頑張る王妃と心配する王の日常
第三章:頑張る王妃と心配する王の日常
歓迎の宴の翌日、シンシアが眼を覚ますとすでに日が大分高くなっていた。シンシアは一瞬そこが何処だか分からずに戸惑うが、すぐに寝坊した事に気が付き、慌ててベッドから起き上がる。なんだか体が少し重い様な気がするが気にする程ではない。
やがて気が付いたアイリーンとベルが寝室に入ってきた。シンシアの着替えはなれたベルがやってくれる。
「ねえ、ベル、クライフィス様はどうしたの?」小声で尋ねるシンシア。たしか昨夜はクライフィスと一緒に寝たはずだ。
「クライフィス様は今朝早くに政務の為執務室に行きました。現在我が国は戦後処理の為政務が大忙しなのです。シンシア様はお疲れの様なので今日はゆっくり寝かせておくようにとの指示でしてので起こしませんでした」答えたのはアイリーンだ。
「そ、そう…」答えて俯くシンシア、全て分かっているはずだった。自分達の挙式も落ち着いてからという事になっている。それでももう自分はクライフィスの妻なのだから夫が政務に出るのに寝ているというのは無いだろう。自分が情けなくなりスカートの裾をぎゅっと握りしめる。
「シンシア様、すでに王妃への面会の申し込みが何件か入っております。主に貴族のご婦人や御令嬢方からです。身分の高い方から順にお受けして国政のおいて大事な位置に居る方は都度相談の上割り込ませるのがよろしいかと思いますが、よろしいでしょうか」淡々と続けるアイリーン。
「任せるわ」答えて気が重くなるシンシア、自分に貴族の相手が務まるのか改めて不安になる。
「それと、シンシア様はグランドトーテムの事は詳しくないと伺っております。今日より勉強を始めて頂く事になります。まず基礎的な事は私が教えまして、進み具合を見て専門の家庭教師を迎える形になりますがよろしいですか」
「は、はい…」
「では、明日より午前中は勉強、午後より順次面会、そして四時からお茶会という日程を基本に行いたいと思います。ちなみに今日は面会の予定は入っておりませんので午後より勉強を始めたいと思います。ご質問は?」
「あ、あの…お茶会というのは…」
「王妃のお茶会は時に国政の一端を担う事もあれば、手柄を立てた騎士や国民を招待する事で士気を上げたり、国民から王家が信頼を勝ち取る事もできます。そして広く貴族や国民の意見を取り入れる場ともなります。何時誰を正体するかは全て王妃様次第です、慣例として理由がない限り毎日開く事になります」
「そ、そう…なの…」聞いてどん引きするシンシア、お茶会と言えば休憩の様なイメージがあったが聞く限りではかなり大変そうだ。時にはドロドロとして人間関係や陰謀が渦巻く場ともなりそうだ。改めて王妃の仕事のプレッシャーにつぶされそうになるシンシア。
「当面はお茶会にはクライフィス様とその側近の方のみを招待するのがよろしいかと思います。滅多に呼ばれないとなれば呼ばれた時の価値も高まります、それも政略の一つです。それに当分クライフィス様はここには寝に帰るだけになります。一緒に過ごされる時間もクライフィス様に休息をとって頂く時間も大切になるでしょう」フォローする様に言うアイリーン。
「そ、そうですね、ではそうしましょう」少し眼の前が明るくなる様なシンシア。側近とはおそらく宰相のラークファクトと騎士団長のロイドの事だろう。
「では、その様に取り計らいます」そう言ってアイリーンは退出する。
そして午後からは勉強の時間となる。シンシアは勉強に良い思い出はなかった。思い出すのは家庭教師のなんでこんな事も分からないのだという呆れ顔やいくら読んでも書きとりをしても覚えられない辛さばかりだった。しかしグランドトーテムでの勉強は違った。まずエールメイレンでは生徒はシンシア一人だったがここでは違ったのだ。ベルとレイもグランドトーテムの事は知らなかったし、バルドスとフラニーも騎士学校での成績が悪かったらしく一緒に机を並べて勉強する事になった。席はシンシアを真ん中に左右にベルとレイ、後ろの席にはバルドスとフラニーが座る。
「では、グランドトーテムの主な産業を答えなさい」アイリーン先生がバルドスを指して質問する。
「おう、肉だ」バルドスが答える。
「隊長~、それ自分が好きな食べ物を言っているだけでしょう。我が国は米や麦、それに絹が主な産業ですよ」フラニーが横から口を挟む。
「おう、そうなのか」納得するバルドス。
「フラニーさん、口を挟まない。まあ正解ですけど我が国では東方の広い土地を開拓して米や麦を作る事を主要な産業としています。ちなみに東方にはまだ未開発の荒野が広がっており魔法技術の発達により開拓は容易ですが、作業に従事する農民の不足により開拓が行えない状態にあります。そして北西の山岳地帯に近い場所では非常に良い蚕が取れる事で製糸業も盛んです。魔法で艶を出す事により大陸各地で上質な生地として高値で取引されております」アイリーン先生が説明する。
「ほ~ら」得意な顔を浮かべるフラニー。
「しかし、バルドス殿の肉という答えも決して間違いとは言えません」
「え…!」驚き顔を浮かべるフラニー。
「東の荒野には各地短い雨季があり数か月の間草原が出来ます、その草原から草原に移動して家畜を育てる遊牧民が存在ます、彼らが育てた家畜の肉は大陸各所でも大変人気です」
「へ~」フラニーが感心する。
シンシアはやり取りを少し面白く思いながらノートにメモをとる。シンシア自身グランドトーテムの事はあまり知らなかったし、ベルとレイは幼い頃から城にあがり侍女や騎士として働いて来た為、学校にも通わず、勉強などほとんどしたことがなかった。そしてバルドスとフラニーは時々突拍子もない発言をしてアイリーン先生を困惑させたり、授業を大幅に脱線させたりもする。アイリーン先生は根気強く教えてくれるがやはり根が優秀な人なのだろう生徒達があまりに基礎的な事を知らないと呆れてしまう。そんな時はライト先生の出番だ。ライト先生は生真面目なアイリーン先生と違い時に砕けた様に面白可笑しく産業や法律を教えてくれた。どんな基礎的な事でも根気よく説明してくれる。
授業は現在の国の仕組み、国の歴史、現在の貴族達についてなど様々な内容があった。シンシアが苦戦したのは歴史についてだった。これに救いの手を差し伸べてくれたのもライト先生だった。ある日シンシアは鏡台の前で今日のおさらいをする為に歴史の本を読んでいた。難しい言葉が並び長い説明は気が滅入る、読んでも内容は全く頭に入って来なかった。そんな時にライトが近づいて来て眼を瞑る様に言う。何かと思ってしばらく眼を瞑ってからライトの指示で開けるとそこには黒髪で侍女服を着たシンシアの姿があった。
「姫様の髪の色はこの国では目立ちますから魔法で一時的に変えました服装もその方が目立ちませんので」そう言うとライトはシンシアをエスコートして王妃の間の外に出る。
「何処へ行くのですか?」シンシアが尋ねる。
「とってもいい所ですよ」ライトはそれしか答えない。
そして連れて行かれたのは城の図書室だった。エールメイレンの城の図書室とは比べ物にならない程の量の本がある。本棚は天井近くまでの高さがあり、梯子を使わないと上の方の本は取れないだろう、それが左右の壁が見えないくらいの広さの部屋にずらっと並んでいる。更に二階部分にも同じように本棚が並べられている。そして何故か城の者だけでなく国民達までもが図書館内で読書をしたり本を探したりしている。
「大陸で作られる書物は出来るだけこの図書館に集める様にしているのです。これだけの図書館を城の者だけで使うのももったいないとのクライフィス王の考えで、現在は一般開放もされております。午後になると国民達もやって来ます」
「へ~、そうなのですか?」感心するシンシア、同時にこれだけの本があれば自分の好きな物語もあるはずだと胸を弾ませる。
「シンシア様、こちらです」そう言ってライトは図書室の一角へシンシアを連れて行く「この辺は歴史小説の区画です」
「れ、歴史の本ですか…」少しうんざりするシンシア、またあの難しい文章の並んだ本を読まされるのかそれもこんなに沢山。しかし自分はグランドトーテムの歴史を勉強しなくてはならない、文句ばかりも言ってはいられない。
「心配しなくても大丈夫だと思いますよ。シンシア姫は冒険小説がお好きですよね」
「え、ええ…」シンシアは以外にもお姫様の恋愛などが描かれた物語よりも勇者が活躍する物語の方が好きだった。
「我がグランドトーテムには歴史上英雄と呼ばれる王や騎士、貴族達がおりました。ここにある本はその英雄達の活躍を物語調に書いてあるのです。実際の活躍を元に英雄達の恋物語や友情を交えてね。きっとシンシア様の好きな物語と感じが近いと思いますよ」そう言ってライトは数冊の本を選んでシンシアに手渡した。
部屋に帰って読んでみると難しい歴史書とは違いとても読みやすく読み始めると止まらなくなる。歴史書には難しく書かれていた合戦の様子がまるで冒険物語の主人公が活躍する様に描かれていたし、立派な活躍をした王や王妃が自分と同じような悩みを抱えている姿などは共感した、そして自分だってという気持ちにもさせてくれる。時には英雄達の恋物語に胸をときめかせる事もあった。そして時には小難しく当時のシステムや政治思想が書かれている場面もあったが物語の流れの中で何故主人公達がそんな行動をとったのかという疑問が助けてすらすらと頭の中に入ってきた。自然と歴史の授業の成績もあがり五人の中でトップをとる程になった。
さて難しい勉強の中でシンシアが一番興味を示したのは魔法についてだ。
「魔法とは八つの属性に分類されており、それぞれの属性に特徴があります」アイリーン先生が説明を始める「八つの属性とはこの世を形成する八つの要素、火、水、風、土、木、金、光、闇の八つでこれらを組み合わせる事で反発、増幅、減退の効果が生じます。
反発とは反属性同士がする事でその効果を暴走させる危険があり組み合わせるととても危険です。また敵対する者同士がぶつけあうと相殺してゼロになってしまいます。組合せとしては火と水、風と土、木と金、光と闇ですね。
増幅は互いの力を強めあい、減退とは互いの力を弱めてしまうものです、敵としてぶつけあう時はまあ気にする程の効果はありません。属性によって増幅関係が多いものもあれば減退関係が多い者もあります。ではそれぞれの特徴と共に見て行きましょう。
まず火属性ですが主に攻撃魔法が多い属性で、単体に大きなダメージを与える魔法が多い属性です。風、土、木、光と増幅関係にあり、金と闇とは減退関係です。この中でいうとバルドスさんが火属性の魔法の使い手です。
風の魔法は同じく攻撃系の魔法が多いのですが広い範囲に効果が及ぶ分威力が弱いという特性があります。それと風だけなく雷も扱う事が出来ます。火、水、木、光と増幅関係、金と闇とは減退関係です。
土の魔法は防御や支援に特化した魔法で風と反発関係にある以外は全ての属性と増幅関係にある大変優秀な属性です。ちなみにクライフィス陛下はこの属性です。
光の魔法は回復に特化した魔法で火、風、土と増幅関係、水、木、金と減退関係にあります。フラニーさんがこの属性の魔法の使い手ですね。
闇の魔法は闇魔術とも呼ばれ、補助系つまり念力やテレパシー、透視、予知、瞬間移動などの支援系の魔法が多い属性です。水、土、金と増幅関係、火、風、木と減退関係にあります。また全属性通じて最も人数が少ない属性です。つまりそこに居るライトさんは大変貴重な存在なのです。
水の魔法は攻撃、回復、防御、支援、補助のバランスの取れた属性です。まあ苦手な分野がないかわりに特化した分野もないのが特徴ですね。風、土、闇と増幅関係、木、金、光と減退関係です。
木の魔法は植物を操る魔法で毒や薬を作るのに大変役に立つ魔法です。火、風、土と増幅関係、水、光、闇と減退関係です。
金の魔法は金属を操る魔法です。」
「え…!金の魔法の特徴はそれだけなのですか?」説明が早く切り上がった事が少し不安に思い質問するシンシア。
「ええ、金属を操るだけではなくて空間移動の能力がある事や小範囲の防御には土の力以上の力を発揮する事などもありますが、どちらも他の魔法で代用できますし金属の加工に関しても時間をかければ魔法を使わなくても出来ますので、それほど重宝する力はないのです。関係を見ても木と反発関係の他は土と闇とは増幅関係にありますが他は全て減退関係とそれほど優秀ではないゆえ使いづらい属性とされています。先ほど闇魔法の使い手が一番少ないといいましたがそれは大陸全土での話です。わが国だけを見ると闇魔法の使い手は三人がおりますが金の魔法の使い手は一人もおりません、つまり適合者も少なく軽視されている属性という訳ですね」
「ふ~ん、そうなのですか?」納得するシンシア。
「まあ、金属性の人より闇属性の人を探すほうが優先ね、三人居ると言っても一人は山で洞窟に籠もっているし、ライトは元々魔力が高くない上に魔法研究に協力するのを拒んでいるから実質使い手はゴードン魔法大臣一人になっているし」フラニーが補足する。どうやらバルドスとフラニーは魔法に関してはかなり知識がある様だ。
「さて、もっと詳しくそれぞれの属性について見て行きましょう」アイリーン先生が脱線しそうになる話を戻して授業を再開させる。
さて勉強だけでなく貴族達の面会も随時行われる。シンシアは前日に明日の面会予定の貴族について予習を行い面会に望む。主に貴族の夫人や娘達がシンシアに面会を申し込み、最初の挨拶を済ませて行く。中には夫を連れ来る者も居たし、当主である男が一人で面会に来る事もあった、もちろん女性にして貴族の当主と家もあった。国柄かほとんどの貴族が気さくに話してくれてシンシアもそれほど怖い思いをしないで済んでいたが、中には小国の王女から王妃になったシンシアにあからさまに敵意を示す者も居たし、出世の為に王に口添えをと媚を売る者も居た。贈り物を持ってくる者も居たが当面は基本的に受け取らないという方針で行く事にした。ちなみに困った時には側に居るアイリーンが口添えをしてくれたし、以外にもバルドスがとても良いフォローをしてくれた。何でもバルドスの身分は伯爵と以外に高く、上とも下とも広く交流する貴族らしい本人の人に分け隔てなく接する態度もあいまって面談には大いに役に立つ。もちろん中には「私は王妃様に話をしに来ているのです。側近方は黙って頂きたい」と突っぱねる貴族も居たがそんな時はライトの声が頭の中で響き適切な助言をしてくれた。
