 しかしながら、どこか現実味のない話に義郎は「まさかな」と思っていた。

 周囲を見回しても、まだ青々としている田畑が広がる場所だ。そこに二車線の道路ができ、まだ義郎の店と民家数軒しかないような場所だ。



 お店が四年目を迎えようとした秋の日、店の近くで農業をしていた老人、尾崎が訪れた。

「もう三年経つのか」

 店の応接スペースでお茶を飲んでいた尾崎。

「おかげさまで、何とかやって行けていますよ」

 そうにこやかに話す義郎だったが、尾崎の表情はどことなく冴えない。

「そうかい・・・、そいつぁ良かった・・・」

「そういえば新しいトラック用のタイヤが出たんですよ?必要でしたら、在庫確保しときますよ」

 そう言って新しいパンフレットを尾崎に見せたら、「それなんだが・・・」と表情が一気に曇った。

 義郎は何事かよく分からなかった。

「実は・・・、農機具もトラックも、全部売ったんだ」

 そう言われた義郎は頭の中が真っ白になった。

「いや、悪く思わないでくれ・・・、Bの社員さんが来て、新しい店を作るから土地を貸してくれないかって来たんだ。もちろん、最初は断ったさ」


 その言葉を聞き、山都の言葉を思い出す。本社直轄の販売店を作るという話を。


「しかしな・・・、もう七十を過ぎて体力はなくなった。俺もいつまで生きられるのか分からん。松山さんとこの店があるから、どうしても貸すってことはしたくなかったんだが・・・、『お父さん、農業やめたらどうやって食べていくんだ』ってカミさんから凄まれてな・・・、仕方なくサインしたんだ・・・」


 悪夢だった。


 何十年も会社のためにつくし、一念発起して築き上げた自分の城が、足元から崩壊する。


 義郎にとっては認めたくもない事実であった。会社を辞めてもなお、B社の売上を良くするために頑張ってきたのに、恩を仇で返された様な格好だ。

 尾崎とどうやって別れたのか、義郎は覚えていないほどひどく混乱していた。


 それから数ヶ月もしないうちに、「スーパータイヤランド」という店が出来上がると、義郎の店よりも何倍も広いスペースと、キッズコーナーなど充実した設備、そして何よりも「直販価格」という安さから、義郎の店から客がほとんどいなくなった。


 そして半年後、義郎は廃業を決心した。


 その時に和美から「お店はなくなっても、家が残っただけ良かったよ」と言われた。従業員に解雇の旨を伝え、再就職の斡旋すらも出来なかった義郎。自分自身に「経営者失格」のレッテルを貼っていた。

