紫紺の花嫁 1.北の塔
純白の花嫁衣裳を身に纏い。
私は今日、生贄となる。
紫紺の花嫁
ゆっくりと、一歩を踏み出すことすら惜しむように、時間を掛けて螺旋階段を降りる。
前には騎士がひとり、後ろには侍女がひとり。
二人とも、私の歩調に合わせて、同じようにゆっくりと階段を降りる。時折、前を行く騎士が気遣うように声を掛けてくれる。
「姫様。今日は、とても気持ちの良い晴天でございます」
「ええ、エヴァルト。本当に・・・綺麗な青空。朝陽が眩しいわね」
小窓から望む澄んだ青空と、それに映える紅葉が、とても美しかった。
ああ。世界はなんて美しいのだろう。
「リヨン。あの紅い木々が、見える?」
言いながら後ろを振り返ると、侍女のリヨンはかわいらしく微笑んでいた。
「はい。イチョウと楓が、綺麗ですね」
年は私と同じくらいなのに、リヨンは笑うともっと若くなる。女性にとって、実年齢より若く見られることは良いことだと思うのだが、彼女自身は年相応に見られないことに頭を悩ませているようだった。
「昨日、エヴァルトが姫様に差し上げた楓の葉。あの葉は、ちょうどあの辺りの木から拾ってきたそうですよ」
「まあ。そうなの、エヴァルト?」
「はい、姫様」
エヴァルトは控えめに笑い、「紅葉は遠くから眺めるのも良いですが、近くで落ち葉を拾いながら見上げるのも楽しいですよ」と続けた。
燃えるように赤く染まった木々を見上げながら、二人と一緒に楓の葉を拾う姿を想像した。それはとても楽しく、色鮮やかな美しい思い出として、私の記憶に永遠に残るだろう。
「とても素敵ね。楽しそう」
しかしそれは、私の手の届かない世界だわ。
「・・・姫様?」
リヨンが心配そうな顔をして、私の顔を覗き込んだ。その瞳に、私を案ずるあの優しい心が見えたから、私は沈んだ気持ちをしっかりと立て直すことができた。
すぐ近くに、心配してくれる人がいる―――なんて幸せなことなのだろう。
「大丈夫よ、リヨン」
私が微笑むと、リヨンは少しばかりの悲しみを瞳に宿しながら、それでも小さく笑い返してくれた。
「さあ。塔を降りてしまいましょう」
陰気で不気味な階段も、親しいこの二人と一緒なら恐ろしくない。
大丈夫。私はもう、ひとりではないのだから。
「最後の一段は崩れやすくなっております。姫様、お手を」
差し出されたエヴァルトの手は、剣ダコのある、ごつごつとした武人の手だった。なのにその手はとても暖かく、私の手をすっぽりと包んでしまう大きさは、絶対的な安心感を与えた。
「ありがとう、エヴァルト」
礼を述べると、彼はブラウンの瞳を優しく細めた。彼の瞳は、雄大な大地を思わせる。窓の外に広がる、あのどこまでも続く広大な大地を。
「結局、この階段は直してもらえませんでしたわ」
リヨンも彼に手伝われながら、最後の一段を降りた。そして腹立たしげに、最後の一段を見つめながら「毎回、上り下りが大変でした」とつぶやいた。
「いつまでたっても直してもらえないから、エヴァルトに修理をお願いしたら、何故か彼が上官に怒られてしまいまして・・・」
「まあ。大丈夫だったの?」
彼は苦笑を漏らしながら「はい」と答えた。
「ですが、修理は止められてしまいました」
「まあ、いいのよ。修理なんて」
私は崩れかけた一段をちらりと見た。
もう、使うことの無い物なのだから。
「そろそろ行きましょう。時間がもったいないわ」
戸惑うエヴァルトに、目で扉を開けるよう指示する。何か言いたそうにしていたリヨンは、けれども口を閉ざし、私のドレスの長い裾を再び持ち上げた。
目の前にあるのは、牢獄の扉だ。
赤茶けた、重い鉄の扉。
父の許しがなければ開かれることのなかったそれを、今、私は自らの意思で開ける。
「エヴァルト。開けてちょうだい」
彼は小さく頷き、錆付いた扉をゆっくりと押した。
長い間私の前に立ち塞がっていたそれが、ゆっくりと開いてく。
「お待ちしておりました」
開かれた扉の向こうには、灰色のローブを纏った男が二人と、その二人から一歩前に出たところに、この城の中で数少ない私の顔見知りがいた。
バシリウス・キーファー。
この国一番の魔術師。またの名を、『白の魔術師』。
年の頃は三十前後の、物腰の柔らかい美丈夫だ。英雄王と名高い初代国王と同じプラチナブロンドとブルーアイを持ち、常に柔和な笑みを浮かべるその姿は、誰の目にも好意的に映る。
しかし私は、この男が嫌いだった。
笑顔を浮かべながら、その腹の中で何を考えているか読めないからだ。
「おはようございます。レナーテ姫」
彼は恭しく頭を垂れて、癇に障るくらい清々しい笑みを浮かべて見せた。
「ごきげんよう、白の魔術師。まさか、あなた自ら来るとは思いませんでしたわ」
白の魔術師は、少し意外そうに方眉を上げた。しかしすぐに、その秀麗な顔に笑みを貼り付けた。
「貴方様のお怒りを覚悟で、お待ち申し上げておりました」
「そう。では貴方にしては珍しく、予想が外れたといったところかしら」
挑発的な言葉には動じず、白の魔術師はただ微笑を浮かべるだけだった。
「姫様のお心の広さには、感嘆の思いでございます」
慇懃無礼な物言いは、おそらく色んな意味を内包している。
もはや罵る気も無い私とは違い、リヨンとエヴァルトからは静かな怒りが感じ取れた。
私のために怒ってくれる彼らが大好きだ。
だから最後の瞬間まで、私は彼らと共にいたいのだ。
「白の魔術師。約束の時間まで、私の好きにして良いはずでしたわね?」
「もちろんでございます。お約束の刻限まで、どうぞごゆるりと」
再び頭を垂れて、白の魔術師は後ろに控えている二人に道を開けるよう指示した。
好奇、侮蔑、恐怖・・・悪意ある視線から守るように、エヴァルトが私の前に一歩出た。背後から、リヨンがそっと私の耳に囁く。「私達がお守りします」と。
優しい言葉が心に染み渡り、気づけば私は笑みを浮かべていた。
「行きましょう。リヨン、エヴァルト」
18年間私を閉じ込めた北の塔。
もう二度と戻ることはない。
鉄の扉が閉まる音とともに、昔読んだ本の一節を思い出した。
―――この門をくぐる者、汝望みの一切を捨てよ。