忙しい政務の中でシンシアの楽しみにしている事の一つに昼休みがある。フラニーに連れられて城の温室を尋ねるのだ。ちなみにフラニーもライトも子爵家の出身らしくフラニーの実家の所領は花の出荷で有名な地域らしい、その為フラニーも大変花に詳しく温室の花を積んで花束を作ったり花瓶に活けたりするのは楽しかった。フラニーは勝ち気で男勝りな性格だが可愛い物が大好きという一面もあり、そのぐいぐい引っ張る性格は以外にもシンシアと合相が良かった。普段は気さくに話しかけてくれてシンシアに取って初めて出来た友達の様な感じがしてとても好きになる。
そして王妃のお茶会だ。予定通りクライフィスとその側近のみを招待して行われる。クライフィスも忙しい政務の合間をぬい出来る限り出席してくれている。夜は一緒の部屋で寝ている二人だが共に政務が忙しくろくに会話も出来ない日々が続いている為にクライフィスと共に過ごせる大事な時間となっている。クライフィスが来ると必ずジェラウドが表情一つ変えずに付き添って来るしラークファクトとロイドも時間があればクライフィスと共に出席してくれる。クライフィスとジェラウドだけの時はジェラウドとシンシアの側近達を退出させて二人きりなる時もあるし、シンシアの側近や交代で来ている侍女達も交えてにぎやかなお茶会になる時もある。クライフィスが来ない時はシンシアとアイリーン、ベル、バルドス、レイ、ライト、フラニー達と楽しく過ごすのが常だ。
ちなみにその日はクライフィスがジェラウド、ロイドを連れてやってきた。シンシアは給仕はジェラウドに頼むので今日はいいと言って自分の侍女や騎士をさがらせた。そうしないとジェラウドが人形の様に表情一つ変えずにたたずんでいるからだ。
「ロイド様は公爵家の方でいらっしゃるのですか?」お茶会が始まるとシンシアが尋ねた。昨日グランドトーテムの貴族について勉強した中でロイドの家についても出て来た。ちなみに大国グランドトーテムの中でも公爵の位を持つ家は御三家と呼ばれる三つしかない。右大臣ドールのホルス家、左大臣ヘルスコビアのランド家、そしてロイドのライム家だ。
「ええ、その通りです」ロイドが答える「しかし、誤解しないで下さい。僕は公爵家の人間であって公爵ではありません、ライム家の現頭首は兄が務めております。ちなみに兄は現在財務次官として財務大臣の補佐を務めております」
「そうなのですか、ええっと財務次官…」シンシアは頭の中でロイドの兄を探す。それだけの位と役職についている人ならすでに面会を済ませていてもおかしくない」
「兄は面会には来ていないと思いますよ。あの人は数字に換算できないものには何の興味も示さない人だから、きっとシンシア様の事も金のかからない王妃様くらいにしか思っていないと思います」ロイドが助け船を出す。
「そうなのですか…」納得するシンシア。
たしかに財務次官はまだ面会に来ていない、それに金のかからない王妃と言われてしまえばその通りだった。シンシアはグランドトーテムに来てまだドレス一つ作っていない、かかっているお金といえば食費や側近たちの給金など最低限度のものだけだった。何をやっても勝てないと思っていた姉や妹にその点だけは王妃として勝っている。
「ライム家は代々文官の家系なのですよ。ロイドは例外中の例外、もしかすると本当は公爵家の子ではないかもしれません」ジェラウドがクライフィスのお茶のお代わりを入れながら補足する。
「何を言う!私は間違いなく父上と母上の子だ」ロイドが真っ赤になって反論する。
「そうなのか?しかし家の中でお前だけがこうも背が低いと疑わざるえまい」とジェラウド。
「何を言う、私は父上と母上の子だ」顔を真っ赤にして同じ事を繰り返すロイド。
シンシアはなんだかその姿を可愛らしく思う。そしてジェラウドに向き直り尋ねる。
「ジェラウド様はどのような家の出なのですか?」
「私の家は代々国王の専属執事を出して来た名門の子爵家、成り上がりの伯爵家などよりずっと格式がある」ジェラウドの言い分だ。
「それではラークファクト様は侯爵家の出身なのですか?」シンシアが尋ねる。三大公爵家の内一人が右大臣、一人が左大臣、もう一人が財務次官ならば国の最高位である宰相は公爵の次に偉い侯爵と考えるのが自然だ。
「いや、ラークファクトは貧しい遊牧民の出だ。わが国では貴族として位の高い者の方が良い役職につきやすいのも事実だが、決して身分の低い者に高位の役所を与えないという訳ではない。ラークファクトはその象徴ともいえる存在だ。ちなみに侯爵以上の身分の者は名、性、家の名の三つを名乗るがあいつは名と性だけ、厳密に言うと性はなく民族の名を名乗っている」クライフィスが説明する。
「え…!でも四人は貴族学院の同級生でいらっしゃるのですよね?」シンシアは疑問に思う、貧しい遊牧民が貴族学院に入れるわけがない。
「ああ、ラークファクトは特待生だ、学費免除で寮に暮らしていた。まあ寮には私達も暮らしていたが」クライフィスが説明する「特待生は大変だ、何せC評価でも退学なのだからな」
「え…!その評価はそんなに悪いのですか?」
「いいや、学費を払っている貴族や王族なら問題はない、A評価が優、B評価が良、C評価が可、落第点はDからとなる。しかし特待生の場合はCでも学費免除が打ち切りとなる。もちろんそれ以後は学費を払えば学校に残り卒業できるが、ラークファクトの様な貧しい身分の者には無理だ、退学と変わらない。それゆえラークファクトの成績は全てAかB、我らの代の主席も奴だ」
「まあ、本当はクライフィスが主席をとる実力があったのですが、ラークファクトが国政で活躍する為には主席をとるくらいの箔が必要だと言って、卒業試験で手をぬかれたのですよ」ジェラウドが補足する。
「お前が言うかジェラウド、私を立てる為に在学中ぞっと手を抜いていたのを知らないと思ったか」クライフィスは笑いながら咎める。
「いや、それはお前の勘違いだ。私は一度も手を抜いた事などない」笑って否定するジェラウド。
「まあ、最終的にラークファクトが主席、クライフィスが次席、ジェラウドが三位だったのは事実だ」ロイドがシンシアに締めの説明をする。
「という事は、ロイド様は四位だったのですか?」シンシアは尋ねてみる。
「いいや、ロイドは武芸の成績だけ良くて後は下から数えた方が早かった」ジェラウドが説明する。
「あははは…」
顔を真っ赤にして怒るロイド、王妃の間の客室には笑い声がこだまする。
四人は本当の仲が良いのだとシンシアは思った。以前クライフィスが言っていた信頼してくれる三人の友というのはラークファクト、ロイド、ジェラウドの事だとシンシアは思ったのだった。
こうしてシンシアは自らの側近や王の側近たちとの絆を深めながらなんとか政務をこなして行ったのだった。
さて、シンシアがグランドトーテムに来て二カ月ほどがたったある日、貴族学院時代からの親友の四人は執務室で仕事をしていた。
クライフィスは書類に眼を通して頭を抱えている。その書類はラークファクトが全てチェックを済ませて後は国王の判子を押せば良いだけにしてあるはずだった。もちろんそれに任せず自らチェックをするのはとても良い事だ。しかし時と場合にもよる、政務が立て込んでいる時に手を抜ける所は手を抜いて効率をあげるのも政務を効率よくこなすこつだ。生真面目なクライフィスはその辺が不器用だ。それにどうやら悩み事があるらしく今朝から政務のはかどりが遅い。
「クライフィス、ラークファクト休憩にしないか、そんなに根をつめてばかりでは返って効率が落ちるぞ」ロイドが声をかける、彼は用事を済ませて騎士団の方へこれから帰る所だ。
「ああそうだな、ジェラウド紅茶を入れてくれ」ラークファクト声をかける。
「分かった」そう言って動くジェラウド、今は四人だけだが彼は政務をこなさない為に静かに部屋の隅にたたずんでいた。
「クライフィス、悩み事か?今朝から政務がはかどっていないぞ」ラークファクト気になっていた事を尋ねてみる。
「やれやれ、お前にはお見通しの様だな、実は悩みというのはシンシアの事だ」クライフィスが答える。
「シンシア様っていい子じゃないか、何を困っているんだ」ついロイドが口を挟んでしまう。王妃をいい子などというのは不敬だがここにそれを咎める者はいない。
「ああ、やってきた当初は不安だったが頑張ってくれている。最近では貴族達の評判も良い」ラークファクトも続く。彼らもシンシアの事を認め始めている。単に王妃とかクライフィスの妻としてではなく、シンシアとしてだ。
「悩みというのはその事じゃない、私がシンシアの為に何もしてやれない事だ」クライフィスが答える。
そうシンシアはラークファクトとロイドのいう様に良くやっている。それが不安な程だ。本来なら国政に戸惑うシンシアを助けるのは自分のはずだった。しかしシンシアに付けられた側近は意外な程に優秀でクライフィスの出番はなかった。それはクライフィスも望んでいたはずなのだが、いざとなると何故か敗北感に襲われる。古い友人三人はクライフィスの気持ちを察する。
「まあ、そう気を落とすなクライフィス。シンシア様との愛を深めたければまずは贈り物をすれば良いではないか」ロイドが言った。
「それは考えた、しかしシンシアは欲のない性格、ドレスも宝石も代々王妃に伝わる物だけで充分だというのだ」
「そ、そうか、しかし女性の喜ぶ贈り物はドレスや宝石だけではないだろう」そう言って頭の中で贈り物を考えるロイド。
「先週ハンカチなどの小物を送ったのだがすぐにネタ切れになってしまったのだ」クライフィスの答えだ。シンシアとて王女時代から使っていた小物があり必要な物は一通り揃っている。ドレスや宝石と同じく必要はない物だったらしい。
「じゃあ、花などはどうだ。女性の喜ぶ贈り物だ」ラークファクトが助言する。
「シンシア付きの女騎士が花に詳しいらしく、毎日温室で花を積んでいるらしい。送るどころか逆に私の所に届けられている程だ」クライフィスは執務室に飾ってある花を眼で示す。
「たしかフラニーの実家の所領は花が名産だ。知識でフラニーに勝つのは無理だな」ロイドは悟った様だ。
一般的に男性より女性の方が花に詳しい、それだけに送られる立場になると逆転するのは難しい。現にシンシアはクライフィスだけでなくあちこちに自分たちで積んだ花を送っているその為に城の従者や文官、騎士達の評判もあがっている。
「それなら書物などはどうだ。この間エールメイレンより一緒に来た侍女から聞いた話だとシンシア様は読書好きだという、それも以外にも男性が好む様な冒険小説がお好きらしい、これならば彼女の好みに合わせた物だ、確実に喜んで頂けるはずだ」ジェラウドは自分の閃きを口にする。
「駄目だ、シンシア付きの騎士ライトがすでに図書館に案内している。ライトは物語にも詳しいらしく時々二人で図書館に出かけては物語を選んでいるらしい、図書館の蔵書には敵うはずがない」クライフィスは少しうなだれて答えた。
「たしかにライトの物語の知識はかなり高いな…」苦笑交じりで解説するロイド。
「それならお菓子などはどうだ、女性は甘い物が好きなはずだ」ラークファクトは藁にもすがる思いで言葉を口にする。
「シンシアは少食だ。甘い物は嫌いではないがそれほど食べる事は出来ない」とクライフィス。
「う、う~む、たしかにバルドスあたりの胃袋に収まるのが関の山だろうな…」ロイドは苦笑を一層強める。
て…手ごわい…
四人は一斉に心の中で思う。そこに居るのはグランドトーテムでも最強クラスの武術と魔力を誇る四人、次元ホールから二十匹の魔物が現れても動じないだろう、しかしその四人がシンシア一人の前にどうする事も出来ない程にたじたじになっている。
「そ、そうだ、ああいう方の事は同じタイプの子に聞いてみるというのはどうだ」ラークファクトは何かを思いついた様に言った。
「同じタイプの子だと…?」クライフィスが顔をあげる。
「そうだよ、ほら貴族学院時代にクライフィスが面倒見ていたあの子」ラークファクトはそう言ってクライフィスを指さした。
数日後、シンシアはその日の政務を終えて側近たちと談笑していた。王妃の前とはいえ、シンシアが気にしない性格の為、皆リラックスしてとても和やかな雰囲気だった。そこへクライフィスがやって来る。侍女や騎士達は驚き皆慌てて定位置について姿勢を正す。
「いや、皆の者そのままでよい」慌てて制止するクライフィス。
「クライフィス様いかがなされたのですか、お帰りがいつもより早い様ですけど」シンシアが尋ねる。
クライフィスは最近ではこの王妃の間に帰って来る。王の間の側にもクライフィス一人用の寝室が備えつけてあるが最近では仮眠をとるのに使う程度だ。なるべくシンシアと一緒に過ごしたいというクライフィスの意思なのだが、それでも政務が忙しい為に帰りは遅く夜勤の侍女と騎士が居るだけの時間となる。
「いや、戦後処理が大体片付いてきたのでな、今日は後をラークファクトに任せて早めにあがらせて貰ったのだ」
「そうですか、それは何よりです」シンシアが答える。「ベル、お茶を入れて差し上げて、クライフィス様夕食までまだ時間がありますのでごくつろぎ下さい」
「うむ、それとシンシア…」少し照れくさそうに話を始めるクライフィス「その…来週、戦時食コンテストがあるのだが…」
「は、はい…せんじしょくこんてすと…ですか…?」シンシアは訳が分からず呆然と返す。
「グランドトーテムで開催されている武道大会の一つです。まあ戦時食コンテストは武道大会というよりは料理大会に近い大会ですけどね。戦場にある限られた食材でどれだけ美味しい物を作れるかを競うコンテストです」ライトが説明する。
「うむ、戦時食コンテストでは戦場に持っていける小麦粉とわずかな調味料、それに戦場に見立てた森から集めた食材でどの様な料理を作るかを競うコンテストだ。料理は十人の審査員がそれぞれ一番上手いという料理を選び一番多くの票を集めた者が優勝となる。ちなみに食材を集める森には敵に見立てた騎士が隠れており、刃をぬいて先端に布を巻いた矢を放つ、それにあたった者は失格となる」クライフィスが説明をとる。
「へえ、面白そうじゃない、レイも出てみたら」ベルがレイに声をかける。
「ベル」アイリーンが嗜める。
「いや、かまわぬ、これからは余もここで過ごす事が増えるであろう、そなた達もシンシアとそなた達の時と同じようにしていてくれ、私もここではリラックスしたい」クライフィスは最後は砕けた口調で話す。
家来たちはそうは言われてもといった感じで互いに顔を見合わせる。
「いいじゃない、王様がそう言っているんだから」沈黙を破ったのはフラニーだ。誰が聞いてもいくらなんでも砕け過ぎだろうという口調だが、クライフィスが笑っているので咎める事も出来ない「ところでベル、レイ副隊長はそんなに料理上手いの?」