 その頃から、知恵美のうつの症状が出始めたのだ。


 ********


 全国的に梅雨入りとなったある日、明日美はいつも通り外回りに出かけていた。

「まあ雨の中ご苦労さまです」

 この日も自動車整備工場を経営する大隈佳子のところを訪問していた。

「いいえ、早速のご契約感謝です」

 明日美の足元やスカートの裾が雨粒で濡れていたが、ハンカチでさっと拭いていた。

「最近がんの話が色んな所で多くてね」

「そうですか・・・」

「うちのご近所の若奥さん、まだ三十代なのにがんが見つかっちゃってね。子供さんもまだ小さいのに・・・」

「うちの母もそうだったんですけど、若い人は特に進むのが早いらしいんですよ」

 明日美がそう言うと、佳子は「あらぁ、まぁ・・・」と思わず口に手を当ててしまった。

「私の母は・・・、五十過ぎてはいたんですけどね。私も結婚した後でしたから」

「でも、若いじゃないかァ・・・、じゃあ、お父さん一人だけかい?」

「いいえ、弟と妹が一緒に住んでいますんで」

「まぁ・・・、それだけでもねぇ・・・」

 佳子はそれ以上掛ける言葉は見つからなかった。しかし、

「だから、万が一の備えは大事なんですよ」

と笑顔で言った。

 あくまで気丈に振る舞う明日美。内心では同情されたからどうなんだろうという気持ちはある。しかし、母の事があったから今のセールスに活かせている面もあるから複雑だ。


 契約書のサインをもらい、事務所に帰ろうと外に出ると、いつの間にか雨が上がっていた。

「あら、綺麗な紫陽花ですね」

 整備工場のすぐ脇の生け垣に、紫陽花の花が咲いていた。

「おや、さっきまで白かったのに、いつの間にか青くなっているね」

「ちょうどうちの近所も咲き始めたんですよ。たまたま駅で旦那と一緒になって、眺めながら帰ったんですよね」

「そうだったのね。ところで、紫陽花の花言葉って知っている?」

 佳子にそう言われると、「なんですか?」と明日美は聞き返した。

「それはね、冷淡、無情、傲慢だって。ほら、まるで私みたいでしょ?」

 そう言うと、「全然違いますよー!」といって二人は大笑いした。

「でもね、色によって言葉は変わってくるんだよ」

「え?そうなんですか?」

「確かね・・・、咲き始めの白い時は『寛容』、ピンク色だと『元気な女性』だって」

「まるで佳子さんみたいじゃないですか」

「そうかな?それとね、ほら、花びらが沢山あるでしょ?この形から一家団という花言葉もあるのよ」

 そう言われると、「なるほど」とつぶやきながら、ふと実家のことを思い出した。

 知恵美がうつ病になって以来、義郎と幸也は衝突している。そういうことを考えると、我が家に「紫陽花」はないものかと考えていた。

「どうしたの?」

 佳子から声をかけられて明日美は、「あ、い、いえいえ!」と慌ててしまったが、

「勉強になりました!」

と気をとりなした。



 明日美は事務所に立ち寄った後、自宅に帰ろうと駅に向かっていた。

 駅のホームで電車を待っていると、バッグの中から携帯電話のバイブレーションが鳴り響く。

 明日美は携帯を取り出すと、発信者は幸也だった。

「もしもし?」

「姉ちゃん?」

 幸也の声はかなり動揺していた。奥は何やら騒々しい音が聞こえる。明日美の方も電車が通過するというアナウンスが流れてきた。

「ちーが運ばれた!」

「え?どういうこと?」

「M病院に運ばれた!」

 詳細を尋ねようとするも、電車が通過する音と風で幸也の声は聞き取れなかった。しかし、知恵美が運ばれた病院は分かった。

「M病院にいるのね?分かった。すぐ行くから!」

 そう言って明日美は電話を切り、すぐ保彦にメールを入れた。

 まもなくすると、保彦から「もうすぐ仕事終わるから、俺も行くよ!」と返信が来た。

 明日美は一旦改札を抜けてM病院に向かうバスに乗った。


 明日美の自宅と実家のほぼ真ん中辺りにあるM病院。

 片道二車線の国道から一本入ったところにあるが、救急救命室がありひっきりなしに救急車が入ってくる。

 仕事先の最寄り駅からバスで五分ぐらいのところにある。

 まだ一般診療も行われている時間帯だったので、正面入口から入って救急待合室に向かった。

「姉ちゃん!」

 明日美が病院職員に尋ねようとしたところ、幸也が気づいて声をかけた。

「ねえ、なにがあったの?」

 幸也は小刻みに肩が震えていた。

「オヤジがいけないんだ」

 全く答えになっていないが、明らかに憎悪に満ちた声で幸也は言った。

「だから、何があったの?」

 何度も問いかける明日美。しかし、幸也は何か言葉を発しようとすると、強く拳を握りしめたまま、震えている。

「松山様、松山様のご家族の方?」

 救急救命室の方から一人の女性スタッフが声をかけた。

「あ、はい!」

 怒りに震える幸也を置いて明日美は職員の呼び出しに応じた。

「松山知恵美様のご家族の方ですね?」

「ええ、姉の鶴崎明日美です」

「えと、お兄様の?」

「ユキヤと言います。すみません、お世話掛けてます・・・」

 そう言って明日美は頭を下げると、スタッフからは、

「今のところ落ち着いていますので、安心してくださいね。ただ、大事を取って一日入院することになりますが、宜しいでしょうか?」

と尋ねられた。

「はい、あの、今来たばっかりですが・・・、知恵美は一体・・・?」

 明日美はそう尋ねると、スタッフは周りの様子を見て、

「では、ちょっとこちらの方へ宜しいでしょうか?」

と言って、救急待合室から「家族説明室」と書かれたところへ案内された。

 シャーカステンと長いテーブル、そして電子カルテ端末のパソコンがある部屋に通されると、「おかけください」とスタッフに促され、幸也と明日美は椅子に座る。

「オーバードーズという言葉はご存知でしょうか?」

 はじめに言われたことは聞き慣れない言葉だった。

「いわゆる用法以上のお薬を飲んだということになります」

 明日美はどういうことかよく分からなかった。


 スタッフは女性看護師の岩崎という。岩崎は電子カルテの画面を開き、知恵美のカルテを呼び出した。カルテ画面が見えるように、モニタを幸也と明日美に向けると説明を始めた。

「詳しい説明はまた後程、先生の方からご説明致しますが、要は心に病を持つ患者さんに見られる事があります。不安などから、突発的にお薬を一気に飲んでしまい、倒れていらっしゃったところをお兄さんが見つけて、救急車でお見えになられました」

 岩崎がそう言うと、「そうなの?」と明日美は幸也に尋ねた。幸也は黙って頷くだけだった。

「一歩間違えたら、死に至ることもあります。ですが、胃の中に残っているお薬を吐き出させて、今のところ落ち着いていますので、ご安心ください」

 そう言われると明日美は自然と「ありがとうございます」と頭を下げた。



「お父さんに電話した?」

 明日美が幸也に尋ねると、「した」とだけ言った。

「幸也」

 待合室の長椅子に二人は座り、

「何かあったの?」

と再び幸也に尋ねる。

「帰ってきたら台所に仰向けになって倒れていた。口から泡吹いていてさ・・・」

 そう言うと、幸也は嗚咽を混じらせながら両手で顔を覆った。

「明日美さん!」

 そこに保彦が来た。

「幸也くん、どうしたとね?」

「それが・・・、ちーちゃん、薬をいっぺんに山程飲んだらしく・・・、何とか落ち着いているみたいだけど」

 幸也の代わりに明日美が答えると、「そうね・・・」といって、幸也の隣に保彦が座った。

「幸也くん、あんま自分を責めなさんな」

 そう言って幸也の肩を叩くと、幸也は泣きながら頷く。

「なんか、ごめんなさい・・・」

 明日美はそう言うと、

「よかよか、落ち着いたならよかたい」

と、保彦は言った。


 ただ明日美は一つ気になったことがある。幸也が言った「オヤジがいけないんだ」という言葉。

 確かに、今まで家族を振り回してお店のこととか母・和美のこととか迷惑をかけている。そんな父に対して明日美も憤りを感じないことはなかった。しかし、夫・保彦の手前、あまりそういう感情を表に出したくはないと思っている。


 保彦も福岡に両親、兄、姉がいる。

「ちょっとしたいざこざはどこでもあるたい」

 保彦は家族の話になると最後にこういった。更にもう一言、

「ばあさんのいいよらしたばってん、我がが我ががって言ったって、どうしょうもならんとよね。お互い歩み寄らんなら、溝は埋まらんやないとかな」

と付け加える。

 明日美は保彦の言葉、いや保彦の祖母の言葉の中に答えが隠れていると分かっている。ただ、その切っ掛けが掴めずもどかしい気持ちだ。

 とはいっても、今は知恵美の状態が心配である。


 ********


 しばらく待っていると、救急玄関から男の怒鳴り声が聞こえてきた。

「知恵美は!知恵美はどこだ!」

 聞き覚えのある声に、明日美と保彦、幸也は気付いた。そして、幸也はゆっくりと立ち上がり、「オヤジ」と言った。

「幸也、知恵美は一体どうなったんだ!」

 恐らく仕事先から車を飛ばしてきたのだろうか、息はゼーゼーと上がっていて顔は真っ青になっている。

「こっちが聞きてえよ!」

 フロア全体に響き渡るかと言うくらいの大声を幸也は上げた。余りの大きな声に思わず明日美は「大きな声を出さないでよ!」と止めに入る。

「ちーに何て言ったんだよ」

 幸也のあまりの狼狽に明日美すら取りつく島もない。肝心の義郎は黙ったままだ。

「黙ってねえで何か言えよ」

 ただならぬ事態に周囲の視線を集めるが、今の幸也にとってそう言う事はどうでもよかった。しかし、『公開処刑』とも言える異常な光景に、「幸也くん、ここはやめよう」と保彦も止めに入るが、言う事を聞こうとしなかった。


 義郎は口をもごもごさせながら何か言おうとしていた。

 怒りに震える幸也、言葉が出ない義郎、止めようにも止められない明日美と保彦。


 そこに思わぬ水入りがあった。

「松山知恵美さんのご家族の方ですか?」

 救急救命室の医師、林が声をかけた。「そうです」と明日美が言うと、

「先ほど看護師の岩崎からお話があったと思いますけど、改めて知恵美さんの今の状況についてご説明しますので、皆さんよろしいでしょうか?」

と、家族説明室へ案内された。

 マスクをしているので、顔の全体があまりよくわからないが、救急救命という激務からか、半ば憔悴しているような印象を受ける。しかし、それを微塵とせず林は淡々と質問から始めた。

