日本国
ある演劇が行われている。
「私たちは、狭い交差点を通ろうとしている」
と1人の青年が舞台で声を上げる。
「私たちは、1人でありながら実際は一部である。」
と1人の少女が言う。
舞台のわきから老人が現れる。
「君たちは、どうして苦しむのかい?」
2人の若者は迷わず、
「どうしていいのかわからないから。」
と声を合わせる。
老人は、そのセリフを待っていたと言わんばかりの表情をして、こう言った。
「君たちは、ずっと苦しみ続けるかもしれないね。」
3人は、声を合わせ、悲しみを含みながら、しかしどこか歓喜の表情をして
ある歌を歌い始めた。
日常に生きる人には、日常の大きな変化には気づかない。
日本が、世界が、依然と何か違うことを感じ取る、少数派がこの世界には、いた。
そも、依然とは何かしらの過去があって、成立する概念だが、その過去というものを日常に生きていれば、感じることは不可能と思われる。
比べる対象がなかれば、どうしようもない。
つまり、変更前の記憶を持った新しい存在がこの世界には、いた。
「そういえば、こんな言葉があった。。『テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう』ってね。」
とある男が口を開く。
彼の名は政岡輝樹。元内務省職員であったが、実質的な解体により今は、ある民間企業の経営部に所属している。内務省という存在はあったが、さまざまな部門の強制的独立化により、形骸化していた。
そして、それを行ったのは、もうひとつの日本の政府、第三課といわれる組織であった。
政岡に話題を振られたもう一人の男がいた。
彼の名は、冬坂鳴海。冬坂はこう言った。
「大宅壮一の言葉ですね。白痴。つまり全てにおいて、介助が必要な状態であると言いたいのですか?」
政岡は冬坂の顔を一瞬見て、
「確かに早い話、そういった見方もできるが、なにも早合点する必要なんてないよ。ただ気付けば、我々、現代人はまるで「白痴」の肉体と本能だけになってしまっていないか?
そもそも現代の高機能な社会を成立させるには、まず我々が部品として成立しなければいけない。そして、部位を選ぶことができるのは、極一部の優秀な人間だけだ。
そして、それ以外の部品は、自分自身がその仕事だけを効率よくこなせる様に考えるだけだ。
部品であれ人である限り、基本的な感情があるわけで、部品として生き続けるには、何であれ、欲を満たす必要が出てくる。低俗でも何でもそれは、構わない。
結果的に人は肉体と本能だけになった。違うかい?」
冬坂と政岡はイスに腰掛けている。
冬坂は、床を見て、少しの間黙っていたが、
「生命は、あまりにも受け身すぎますよ。」
政岡は徐々に言葉のトーンを下げていった。
1967年のある日本。
事は確実に動いている。
方向性を欠いた流動に人は、恐怖する。