「ええ、エールメイレンでは戦場コックになる様に進められていた程よ」ベルも気を使わない口調で話し始める。
「へえ、じゃあ出てみればいいじゃないですか副隊長。武道大会が再開されるのなら王妃親衛隊からもどんどん出場しましょう」フラニーは顔をほころばせる。
「フラニーそうも行くまい」ライトが止める「王妃親衛隊は人数の少ない隊だ。全員が王妃様の側を離れる訳に行かないし、騎士団の一部隊である以上、うちの隊から大会の運営委員も出さない訳には行かないだろう、それに一人ずつさくとして出場は一つの大会に二人までとなる」
「そんな~剣術の大会とかはみんなで出ようよ」唇を尖らせるフラニー。
「駄目です、何処の隊も人を工面して任務や運営委員を出しているのですから、うちの隊だけ勝手は許されません」ライトは厳しい口調で言いきる。
「まあまあ、フラニーとりあえず今度の大会はレイが出場するのは問題ないでしょう。それにあなたも出場したい?」シンシアが割って入る。
「あたいはパス、料理なんて細かい作業苦手だから」
「じゃあ、フラニーは運営委員に加わって下さい、王妃様の警護は僕が引き受けますから」とライト。
「バルドスさんは?」シンシアが尋ねる。
「バルドス隊長は審査員です。前回のフライングアローコンテストの優勝の副賞が戦時食コンテストの審査員だったんです」
「へえ、そうなの」感心するシンシア。
「いくら、処置をしてもあのパワーで矢を放たれたら怪我人や下手をすれば死人が出かねないんだ」クライフィスが耳内する。
「あははは…」思わずシンシアは笑ってしまう。
「シンシア笑ってばかりも居られないぞ、あなたにも審査員を頼みたいのだ」
「え…!」驚いて言葉を失うシンシア。
「うむ、武道大会では城を解放して国民達も見に来るのだ。シンシアに興味を示している国民達も多い、姿を見せてあげればきっと喜ぶ。これからは国民達の前に立つ政務も増えて来る、その時にはシンシアには常に私の隣に居て頂きたいのだ。まずは戦時食コンテスト、その後私は各地の次元ホールの被害を調査する為に各地を回る予定なのだ。それにシンシアも同行して頂きたい」
「え…!」固まるシンシア、政務への同行と聞いてエールメイレンでも苦い記憶が蘇る。それに国民達の前に立つなど考えただけで頭がくらくらしそうだ。
「心配はいらないシンシア、常に私が一緒だ。とりあえず私の隣にいてくれればいいのだ。それにグランドトーテムの各所をあなたに見せたいのです。今回は被害調査、この間の様に突然次元ホールが開く事がない様に細心の注意を払います。安心して下さい」囁く様にクライフィスが言う。
「ええ、クライフィス様が一緒なのです。心配などしていませんわ」笑顔で答えるシンシア。
「それに俺達も一緒だしなどんな魔物が現れたってシンシア様には指一本触れさせねえぜ」バルドスが力コブを作り請け負う。
「ええ、久々に魔物と戦えるなんて腕がなるわ」フラニーも力コブを作る。
「フラニー、クライフィス殿下の話を聞いていなかったのですか、魔物は出ない様に細心の注意が払われているのですよ。それにまるで次元ホールが開く事を望む様な物言い不謹慎です」アイリーンが嗜める。
「え…は、はい…」一瞬驚いた後に萎れた様に返事をするフラニー。
「あははは…」またも王妃の間に笑い声が響き渡る。そういえばグランドトーテムに来てから自分は良く笑う様になった。ふとシンシアはそんな事を思ってしまう。
「とりあえず、シンシア来週の戦時食コンテストの審査員よろしく頼む」改めてクライフィスが言った。
「ええ、享け賜わりました」
「シンシア様、俺と一緒だ、よろしく頼みます」バルドスが力強く言う。
「ええ、よろしくお願いしますわ、バルドス」
そして戦時食コンテストの日がやってきた。
朝、シンシアとクライフィスは共に起床して軽い朝食をとった後で会場へ向かう。シンシアの後ろには眠そうな顔をしたライトが影の様に付き添う、何時の間にやらクライフィスの後ろにジェラウドがやって来ていた。仲むつまじい王と王妃の後ろに付き添う二人の姿はあまりに対照的だ。それは二人が審査委員席に座り二人その後ろに並ぶとより明らかになる。
「これは国王陛下御苦労さまです」二人の姿を見つけた右大臣のドールが声をかけて来た。クライフィスに挨拶を済ませるとシンシアに向き直る「王妃殿下表向きは愉快な武道大会でありますが、この様な時に王や王妃の威厳が問われるものですぞ、くれぐれもよろしく頼みますぞ」厳しい口調で言い放つ。
「は、はい、ドール殿もよろしくご指導をお願い致します」少し緊張して挨拶を返すシンシア。
「大会中に指導など出来るものではありません、そういう事は事前に聞いておくものです。本日審査員を任される事は知っていたのですから充分に準備が出来たはずです」厳しく言い放つとドールはそのままその場を立ち去る。
シンシアは軽く溜息をつく、最近では多くの貴族に認められてきているシンシアだがこのドールは違う、たまに面会にやって来ては小言をくらっているのが現状だ。それでもドールはまだましな方で左大臣のヘルスコビアにいたっては一度も面会に来ていない、今日は少しは関わりが出来るかと思ったが王に軽く挨拶をするとシンシアに一別する事もなく立ち去ってしまった。存在を忘れられる事も多かったシンシアは無視には慣れているつもりだったが、こうもあからさまにやられるとやはり辛い物がある。
「まあ、気にする事はない私もあの二人に認めてもらうには時間がかかった、いやまだ認めて貰えているとは言い難いほどだ。シンシアの事を評価している貴族や家来は多い気長に頑張れば良いさ」クライフィスが励ますように声をかける。
「え、ええ…、でも不安になりますわ、本当に私の事を認めてくれている人などいるのかと…」元は内気なシンシア今でも酷い不安にかられる事は多い。
「居るに決まっているじゃありませんか、少なくとも私はそうですよ」ラークファクトが顔一杯に笑顔を浮かべて声をかけて来た。
「まあ、ラークファクト様、本日はよろしくお願いしたします」
「はい、難しく考える事はありません。この様な行事ではただ笑っていればすむのです」
「ラークファクトが言うと説得力があるな」クライフィスが少し呆れたように呟いた。
そして三人は審査員席へと向かう。シンシアとクライフィスが現れると早めに会場入りしていた国民達の間から歓声が漏れる。ラークファクトは手を振って答えている。
審査員は全部で十名、クライフィスが審査員長として一番右側の席に座る。その横に王妃のシンシア、そして宰相ラークファクト、右大臣ドール、左大臣ヘルスコビア、騎士団長のロイド、そして城の料理長、バルドスは一般騎士代表という枠で座っている。そして国民の中から抽選で選ばれた特別審査員二名をくわえて十名だ。審査員はまだ全員が揃っていない、ロイドとドールは大会に運営に関する仕事が残っているらしく会場を忙しく動き回っていた。席の左側に料理長と特別審査員の二人が緊張した顔で座っている。ヘルスコビアは大きな腹を突き出して周りに居る者に高慢な態度で話しかけている。少ししてバルドスもやってきた。数日前にやっと届いた式典警備用の青い制服を着ている。ライトに話しかけて背中をばしばし叩いた後自分の席に戻る。ライトは少し迷惑そうだが慣れているので特に気にした様子はない、正式な場なのでシンシアには会釈のみで立ち去った。いつもの気さくなバルドスを思うと自分にも何か面白い事を言って立ち去ってくれないのを少し寂しく思う。
やがて他の審査員もやって来て競技開始の時間となる。司会進行を任された騎士がルールの説明をしたりクライフィスや競技を主催する騎士団の団長であるロイドの挨拶が終わると競技開始となる。スタート位置に多くの騎士が並ぶ、出場人数は五十四人と聞いている隊務にあたる時に着る黒い制服の者、訓練用の緑の制服の者が入り混じっているが皆数字の書かれた布を制服に縫い付けている。中に三十八の番号を付けたレイの姿も見つけた。クライフィス達は元よりシンシアもバルドスも審査でひいきはしない約束になっている。
よーい、スタート
スタートの声がかかるとほとんどの参加者が一斉に森へと駆け出す。もちろん数人は調理台の方へ向かう者もいる。小麦粉と調味料のみで料理をする者だろう。料理などした事のないシンシアでも出来る料理が限られる事は分かる。やはり森で何らかの食材を調達しないと審査員の眼を引く料理は作れない。ちなみに森には敵に見立てられた騎士が弓をかまえている、騎士達は動く事はないが何処に隠れているのかは出場者には知らされていない、ちなみにフラニーもこの中に居る。
しばらくすると係の騎士に連れられて出場者が森から出て来る。
「どうやら失格になった騎士の様だ」クライフィスがシンシアに教える様に呟く。
「まあ、もうあんなに失格になったのですか」驚くシンシア。森からは次々に失格者が出て来る。
「ええ、矢を射る方も最近では気合を入れているようで、調理にまでたどりつけるのは毎回参加者の二割ほどなのです」
「そうなのですか…」シンシアは失格になった参加者を見つめる。せっかくのコンテストなのだから料理の腕を披露させてあげたい様な気持ちになる。しかし、これはあくまで武道大会なのだろう実践的でなくてはならいはずだ。
しばらくして失格者の中にレイの姿を見つける。シンシアははっとするがそれ以上はどうしようもない、レイは仕方ないという顔をしているが後でベルが悔しがる顔が眼に浮かぶ。同じ頃森から食材を抱えて出て来る騎士が現れる。籠一杯に野草を摘んでいる。中には鳥や魚、更には玉子を入れている参加者も居た。玉子は鳥が産んだものだろう。
「このコンテストは食材を探す能力が勝負のカギとなると言っても過言ではありません」クライフィスはシンシアに説明する。
「ええ、一体どのような料理が出来上がるのか今から楽しみですわ」シンシアが答えた瞬間だった。
「まてー、逃がさないぞー」聞き覚えのある声が響いて来た。
シンシアは驚いて声の方に顔を向ける。すると一人の参加者が集めた食材を投げ捨てて必死に森から逃げ出して来る。そしてその後ろからフラニーが剣を引き抜いて追いかけて来る。小柄な体だがフラニーは素早く距離をどんどん縮めている。
「ラ、ライト!」慌ててライトの方を振り向くシンシア。
「あ~あ、どうやら相当興奮している様ですね」流石に眼を見開らくライト。
「呑気な事を言っていないで早く止めましょう。バルドスあなたも手伝いなさい」シンシアは厳しい口調で命令する。
「おう」バルドスは巨体を揺らしながら近づいて来る。
シンシアもライトの手を取る。次の瞬間あたりの景色がぐらっと歪む、そして一瞬にしてシンシアの眼の前に青空が広がった。同時にライトの手がシンシアの胴体を包様に抱えあげてそのまま地面に着地した衝撃がシンシアに伝わる。
一方フラニーはと少しで出場者を捕まえられる所まで追い詰めていた。これで飛びかかれば捕まえられるという所まで来た瞬間。上空に闇魔法で瞬間移動してきたバルドスが現れて落下の勢いに任せてフラニーを拘束する。
「放して隊長、逃げられちゃう」訴えるフラニー。
「当たり前です、逃げているのですから」
聞こえて来た声で我に返り声の方を振り向くとそこには腰に手をあてて仁王立ちするシンシアの姿があった。いつものおっとりとして雰囲気とは違い高圧的に怒っているのがフラニーにも分かる。
「し、シンシア様…」流石に口ごもるフラニー。
「フラニー、何をやっているのですかあなたは、あなたの役割は定位置について矢を射かける事でしょう、剣を引き抜いて参加者を追い掛けては参加者が充分に能力を発揮する事も出来なくなります」
「しかし、シンシア様戦場では相手が止まっている事はありません。逃げれば追いかけてきます、そもそも戦場にルールなど存在しないのです」フラニーは必死で食い下がる。
「ここは戦場ではありません」
「しかし、戦場を想定して行われるが武道大会です」
「戦場にルールが存在しなくても戦場を想定する為にはルールが必要になるのです。決められたルールは守らなければなりません、そもそも敵が問答無用で来ようとも騎士団の中まで決まりがなくては統制が取れません、ましてあなたは王妃の親衛隊その名に恥じぬ振る舞いをしなさい」
「…」流石に萎れて言葉も出ないフラニー。
その時シンシアは周りがざわざわとしている事に気付く、ふと周りを見回してみると戦時食コンテストを見ようと詰めかけた人々が自分達に注目している。それもそのはずだ、フラニーの逸脱行為は人目を引いた、そこに王妃が空から降る様に現れて叱っているのだ。しかも場所は調理開場前の広いスペース、観客席の眼の前だ。
「バルドス、ライト、フラニー、逃げましょう」慌てて会場の隅へと駆け出すシンシア。考えてみれば人を叱るなんて初めての事だった、それがまさかあんなに多くの人々の前でなどとシンシアは顔から火が出るほど恥ずかしかった。
「王妃様~」
会場の隅に引っ込んだ、シンシアの元へ数人の子ども達が駆け寄ってきた。
「おお、王妃様がいらっしゃったぞ」
近くに居た国民達の間でも歓声が広がりすぐに集まってきた。たちまちシンシアは国民達に囲まれる。
「王妃様、かっこよかったよ。堂々としていてやっぱり王族はすごいんだね」
「大人しいだけの人かと思ったら案外やるもんだな」
人々は気さくな言葉でシンシアの行為を賛美する。自分のした行為をむしかえされているようでまたもシンシアの顔は熱くなる。
「こら、お前達王妃様は審査員席にお帰りになる」ライトが声をはって集まる国民達を静止する。バルドス、フラニーも続くが国民達の勢いは止まらない。
「王妃様、こっちです」突然声が聞こえて来てシンシアを人ごみから救出した手があった、レイだ。
「レ、レイ、あなたは戦時食コンテストに出場しているはずじゃ…」シンシアは驚いて尋ねる。
「もう、失格になってしまいましたから、本来なら失格者は失格者待機席でコンテストが終わるのを待つんですけど、王妃様の危機という事で番号の書かれた布を返上してここに駆けつけたのです」
「失格…」レイの言葉からそれだけ拾って少し考えるシンシア。そして頭の中に面白いアイディアが閃く。「バルドス、フラニー、こっちへ来て、それとライト、アイリーンとベルも呼んで来て」
審査員席に残ったクライフィスは不安気な表情でシンシアを待つ。
「陛下、王妃様の事が気がかりですか」王妃の席を挟んだ向こうからラークファクトが声をかける。公衆の前なので丁寧な言葉遣いだが眼は面白そうに笑っているは明らかだ。