「はじめにですけど、今知恵美さんはどこか病院にかかっていますか?」

「ええ、市内のF病院に」

「そこは・・・、精神科ですね。病気は?」

「うつ病です」

「いつからですか?」

「五年前からです」

「お薬も出ていますよね」

 林と明日美の質問 のやり取りが続いた。そこに、「先生」と義郎が割ってきた。それに対し、幸也は露骨にも舌打ちした。

「うつ病って治るものですか?」

 義郎の質問に対し、「専門外ではありますが」と頭につけながら林は説明した。

「一応治る事はあります」

 その言葉を聞き、「そうですよね」と義郎は言った。しかし、

「治らない事もありますし、一旦治っても繰り返すことがあります」

と、きっぱりと言った。


「心の病気は一筋縄じゃないかなくて、薬や処置で治るというものじゃないんです。私は専門外なので、精神科医の同僚や知人から勉強させていただくんですが、同じ病気だと言っても、患者さん一人一人症状は違う。これをやったら治りますということが通用しないんですよ」

 林は何か気づいたのか、終始義郎と幸也を交互に見ながら説明する。

「今回知恵美さんが大量服薬、いわゆるオーバードーズによって意識を失いかけていたところ、お兄さんが見つけたそうですね。ちなみにこのオーバードーズは、突発的に起こることがありますし、何か外的ストレスなどで起こる事もあります。本人に対して家族は良かれと思った事が、逆に本人にとってプレッシャーやストレス、気分が落ち込んでやはり私はダメだったんだと、思い詰めることによって起こる事があるんです」

 林は「あくまで一例ですが」と付け加えたが、義郎は林を直視する事ができなかった。


「特にうつ病の初期と回復期は要注意なんですよ。『死のうかな』という気持ちは常にあると思っていいくらいですよ。ただ、本当にきつい時は行動を起こしにくい。ところが、少しでも体力が回復すると実行できてしまうんです」

 すでに義郎は林の話など耳に入っていなかった。

「今回、幸いにも薬が消化吸収する前だったので、胃に残っているお薬を出させる事に成功しました。ただ、何かあるとまずいので今日一日入院しましょう」

 話を終える頃には、知恵美が入院する病棟の看護師が訪れ、諸々の入院手続きの案内を幸也が、病棟看護師からアナムネーゼ聴取を義郎と明日美が受けていた。


 アナムネーゼ聴取を受けている間、義郎は一言も言わず、ただじっとしているだけだった。

 ベッド上で横たわる知恵美は虚ろな目で、明日美や保彦、幸也の問いかけに何も反応しなかった。ただ、義郎が声を掛けようとすると、知恵美の反応があった。それは、義郎と目を合わさぬようにしようと、眼を閉じてそっぽを向く。

 たまたま空いていた部屋が個室だけだったので、他の患者に気兼ねする必要はなかった。

「大部屋は空いてなかったのか?」

 看護師が諸々の案内や知恵美のバイタルチェックなどを行い退室した後のことだった。義郎は明日美にそういうと、「あのね」と半ば呆れたように言う。

「それよりも父さん、幸也と何があったの?」

 問われた義郎は黙り込む。

「先生の話、聴いたの?」

 そう言われると、「ちょっと会社に電話してくる」と言って病室を出た。明日美は立ち上がって義郎を引き止めようとしたが、保彦は明日美の手を握り制止した。そして、保彦は黙って明日美を見て首を横に振る。


 ちょうど入れ違うように、幸也は病室に戻ってきた。

「オヤジは?」

 幸也が尋ねると、「会社に電話すると言って出て行った」と明日美が答えた。

「肝心な時に黙り込むとか、どうかしてるわ」

 思わず愚痴りたくなる明日美。しかし、

「もうそこまでにしよう」

と、保彦が言った。

「知恵美ちゃん、ちょっと俺たち、出るけんね」

 保彦は明日美と幸也を呼び出して、病院の屋上に向かった。



 屋上に上がると、暑い雲の隙間から太陽が西に沈もうとしていた。

「保彦さん、どうしたの?」

 明日美は保彦に尋ねる。保彦はプラスチックのベンチに腰をおろし、しばらくうつむいた後、明日美と幸也の顔を見た。

「幸也くん、お義父さんのこと、どう思っとう?」

 突然の問いに、幸也は「え?」となった。「正直に言うてん」と促されると、

「あれは・・・、悪魔だよ」

と言った。

 保彦は「そうか」と幸也の言葉を否定しなかった。そして、

「なんでお義父さんのこと、悪魔だって思うと?」

と更に尋ねる。「それは・・・」と言葉に詰まる。明日美は何か言いかけようとしたが、保彦は左手をすっと差し出し制止した。

「とにかく、そういうことです」

 そう幸也に言われると、保彦はそれ以上の追求はやめた。

「分かった。じゃ、降りるか」

 そう言って、再び知恵美の病室に戻った。



「ねえ、保彦さん」

 アパートに帰った後、明日美は思い切って尋ねる。

「なんで、幸也にあんなこと尋ねたの?」

 怒っているわけではないが、どうしても言葉に棘が出てしまう。しかし、それでも保彦は「ああ、それね」とあっけらかんとした顔だ。

「やっぱ親子やねって思った」

 明らかに斜めを行く保彦の言葉に、明日美は首を傾げた。

「分からん?お義父さんも幸也くんも、大事なことを言葉に出さんのよ」

 そう言われると明日美は合致した。今まで我が身内のことでありながら、中々気づかなかった。

 確かに言われてみれば、病院で人目を憚らず幸也は父に詰め寄った。しかし、肝心なことを一切言わなかった。そして病院の屋上で、保彦は父に対してどう思っているか尋ねた。しかし、肝心なことは一切言わなかった。

「お互い本音でぶつかり合えばいいとに、何か逃げよるとしか感じらんかったとよ。そら、ぶつかっていい時とダメな時はあるばってん」

 タンブラーに淹れていたコーヒーを一口すすると、「あんまりヨソんもんが出しゃばったらいかんけどさ」と付け加える。

「でもね、保彦さんが気がけてくれなかったら、きっと幸也・・・、とんでもない間違いを起こしそうで・・・」

 明日美はそう言うと、

「家族ちは難しかねー」

と言いながら、保彦は大きく息を吐いた。


「きっとお義父さんはお義父さんで、家族のことを思って色々頑張っているんやと思う。ばってん、それが裏目に出た。幸也くんも幸也くんで、家族の事を思って頑張っているんやと思う。ばってん、それがいっちょん結果にでらん。結局、大事なことをなぁなぁにしてしもうとるけんやなかろうかなって、俺は思うんよ。俺のオヤジもそうやし、おふくろも、アニキたちも」

