紫紺の花嫁 3.庭園
箱庭の中の、小さな花。
私に残された、最後の一輪。
「―――姫様。寒くないですか?」
ふと気づくと、リヨンが気遣わしげにこちらを見ていた。
すると、体が思い出したかのように寒さを感じ始めたが、私は彼女に「大丈夫」と短く告げた。このくらいの寒さなら、まだ耐えられる。しかしリヨンは納得していないのか、心配そうに眉を下げた。
「やっぱりだめですよ、姫様。お体が冷えます。どうぞこれを羽織ってください」
リヨンは肩に掛けていた己のショールを、私の返答を待たずに羽織らせてくれた。ワインレッドの大きなショールは、彼女の心のように温かい。
「ありがとう。素敵な色ね。あなたの手作り?」
「いえ。母のような人が・・・」
言いよどむリヨンを見て、エヴァルトがくすりと笑った。
「彼女が作るよりも、綺麗に仕上げたそうです」
「もっと時間があったら、私だって綺麗に仕上げれたわ」
ムキになって反論する姿が微笑ましくて、私は思わず笑ってしまった。
裁縫や刺繍は得意のようだから、間違いなく手先は器用なはずなのに、編み物との相性だけはあまり良いとは言えないようだ。
「本当です!姫様。私だってやればできるんですよ?」
頬を膨らませたリヨンを見て、私は頷いて見せた。
彼女の、青空のように澄んだブルーの、まあるい瞳が好きだ。
肩まで伸ばされた、少し癖のある亜麻色の髪。くるくるとよく変わる表情。明るい声。活発な性格。優しい心。
その全てが大好きで、同時に羨ましくもある。
もしも彼女と同じものを持っていたのなら、私も愛される人間になっていたのだろうか?
「姫様。小川が見えてきました」
リヨンが指差す方に、庭園の中を流れる細い川が見えた。
「リヨン。ここは、春になるとたくさんのチューリップが咲くのよ。その横ではムスカリのかわいらしい紫の花が咲き誇り、水仙の白い花が小川を縁取るように並ぶの」
目を閉じれば浮かんでくる、かつて見た光景。
小川に沿って生える水仙。まっすぐに頭を伸ばして咲き乱れる、赤や黄色のチューリップ。その暖かな色に沿って、ムスカリ、ヒヤシンスがまるで絨毯のように広がって―――。
「アンテミスのクリームイエローの花びらがとても綺麗で、クレマチスの小さなピンクの花も・・・」
今は何もない、冷たい水の流れる川。
上流から流れてきた紅い楓の葉だけが、色鮮やかに水面の上をたゆたう。
「姫様は、本当に花がお好きなんですね」
「ええ・・・」
暖かな春の日差しの中で、誇らしげに咲く花を見るのが好きだった。
寒い冬を乗り越えて咲く、強くて美しい花。
「花の中に埋もれている間だけ、私は幸せでいられたの」
心の内にすまう悲しみや憎しみを、花は忘れさせてくれた。
でも今は違う。
リヨンとエヴァルトが"私"という存在を認めてくれたときから、ドロドロとした醜い感情が雪解けのように消えてゆくのを感じた。
「姫様」
物思いに耽っていた私の耳に、リヨンの呼ぶ声が聞こえた。彼女は両手で私の手を取り、そのままぎゅっと包み込んだ。
「リヨン?」
どうしたのかと視線で問うと、リヨンはにこりと笑って言葉を続けた。そのブルーアイは私の両目を、しっかりと見つめている。
「花もいいですが、世界には楽しいことがたくさんあるんです。・・・もちろん嫌なこともありますけど、私とエヴァルトは何があっても姫様の味方です。みんなで嫌なことを乗り越えたら、そのうち"楽しい"に変わります。姫様はおひとりではありません。そのことをどうか覚えていてください」
太陽に向かって咲く、生き生きとした、色鮮やかなタンポポのように。
あなたはどんな時でも、その暖かな笑みを私に与えてくれる。
「・・・ありがとう、リヨン」
彼女のその笑顔、その言葉が胸と目頭を熱くさせる。優しい気持ちにさせてくれる。生きる希望を与えてくれる。
ああ、リヨン。
何度告げれば、この気持ちは伝わるのでしょうか?あなたへの感謝の気持ちは日に日に大きくなるというのに、それを伝える術を私は知りません。
「ありがとう」
私に残された、唯一の花。