「うむ、シンシアはまだこの国には慣れてはおらぬ、ましてや公式な行事に出るのはこれが初めての事、心配になるのも仕方なかろう」クライフィスも威厳の溢れる言葉で返す。少しもどかしさを感じずにはいられない。
「おや、あれはシンシア王妃ではありませんか」ラークファクトが何かに気付いて失格者席を指さす。
クライフィスが見るとシンシアは運営委員に何かを話している。しばらくすると失格になった者達が番号の書かれた布を返して失格者席から出て料理台へと向かう。
「シンシアの奴何を」訳も分からず歯峨みするクライフィス。
「失礼いたします。王妃様から伝言です」
聞こえて来た声に驚き振り向くとそこにはバルドスが居た。
「おお、バルドスあれはどう言う事だ。シンシア様は何をしようとしている」ロイドも駆けつけて来る。
「はい、シンシア様は失格になった者達にもせっかくなので調理をして貰うようにと言ったのです。もちろんここには運ばれて来ません。集まった国民達に振舞うらしいです、シンシア様は実行委員のフラニーと共にそっちにつくそうなので審査員は副侍従長のジェラウド様に代わって欲しいとの事でした。ちなみに失格者は番号のついた布を外すので番号が付いている者が生き残りの参加者だと見分けて欲しいとの事でした」
「な…!何と奇抜な趣向だ」言葉を失うクライフィス、実行委員達も王妃の意向では無視もできまい、しかし自分に一言の相談もなしに始めてしまうとは少しシンシアや実行委員に腹を立てる。
「あ、あのう…」バルドスがおそる、おそる声をかける「出来れば俺もあちらの方へ行きたいのですが…」
「う~む」こめかみに指をあてて考え込むクライフィス「ええい、王妃が勝手をした処罰として親衛隊隊長よりフライングアロー優勝の副賞を没収する」投げやりに言い放つクライフィス。
「クライフィス様、それでは審査員が足りなくなります」笑いながら声をかけるラークファクト。
「補充をすればよかろう、そこのお前でいい」近くに警備の為に立っていた兵士を指さすクライフィス。
「おや、どうやらもう料理が出来上がったみたいだぞ」ロイドが言った。
見ればすでに最初の料理が出来上がりシンシア自らがアイリーンと共に国民達に配っている。ふと調理台のほうに眼を向けると料理を完成させたのはレイの様だった。早いはずだ、本来一人での調理になるはずだがベルが手伝っている。他にも火の魔法は使ってはいけないはずだが失格になったので関係ないとシンシアが言ったらしい、火の魔法の使い手が協力して火を起こしている。他の失格者達も協力して調理を行っている、どんどん料理が出来上がる。会場が混乱しない様にフラニーが中心となって整理をしている、本来の実行員の騎士だけでなく他の騎士達も手伝っている、中には自主的に動く国民まで居た。ライトは森から食材を集めて失格者の元へ運んでいる。ふと気が付くと森が少し広がっており、広がった部分には食材として優秀な野草が生え、木には沢山の実がなりている、その中には季節的になりていないはずの実まである。
「ラークファクト、貴様の仕業だな」咎めるクライフィス。ラークファクトは優秀な木の魔法の使い手だ、あの位は造作もない。
「知らないな…ははは…」ラークファクトは笑いながら受け流す。
ふとシンシアを見ると充実した笑顔で給仕をしたり国民達と話したりしている。
「クライフィス殿下、あなたもあちらに行きたかったですか」ラークファクトが声をかける。
「そ、そんな訳がなかろう」慌てて否定するクライフィス。
ラークファクトは笑い転げんばかりだ。間に座っているジェラウドまでが笑いをこらえている時の表情なのも古い付き合いのクライフィスには分かった。
しかし改めてシンシア達の方を見るとそこにはシンシアを中心とした城の侍従、そして国民達の一つの輪が出来上がっていた。またしても側近と国民にシンシアを取られてしまった。心の中で歯峨みするクライフィス。しかし負けてばかりはいられないと思考を巡らせると近くに居た侍従を呼ぶ。
「シンシア王妃、どうやらメインに会場の方でも優勝者が決まったらしいですよ」シンシアの側に居た国民の一人が言った。
「まあ、本当ね」そう言ってメイン会場を眺めるシンシア。上位入賞と思われる数人の騎士達が表彰台にあがりクライフィスより賞状を受け取っている。審査員の役割を放棄した事を後でドールあたりに叱られはしないかと不安になるシンシア。しかし周りを見渡すと王妃を慕う国民達が集まっている。そして幾つかの輪を作り城の騎士や主従、そして国民達が和気あいあいと失格になった者の作った料理を楽しんでいた。その時、一人の城の従者がシンシアに近づいて来る。
「シンシア様、クライフィス殿下より伝言です。国民達と交流するのなら最後はトーテム踊りで締めるのが通例だとの事です」
どんどんどん…どどんがどん
伝令の言葉が終わらない内に太鼓と笛の音が鳴り響く。国民隊達も一瞬何が起きたのかと混乱する。
「皆さん、クライフィス殿下よりの贈り物です。メイン会場で楽しく踊りましょう」伝令の従者が叫ぶ。
その後シンシアはアイリーン、ベル、バルドス、レイ、ライト、フラニーを連れてメイン会場へ行き、国民達と共に踊る。クライフィスやラークファクト、ロイド、ジェラウド、そしてドールやヘルスコビアまでもが降りて来て共に踊っていた。
「全くシンシア、武道大会とお祭りを勘違いしては困る。あの様な勝手は今回限りにして欲しいものだな」その夜寝室でクライフィスが咎めるように言い放つ。
「も、申し訳ありません、でもクライフィス様もトーテム踊りの準備をして下さいました」なけなしの勇気で反論するシンシア、ちなみに今は庇ってくれる侍女も親衛隊の騎士も居ない、わずかに交代で夜勤に来ている侍女と騎士が隣の間で控えているだけだ。それも呼ばなければやっては来ない。
「あれは仕方なしにやったのだ」本当はシンシアに張り合う気持とシンシアに喜んで欲しい気持ちがあったのだが、照れ隠しで言えずに居る。
「そ、そうなのですか…申し訳ありません…」これ以上反論の言葉も思い浮かばず俯くシンシア。
「まあ、国民達は喜んでいたし今回は良いだろう、大臣達からも厳重注意をとだけだった。明後日からの視察では何かあったら必ず私に相談するだぞ」そう言って言葉を締めるクライフィス。内心では落ち込むシンシアを可愛いなと思っていた。
「は、はい…」顔をあげて返事をするシンシア。
「よし、明日は出発前に片付けなくてはならない政務で忙しくなる。今日はもう寝よう」そう言って布団に潜り込むクライフィス。その時視察中にシンシアに対して用意しておいたサプライズの事で頭が一杯になっており、顔はにやりと笑っていたそれを隠すようにシンシアに背を向けて眠りにつく。
そして視察に出発する日の朝がやって来た。王が留守の間、国政を守る為に宰相のラークファクト、右大臣ドール、左大臣ヘルスコビアは揃って王宮に残る。ロイドも残るらしく護衛の騎士の指揮は副団長のメイリンという女騎士が取るらしい、その他視察の主なメンバーは魔法大臣のゴードンが現状の説明と現地の詳しい調査の為に同行する。ジェラウドはクライフィスが行く所必ず付いて回る。シンシア付きの侍女も騎士も全員同行となった。馬車は二台シンシア達王族が乗るものとゴードン魔法大臣を中心とした魔法省の調査隊のメンバーが乗るものだ。他のメンバーは全員自分の馬に乗る。クライフィスは自分の馬も連れて来てはいるが普段は馬車に乗るらしい。こうして王族用の馬車にはシンシアとクライフィス、そしてアイリーンとベルが乗り込む。ちなみに御者はドラゴンアース城への旅の時もお世話になったリンドだ。
その日の内に最初の視察地に到着する。美しい街並みの広がる街だがある場所を境に景色が一変する。建物が壊されて瓦礫が散乱している。
「酷いものだな」クライフィスが呟く。
「次元ホールが開いたのは最近なのですか?」尋ねるシンシア。
「いや、半年以上前だと聞いている」クライフィスは難しい顔をして続ける「瓦礫の撤去は基本的に騎士団が行う事になっているのだが、近くに新たな次元ホールが開くとそちらへ行かなければならない、自然と瓦礫の撤去は後廻しになってしまうのです」
「そうなのですか、では瓦礫の撤去が出来る様に応援の騎士を派遣すればよいのでないですか」
「私達もそうしようと努力はしている。しかし次元ホールは広い国土の何処で発生するか分からないのだ。国中にまんべんなく騎士を配置しなくてはならい、仮に強い魔物が出現しても対処できるだけの人員をね。それだけに騎士達も人員不足に悩んでいる、もちろん騎士達が滞在する砦も足らない、今急ピッチで作っている。それに近くの砦で強い魔物が出現すれば周りの砦の騎士は助っ人に行かなくてはならない、その為に騎士達は大忙しだ。さらに魔物との戦いで負傷する騎士も後を絶たない、ロイドも慢性的に人手不足に頭を抱えているよ。増員も検討しているが即戦力となる騎士はそうはいない」
「そうなの…ですか…」静かに言うシンシア。シンシアはドラゴンアース城へ移動するとき以外次元ホールが開き魔物に遭遇する事はなかった。時間がたつうちにそれほどの問題でもない様な気がしていた。改めて被害を眼のあたりにすると自分の国の現状に身が震える思いがする。
「王妃様だ、青の王妃様がいらっしゃったぞ」
シンシアが馬車から降りるとそれを見つけて国民達が歓声をあげて駆け寄って来る。
「政務である。控えよ」王様付きの親衛隊が阻む。
シンシアはその様子を見守っていた。いつの間にか青の王妃などと通称を付けられおり、自分が注目されている事にも戸惑いを感じる。
「あなたは国民達に非常に人気がある。ここからでいい、にこやかにほほ笑んで手を振ってあげれば国民達は大変喜びますよ」クライフィスが耳内するように教えてくれる。
「は、はい…」返事をしてシンシアはぎこちない笑顔を浮かべたまま手を振る。心臓は早鐘の様にバクバクと波うっていた。やはり国政の場は緊張するし怖い、改めて自分は王妃に向かないと突きつけられた気がした。
「おーーー」国民達から歓声があがる。
シンシアはどうにか上手く出来た事に安堵して逃げる様に視察の場に向かった。
「次元ホールはあのあたりに開きました。規模はかなり大きくムカデ型の大型の魔物が一匹と小型の四足獣が十数匹出現しました。常駐する騎士団の半数が隣の街に出没した魔物の撃退の為遠征していた為に対処が遅れ被害が拡大してしまいました」ゴードン魔法大臣が説明する。
「何!隣の街にも次元ホールが開いたのか!?」クライフィスが驚いて聞き返す。
「は、はい、半年ほど前にこの辺りには頻繁に次元ホールが開いております、しか数週間で治まり以来開いておりません」
「あ、あの、ゴードン大臣、次元ホールは開く時期と開かない時期が偏ったものなのですか?」シンシアは尋ねてみる。
「いいえ、ほとんどの場合単発で開く事が多い様です。しかし安心していると連続で開く事もあります。正直申しまして法則は掴めていないのです、申し訳ありません」冷や汗をかきながら謝るゴードン。
次元ホールの視察と聞いて事前にアイリーンがこのゴードンを呼び、予習の勉強会を行った。その時も詳しい事は分かっておりません申し訳ありませんの連続でシンシアはこの弱気な大臣を少し可哀想に思うほどだった。おそらくドールあたりはかなり厳しくあたっているのだろう。
その後もゴードンの案内の元被害の出た街を視察して回る。次元ホールの開いた場所を見たり、街の被害状況を見たり、時にはその土地を収める貴族が行っている独自の対処法を聞いたりもする。クライフィスは終始難しい顔をしていた。貴族の対処法を聞いた時には少し顔をほころばせて「良い方法だ、帰ったら取り入れられか検討してみよう」などと言ったりもする。そういう時シンシアは心配そうに見守る以外出来ない。
反対にシンシアが活躍するのは家を壊されて避難している人達や負傷した騎士や怪我をした人が入院している病院を訪ねた時だった。この訪問に備えてシンシアはベルに焼き菓子の作り方を学んでおいた。避難所ではバルドスに炎を起こし貰い、自ら焼き菓子を作って避難している人達に配った。皆大変喜び、美味しいと言って食べてくれる。その笑顔を見るたびにほっとした気持ちになるシンシア。流石に病院で料理をする訳には行かない為事前に作っておいた焼き菓子をお見舞いとして送る。同じように皆喜んでくれる、中には涙を流す騎士まで居る程だ。しかし実は病院で配る焼き菓子の中にはシンシアが作らずにベルに作っておいて貰った物も混じっているのだがクライフィスとアイリーンがシンシアが作った事にしておくように言った為、シンシアは嘘をつく事になった。本気で喜んでいるのが伝わるだけに心が痛む。
この旅でシンシアが一番うれしかったのはクライフィスと共に過ごす時間を多く取れた事だった。夫婦にはなったものの共に忙しく中々一緒の時間を取れなかった。もちろん夜は同じ部屋で寝ていたがかなりクライフィスの帰りが遅い事もあり、あまり話す時間はなかった。しかしこの旅ではいつも一緒だ。もちろん視察の時は流石にいちゃいちゃする訳には行かないがクライフィスの腕に寄りかかっている事は出来る。何も出来ない自分にもどかしさを感じながらも見守っていられる時間は好きだった。それに馬車の中では様々な話をした、クライフィスの幼少時代の話、貴族学院時代の話、王になってから話、それに王家の歴史などは勉強時間にアイリーンから聞くのとはまた違う、同じ話でもクライフィスの側でクライフィスの声で聞くとまた違って感じる、そうその声を聞いているだけでもなんだかとろけそうになるほどうっとりとしてしまう。クライフィスの話を聞くだけではなくシンシアも自分の話をした。単調だと思っていたエールメイレンでも日々がクライフィスに話すとなんだかとても素晴らしい日々に思えるから不思議だ、そもそもあの毎日を自分がこんなにも長く語れる事自体に驚く。そして宿屋、泊めてくれる貴族の屋敷での夜の二人きりの時間だ。お付きの者達も気を使い夜は二人きりにしてくれる。ハードスケジュールの旅の中、日に日に疲れも溜まって行くし、翌日以降も日程が詰まっている、二人共早くに寝てしまうがそれでもそこには特別な時間があった。王妃と王ではないシンシアとクライフィスの夫婦としての時間だ、無言で本を読んだりお茶を呑んだりしているだけでも二人は一緒に居る、その事が大切であり自分達は夫婦なのだと実感する。その時間にシンシアはこの人と結婚した、自分は本当にこの人の事が好きなのだと実感するのだった。