「じゃ、保彦さんのところも未だに?」

「そういうことっちゃんね。特におふくろと義姉さんのこととかさ」

「それじゃ、ちーのこととかどうなるのよ。保彦さんところにはうつ病とかいないんでしょ?」

「今はね」

「今はって・・・」

「そりゃ、俺だってなるかも知れんし、アニキもなるかも知れん、親もなるかも知れんってこと。うつ病とか珍しい病気やないんよ」

 保彦にそう言われると、「そうなんだ・・・」と明日美は呟いた。

「今うちん会社とか、長期間休職する奴が多いんよ。最初、うちの部長とか課長とか、怠けとんやねえかって言っていたけどね。ばってん、あまりにも酷かけん会社が精神保健福祉士ば呼んで講演をしてもらった。そしたら、真面目で素直な子ほどそげんなるっていいよらした」

 そう言いながら、保彦はバッグの中から一冊のノートと資料を明日美に見せた。

「知恵美ちゃん、ホントは素直で真面目な子やったっちゃないとかな?」

 保彦はそう言うと、明日美は頷いた。

「そうよ・・・、私と幸也は歳が近いからアレだけど、ちーちゃんは年が離れているから、みんな大事にしてきたつもり。私達と違って本当に真面目で素直なんだよね。だから、幸也も私も、父さんも母さんも大事にしていた」

 そう言っていた明日美だったが、「でもね・・・」と言うと表情が曇る。

「ちーは学校でいじめられていた。あの時から体調が悪くなり始めて、やっとの思いでちーは私にいじめられていることを告白した」

 明日美は五年前の事を思い出していた。


 ********


 知恵美は中高一貫校の女子校、S学園に通っていた。


 中学二年のある日、教材や履物などが盗難に遭うことが多くなった。それが徐々にエスカレートし、トイレに入っている時に個室に放水されたり、他校の男子生徒から暴行されそうになったり、いじめからうつ病を発症した。

 うつ病を発症する前のある日、知恵美は泣きながら家に帰るところをたまたま幸也が見つけた。

「ちー!どうしたんだ?」

 綺麗に整えられていた髪はボロボロに、制服も濡れたあとがあった。

 あまりにもただならぬ様子に、幸也はその夜、当時結婚したばかりの明日美に電話で相談した。

「ちーの様子がおかしい」

「どういうこと?」

「たまたま家に帰る途中、ちーをばったり会ったんだけど・・・、髪はボロボロにされて制服もかばんも濡れていた」

 明日美はその時気づいた。

「それ、絶対いじめだわ」

「そうか?」

「だってS学園に通っていた子がいじめがひどかったって言っていたもん。それに最近、S学園の子が時々問題起こしているっていう話も聞いたわ」

「評判ガタ落ちじゃないか・・・。なあ、姉ちゃん、ちー明日学校休ませたほうがいいんじゃねえか?」

「そうね」


 知恵美がいじめられているのではないかと疑念に思った二人。幸也は「母さん」と言って、仕事先の店から帰って夕飯の支度をしていた和美に声をかけた。

「ちー、明日学校休ませたほうがいいと思うんだけどどうかな?」

 突然そう言われた和美は「何があったの?」と尋ねる。

「今日、たまたまちーと帰りが一緒になった。あいつ、泣きながら帰っていたからおかしいなと思ったら、制服はずぶ濡れでさ・・・。姉ちゃんと話したんだけど、どうもいじめられているじゃないかって・・・」

 そこに、義郎もちょうど仕事場から帰ってきた。

「ちーがいじめられている?それがどうした?」

 この頃、お店の状況が悪くなり始めていたため、義郎はかなり気が立っており言葉の端々が刺々しくなっていた。

「いじめる奴も悪いが、いじめられる方もなんか問題あるんじゃないのか?」

 そう言って義郎はリビングのソファに腰を下ろし、煙草を吸い始めた。

「お父さん、そんなに頭ごなしに言わないの。しばらく休ませてもいいんじゃないの?」

「そうやって甘やす方がよっぽどダメだろ、何のために学費出してるんだ!」

 和美が義郎と宥めようというが、聞く耳を持たない。

「オヤジ、いじめで自殺することだってあるんだよ?」

「自殺?ふざけるな、あんな心の弱い連中に成り下がったとでも言うのか?」

 あまりの言葉に幸也は強い憤りを感じた。

「そういう言い方はないだろ!」

「んだと?!」

 売り言葉に買い言葉、義郎は思わず灰皿を幸也に投げつけた。陶器の灰皿は粉々に割れ、煙草の灰もダイニングテーブルに散らばった。


「いい加減になさい!」


 和美は義郎に対し強く怒った。


「いくら前の会社が近くに店作るからって、家族に当たるのだけは止めなさいって言っていたでしょ!」


 普段温和な和美がこの時ばかりは激しい狼狽を見せた。

 店でも客がいない時に、先が見えない、将来どうなるんだという言葉を口癖のように言っている義郎に対し、和美もうんざりしていたのだろう。

 あまりの狼狽っぷりに、義郎は言葉を失ってしまった。

 そこに、知恵美がとぼとぼとリビングに来て無言のまま立ち尽くしていた。薄っすらと頬に涙が流れているのが分かった。

「勝手にしろ」

 そう言い捨てて、義郎は自室にこもった。



 明日美も幸也も学校に対して、いじめの事実について問いただし、場合によっては加害者を引っ張りだして訴訟を起こす構えを見せていた。しかし、それを遮ったのは義郎だ。


「松山家の恥だ」


 その言葉と強く言い出せない性格の知恵美。義郎から話を聞いた原田を含め他の親族も訴訟費用のことや、賠償金を勝ち取ったとしても何のメリットがないことと言いくるめられ、最終的に断念せざるを得なかった。だからといって知恵美の症状は悪化する一方で、日曜でも体が起き上がれない、食事も喉に通らないといった症状が続いたので、最終的に高校に進学したがわずか半年で退学した。

