紫紺の花嫁 4.女神像
静かだと、バシリウスは思った。
城の誰もが慌ただしく駆け回っているというのに、この大広間の中だけは緩やかに時が流れている気がした。まるで物語の挿絵のように、すべてが止まって見える。
バシリウスは気怠げにフードをとると、広くなった視界で女神像を探した。
この大広間には、東に面した壁に大きな丸いステンドグラスが飾られていた。そこには初代国王が自らデザインした、慈愛の微笑みを浮かべる女神像が描かれている。
長い金髪をそのまま背中に流し、純白のドレスを身に纏う女神。瞳を閉じ、口の端を僅かに上げて微笑むその姿に、目にした者は誰しも感嘆のため息をこぼす。朝日が差し込む頃、その光を受けてきらきらと輝く女神は、神秘的で幻想的だった。
贅の限りを尽くしたこの城内で、彼が唯一気に入っている物がこの女神像だった。
「白の魔術師様は、女神像がお好きですか」
バシリウスに声を掛けたのは、この城に仕え始めたばかりの魔術師だった。
入隊した兵の中で、誰よりも魔術の才が抜きん出ていたため、バシリウス自ら部下にと取り立てた男だ。その働き振りをみていると、魔術の知識もさることながら、政治や経済、果ては医術の心得もある有能な人物であった。何故これほどの男が、今まで誰の目にも留まらず埋没していたのか不思議なくらいだった。
ユリウスという名のこの男は、城内でバシリウスの知識についてこられる数少ない人間であり、わずかひと月足らずで彼の片腕ともいえる存在になった。それだけ、ユリウスの実力を認めていた。
「お前はどうなのだ?この大広間に入るのは初めてだろう?」
常ならば、地位も権力も無い、一介の魔術師が入ることのできない煌びやかな大広間。今はバシリウスの許可を得て入っているが、本来は近づくことすら許されぬ場所なのだ。
普段は他人に無関心なバシリウスも、この男がこの場で何と答えるか少々興味があった。
「確かに美しいと思います。ですが私にとって、この世で一番美しい女性は他におりますので」
「ほう」
色恋に無頓着そうな顔をした、常に涼しげな表情を崩さない部下からの予想外の返答に、バシリウスは含み笑いを浮かべた。
「まさかお前が、恋の虜とはな」
ユリウスは、その美しい顔に小さな笑みを浮かべた。しかしすぐに部下の顔に戻ると、その場から静かに一歩引いた。
「私の作業は終わりましたので、外の者を手伝って参ります」
「ああ。・・・ああ、ユリウス」
「何か?」
「それが終わったら、姫を花見の部屋へお連れしろ」
「かしこまりました」
ユリウスが大広間から出たのを見届けてから、バシリウスは最後の仕上げに取り掛かるべく香油を手に取った。樹木の香りのするそれを、彼が先ほど描き終えた複雑な模様をした魔法の陣の上に、決まられた順序にそって少しずつ垂らしていく。そして、仕上げとばかりに粉末状にした純度の高い魔石―――人間が魔法を使う為に必要な、特殊な力を帯びた石―――を散らした。それはまるで意思を持っているかのように、香油の上を滑るようにして陣の中に広がっていった。
完成した陣を見つめ、バシリウスはそっと嘆息する。
あとは約束の時がきたら、ただひとつの言葉を紡ぐだけ。
***
庭園をしばらく散策した後は、リヨンとエヴァルトを伴って温室に来ていた。バラの苗で埋め尽くされたそこは、数少ないお気に入りの場所でもあった。
「ああ、良かった。まだ咲いている花があったわ」
もう無いかもしれないと半ば諦めていたが、柵に蔓を巻きつけて咲いている白いバラを見つけて、安堵のため息を零した。
「シュネーバルツァーというバラで、雪のワルツという意味よ」
「きれいですね」
リヨンがうっとりと呟く。
「まるで雪のようですね」
「気に入ったかしら?」
「はい。綺麗でかわいらしい花ですね」
「よかった」
私は、美しく咲いているシュネーバルツァーをひとつ、ふたつ、みっつと鋏で切った。ひとつをリヨンの左耳の上に挿し、もうひとつを自分の左耳の上に同じように挿した。最後の一輪はエヴァルトの制服の左胸に飾った。
リヨンは、少し困った顔をした後、控えめに微笑んだ。エヴァルトも同様に、戸惑いを見せてから、やはり微笑を浮かべた。
「とても嬉しいです。ありがとうございます、姫様」
「この上ない幸せでございます」
「ふふ。ふたりとも良く似合うわ」
「姫様は、女神様みたいにお綺麗です」
「まあ。私が女神様?」
「はい!」
握りこぶしを作りながら、リヨンは当然とばかりに言い切った。自然と、顔が綻んでしまう。
「奇遇ね。リヨンも私の女神様よ?」
悪戯っぽく笑うと、予想通り、リヨンは顔を赤くして首を横に振った。
「そ、そそそんな恐れ多い!」
そんなに振ると首を痛めるわよ・・・と思いながらも、真っ赤になって慌てふためくリヨンが可愛らしくて、耐えきれず笑ってしまった。それを"からかわれた"と捉えたのか、リヨンは口をへの字にして、精一杯の"怒り顏"をした。
「酷いです姫様。からかわないでくださいませ・・・」
「あら。からかっていないわよ?」
少し位置のずれた彼女のシュネーバルツァーを、そっと直してやる。
「あの塔で一人きりだった私には、あなたは奇跡なのよ」
誰も寄り付かなかった北の塔に、あなたが現れたから。
私はやっと、笑えるようになったのだ。
奇跡だと、思った。
「姫様」
呼びかけるエヴァルトの声には、先ほどまで無かった硬質さが含まれていた。
その声に、ああそうか、と現実を思い出した。
否。夢から覚めた。
だから灰色のローブの男が目の前に現れても、その意味を問わなかった。
「姫様。お約束の時間でございます」
女神の顔から、微笑が消えた。