そんな二人の幸せな旅も終りに近づく、視察の日程は全て済ませていよいよ明日はドラゴンアース城へ帰るだけとなったその日の事だった。
その日滞在した宿屋の近くでお祭りがあるらしく街はとてもにぎやかだ。視察も最終日という事もあって皆少し気が抜けた様になっている。クライフィスはせっかくのお祭りなのだ、羽を伸ばして来いと言ってお付きの者達に臨時の休暇を与えた。皆喜び、それぞれが持って来た服の中で一番上等いや一番城務めと分かりづらそうなものを選んで出かけて行く。シンシアとクライフィスは宿に残った。他に残っているのは警備隊長のメイリンとジェラウドだけだ。
メイリンとジェラウドはシンシアとクライフィス二人の時間を邪魔しない様に近くで待機しているようだ。シンシアは旅の途中何度かメイリンに話しかけてみたがジェラウドの様に表所を崩さずに最低限の受け答えをするだけだった。なんとか仮面を外して貰える様に努力をしたが全く効果はあがらず、やがて元々内気なシンシアの心は折れてしまった。
シンシアがベッドの上で本を読んでいるとクライフィスは隣の部屋で着替えをしている様な音がする。
ガチャリ
部屋へやって来たクライフィスの姿を見てシンシアは思わず声をあげそうになる。茶色いズボンに薄汚れたシャツと茶色のベスト、それに茶色のスカーフにベレー帽、全て擦り切れていてとても王族には見えないみすぼらしい格好だ。
「クライフィス様、何を…」聞こうとしたシンシアはクライフィスによって口を塞がれる。
「シンシア静かにジェラウドとメイリンに気付かれてしまいます」クライフィスはシンシアに顔を近づけて注意する。「シンシアもこれに着替えて」そう言って一組の服を差し出す。
シンシアは言われるままにそれに着がえる。紫のスカートは膝よりやや下までしか丈がなくふくらはぎのあたりから露出してしまう、長い丈のスカートしか履いた事のないシンシアはなんだか恥ずかしい気がする。ピンクがかったブラウスもぼろぼろだし、水色の上着は元は青だったのが色あせて水色になってしまったらしい、靴も靴下もぼろぼろだ。
「シンシアの髪はこの国では目立ちますのでこれで頭を覆って下さい」そう言ってクライフィスは黄色いスカーフでシンシアの頭を覆う。髪も束ねてスカーフの中へしまう。
「あ、あの…クライフィス様この格好は…?」小声で尋ねるシンシア。
「しぃ、これからお忍びでお祭りを見物に行きます」そう言いながら窓を開けるクライフィス。その勢いでシンシアを抱えあげると一気に窓から飛び降りる。
「きゃあ」突然の出来事に怖さでクライフィスに抱きつくシンシア。
「シンシア、大きな声を出さないで走りますよ」そう言うとクライフィスはシンシアの手を取り走り出す。
シンシアはクライフィスの手をすがる様に握り締めながら走り出す。こんな事をして大丈夫なのかと思う自分、これから何が起こるのか分からず怖いと思う自分、そしてクライフィスのこの悪戯を気に入りこれから何が起こるのかわくわくする自分がシンシアの中に居た。
しばらく走るとクライフィスは速度を緩める。息が切れていたシンシアにはありがたかった。しかしシンシアは息を整えるどころではない、歩をゆるめるとすぐに人通りが増えて来た。大声で語り合う男達、右に父左に母と手を繋ぎお祭りを楽しそうに見ている子どもを中心にした家族、寄り添い合って歩くカップル、様々な人々が行きかう。ふと思う自分も傍から見ればお祭りを楽しむカップルなのだと、そう思った瞬間シンシアの頬がなんだかかぁっと熱くなる。
「シンシア、どうしました?」シンシアの様子に気付いたクライフィスが尋ねる。
「い、いえ、なんでもありませんわ、クライフィス様」慌てて答えるシンシア。思わずクライフィスから眼をそらしてしまった。
「駄目だな、シンシア」
「え…!」クライフィスの言葉に驚いて顔をあげるシンシア、自分のいったい何が駄目だったのだろうか。
「私達は今平民のカップルなのです。様付けなんていけません、クライフィスと呼んでください」
「え…は、はい」答えて少し考え込む、そしてしばらく考えて「で、でも仮にも国王様の事を…」と言った。その先は上手く続けられない。
「私達は夫婦です。それに今は国王ではありません平民の振りをしているのです」
「は、はい…」そう言ってシンシアは息を吸い込む、何故か心臓が早鐘の様に鳴り響く、覚悟を決め勢いを付けて「ク、クライフィス」と呼ぶ。
「なんだい、シンシア」さりげない返事のクライフィス。
「え…えっと…」先が続かずに困るシンシア。ふと眼の前の女性の一団が眼に止まる。何やら夜店の屋台を見ている様だ。「あ、あれ何かな?」誤魔化すように言った。
それはお祭りの露店だった。数人の女性が露店の周りに集まって何やらキャッキャッと騒いでいる。
「何やら面白いものを売っている様だな、行ってみよう」クライフィスはシンシアの手を引き露店へと近づく。
「うわ~、綺麗」思わず声をあげるシンシア。そこには大きな桶があり中には宝石が並ぶ、いや詰め込まれていた。こんなに沢山の宝石は王妃である自分ですら持っていない、おそらくエールメイレン中の宝石を集めてもこんなにはないだろう、改めて大国グランドトーテムの凄さを感じるシンシア。
「シンシア、これは本物の宝石ではありませんよ」クライフィスはそう言うと露店の店主に断って宝石を一つつまみ上げる「これはプラスチックという物で出来ているのです。それに輝く塗料をぬって宝石の様に見せているだけだ」そう言って宝石を指で叩くクライフィス、ポンポンと鈍い音がする。
「まあ、本当」初めてプラスチックを見るシンシアは感心する。宝石の様に固くはないが弾力性がありガラスの様に落としても割れる事はない不思議な物質だ。ちなみにこの世界ではプラスチックは石油からではなく魔法で精製する。
「二十ピルで一度掴み取りが出来るらしい、やってみるかい」
「い、いえ私は…」一瞬遠慮するシンシア。偽物とはいえ宝石だ、やはり高いのだろうと考えてしまう、しかし改めて金額を考えるとそれ程の額ではない、それもそのはずこの露店は子ども向けの露店だ「それ位なら一度やってみようかな」照れ臭そうに言うシンシア。
「分かった、親父一回頼む」初めてシンシアのおねだりに若干の喜びすら感じながらクライフィスは店主にお金を渡す。
「はい、大人は一回三十ピルだよ」店主の答えだ。子どもと大人では手の大きさも違うので当然だ。
「分かった」そう言ってクライフィスは財布から銅貨を出して店主に渡す。「これで桶から一掴み取れる、シンシアやってみるといい」見本に取り出した宝石を桶に戻しながらクライフィスが言った。
「よーし」無駄に気合を入れて遠慮がちに桶の中の宝石を握るシンシア。シンシアの手は小さかった為に取れた宝石は少量だ。
「駄目ですよシンシア、こういう時は思いっきりこうやるんです」そう言って今度はクライフィスが桶に手を突っ込み大量に宝石を掴みとる。「親父こっちを頼む、シンシアそっちの宝石は桶に戻しておいて」クライフィスはそう言って掴んだ宝石を店主に渡す。
「やれやれ、しっかりしているね、お譲ちゃんの彼氏」店主は少し呆れ顔だ「そうそう、五ピル払えば宝石をペンダントに出来るけどどうだいお譲ちゃん」
「ほ、本当ですか…」是非お願いします、といいかけてクライフィスを見るシンシア。たいした額ではないとはいえお金がかかるのは事実だ。
「お願いするよ」クライフィスは笑顔で言った。
「はいよ、お譲ちゃんどれがいい好きな色を選びな」店主はそう言って宝石をシンシアの前に突き出す。
「ええ…っと」迷うシンシア、赤、緑、オレンジ様々な色の宝石がとても偽物とは思えないほど光輝いている、ふとシンシアは一つの宝石に眼を止める「私、これがいい」そう言ってシンシアが取ったのは青の宝石だ。青は髪の色と同じで良く似合うとクライフィスが気に入っている色だ。流石に髪、ドレス、宝石と青で統一する事は避けているが青以外のドレスを着る時に付ければいい。そう思って宝石を指さす。
「はいよ」威勢よく返事をして店主はその宝石を何故か桶の中に放り込んだ。
「あ…!」驚くシンシア。
「はい、彼氏あんたがかけてやりな」そう言って店主はあらかじめ用意された青の宝石(偽物)をはめ込んだペンダントをクライフィスに渡す。
シンシアも見て納得する。たしかに偽物とはいえ加工するには時間がかかる、あらかじめ用意してあるのは当然だ。
「では、姫、お首を」ふざけた口調でクライフィスが礼を取る。
「はい」シンシアも跪きやや首を前に出す。
そこへクライフィスがペンダントをかけてくれた。二人の動作が妙に慣れている事に店主以下周りの者は気付かない、いい大人がお祭りムードで貴族ごっこをしている位にしか思っていない。
立ち上がるとシンシアは改めて自分の首からさがるペンダントを見る。子どもの玩具で自分が持っているどの宝石よりも価値はない、しかしシンシアにはそれが世界中の宝石全てより価値のある物に思えた。クライフィスが自分の為に取り、そしてプレゼントしてくれた宝石。お祭りの為に焚かれた松明の光に反射して暗闇にその輝きを放っている。
「シンシア、行きますよ」クライフィスがペンダントに見とれているシンシアに声をかける。
「は、はい…」慌ててクライフィスを追うシンシア。この人ごみではぐれたら大変だ。
「おや、あれは…」今度はクライフィスが何かを発見する。
「なんですか?」
「シンシア少し待っていて」そう言ってクライフィスは屋台の方へ駆けだす。そしてしばらくして手に屋串に肉を刺した物を二つ持って戻って来る。
「クライフィス…」様を付けそうになるのをかみ殺した為にそこで少し言葉に詰まる「それは、なんですか?」
「焼き串です、おししいですよ」そう言って一つをシンシアに差し出す。その後残った方にガブリとかぶりつく。
「ク、クライフィス様、こんな所で…」慌てて咎めようとする。
「大丈夫です、食べ歩きと言ってここではみんなやっています」
「え…!」言われて改めて周りを見回すと皆露店で買った思い思いの食べ物を食べながらお祭りを楽しんでいた。
「さあ、シンシアもどうぞ、早くしないと覚めてしまうよ」
「は、はい…」言われて改めて串焼きを見るシンシア、温かそうな湯気が出て美味しそうではあるが、かぶりつくの抵抗があった、下品な気もするしなんだか怖い様な気もする。しかし思いきってかぶりつく。すると口の中に甘みとしょっぱさが入り混じった味が広がる。「おいし~」思わず呟くシンシア。
「どうです、庶民の味も捨てたものではないでしょう」
「ええ、本当に」
どんどんどん、ちん、どんどん
次の瞬間遠くからにぎやかな太鼓や鐘の音が聞こえて来た。
「お、どうやら山車が通る様ですよ」クライフィスはシンシアの手を引いて音のした方へ走り出す。
シンシアは次々と起こる出来事に戸惑い勝ちだが、クライフィスに身を任せておくと不思議と安心した。
クライフィスは人ごみをかき分けてあっさり最前列を確保した。
隣に居るシンシアに前に出ようとする人がどしん、どしんとあたる。育ちが良く、人ごみに慣れていないシンシアは少し怖くなりクライフィスに抱きつく。クライフィスの手がシンシアを包み込むとシンシアの中に再び安心感が広がる。周りの人々は相変わらず騒いだり、シンシアにぶつかったりしてきているがシンシアは全く気が付かない程だ。
そして二人の前をお祭りのパレードが通り過ぎる。
「ラッセイロイ、ラッセイロイ…」まず最初にやって来たのは威勢の良い男達、上半身裸で勇ましく掛け声を掛けながら踊っている。
次にやって来たのは笛や太鼓を鳴らす楽団だ。皆揃いの衣装を着ているが老いも若きも男も女も混じっている。王宮に招かれる一流の楽団に比べると統制が取れておらず、雑な感じはするが、皆とても良い笑顔で演奏している。普段はそれぞれの仕事や学校に通っており、週末に集まって練習しているのだろう。本当に音楽の好きな人達が楽しんで演奏しているのが分かる。
そして、二階建の家ほどもある山車がやって来た。何故これ程の物が動くのか一瞬不思議に思うシンシア、怖いとすら感じてクライフィスにしがみ付く手に力が入る。
ふと前を見ると、山車から綱が伸びていてその綱を子ども達が引いている。所どころに大人が居て、子ども達に掛け声をかけたり、怪我をしない様に気を配ったりしている。しかし子どもが綱を引く力だけで動くのかとやはり疑問に思う、その疑問は通り過ぎる時に解けた。後ろを大人達が押しているのだ、押すチームの最前列は遠眼からでも分かるほどの屈曲な男達、その後ろに女性や老人、中には子どもも混じって力を合わせて押している。良く見ると後ろの方から細身の男が掛け声をかけている。見た中で一番掛け声が揃っていないが皆楽しそうに押しているのは同じだ。
山車は何台も連なって進んでくる。どれも派手に一階部分を飾り付けおしており、その中には笛や太鼓を鳴らす楽団が居る様だ。二階部分には大きな人形が飾られたり、色とりどりに着飾った女達が踊ったりしている。
山車が十台位通り過ぎると濃いピンクの着物で着飾った少女達が列をなして歩いて来た。皆同じ衣装、同じ髪型、化粧まで同じ感じで仕上げている。そして流れる音楽に合わせて綺麗な舞を披露している。前列の方はまだ七、八歳位の小さな少女達、徐々に年齢が高くなり後ろの方は大人の女性だ、中には数人ではあるが老人と呼んでも良い程の女性も混じっている。皆同じ格好のはずなのに可愛らしかったり、綺麗だったり、おっとりしていたりと個性があるから不思議だ。
そして女性の列が終わると今度は老若男女入り混じった集団が踊る。女性達の様に列を作らず、入り混じり声を張り上げながら踊っている。トーテム踊りを思わせる陽気な踊りだ。衣装も揃っておらず飛び入り参加もいいのだろうかそんな風にシンシアが思っていた時だ。
「シンシア行きますよ」クライフィスが何やら深刻そうな声で言って来た。
はっと我に帰るシンシア、次の瞬間手を強く引かれ気がつけば走り出していた。
「ク、クライフィス…」走りながらあえぐシンシア。
しばらくするとクライフィスが歩を止める。
「危なかった、親衛隊長のドライヤーが側に居たのですもう少しで見つかる所でした」クライフィスは悪戯が見つかりそうになって逃げ切った子どもの様な口調で言った。
「まあ、クライフィスたら…」シンシアはなんだかおかしくなる。
「シンシア、笑い事ではありませんよ。今日抜けだしたのはお祭りを見る為ではないのですから」咎める様に言うクライフィス。
「え…!」シンシアも驚いて呆然とする。
「実はシンシアに合わせ立ち人達が居るのです」そう言うとクライフィスはシンシアの手を引いて歩き出す。