 それからまもなくして、義郎の店が閉店したのを機に、残った負債を処理するべく和美は食品工場のパートに週五日、昼も夜も忙しく働いて家計を支えていた。

 一方の義郎は中々仕事が見つからず、毎日ハローワークに通っていた。

 雇っていた従業員からの問い合わせの対応もあると、とても娘のことなぞ気に掛ける余裕はない。

 それが時に苛立ちとなり、知恵美に対する口調もきつくなり始めてくる。


 ある日の夕方、夜勤で和美は夕方から仕事にでかけた。そして遅番だった幸也は、この日十一時にまで仕事だった。

 リビングで義郎は明細書や請求書などの書類を整理している。そして電卓で計算したあと、深い溜息をつく。

「・・・」

 やっとの思いでベッドから這い出て、リビングに降りてきた知恵美。

 二日間お風呂に入れていないため、体臭がきつくなり始めていた。

「降りたか」

 義郎がそう言うと、知恵美は硬い表情のまま頷いた。

「風呂でも入ったらどうだ?そんな姿じゃおちおち街も歩けんぞ。それに、一日中家にいて何してんのか?」

 そう言われると、知恵美は「あ、う、あ、う」とうまく言葉が出せず、手が震えだした。

「おい、さっさとメシの用意するか、風呂入るかどっちかにしろよ」

 義郎は金回りの事で頭がいっぱいになっていた。その為、知恵美に対して言っては行けない言葉を投げつけてしまった。


 書類整理に疲れた義郎は目の疲れを感じ、一旦顔を洗うため洗面所に足を運んだ。

 顔を洗っていると、風呂場から水が流れる音が予定に大きく聞こえた。恐らく脱衣所も開けっ放しであろう、水が勿体無いと思った義郎は、「何やってんだ」と言って脱衣所の扉を開く。

 すると、そこには血まみれに倒れている知恵美の姿があった。

「ち、知恵美!」

 知恵美の手にはカミソリ、そして左腕には無数の切り傷があった。

 すぐに病院に運ばれ、知恵美はその日一日入院することになった。



「結局、あの時と全く進歩がないのかな」

 明日美は知恵美がリストカットを起こした日のことを鮮明に覚えている。


 結婚したばかりの頃、知恵美が自殺未遂を起こしたことをどうするか、親子で話し合いがされた。

 自分の面子を潰されたくないが故、知恵美のことは黙っておきたかった義郎だったが、もはや店も傾き始めていたところだったので、幸也からすれば何を今更という気しかなかった。


 幸也も幸也で、高校を卒業したが、仕事に恵まれずショッピングセンターYの清掃員としてアルバイトから入り、数ヶ月後には正社員に登用された。給料は決して高くはないが、厳しい上司に気に入られ、三十路手前で副長の座を持っているのだから、現状は悪く無いと思っている。

 本当は大学に進学して大好きな機械工学の勉強をしたかった。しかし、進学を考えている矢先に義郎は独立を思いつき、お店を作るのに多くのお金が必要といい、しかも進学しても就職できる保証がどこにあるのか、散々言われた挙句、進学する大学の就職率の低いことがわかり、幸也は夢を諦めた。


「幸也くんも辛かったろうなあ」

 保彦も大きく息をつきながら言った。

「結局、お金のことに私達振り回されて、色々と犠牲にしてきたところがあるわ。それが一番典型的だったのが、母さんのことよ」

 店を畳んだあと、家計を支えるために働きに出た和美だったが、この頃既に病魔が蝕んでいた。


 年に一度は定期検診を受けさせるべきだった。検診を受けなくても、何も問題はないだろうと軽く言っていた。和美もそうねと言いながらも、万が一のことを考えると治療費をどこから捻出させるかが問題だった。当然、親戚付き合いもあるから、ある一定以上お金を持っておかないと生活が不安である。


 義郎は悔やんでも悔やみきれなかった。


 とうとう和美の気力が限界点を突破し、仕事中に意識を失った和美。病院に運ばれた時には手遅れだった。既にがんが全身に転移しているのがわかり、そのまま入院、数ヶ月で亡くなった。

「だから、未だに父さんは父さんで、いろんなことを後悔しているんだと思う。ただそれが、幸也やちーちゃんに伝わっていない、伝えることができていないのが残念だなあ」

 しばらく二人の間に沈黙が流れた。

「本当にどうしたらいいんだろう」

 答えは見つかっているのに、それを解く式が分からない。


 ********


 知恵美は病院のベッドの上でぼんやり考えていた。


(無意味だ・・・)


 ひどく自分のことを卑下して考える様になったのは、やはりいじめが切っ掛けだった。

 知恵美が通っていたS学園は世間一般的には「お嬢様学校」として有名だった。厳しい中学受験を乗り越え、制服の袖を通した時の感動は今でも覚えている。


 しかし、それが全てのはじまりだったかもしれない。


 厳しい校則、進学率のプレッシャー、教師たちは嫌でも教育に熱が入る。学校の名前を売るために、部活も勉強も遅い時間まで頑張らせる。それについていけないものは容赦なく振り落とされる。

 対外的に評判が上がる一方で、そのプレッシャーを与えられた生徒たちの心は荒み始め、ほんの気晴らしからいじめは始まった。


 本質を考えれば、知恵美は非がないことが分かるはずだ。しかし、それを義郎は認めなかった。真面目な性格の知恵美はそれを真に受けてしまい、心を壊してしまった。


「おかわりないですか?」

 優しい声の女性看護師が声をかけると、知恵美はどう答えたら良いか分からなかった。

「松山さんを担当させて頂きます、看護師の村井絵里子です」

 歳は三十代ぐらいだろうか、少し白髪が見える村井という女性看護師は、ネームプレートを知恵美に見せた。

 村井は知恵美に体温計を渡し、脈をとった。

 知恵美は村井の手の温かさを感じた。この感触は、小さい時に和美や明日美の手の温もりに近い。和美のことを思い出すと、じわっと目尻から涙が流れていた。


(どうして泣いているんだろ・・・)


 自分の事をうまく表現できず、ただ涙が流れてくる。

 何かを感じたのか、村井は優しく手を握った。

「何かありましたか?」

 まるで聖母マリアのような優しい眼差しの村井を見ると、涙が止まらない。

「また伺いますね」

 そう言って村井は一旦、知恵美の病室を出た。


 こんな人肌の温もりを感じたのはどれぐらい振りなのか。明日美は時々様子を見に来るが、布団の中で一日を過ごす知恵美の手を引くことなんぞ最近はなかった。


 誰かの手を握ったのはいつか。


 知恵美は思い出していた。


 しかし、思い出せなかった。


 和美の最期の時も、手を握ることが出来なかった。義郎も明日美も幸也も、必死に名前や母さんと呼びながら手を握っていた。病院のベッドの脇にあるモニタが、まっすぐな線を描いたその時、知恵美はただ呆然と立ち尽くすしか無かった。


 歳が離れて産まれた子供だから、知恵美は沢山の愛情を受けて育っていた。だが、心が崩壊してしまった後、母の最期の表情すらわからなくなってしまっていた。


 ただ、頬を涙が伝っていたことだけは分かっていた。


 食事が配膳されても、食欲は起きなかった。ただ、喉がやけに渇いていたのでお茶だけを飲んでいた。薬は一旦中止したので、無理に食べなくていいやと思っていた。

 すると、しばらくすると再び村井が様子を見に尋ねてきた。

「あら?食事は良かったのかしら?」

 知恵美はもうベッドの上に横になっていた。軽く頷くと、「わかりました」と言って下膳された。

 食べないと良くならない事は分かっている。しかし、食欲が起きないどころか、口に入れると反射的に吐き気を催してしまう。うつ病から摂食障害も起きており、しばらくした後栄養剤の点滴が行われることになった。



