紫紺の花嫁 2.魔術師
姫の後姿が長いテラスの先へ消えていくのを見届けてから、バシリウスは傍らに侍っていた男に短く告げた。
「私は、陛下にご報告に上がる」
白いローブを翻して、バシリウスは姫の消えていった方とは違う道へ歩き出した。
城内には魔術師が数人控えているが、この城の中で二つ名を持つ魔術師はただ一人だった。国一番の使い手である、バシリウス・キーファー。またの名を『白の魔術師』。白い無地のローブを羽織る姿から、その二つ名がついた。
この国でその名を知らぬ者はいないほど、バシリウスは魔術師として有名だった。魔術に関するあらゆる知識と技術を習得し、世界中に数多といる魔術師の中で、五指に入る実力の持ち主だ。
そして魔術師としての力量もさることながら、政治や外交に関する知識も豊富な為、彼に対する国王陛下の信は厚い。国政にも関与する彼のそれは、魔術師としては異例のことであり、どれだけ国王に信頼されているかを表していた。
バシリウスはサロンの前に立つ騎士に「陛下に取次ぎを」とだけ告げる。騎士は、陛下がこの魔術師に会うことを拒むはずが無いと思いながらも「しばしお待ちを」と言い残し、扉の奥へ消えていった。
騎士は戻ってくると、何も言わずにバシリウスの為に扉を開ける。それが当然のように、バシリウスも何も言わずに扉の奥へ歩みを進めた。
サロンの中では、柔らかな椅子に身を沈め、ゆったりと食後のお茶を楽しんでいる王の姿があった。その横には、同じように寛いでいる王妃の姿もある。
バシリウスは入室してすぐに立礼すると、王の前で片膝をついた。
「あれは出てきたか?」
皿の中の砂糖菓子をひとつ、王は口に含んだ。咀嚼する音を耳障りに思いながら、バシリウスは言葉少なに答える。
「はい。城内を廻っておられます」
「そうか。約束の刻限には遅らせるな」
「畏まりまして」
「これで心配の元が減るな」
最後に深々と頭を下げ、バシリウスはそれ以上言葉を発しないまま、サロンを後にした。
ここしばらく、政務に勤しむ王の姿を見た者はいない。贅を尽くした調度品に囲まれながら享楽に耽る姿は、まさに醜悪そのものだ。余分な脂肪を蓄えた肉体は、見るも無残な道楽者の成れの果てである。
ああはなりたくないものだと、バシリウスは思う。だが彼にとって、王が政務に無関心であればあるほど、都合が良かった。おかげで事は順調に進んでいる。
冷ややかな瞳でサロンの扉を一瞥して、バシリウスはその足で王弟が滞在している館に向かった。
王弟フィデリオが滞在している館を、"ヴァレンティーネの館"と呼ぶ。
三代前の王が、寵愛していたヴァレンティーネという側室の為に建てた館だが、豪奢なその館は今では客人を迎える時にしか使われない。特に他国からの賓客があった際や、王族が使うことになっている。
バシリウスが入室すると、フィデリオは長身の体を窮屈そうにソファに収めながら、お気に入りの作家の詩編を読んでいた。髪や瞳の色こそ兄と同じ鳶色の髪とグリーンの瞳だが、兄とは違い武術を嗜むフィデリオの体躯は、城に仕える騎士のそれと遜色ないほどだ。精悍な顔立ちに相応しい力強い瞳は、迷いなく真っ直ぐ前を見据えている。そんな威風堂々とした彼を支持するものは、宮廷内に少なくない。しかし彼は玉座に対して執着が無く、外交と称して各地を飛び回る今の生活が好きだと言う。
フィデリオはバシリウスの姿を認ると、人好きのする笑みを浮かべ、近くの椅子を彼に勧めた。
「兄上にお会いしたか?」
「はい。こちらへ伺う前に」
すぐさま、そばに控えていた侍女が二人のために茶を用意する。
「南の国から持ち帰った茶葉だ。香りに気が静まる効果があるそうだ」
フィデリオの言葉通り、さわやかな香りが漂ってきた。淹れたての紅茶ひと口、ふた口と含み、十分に喉を潤してから、バシリウスは姫のこと、陛下のこと、そしてこれからのことを簡単に説明した。
「兄上は相変わらず無関心だな。御自分のお子だというのに」
バシリウスは肯定も否定もせず、ただ微笑を浮かべた。
「何か仰っていたか?」
「心配の元が減る、と」
「なるほど」
さすがは兄上、と皮肉をたっぷり含ませて、フィデリオは笑った。
「我が子をそうまで無下に扱えるとは。恐れ入る」
「我が子と思ってらっしゃるのでしたら、そもそも幽閉などなさらないでしょう」
「確かに。して、レナーテは今どこに?」
「おそらく庭園かと」
「庭園か・・・」
城外に出られなかったレナーテの、唯一の慰みの場。
バラ園に隠れて泣いていた、幼い頃の姪の姿を思い出して、フィデリオはそっと目を伏せた。
今も昔も、彼女の世界はこの城だけだった。外の世界を知らない、籠の中の鳥。
時折、兄の目を盗んで外出の許可を出したが、フィデリオの力を持ってしても、彼女を城の外へ出してやることは叶わなかった。城外に出たと兄の耳に入ったら、あの子がどんな酷い罰を受けるか容易に想像できるからだ。自分の娘のことを『王家の恥』とまで思う人だから、怒りの矛先を全てあの子に向けるだろう。
だから行動範囲も限定した。あの子に許したのは庭園と図書室、この二箇所だけだ。それも、フードの付いたローブを着用させ、しっかりと顔を隠した状態で。
ローブで体をすっぽりと覆い、バラの海の奥深く、誰にも見つかることのない場所で。縋れる名前すら知らず、ただ泣くことしかできない6歳のあの子に、掛ける言葉が思いつかなかった。
――何と言えば良かった?
当時も今も、フィデリオはその答えを見つけることができない。
その代わりに、彼はひとつの決意をした。
「バシリウス」
力強い声に呼ばれ、バシリウスはすっと姿勢を正した。
「予定通り、進めてくれ」
白の魔術師は、誰もが見惚れるほどの、嫣然とした笑みを浮かべた。
「御意」
―――誰にも邪魔はさせない。