なされるがまま付いて行くシンシア。やがて街外れに付くとそこには一頭の馬が繋がれていた。それ自体はノーザングルド大陸中どこにでもある光景なのだが、その馬は町に居る馬にしては逞しい、まるで軍用馬の様だ。
「さあ、乗ってシンシア」クライフィスは颯爽と馬にまたがると馬上からシンシアに手を差し出す。
「は、はい…」シンシアがクライフィスの手を取るとシンシアの体舞い上がる様に浮き上がり、クライフィスの前でポンと馬にまたがる。
「行きますよ、しっかり掴まっていて」クライフィスは叫ぶと馬の脇腹を軽く蹴る。
「ひひ~ん」馬は鳴き声をあげて風の様に疾走する。
あっという間に町を抜けてしまう。そこには見渡す限りの荒野と満天の星空が輝いていた。シンシアは最初そのスピードが怖くなり、馬にしがみ付いていたが後ろからしっかりと抱きしめる様に守ってくれているクライフィスの存在を感じると徐々に恐怖が和らいで行くのが分かった。そして満天の星空を楽しむ余裕も出て来る。
「あ、あの…クライフィス…」星空に飽きると尋ねる様にその名を呼ぶシンシア。
「今日抜けだす為にこっそりと町のはずれに運んでおいたのですよこの馬」悪戯が成功した子ども様に嬉しそうなクライフィス。
「私達はいったい何処へ行くのですか?」
「着いて見てのお楽しみです。夜通し走る事になりそうです、シンシアは眠っているといい」
「は、はい…」それ以上言葉が続かずに返事をしてしまったシンシアだが、馬は激しく揺れていてとても眠れそうにないと思った。しかし、揺れにはすぐ慣れてしまいクライフィスに包まれている安心感がある上に長旅の疲れも手伝って徐々に眠気に襲われるシンシア。
「シンシア、シンシア、起きてください。もう時期着きますよ」
クライフィスの言葉で眼を覚ますシンシア。まどろみの中最初は状況が分からなかったが自分が馬に乗っている事に気が付くとはっとして一気に意識が覚醒する。そして昨日の出来事が波の様に頭に流れ込んでくる。そして慌ててあたりを確認する。
そこは荒野に薄い膜の様に草の生い茂る痩せた草原だった。空は大分白んで来ており朝日こそ出ていない物の夜明けが近い事が分かる。辺りはと言うと濃い朝靄が立ち込めていた。ふと眼の前に幾つかの小さな光が見えるのに気が付いた。最初は数個の小さな点だったそれは徐々に数を増やしてやがて無数のテントの前に立てられたかがり火だと分かる様になる。改めて見つめるとそれは異様だった。広い草原の中に立つ大小様々なテント、戦の為の陣営と言うには余りに無防備に見えた。しかし、人間が村を作るにはあまりにも不自然だ、近くに大きな町はおろか川すらないこんな所で何年も生活するのは大変だろう。
クライフィスはシンシアの疑問など知るよしもないという感じで馬のスピードを緩める。その頃にはテント群は大分近づいていた。
「おい、貴様達何者だ」テント群から見張りと思われる男が叫びながら走って来る。
シンシアの胸は不安で張り裂けそうになる。
「おう、ロト、久しぶりだな、よもや余の顔忘れたわけではあるまい」クライフィスは悪戯っぽい笑みを浮かべながら言った。
「ク、クライフィス殿下、お、お久ぶりです。い、いや、その失礼しました」近寄って来た黒髪の少年が狼狽する。どうやら王と気付いたらしいが正式な礼儀も分からず困っている様だ。
「構わぬロト、今日はお忍びだ、以前の様にクライフィス兄さんと呼ぶがいい」クライフィスは苦笑しながら言った。
「し、しかし、殿下…」なんとか食い下がろうとするロト。
「余がいいと言っているのだからいいのだ。今日は君やおっとうやおっかあに合わせたい人が居てやって来たのだ」そう言ってクライフィスはシンシアの方へ視線を向ける。
はっとするシンシア、ロトもその存在に気付くと同時に噂の青の王妃である事に気付いたらしい「は、始めまして、青の王妃殿下、ロ、ロトです。すぐにおっとう達に知らせてきます」と言い残して走り去った。
シンシアは挨拶を返す間もなく呆然としていた。クライフィスとロトと呼ばれた少年は知り合いの様だった、それもおそらく即位前だろうがクライフィスを兄さんと呼んでいた時期がある程に親しい間柄の様だ。それにクライフィスがおっとう、おっかあと呼んでいたのは何者だろうか、たしかクライフィスの両親はすでに死んでいるはずだが、もし生きていたとしても王が自分の親をおっとうとかおっかあとか呼ぶのは明らかにおかしい。そしてシンシアはロトと呼ばれた少年とどこかで会った事がある様な気がした、しかし何処で会った誰なのかも思い出せない。悩んでいるとクライフィスが察した様に答えを教えてくれた。
「あいつはロト、ラークファクトの弟だ」
「え、そうなのですか…」驚きの声をあげるシンシア。と同時に何故彼に会った事がある様な気がするかが分かった。髪の色も顔立ちも雰囲気もラークファクトにそっくりだ、ラークファクトは上流貴族と言っても疑わない程きちんとした服を着こなし、完璧な立ちふるまいをし、いつも笑っている、たいしてロトはいかにも遊牧民と言った感じのみすぼらしい服を着て作法などは知らないのだろうめちゃくちゃだ、そして怒っている所と驚いている所しか見ていない、それでも全身からかもしだす雰囲気はそっくりなのだから不思議なものだ。
「クライフィス様」
すぐにテント群から人々の声が聞こえ始める。人々がシンシア達の訪問に気が付き集まりだした様だ。中からは青の王妃様だ、などという声も聞こえる。シンシアは緊張で心臓が口から飛び出しそうになる。
そして集まった人々の中から一組の男女がクライフィスに歩み寄る。
「お、おっかあ」叫び声をあげて駈け出し女性に抱きつくクライフィス。
「ああ、クライフィス様、ご立派になられて…」女性はクライフィスを抱きとめながら涙眼で言った。髪はラークファクトと同じ黒髪、肌は長年の遊牧民生活ですっかり焼け焦げて真っ黒だし肌には皺が多い、それでも昔はたいそうな美人であったであろう面影と深い優しさが全身からにじみ出ている。そして雰囲気はラークファクトのそれと近い、もしかしてラークファクトを女性にして年を取らせたらこんな風になるのではと思うほどだ。そして喜びのあまりそれ以上言葉が続かずに嗚咽を漏らしている。
「こら、レレイ泣く奴があるか、私達はクライフィス様の父と母であると約束したはずだ、他人行儀はよせ」近く居た男性が嗜める。言われなくとも二人が夫婦である事は分かる。叱りながらもその声は明るく笑っている。肌はレレイと呼ばれた女性と同じく黒く皺も多いが体の方は妙に筋肉質だ。髪はどうやらこの遊牧民全体がそうらしく黒髪、常に明るく笑い上戸な所などラークファクトにそっくりだ。
「でも、あなたクライフィス様は国王に即位なさったのですよ」レレイが返す。
「いいや、おっかあクライフィスでかまわねえ、おらにとってはおっとうとおっかあはずっとおっとうとおっかあだ」口調がすっかり遊牧民の訛りになってしまいながらクライフィスが答える。
「そうですか、それならクライフィスと呼ばして貰います」
「ああ、それと今日はおっとうとおっかあに紹介したい人が居るだよ」そう言ってクライフィスはシンシアの方に向き直る。
おっとう、おっかあと呼ばれた二人だけでなく村人達全ての視線がシンシアに集まる。どうしていいか分からずに固まるシンシア。
「シンシア・ヒルトン・マクラレーン、おらの妻だ」そう言ってシンシアの方に向き直るクライフィス「シンシア紹介しようアダイさんとレレイさん、ラークファクトの両親で私にとってもう一組の父と母だ」
「は、始めましてシンシア・ヒルトン・マクラレーンです。あ、あの、ラークファクト様にはいつもお世話になっております」必要以上に頭を下げて礼をするシンシア。
「そ、そんな頭をあげてくだせい、王妃様。おら達の方こそ礼を言わねばならねえ、息子がお世話になっています」レレイが負けじと頭を下げる。
「レレイ、迂闊な事を言ってはぼろが出るだけだ。とりあえず王妃様もお疲れだろうおら達のテントで休んで貰え」アダイが口を添える。
「そ、そうだな、王妃様、汚くて狭い所だけどもどうかおら達のテントで休んでくだせい」
「は、はい…」シンシアも出来る限りの笑顔で返す。二人の全身からにじみ出る人柄になんだかほっとするシンシア。
「シンシア、説明が遅くなりましたがここがラークファクトの故郷、ダヤッカ民族の村です。正確に言うと遊牧民の彼らは定期的に移動してしまうので故郷と呼べる土地は無いのですけど、ラークファクトにとってはレレイさんとアダイさんの居る所が故郷なのです。ちなみに私とロイドとジェラウドは貴族学院の高等課の二年の夏の休みはプライス伯爵の所には行かずにここに泊まり遊牧民として生活していました。その時にお二人は私のもう一組の両親となってくれると約束をして下さいました」
「ええ、クライフィス様がお二人を慕っていらっしゃるのは分かりますわ」
「はい、私の実の両親はすでにおりませんがプライス伯爵夫妻が父さんと母さんでアダイさんとレレイさんがおっとうとおっかあです。私は決して家族に恵まれない人間ではない」クライフィスは少し自慢気だ。
「ええ、知っていましたよ。あなたが国中の人々から慕われている王である事も、何人もの父や母と慕う人が居る事も」シンシアは笑って答えた。
そして二人は一つのテントに案内される。レレイが先に立ちテントの中へと案内する。
うわ~、ラークファクト様だらけだ。それがシンシアの感想だった。テントの中ではラークファクトとよく似た子ども達が大勢いた。男の子も女の子も居たし大きい子も小さい子も居る、しかし全員が同じ黒髪にブラウン色の瞳をしているそして雰囲気は明らかにラークファクトのそれに近い。大きな子ども達は部屋を掃除したり食事の支度をしたりしており、小さい子達は邪魔にならない様に隅で遊んでいる、もちろん中には我慢できずに走り出して大きな子に注意されている子も居る。
「あ、クライフィス様、シンシア様いらっしゃいませ」年長の少年がシンシア達に気付いて駆け寄って来る。先ほど会ったロトだ。
「あー、クライフィスお兄ちゃんだ」小さい子達も二人の存在に気が付いて駆け寄って来る。どうやらクライフィスの事を覚えている子もいるらしい。
そしてあっという間に二人は子ども達に囲まれてしまう。子ども達の中でも中くらいの年の子(大体七、八歳位から)はクライフィスに話しかけたり中には抱きついたりしている子も居る。クライフィスは一人ひとりに声を掛けながら頭を撫でたりしている。そしてシンシアの周りにはかなり小さい子が物珍しそうに集まっている。シンシアはどうしたらいいか分からずに狼狽するばかりだった。
「こら、お前達クライフィスとシンシア様は長旅でお疲れだ。後にしなさい」アダイが叱りつける。その怒鳴り声はシンシアですら少し怖いと感じるほどだ。子ども達は潮が引く様にシンシア達の周りから離れて行った。「全くもうし訳ありません、王妃様。何せ子ども達の数が多くて躾が行きとどかないのです」申し訳なさそうに謝るアダイ。
「い、いえ、元気があってとても良い事ですわ」苦笑しながら答えるシンシア。自分では少しは社交的に慣れたつもりだったが、いざとなるとやはり上手く答えられずに内気なシンシア姫のままだと痛感する。その事も少し悔しく思う。
「驚いただろう、ラークファクトは十七人兄弟の一番上なんだ」クライフィスが教えてくれる。
「いいえ、十九人です」そう言って来たのはシンシアと同じくらいの年齢の少女だ。もちろんラークファクトに良く似ていて双子と思われる赤ん坊を抱いている。
「なんと、また産まれたのか?」声をあげるクライフィス。
「そうよ、去年双子が産まれました」少女が答える。何とも親しげだ。
二人の様子に何故か少し腹を立てるシンシア。その時だった。
「シンシア様、夜通し馬で駆けて来たのでしたらお疲れでしょう。朝ごはんまでまだ時間があります少し奥でお休みになって下さい。そ、その狭くて汚い所ですけど外よりはましだと思いますので…」レレイが申し訳なさそうに声を掛けて来た。
「そうさせてもらうといいシンシア」クライフィスが優しく声をかける
「は、はい…」シンシアは返事をして促されるままに奥に腰を降ろした。
「おっかあ、おらも何か手伝う事はあるか?」クライフィスがレレイに尋ねる。
「ほれでもクライフィスも疲れているでねえか?」気遣う様に尋ねるレレイ。
「おらの丈夫さはおっかあだって知っているだろう」
「そうか、じゃあ男達が水を汲みに行くから手伝ってくろう」
シンシアはクライフィスとレレイの会話から遠くから聞いている。クライフィスはすっかり村の訛りの入った言葉を話すようになり、ラークファクトの家族や村の人とも親しげだ。本来はシンシアの方がクライフィスより身分は低いはずなのにみんなシンシアにだけ無理につくろった様な丁寧な態度を取る、それが自分がここで一人孤立している様な気持にさせる。そんな悶々とした気持ちに整理を付けられずに居る内になんだか眠気に襲われる。さっきまで馬の上で眠っていたはずなのにやはり疲れは取れていなかったようだ。シンシアはその眠気に耐えきれずにまどろみの中に落ちて行った。
ちっちっち…
外で小鳥のさえずる声がする。顔にあたる日差しが熱い、寝ている場所もどうやら王宮や宿屋のベッドではないらしくとても固い、そこで寝ているがとても辛いが全身がだるくて起き上がるのはもっと辛い気がする。シンシアの意識はそんな現実とまどろみの間を入ったり来たりしている。そしてある時はっとする。眼を開けるとそこは知らない場所だ。一瞬パニックになるがすぐにそこが、ラークファクト故郷のラークファクトの家族のテントだと思いだす。
「シンシア様、お目覚めですか」
声をかけられてはっとするシンシア。そこには一人の少女が立っていた。たしか二人の赤ん坊を抱いてクライフィスに紹介していた少女。
「始めましてリミと申します。いつも兄がお世話になっています王妃様」リミはシンシアの前に腰を降ろして丁寧に挨拶をする。
「え、えっと、シンシア・ヒルトン・マクラレーンです。ラークファクト様には私の方がいつも迷惑をかけてばかりで…そ、その…申し訳ありません」話し始めると何を言いたいか分からなくなり、あっという間に言葉に詰まり最後は申し訳ありませんで締めてしまった。それでは駄目だと分かっていてもそうするしかない。
「アハハハ…」声をあげて笑いだすリミ「なんだかすごく面白い方、隣国のお姫様と聞いていたので、もっと威張った人かと思っていたけどすごく親しみやすい」