 夜九時を過ぎて、院内の電気は全て消灯され、病室の電気も非常灯だけになった。

 廊下の天井に吊るされている非常灯の青い光がすりガラス越しに見える。そこを時々、人影が行き交っていた。たまに騒々しくもあるが、これが病院にいるという事実を感じさせてくれる。


 鬱蒼とした部屋を抜けたことで、少なくとも人間らしい生活を送れるんじゃないか。そう感じていたが、もしこのまま家に戻ればまた同じような生活になってしまうのかなと考えていた。


 そしていつしか、今の生活に関する考えから、今まで自分は何で生きていたのだろうか、どうして生かされているのだろうかと自問自答を繰り返していた。


 今までの自分の生い立ち、そして中学受験と学校のいじめ、そして退学、リストカット、母の死。わずか二十年の生涯の中でジェットコースターの様に降ってきている。


「失礼します」

 小さな声で誰かが入ってきた。


 看護師の村井だ。

「起きていました?」

「あ・・・、はい・・・」

 時計の針は十一時を回っていた。

「眠れないんですね」

 そう言われると、知恵美は軽くうなずいた。

 村井はそっと手を知恵美の手を握る。二、三日はお風呂に入っていないのに、わざわざゴム手袋を外してまで、村井の手を優しく握った。

 その感触が知恵美の心の琴線に触れ、中から何か感情が湧き上がってきた。

 知恵美はその気持をうまく表現できずにもどかしさから、泣きそうになった。しかし、村井は肩を優しく撫でると、「また明日の朝、来ますからね」と言って病室を後にした。



 知恵美はベッドの中で鳴いていた。


 手を触れられたという事実に対してではなく、村井の手の温かさに泣いた。

 時々外が騒々しくなっていることは恐らく仕事も忙しかったはずだ。それでも村井は優しく手を握ってくれた。時間にしては短かったかもしれないが、何よりも隙間だらけで土砂降りの雨が降る心に傘をさしてくれたような気分になった。


 深夜零時を過ぎると別の看護師に変わったが、村井のように温かい手の持ち主ではなかった。せわしなく仕事をしているせいか、病室に入ってきてもすぐ出て行っていた。

 そうなると、自分はなんて寂しかったんだろうということに気付かされる。


 家にいるのに父も兄も、たまに訪れる姉もどこか他人行儀な気がしている。


 無理解の父・義郎は自分のことにいっぱいになるとすぐ怒る。兄・幸也は一生懸命食事を作ってくれるが、仕事で忙しいかいつも疲れているような気がする。姉・明日美は声をかけてくれるが、何となく見えない壁がある。


 そして外野ではいつも父と兄が喧嘩をしている。


 そうか、だからあの時、薬を飲んでしまったんだ-。

 知恵美は思い出した。



 知恵美がオーバードーズをしてしまう前の日の夜の事だった。

「お前はいつまで寝ているんだ!オイ!」

 呂律の回らない義郎が、知恵美の部屋の前で怒鳴り声をあげた。

「何やってんだよオヤジ!」

 ひどく酒に酔っていた義郎、それを止めたのは仕事から帰ってきたばかりの幸也だ。


 義郎は仕事で恐らくストレスがあったのだろうか、この日はいつになく深酒をしていた。そうなると、心の中に鬱積している苛々が爆発してしまい、つい知恵美の部屋の前で大声を上げてしまった。

「うるせぇ!穀潰しを養わせるカネはねぇんだ!」

「お前が余計なことするからだろ!」

「親に向かってなんだ!その口の聞き方は!」

「アンタが親らしいことをしたとでもいうのか!」

 男二人の怒鳴り声とともに、ドアや壁を叩く音が響く。


 それに知恵美はひどく恐怖を感じていた。


「もう一回言ってみろ!」

「何度でも言ってやる!」

 徐々にエスカレートし、そのうち大変なことになるんじゃないか。

 知恵美はあまりの恐ろしさに、ベッドの中で震えていた。


 その時、玄関のチャイムがなり、男二人の喧騒は静まった。


 しかし、あの怒号とドアや壁を叩く音が、かつて女子校で受けたいじめを思いださせるもので、震えが止まらなくなった。


 お水しか飲んでいないのに、吐き気とめまい、そして息が苦しくなっていく。


 学習机の上にお薬があることに気づいた知恵美は、何とかベッドから這い出て薬を手にとった。

 まだ何日か分か残っていた薬を全て手のひらの上に出した。

 飲みかけのペットボトルの水を含みながら知恵美はお薬を飲んだ。しばらくするとフワッとした感覚が起こり、気が抜けたように気分が楽になった。

 いつの間にか記憶がなくなり、学習机の前に眠ってしまったのだろう。起きた時は既にお昼を過ぎていた。


 暗くてよくわからなかったが、どうやら睡眠導入剤を飲んだようだ。お世辞にも目覚めが良いとはいえなかった上、誰も家にいないはずなのに昨晩の父、兄の怒鳴り声、ドアや壁を叩く音が耳にひどく残っており、再び手が震え始めた。


 怖い。


 知恵美を襲った感情だ。


 再び学習机の上にある薬に手を伸ばした知恵美は、中に残っている薬を全て開け始めた。手には何十錠もの薬があり、ペットボトルに残っていた水を飲みながら薬を飲み続けた。それでも知恵美の耳の奥には怒鳴り声、壁やドアを叩く音がリフレインのように響き、薬を口に含んだまま水を求め台所に向かっていった。


 その時から知恵美の視界は徐々にぼやけ始めていた。

 階段の手すりを握りながらリビングに降り、台所の流しにたどり着き、蛇口から直接水を飲んだ。

 そしてその直後、鼓膜の中で響いていた音がだんだん遠ざかり、目の前がすっと白くなっていった。



 そして気が付けば病院の救急救命室にいた。


 結局、親子のいざこざに余計な神経を使ったといえばそうかもしれない。しかし、自分がいることで家族が不幸になっているという認識が、知恵美をオーバードーズに導いたのだろう。

 とりとめのない事を考えているうちに、やがて窓の外が明るくなった。


 朝七時になり、看護助手の若い女性がカーテンを開けに回ってくる。そして、別の女性看護師が訪れると、白く細い腕から器用に採血をする。

「ではもう少ししたらお食事になります」

 そう言って看護師が退出した後、知恵美は徐ろに体を起こした。病室の窓から見える景色は、動き始めようとしている街並みが広がっている。


 本当なら自分もこの動き出す街の人々の中にいるはずだ。

 しかし、今は自室でカーテンによって光を遮られた中で暮らしている。


 変わりたいという気持ちは微かに知恵美の中で抱き始めていた。しかし、変わるためにどうしたら良いのかが見つからず、未だ暗い闇の中で苦しんでいる。

「お食事をお持ちしました」

 看護助手の女性が朝食を配膳してきた。時計の針は午前八時。

 パックの牛乳とごはん、焼き魚と野菜、お味噌汁といった食事だ。お味噌汁から湯気が立っている。

 知恵美はとりあえずお味噌汁を飲んだ。

 しかし、食べたいという気持ちがあまりないから、お味噌汁と牛乳だけを飲んで終わりだ。

 残った食事を見ると、何となく申し訳無さがある。


 そこに病室のドアをノックする音がした。村井だ。

「おはようございます。ご気分はいかがですか?」

「あ・・・、おはようございます・・・」

 やはり村井は白髪が何本か見えるが、昨日とあまり変わらない優しげな顔を見せていた。

「すごい、少し食事が進んだんですね」

 そう言われると、知恵美は何となく申し訳無さそうだ。

「ごめんなさい・・・」

「謝る必要ありませんよ」

 そう言って、村井は「お下げいたしましょうか?」とひと声かけた。知恵美は小さくうなずき、村井は食器を持って出て行った。


 しばらくすると、再び村井が戻ってくる。

「ご飯は食べたい時に食べるのが一番良いんですよ。無理しても、逆にダメなことだってあるんですから」

 ベッドサイドに付けられた食事摂取表に書き留めていた村井。

「あ、あの・・・」

 知恵美は勇気を振り絞った。

「どうされました?」

「手を・・・、握ってくれても・・・、いい・・・、ですか・・・?」

 そう言うと、村井から知恵美の手を握った。

「構いませんよ」

 知恵美は村井の温かい手に触れる。


 ふと、知恵美は村井の手を見ると、少し赤くなっているところと、カサカサになっているところとあった。

「その手・・・」

 思わず知恵美が呟くと、

「ええ、小さい時から皮膚が弱くて。普段はばい菌がつかないように、手袋をしながら仕事しないといけないんです」

と、村井は言った。

「大変・・・、なんですね・・・」

「もちろん、いろんな患者さんがいらっしゃいますし、傷口とかの処置を行うときはどうしても手袋をしないと、私がばい菌を運んでしまってはいけませんからね」

 知恵美はじっと手を握ったままだった。

「でも、手を握るだけで安心感があるのって、不思議ですよね」

 村井はそう言って、「ではまた後ほど」といって、病室を出て行った。



 外を眺めていた知恵美。そこに、幸也が現れた。

「おはよう」

 知恵美は振り返ると、

「兄ちゃん・・・」

と、か細い声で答えた。

「どうした?」

「看護師さんに、手を握ってもらった」

 まともに会話したのはどれ位ぶりだろうか。幸也はどう答えたら良いかわからず、「そうか」とだけ言った。

 しばらく二人の間に沈黙の空気が流れる。

「失礼します」

 看護師の村井が入ってきた。

「あ、妹がお世話に・・・、って?!」

 幸也は振り返ると、村井を見て思わず固まってしまった。

「うそ・・・!幸也くんの妹さんだったの?」

 知恵美は事態を飲み込めなかった。

「まさか、村井さんだったとは・・・」

 そう言うと少し、お互い照れくさそうだった。

「お兄ちゃん、どういうこと?」

 知恵美に尋ねられると、

「高校の同級生なんだ」

と答えた。

「聞いたことある名前だなと思っていたけど・・・、まさか松山くんの妹さんだったなんて・・・」

 村井は少し顔を赤くしていた。

「うん、もしかして、ちーの手を握ってたのって・・・」

 幸也がそう言うと、村井は頷いた。「ありがとう」と幸也は言った。


 お互いを見て歳を取ったというよりも、ボロボロになったという印象を受けた。


 村井は母子家庭に育ち、高校卒業後病院で働きながら看護学校に通っていた。看護師になるのが夢だと話していた村井はその夢を叶えていた。その一方で幸也は、夢を諦めざるを得なくなり、職場で責任のある地位にいながらも、あまり納得の行くようなことじゃなかった。

「今日は休みだったの?」

 そう村井に尋ねられると、「そうだよ」と答えた。

「もしかしたら・・・、しばらく入院するか、F病院に転院かどっちかになるかもしれない」

 村井からそう言われると、「そうなんだ」といった。

「もう少ししたら、先生の方からお話あるかもしれないんで、私は一旦失礼しますね」

 そう言って村井は病室を出た。


 実は幸也と村井は少し付き合っていた時期があった。しかし、進学か就職かといった時に、お互い付き合うことができなくなってしまった。

 まさかこうした形で再会できるなんてと夢に思っていなかった。

 およそ十年ぶりに再会した二人は、この十年の波乱の年月とともに、懐かしさを感じるよりも、目に見えるお互いの苦労に言葉にしがたい何かを感じた。

 ただ一つだけ言えることは、知恵美の手を優しく握ってくれた事実が、村井の優しい心を表していたということ。それは、今も昔も変わらないということだった。


 妹の手をこの数年間、握っていない事に幸也は気づいた。

「なぁ」

 そう言って幸也は知恵美に声を掛けた。

「村井さんに手を握ってもらっていた時、どうだった?」

「すごく・・・、暖かかった」

 知恵美はやっとの思いでこの短い言葉を出した。そして、幸也は少し震えながら知恵美の手を握った。


 幸也からすれば知恵美の手が暖かく感じる。しかし、知恵美からすれば幸也の手が大きくて冷たく感じた。

「兄ちゃんの手、冷たいね・・・」

 その手をしばらく握ると、心の奥から何か感情が湧き上がりそうだった。

「ちー、兄ちゃん・・・、あんまりすごくないかもな」

 その言葉に知恵美は何も答えられなかった。


 納得の行かない仕事をしていても、家族の為をと思えばいくらでも我慢できた。しかし、元恋人だった村井の温かい手には到底勝てないものがあった。それでも、ほんの少しでも手を握ったことが、知恵美に何か小さな光を差し込むものとなった。