「え、ええ…」シンシアは少し言葉に詰まるが頑張って続ける「実は私は小さい頃か内気でお城の部屋にばかり閉じこもっていたから、そ、その…姉や妹はすごく王族らしくて立派なんですけど私は全然駄目で…そ、私に王妃なんか務まるのかなって思っていて…」初めて会ったそれも遊牧民の少女に何を言っているんだ。喋りながら後悔して言葉が続かなくなるシンシア。
「そっか、じゃあここで一緒に遊牧民をやりませんか」
「え…!」リミの言葉に驚き呆然とするシンシア、そんな事が出来る訳がない王妃が遊牧民になるなど前代未聞だ、それに自分はエールメイレンの人質クライフィスが知っているとはいえここに残ったりすれば逃げ出した事にもなりかねない、さらにはシンシアは遊牧民がどんな生活をしているのかも知らないし、それでもシンシアには無理なくらい辛い事は容易に想像できる。
「アハハハ…嘘ですよ王妃様、本気にしないで下さい」笑って訂正するリミ、その態度はどんどん内溶けて来ている。
「えっ…、そうね冗談よね、ハハハ…」シンシアもつられて笑ってしまう。
「私には王族のなんたるかは分かりませんけど少なくともシンシア様の事好きですよ。シンシア様が王妃ならばきっといい国が出来ると思います」
「ほ、本当~」根拠のない言葉だがなんだか嬉しくなり自信も湧くシンシア。「ねえ、リミ私達年は同じくらいよね。もっと楽に話しましょう、その…クライフィス様と話すみたいに」
「ええ、もちろん良いよ、あたいも無理して息が詰まっていた所だ」
「アハハハ…」シンシアも笑ってしまう「ところでクライフィス様は…?」
「クライフィス兄さんなら村の男達と共に羊を連れて草原に遊牧行っているよ。この村の男達は昼間は毎日羊を草原に連れて行き草を食べさせたり遊ばせたりして育てるのさ、その間に女達は村で食事の支度や洗濯をするのさ、まあ最近では家事に積極的な男も増えているし、遊牧をやりたがる女も居るけど長年の性別分業が中々抜けないのも事実だね」
「そう、クライフィス様羊の世話なんて出来るの?」
「ああ、この村に泊まった時には毎日やっていておっとう達にしっかり仕込まれていたからね、久しぶりで感覚は忘れているかもしれないけどとても器用な人だ、大丈夫だろう」
「育てた羊はどうするの?」ちょっとした疑問を尋ねる。
「冬が終わると毛を刈りとり羽毛として売るのさ、他に丸々と太った羊は殺して肉を売る。でも羊の肉は牛や豚に比べて人気が低いからそれほど高値では売れないんだ、羽毛の方も冬が終わった後だと高値が付かないんだ。それでもあたい達の遊牧する地域は寒い所が多いから冬が来る前に刈ると羊が死んでしまう。おまけに最近では何処も牧草が少なくてなかなか羊が太らないんだ」リミは最後はとても暗い口調になってしまう。
「そう、大変なのね…」自分は王妃だ、暮らしに困る国民の事をなんとかしてあげなくてはならない、しかしどうすればいいのかすら分からない、また自分の無力さが悔しくなりスカートの裾をきゅっと握りしめる。その時だった。
「探しましたよ、シンシア様」
何処からともなく聞き慣れた声が聞こえて来た。しかし誰のものかは思い出せない、とりあえずあたりを必死で探すが人影はない、次の瞬間シンシアの影が盛り上がりライトがにゅうっとはえるように現れた。
「う、うわっ、何者だ、お前?」突然の事に驚きリミが声をあげる。
「大丈夫よリミ、王宮の騎士私のお付き」シンシア落ち着かせようと説明する。
「なんだ、帝国の騎士さんか、驚かせないでくれよ」リミは落ち着きを取り戻す。
「そうよライト、ノックもなしに人の家に入って来るなんて失礼よ」シンシアはライトを嗜める。
「そんな事を言っている状況ではないでしょう、揃って何も言わずにいなくなるなんて万一何者かに誘拐されたとしたら一大事です。シンシア様の気配を感じたら気配を消して近づくのは当然の判断です。そしたら何故か遊牧民と楽しそうに話しているのだからこっちは呆れますよ」ライトは本当に呆れたという感じだ。
「ご、ごめんなさい…」シンシアはこっそり抜け出したのは自分達の方だと思いだす。これでは叱られても言い返せない、ライトの言う事も正論だ。
「まあ、お二人で出掛けられた事は想像できましたけどね。クライフィス様は貴族学院を卒業なさってからは時々王宮を抜け出して国民達の生活を見て回っておりました。流石に即位されてからは無かった様ですけど、ゴードン大臣などはそろそろだと思っていたらしいです」
「そう、でも騒ぎになっているんじゃ」言われてシンシアは心配になる。
「大丈夫です、僕とゴードン大臣でレイをクライフィス殿下にフラニーをシンシア様の姿に変えて二人に代わりをして貰っています。遠征メンバーはみんな王や王妃の側近と言える物ばかり、今日と明日の日程は馬車で王宮へ帰るだけなので問題は無いでしょう。明日の夕方にクライフィス様の土の魔法で僕の闇の魔法を強化して貰えば瞬間移動で王宮へ帰る事も出来ます」ライトは呆れた様子こそ垣間見られるが、普段の落ち着いた口調に戻って話す。
「でも、みんな怒っているのではなくて…」
「アイリーン殿は少し、バルドスやフラニーは笑っていました。レイとベルは唖然としていました。視察部隊全体がそんな感じです、ゴードン大臣が二人の魔法が切れない様に定期的にかけ続けるらしいですから城の者達にはばれない様にしてくれるそうです。まあラークファクト宰相とロイド団長には報告するらしいので最終的にお二人から小言を貰う事になるでしょう」
「そう…」少し安心するシンシア、まあラークファクトもロイドも普段は温厚だが怒ったら少し怖そうなのが不安ではあるが。
ガシャーン
突如外で大きな音がした。
「きゃー」驚いてシンシアは隣に居たリミしがみ付く。
「心配しないでシンシア、おそらく櫓が倒れたみたいだ。以前から柱の下が腐っていて危なかったんだ。それでも新しいのを作れずに使っていた。ここへ来る途中の移動でかなり痛んだみたいだからとうとう崩れたか」
「そ、そう…」納得した後で思考する「ライト、すぐに行って見て来て、音からかなり大きな櫓だと思う、もしかしたら下敷きになってしまった人が居るかもしれない、今村に男はほとんどいないの、あなただけが頼りになるかもしれない」
「イエス、マム」ライトは返事と敬礼をして走り去る。
後を追う様に外に出るシンシアとリミ、今朝はあった高い櫓が無くなっていた。周りでは女達がざわざわと騒いでいる。
「シンシア様、リミ」レレイが心配そうに駆けよって来る。周りには小さな子ども達が大勢いた。
「おっかあ、櫓が倒れたみてえだ」リミが答える。
「そう怪我はないかい」
「ああ、あたい達は大丈夫だ。それにシンシア様のお付きの騎士が一人来てくれて居て、今様子を見に行ってくれている」
「そうか…」レレイはそれだけ呟いた。
「おっかあ、こえ~よ~」子ども達はパニックを起こした様に騒いでいる。
「大丈夫よ、ここは安全だから」リミとレレイが必死で叫ぶがあまり効果は無い。ラークファクトの弟、妹だけではなく他の子ども達も集まってしまっているようだ。
シンシアはどうしたらいいか必死に考えるが、何も思いつかないふと自分が懐に入れている物の事を思い出す。
「みんな、集まって」シンシアはそう叫ぶと懐から小さな袋を出して中の物を取りだした。それは昨日お祭りでクライフィスに買って貰った玩具の宝石だった。「見て綺麗でしょう」
「うん、すごく綺麗」子ども達は一瞬恐ろしいのも忘れて玩具の宝石に見とれている。
「これは、お守りなの持っていれば何も怖い事は無い、今から順番に渡すからみんなならんでね」そう言いながらシンシアは自分の胸のあたりをぎゅっと握る。そこにはペンダントにして貰った一番大事な一つを付けていた。幸いにも服の中に隠してある、それを渡さなくていい事を幸いに思いながらせっかくのクライフィスのプレゼントをという罪悪感もある。しかし今は他に方法は無い。
一方の子ども達は綺麗な宝石を貰えると聞いて大喜びで列を作っている。その笑顔を見るとなんだかシンシアも救われた気持ちになる。
シンシアが宝石を配り終える頃ライトが戻ってきた。
「シンシア様、どうやら怪我人はいない様です」淡々と報告するライト。
「そう」少しほっとするシンシア「ライト、今クライフィスは村の男達と羊の遊牧に出ています。それを探す事は出来そうですか」
「いいえ無理です。シンシア様を探すだって苦労したのです。なんとか見つけられたのは広い草原に大きな村があるからです、いくら大人数でも人と羊の群れを探すのは時間がかかりますおそらく戻るのを待った方が早いかと」
「そうですか、ではあなたは村の女達と協力して出来る限り片付けをして置いて下さい、ただし無理は禁物です。私は村の代表者に子どもやお年寄りが近寄らない様に徹底するようお願いします」
「イエス、マム」そう言ってライトは走り去る。
それから女達を集めて瓦礫に近づかない様に話すだけでその日は夕方を迎えてしまい、クライフィス達が帰ってきた。クライフィスは惨事に少し驚いた様だが怪我人が居ないと知ると安心した表情を見せる。その後はクライフィスとライト、そして村の男達が協力して瓦礫を片付けて行く。それは見事な連携が取れてみるみる内に片付いて行く、見事な手際だった。それを見てやはり自分は何も出来ていなかったんだとシンシアは思ってしまう。
その夜、シンシアはテントの外で星空を眺めていた。空は晴れ渡り満天の星が輝いている、グラントーテムの王宮でもエールメイレンでも見た事無い程見事な星空だ。隣にリミが腰を降ろしているし少し離れた所でライトが見守る様に立っている。
そこへレレイがお盆を持ってやって来た。
「シンシア様は何もねえですけど、お召あがりになってくだせい」そう言ってレレイはお盆を差し出す。小さな椀と少し欠けた茶碗にお茶が入っているだけの食事だ。
「うわ、おっかあ今日はビルケンかい」リミが嬉しそうな声をあげる。
「そうだよ」笑顔で答えるレレイ。
「ビルケン…これがそうなのですか…?」シンシアが尋ねる。
「ええ、羊の骨で出汁を取ったスープに羊の肉、それに主食になる小麦粉を水でといた物を食べやすいサイズにちぎって入れただけの貧相な料理です。王宮の料理には遠く及ばねえけど私らで出せるのはこれが精一杯です」申し訳なさそうなレレイ。
「おっかあのビルケンは村一番いや大陸一番だ」リミが付け加える。
「リミ」レレイはリミを嗜めるとシンシアに向き直る「さあ、シンシア様お召し上がりくだせい、考えてみればシンシア様は朝から何も召し上がってねえでは無いですか」
言われてみればそうだった、何もしていないつもりでもお腹はすくものだ。シンシアは「頂きます」と小さく言ってから食べ始める。薄味だがとても温かい、王族であるシンシアがこれまでに食べたどんな料理よりも美味かった。まるで作ったレレイの優しさと村中の人々の温かさがシンシアの体の中に流れ込んでくる様だった。
「シンシア様、沢山作りましたからお代りもありますよ」レレイが優しく言う。
静かに頷くシンシア。
「だろ、やっぱりおっかあのビルケンは大陸一だろう」
「リミ、あんたがお代りを持って来なさい」レレイは少し厳しく言う。
「は、はい…」突然自分にふられた事にリミは少し驚いた様だがすぐにテントに向かって走り去る。
「シンシア様」残ったレレイがシンシアに優しく向き直る「何かお辛い事でもあったのですか?」
「い、いえ、辛い事なんて…ただ、何も出来ない自分が情けなくて私はこの国の王妃なのだからもっと強くならなければと思うんですけどやはり上手く行かなくて…」
「そんな事無いですよ、櫓が倒れた時お付きの騎士に出した指示すごく的確で威厳があって流石王妃様だと村中の者が言っています。それに子ども達を落ち着かせた記転、そして子ども達と接していた時の優しそうな顔、シンシア様はとても素晴らしい王妃様だと思いました。
「でも、私は所詮クライフィス様のおまけでしかなくて、最後櫓を片付けたのも、作り直す準備をしたのも、村の暮らしを良くすると約束したのもクライフィス様だし…」
クライフィスは片付けた後ライトを呼び自分の土の魔法でライトの闇の魔法を強化して瞬間移動して大量の木材を持って来た。これで明日は櫓を作り直せる。その後、近い内にラークファクトを連れてもう一度この村を訪ねると約束した。クライフィスの土の魔法とラークファクトの木の魔法を合わせれば一体を実り多き草原にも出来るらしい。羽毛や羊の肉もなるべく高値で取引できるように根回しをするそうだ。
「シンシア様、お寂しいのではないですか」
「え…!」驚いて呆然とするシンシア。何故そんな風に思ったのだろうか。
「聞けば生まれ育った国を離れて一人この大きなグランドトーテムで頑張っているらしいじゃないですか、故郷の両親や姉妹が恋しくなっているのではないですか」
「そ、それは…」そこだけ言って言葉に詰まるシンシア。今までは必死で考える余裕もなかったが言われてしまえばその通りだった。エールメイレンのチャールハム城、そしてそこに居る父と母、そして姉妹達の事がたまらなく恋しい。
「無理する事は無いです。泣きたい時には泣けばいい、ここには私とあなたとお星様達だけです」
そう気が付けはライトも居ない、普段なら何があってもシンシアの近く離れ無いライトが何故か…
「ああ…レレイさん、実は一つだけお願いあります」
「なんですか、私で出来る事なら何でも言って下さい、精一杯の事はさせて貰います」
「私もおなたの事をおっかあと呼んでいいですか、私のこの国のおっかあになって下さい」
「何を言っているんです。あなたは息子同然のクライフィス様の妻、とっくに私達は親子も同然です。私は王族でもなければ知識も礼儀もない、ただの遊牧民のおばさんですけど甘えたくなったらいつでも甘えていいですよ」
「ああ…おっかあ…」シンシアの胸からは厚いものが嗚咽の様に込み上げる。眼からは涙があふれるように出て来た。気がつけばレレイに抱きついておんおん泣いてしまっている。
レレイは優しくシンシアを抱きとめて背中をさすっている。
「ラークファクトも貴族学院に通っている頃は帰って来るたんびにこうして泣いていましたよ」
「ラ、ラークファクト様が…」シンシアは涙声になりながら尋ねる。王宮のラークファクトからはとても想像できない。
「ええ、こんな貧しい遊牧民から貴族学院へ入学したんです。皆が皆クライフィス様達の様に理解があったわけではないです。中には貧しい身分を馬鹿にする者も居たらしい、それでもラークファクトは辛い時こそ陽気に笑えというアダイの教えを守って必死に頑張ったらしいです。だけど人間はそんなに強くない、無理をしすぎれば必ず崩れる。そうならない様にこうして甘えられる人間が必要なんです」