 すると再び病室のドアをノックする音が聞こえた。

「ちーちゃん、おはよう」

「幸也くんも来とったとね」

 明日美と保彦だ。

「知恵美ちゃん、寝れたね?」

 保彦が知恵美に声を掛け、「うん」と知恵美は軽くうなずいた。


「姉ちゃん、偶然ってあるんだね」

 幸也の話に、明日美は首を傾げた。

「どうしたの?」

「ちーの担当看護師さん、村井っていって、俺の高校の同級生だった」

 そう言うと、明日美は「違うでしょ」といった。

「昔の彼女だったんでしょ」

「え?幸也くんの彼女が看護師さんとね?」

「兄さん、やめてくださいよ・・・」

 少し誂い気味に保彦が言った。幸也は顔を真っ赤にしていた。


 しばらくすると、村井が入ってきて主治医の神崎が入ってきた。

「お世話になります、先生」

 そう言って幸也は一礼する。

「ええっと・・・、松山さんですね、食事が入っていませんよね」

 神崎はすぐに話を始めた。

「正直なところ、あまり栄養状態が良いとはいえないので、もうしばらく様子観た方がいいんですけど、元々F病院にかかっていましたよね」

 淡々と説明する点では昨日の救急救命室の医師、林と同じ感じだ。

「紹介状書きますので、そちらで今後ケアしていただいたほうが良いと思いますよ」

 そう言って診察を終え、神崎はカルテをささっと書いて病室を後にした。


 なんとも言いがたい気持ちをそれぞれ抱えていた。


 とりあえず退院は決まったが、この後F病院に行って紹介状を元にもう一度診察を受けないと行けない。

「まあ、とりあえず、よかったやんね」

 保彦がそう言うと、再び村井が病室に入ってきた。

「退院の許可が一応降りましたので、後はF病院でしっかり診てもらってくださいね」

 明日美と保彦は村井に一礼していった。幸也は「村井さん」と声を掛けた。

「ちょっとだけ、いいかな?」

 そう言って、幸也は「ごめん、ちょっと出る」と言って村井と病室を後にした。



 病棟の廊下の片隅、幸也と村井は向かい合うようにいた。

「村井さん、いろいろ・・・、ありがとう」

 何となく小恥ずかしそうに幸也は言った。しかし、村井は首を横に振って、

「まさか松山くんの妹さんって分からなくて。ほら、いつも患者さんの手を握るのが、癖みたいなもんだから」

と言った。

「でも、何となく分かった気がする」

 その言葉を聞き、村井は「良かった」といった。

「言葉だけじゃ、ダメなんだなって、勉強になった気がする」

 幸也は正直に感じたことを村井に言った。しかし、

「でも、言葉もしっかり、ちゃんとしたことを言わないと、ダメだよ」

と言った。

「それに、お父さんと口論になっていたの、院内で噂になっているわ」

 村井からそう言われると、しまったと言わんばかりに顔を俯いてしまう幸也。

「頑固なところ、昔とちっとも変わらないね」

「そう・・・、だね」

「けど、やっぱり一生懸命なところ、私嫌いじゃないからね」

「うん」

「だからって、あまり無理しちゃダメよ」

 村井と話した幸也は、心なしか気持ちが軽くなった。やっぱり凄いな、と幸也は感じていた。そして、

「もし、ちーのことでわからない時さ、村井さんを頼ってもいいかな?」

と言った。

 村井はその言葉が意外だった。昔は誰にも頼らず、一生懸命になるあまりに人とぶつかる、そんな印象しかなかったのに、すっかり丸くなったのかなと感じた。でも、やはり村井としても乗りかかった船じゃないけど、家族のことで疲弊する幸也の姿をほっとけない気持ちもあった。

「ちょっと高いよ?」

 いじらしくそう言うと、「お願いします」と幸也は言い、清掃会社の幸也の名刺の裏に携帯電話番号を書いて村井に渡した。



「やっぱり、家族と向き合ってみます」

 F病院の診察室、長年知恵美を診ていた船橋は義郎に病気の話をした。その上で、義郎から出てきた言葉だった。

 船橋は義郎よりも年上でこの病院の理事長と院長も兼ねている。

「そうですね、ぜひご家族のこと、特に知恵美さんをゆっくりと見守ってあげてください」

 柔和な笑顔でゆっくりと語りかける船橋。


 広く落ち着いた雰囲気の診察室の片隅に、紫陽花のイラストが掛けられている。


 義郎はふと、その紫陽花のイラストに目が止まった。絵とかはあまり興味関心のない義郎だが、この時ばかりはやたら印象深く映っていた。

「あの紫陽花の絵は・・・?」

 船橋は振り返ると、「ああ」と気づいた。

「実はですね、精神療法の一環で患者さんに絵を書いてもらっているんですよ。今がちょうど紫陽花の見頃の時期でしてね」

「はぁ、そうなんですか・・・」

「ちなみにこの絵、誰が書いたと思います?」

「え?」

「去年、知恵美さんに書いてもらったんですよ」

 船橋の言葉に義郎は驚きを隠せなかった。


 義郎を含め、幸也も明日美も誰も、知恵美は絵が得意だということは知らなかった。

 たまたま描かせた絵がとても綺麗だったので、船橋は額縁に収めて紫陽花の季節になったら飾ろうと前々から決めていた。



 知恵美をF病院に入院することになった。比較的面会が自由にできる開放病棟で二週間ほど様子見るという。義郎と明日美、幸也はある程度手続きを済ませ、三人揃って家路についていた。保彦は先に家に帰ると言ってその場にはいなかった。

「そんなことがあったの?」

「知らなかったよ。まさか、あんな綺麗な絵を描くなんて」

 診察室に飾っていた紫陽花の絵を義郎は船橋の許しを得て携帯に撮った。その絵を見て、明日美と幸也は驚きを隠せなかった。

「知らないことだらけだったなあ」

「やっぱりちーは、色々と我慢してんだ」

 義郎も幸也も、結局家族のためと言いながら、それにとらわれて一生懸命になりすぎ、本質や大事なものに気付かず、結局独り善がりになっていたことを反省していた。明日美は保彦という第三者の視点で、かろうじて気付けた部分はあったが、あの紫陽花の花の絵は流石に盲点であっただろう。


 家のある住宅街の通りに近づくと、公園の植え込みに紫陽花の花が咲いていた。

「そういえばね、私のお客さんから教えてもらったことなんだけどね」

 明日美がそう言いながら、紫陽花の花に近づいた。

「紫陽花の花言葉は、寛容と強い女性、そして家族という意味があるんだって」

 そう言われると、ただの妄想かも知れないが、知恵美は家族の繋がりを欲していたのかもしれない。

「どんなに花は散っても、またこの時期になったら咲くんだから、凄いよね」

 そう言って三人は家路についた。

 その一方、知恵美は病棟スタッフから渡された色鉛筆とスケッチブックで、中庭に咲いている紫陽花を描き始めていた。


 梅雨の晴れ間の日の事だった。

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