「お、おっかあ…」
「なんだい、シンシア」レレイは優しくシンシアの背中を擦り続けた。二人の事を空から星達が見守り続けた。
「そうですか、おっかあがそんな事を…」ラークファクトは懐かしそうな笑みを浮かべながら紅茶をすする。
「たしかに貴族学院に入学した当時、ラークファクトは辛いのを我慢して明るく振舞っていた。だがこいつの笑い上戸は天性のものだ。今では本気でけらけらと笑っている。心配する事はありません」ロイドが補足する。
「ええ、クライフィスにジェラウド、ロイド、それにシンシア様と今の私には四人も心を許せる友が居る。もし辛くなったら誰かに甘えさせてもらうよ」ラークファクトは笑みを崩さない、それが無理をして笑っているとはとても思えなかった。
「それに、貴族達だってラークファクトの身分をどうこう言う者はもう居ない」
「たしかに、ラークファクト様は立派な宰相ですものね」シンシアが言った。
数日後の王妃のお茶会出の事だ。ちなみに翌日村の者とクライフィス、ライトが協力して櫓を作り直した。シンシアはレレイやリミ達と食事の支度や男達のサポートなどをした。初めて体験する庶民の生活はシンシアにはとても新鮮で夢中になっている内に一日が終わってしまった。その日の夕方にクライフィスの土の魔法でライトの闇の魔法を強化してドラゴンアース城へ帰って来た。心配したとベルに泣きつかれたり、アイリーンの小言を聞いたり、フラニーにやるじゃん王妃様と褒められたりする内にシンシアの査察の旅は幕を閉じた。後に残ったのはダヤッカ村の人々との温かな交流、どんな高い宝石よりも大事な玩具の宝石のペンダント、次元ホールへの不安、そして宝石の様なクライフィスとの思い出だ。ちなみに二人の脱走はすでにラークファクトとロイドの知る所となっていおり、今日クライフィスはその罰として執務机に縛りつけられて次元ホールに関する書類と格闘している。何でも視察中の魔法大臣ゴードンの調査によると重大な事実が分かったらしい。そういう理由で今日のお茶会はクライフィスは欠席、ジェラウドもクライフィスの側に居る、お目付役も兼ねているらしい。そしてラークファクトとロイドだけが王妃のお茶会にやって来たという訳だ、目的はシンシアに対する小言が一番の理由のようだが主犯がクライフィスである事を分かっている二人は、シンシアに対してはそれほど厳しく言う事は無く、シンシアがダヤッカ村の様子を伝えて和やかお茶会となっている所だ。
「ところでレイはどうしていますか?」シンシアが尋ねる。旅から戻った翌日レイは体のだるさを訴えて騎士団の宿舎にある医務室に向かった。
「ああ、どうやら魔法の後遺症の様です」ロイドが答えた。
「ま、魔法の後遺症…」驚いてオウム返しするシンシア。
「まあ、心配なさる事ありませんよ、王妃様」察した様にラークファクトが説明する「始めて魔法を体験すると必ずと言っていいほどかかる症状です。本人の魔力の強い弱いによって重かったり軽かったり、早く治ったり時間がかかったりしますけど治らない事はありません。彼の場合丸二日近くクライフィスの姿でいた事で初めて魔法を体験したのです。まあ時間が長かったせいもあって治るのにはしばらく時間がかかりますが魔法の後遺症で死んだという話も一生治らなかったという話もありません。今は騎士団の宿舎からゴードン殿の魔法研究所の医療施設に移っています。まあ一週間もあれば戻って来るでしょう」
「そうですか…」答えてシンシアはグランドトーテムへ来た翌日を思い出した。来た当日ライトに瞬間移動をさせてもらった。そして翌日は体のだるさを感じ随分と朝寝坊もしてしまった、今思えばあれがシンシアの後遺症だったのだろう。しかしそうなると少し疑問も残る「でも私の時はそんなに重く無かったですよ。翌日だって気が付かずに動いていたくらいですから」
「まあ、体験した魔法が小さかった事もありますけど、もしかするとシンシア様は魔力が強く魔法耐性がお強いのかもしれません」ロイドが答えた。
「そうなのですか…」シンシアは自分の胸に手をあてて考える。自分の魔力が強い、それはとても素敵な事に思えた。「私はいったい何の魔法が使えるのでしょう、出来ればクライフィス様の土の魔法と相性が善い属性だといいのですけど…」
「さあ、こればかりは覚醒してみないと分かりませんだけど、土の魔法は風以外とは相性が善い、確率は高いと思いますよ」ロイドが励ますように言った。
「そうだ、クライフィスで思い出した」ラークファクトが一瞬笑みを消して続ける「どうやら次元ホールが以前に比べて開きやすくなっているらしく、国内は油断の出来ない状態が続いているらしいです。万一今ウルナハインに攻められたらグランドトーテムでもただでは済みません、もしかすると存続の危機にさらされるかもしれない」
シンシアはドキリとして気を引き締める。
「まあ、ウルナハインにはエールメイレンが睨みを聞かせているのでしばらくは動く事は出来ないはずです。全てはシンシア様のおかげですよ」ロイドは場を和ますように優しくシンシアに言った。
「い、いえ、私は何もしていません、全ては父や姉のおかげです」シンシアは顔を赤らめて俯く、恥ずかしくなってずっと気になっていた事を聞いてみようと思った。クライフィスの居る前では聞けない事を「そう言えばあれは何故なんですか?」
「えっ…あれとは…?」二人が聞き返す。
「ええ、私がこのお城に来た時ジェラウド様と三人でクライフィス様私を選ぶと思ったと言っていた事です。何故私を選ぶと思ったのですか」
「あははは…そのことか…」ラークファクトは何かを思い出したようで笑いだす。どう見ても辛いのを我慢している様には見えない。
「たいしたことではありませんよ。シンシア様」代わりにロイドが語りだす「あれは私達が貴族学院の高等科へあがった最初の年の事でした。私とクライフィス、ラークファクト、ジェラウドの剣術の成積上位四人が初等科の一年生の女生徒に周に一度、剣の稽古を付ける事になったのです。まだ小さい子とはいえ情熱の国グランドトーテムの女性、王子様や上級貴族の子息、成積優秀な二枚目の特待生などが稽古をつけてくれると聞いて大喜びでそれは稽古の時などみんな猛アピールしてきました。けど一人だけそうじゃない子が居たのです。その子は運動神経が鈍くて剣術は得意ではありませんでした、そのせいで剣術の稽古は嫌いなようでした。元々内気な性格でもあった様ですし、所がクライフィスは猛アピールする他の子には眼もくれずその子の元へ駆け寄りマンツーマンで教えていました。それはもう講師としてひいき以外の何物でもない程にね。ちなみに卒業までクライフィスはその子の事を気にかけ剣術以外でも色々と面倒を見ていました」
「あの…ロイド様、その子とクライフィス様の関係は…」シンシアはとても気になっていたが強く質問できずに口ごもる。
「ご心配はありませんよ、シンシア様」笑いが治まったラークファクトが答える「実は二人の関係は私達も期待して生温かく見守っていたのですがとうとう卒業まで講師と生徒以上のものには発展しませんでした。クライフィスは情熱の国の王とは思えないほど奥手な男です。そのクライフィスの心を射とめたシンシア様を私達はすごいと思っているほどです」
「まあ…」少し顔を赤らめるシンシア。
次いでクライフィスの貴族学院時代のエピソードを聞いて、いかにもクライフィスらしいと思う、その過去を知れば知る程にその気さくな人柄と優しい性格を好きになって行く様な気がした。
「懐かしいな貴族学院」ロイドは昔を思い出した様に呟いた「そう言えばあの子はあれからどうしているのだろう、順調に行って居れば今は貴族学院の高等科に居るはずだ」
「何を言っているロイド、あの子は中等課程までで貴族学院を卒業して今はこの城で行儀見習いをしているのだぞ」ラークファクトが言った。
「そ、そうなのか?」
「そうなのですか?」
シンシアとロイドの声が重なる。
「シンシア様はともかくロイドも知らなかったのか、この間の件相談したのもあの子だ。まあ騎士達が多い所の仕事はあまりしていないみたいだけど、王妃の間には交代で勤務にあたっているらしい、シンシア様はご記憶にありませんか、プリシラという茶色い髪の侍女ですけど」
「プリシラ…あ、あの子の事ね」シンシアは少し考えればすぐに思いついた。交代で来る侍女の中の一人で少し控えめな大人しい子だ。明るい侍女が多い為に返ってそう言う子が目立つ、シンシアと気が合いそうな気もするが話しかけるきっかけを掴めずに居て、いまだにほとんど言葉をかわした事すらないが、とてもいい子そうでシンシアは好きだった。
その翌日、その日は面会の予定が貴族の方の都合でキャンセルになり、クライフィス達もお茶会に来られないと言うので午後は珍しく予定がなかった。シンシアは勉強のおさらいをしたり本を読んだりして過ごしていた。シンシア付きの侍女や騎士達もそれぞれの仕事をしている。王妃付きと言ってもシンシアの側にばかり居ればいいというものではない、雑用や書類仕事なども回って来るらしい、さらにこの間に次元ホールの視察以来交代で休みを取っているらしく人手も足らないらしい、シンシアが大人しいのをいいことに今は全員他の仕事の為に席をはずしている。
シンシアはパタンと呼んでいた書物を閉じる。なかなか面白く予定より早く読み終ってしまったのだ。早く続きを読みたいが、今日はライトが休みでいない。まあ他の家来を連れて行けばいいのだろうがシンシアの中に少し冒険をしてみたいという好奇心が芽生える。誰もいない事を改めて確認すると衣裳部屋にある侍女の服に着替える。ベルから一着貰ったものだ。図書室へ行く時など目立たぬようにはこれを着て行くのだ。特徴のある淡い青色の髪は頭巾をかぶって隠す。侍女達が掃除や炊事の時などに髪が落ちない様にかぶる物でそれをして城の中や図書館を歩いている侍女も多いので目立たない。
シンシアのちょっとした冒険は始めの内は上手く言った。まあ城の図書館へ出かけるだけなのだ、もう十八歳のシンシアが迷ったり困ったりするはずもない。お目当ての本を借りて部屋へ戻る途中。シンシアは突然はっとして柱の陰に隠れる。そして見つからない様に顔を出してそっと覗きこむ。
そこにはクライフィスの姿があった。とても楽しげに侍女と話をしている、その相手はあのプリシラだ。プリシラの方もとても楽しそうに笑っていた。そうクライフィスは忙しいと言って自分のお茶会にも来ないで侍女とまるで恋人同士の様に笑っている。その侍女が自分と会う以前よりクライフィスと関わりの会った侍女だけに気が気でない。シンシアの中に熱いものが込み上げる、同時に悔しさもだ。それは混ざり合い全身を駆け巡る。持っていた本をぎゅっと握りしめその場に立っていられないのではないかと思うほど苦しいがその場を動けない、ハァハァと荒く息をして何故か涙が頬をつたる。
その日クライフィスが政務を終えて王妃の間に帰って来るとそこは昨日とは違う雰囲気だった。シンシアの姿は無く、居るはずの家来達の人数も少ないバルドスとベルが困った様な顔をして立っているだけだ。
「バルドス、ベル、シンシアは何処だ?」溜まらず尋ねるクライフィス。
「え、ええ…奥の間に居ます」ベルが俯き加減で答える。
「そ、そうか…」不審に思いながらも愛しい妻に会う為、奥の間へ向かおうとするクライフィス。
「あ、ク、クライフィス様…」バルドスが呼びとめる。
「なんだバルドス」少しむっつりと答えるクライフィス。
「そ、それが…なんだか王妃様の様子がおかしいのです、少し眼を離した隙に居なくなって戻って来られたら部屋に閉じこもっておしまいになって…服装から想像するとどうやら図書館へ行って来た様なのですが…」
「そうか…」顎に手をあてて少し思案するクライフィス「他の者の中で何か知っている者はいないか?」
「それが、アイリーンさんもライト殿も今日はお休みでして、フラニーさんは夜勤の為に夜にならないと出て来ないです」
「そうか、アイリーンとライトが揃っていないとはな…」頼りになる二人が居ないのは心もとない。とにかく会ってみないと何があったのかを聞く事も出来ないと思い、シンシアの居る奥の間へと向かう。
ドンドン
やや強めに扉をノックして声をかけるクライフィス。
「シンシア、私だ、クライフィスだ。どうしたのだ、困った事でもあったのかならば相談に乗る。入るぞ」そのまま入ろうとするが鍵がかっておりドアがガチャガチャと言うだけだ。
ドンドン
「シンシア、開けてくれ」ドアの側で必死に叫ぶクライフィス。
ドアの向こうはしばらく沈黙していたがやがてシンシアの声がドアの向こうから聞こえて来る。
「なんでもありませんわ、クライフィス様、私だって一人になりたい時があるのです」シンシアのものとは思えないほど冷静で冷たい声。
「そ、そうなのか…いや、しかし何もない様には見えない、バルドスとベルも心配している。開けてくれ…」
「心配しているのはバルドスとベルであなたではありませんのね」
「な…!」意外な反応に一瞬言葉を失うクライフィス「私だってもちろんあなたの事を心配している。そんな事は当たり前だろう、言わなければ分からないのか」
「分かりませんわ、私は政略結婚で連れて来られたばかりの人質、付き合いも短いですから。そんな私ではなくクライフィス様を理解してくださる親しい侍女でも側室に迎えてそちらでよろしくやっていればいいのではなくて…」
「な…!」あまりのいい様に再び絶句をするクライフィス、そしてすぐに頭に血がのぼり始める「何を言い出すのだ!シンシア。それではまるで私がそなたと嫌々結婚して侍女と浮気をしているようでは無いか…」
「クライフィス様」慌ててベルが止める。そしてシンシアの声の聞こえない所までクライフィスを下げた。「今はおよしになられた方がよろしいです。女はああなると手がつけられません。今日はさがり、明日冷静になられましたら私達がお話を伺います。対処はその後に考えればよろしいかと思います」
「私も同じ意見です。シンシア様はあれで意外としっかり者ですので一人でも大丈夫でしょう、困った事があれば夜勤の侍女や騎士も居ますので」バルドスも説得に加わる。
「う、うむ…しかし…」困った様に黙りこむクライフィス、しかし嘆願する様に眼を潤ませるベルと凛として譲らない様子のバルドスを見ると今は引き下がらなくてはならないと思った。そしてクライフィスは愛する妻の居るはずの寝室をもう一度恨めしそうに眺めた後王の間へと引き返して行った。