表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

勇者に捨てられた聖女は、魔族の仕立て屋で花嫁衣装を縫う

作者: 氷見豆
掲載日:2026/05/10


「ナナ。お前はもう要らない」


勇者ルカの声は、冬の湖みたいに冷たかった。


魔王領との境に広がる黒い森。瘴気が薄く漂うその入口で、聖女ナナは荷馬車から降ろされた。


「でも、まだ旅は終わっていません。魔王城までは……」


「新しい聖女が来た」


ルカの隣で、王都から派遣された白金の髪の少女が微笑んでいた。美しい神官服。宝石のついた杖。ナナが一度も与えられなかったものを、彼女は最初から持っていた。


「あなたの治癒は遅いし、戦いにも向いていない。荷物を増やす余裕はないんだ」


荷物。


三年、ナナは勇者一行の後ろを歩いてきた。


剣で裂かれた腕を癒やした。毒に倒れた魔術師の熱を下げた。眠る間もなく結界を張り、裂けたマントを縫い、凍えた夜には自分の毛布を差し出した。


それでも、彼らにとってナナは荷物だった。


「この森を抜ければ村がある。そこまでなら一人で行けるだろう」


嘘だ、とナナは思った。


地図を管理していたのは魔術師だ。食料を握っていたのは騎士だ。ナナの杖は、今、王都の聖女の手にある。


けれど、誰も目を合わせなかった。


荷馬車が去っていく。車輪の音が遠ざかる。最後に風が吹き、ナナの薄い外套だけが足元で震えた。


泣いてはいけない。


そう思った瞬間、涙は勝手に落ちた。


森は深かった。


瘴気は喉に絡み、枝は頬を打ち、足は何度も泥に沈んだ。聖女の力で自分を癒やそうとしても、杖を失った体では小さな傷を塞ぐのがやっとだった。


夜が明ける頃、ナナは森を抜けた。


そこにあったのは、人間の村ではなかった。


黒い石畳。赤い屋根。角を持つ子供たちがパンを抱えて走り、羽のある女性が洗濯物を干している。魔族の街だった。


逃げなければ。


そう思ったのに、足が動かなかった。


最後に見えたのは、小さな看板だった。


銀色の針と、月の刺繍。


その下に、「仕立て屋リオ」と書かれていた。


目を覚ますと、ナナは知らない部屋の寝台にいた。


柔らかな毛布。薬草の匂い。窓辺には青い花が一輪、細い瓶に挿してある。


「起きた?」


声のした方を見ると、青年が椅子に座っていた。


灰色の髪。淡い琥珀色の瞳。人間と変わらない顔立ちだったが、耳の先が少し尖っている。


「安心して。ここは僕の店だよ。君、店先で倒れていたんだ」


ナナは慌てて身を起こした。


「私、人間です。聖女で……いえ、もう聖女ではないかもしれませんが」


「うん。見ればわかる」


青年は少し笑った。


「魔族の街で人間が倒れていたら、普通は大騒ぎになる。でも君、ひどい顔をしていたから」


「ひどい顔……」


「泣きながら倒れていた」


ナナは両手で顔を覆いたくなった。


青年は湯気の立つカップを差し出した。


「僕はリオ。仕立て屋をしている」


「……ナナです」


「ナナ。行く場所は?」


答えられなかった。


王都には戻れない。勇者一行には捨てられた。故郷の小さな礼拝堂は、三年前に王命で離れてから一度も帰っていない。


ナナが黙っていると、リオはそれ以上聞かなかった。


「じゃあ、しばらくここで休むといい。手が動くなら、店を手伝ってくれると助かる」


「私にできることなんて」


「針は持てる?」


ナナは小さく頷いた。


「それなら十分」


仕立て屋リオは、街の端にある小さな店だった。


客は魔族ばかりだった。角を通す穴を開けてほしい騎士。尻尾が動きやすいズボンを頼む少年。羽を傷めない外套を選ぶ老婦人。


最初、ナナはずっと怯えていた。


けれど魔族たちは、ナナを見ると少し驚き、それから普通に布を選んだ。


「人間のお嬢さん、白い糸はどこかしら」


「この袖、もう少し短くしてくれる?」


「聖女様なら、布の祝福もできるのかい?」


敵だと教えられてきた人たちは、よく笑い、よく値切り、よく礼を言った。


勇者一行にいた頃より、ずっと名前を呼ばれた。


ある雨の日、ナナはリオに古いドレスの修繕を頼まれた。


黒いレースに銀糸の刺繍が入った、美しい花嫁衣装だった。胸元の刺繍だけが破れている。


「これは?」


「昔の注文品。花嫁になるはずだった人が、式の前に亡くなったんだ。家族が、せめて綺麗に直して飾りたいって」


ナナは布に触れた。


指先から、ほのかな光が漏れた。


破れた糸が、まるで息を吹き返すように寄り添い、ほどけていた刺繍が元の形を思い出す。


リオが目を見開いた。


「君の力は、傷を治すだけじゃないんだね」


「私にも、よくわかりません。勇者様たちには、癒やしが遅いと言われていました」


「傷口を塞ぐ力だけが、癒やしじゃない」


リオは、直りかけた刺繍を見つめた。


「君は、壊れたものがもう一度形になるのを手伝えるんだと思う」


そんなふうに言われたのは初めてだった。


ナナの胸の奥で、固く丸まっていた何かが少しだけほどけた。


それからナナは、リオの店で布に触れ続けた。


破れた袖。焦げた裾。母から娘へ受け継がれた古い礼服。


直すたびに、人々は笑った。


「ありがとう、ナナ」


「あなたに頼んでよかった」


「また着られるなんて思わなかった」


その言葉は、どんな聖歌よりもナナを満たした。


ある晩、店を閉めたあと、リオが白い布を広げた。


月光を吸ったような、淡く輝く布だった。


「綺麗……」


「月蚕の糸で織った布だ。魔王領でも希少でね。君に似合うと思って取っておいた」


「私に?」


「花嫁衣装を作ってみない?」


ナナは息を止めた。


「誰のですか」


「君の」


思わず笑ってしまいそうになった。


「私、結婚の予定なんてありません」


「予定がないと、作ってはいけない?」


リオは静かに布を撫でた。


「君はずっと、誰かのために服を直してきた。誰かの傷を塞いできた。今度は、自分のために一着作ればいい」


「でも、花嫁衣装なんて」


「誰かに選ばれるための服じゃないよ」


リオの声は穏やかだった。


「自分の幸せへ歩いていくための服だ」


ナナは白い布を見つめた。


勇者に捨てられた森で、ナナは自分の物語が終わったのだと思った。


でも、本当は違ったのかもしれない。


そこから、ようやく自分のための一針目が始まったのかもしれない。


ナナは針を取った。


「作ります。私のために」


花嫁衣装は、少しずつ形になった。


胸元には聖花ではなく、魔族の街に咲く青い月花を刺繍した。裾には小さな銀の星を散らした。背中には羽のないナナでも軽く見えるよう、薄いレースを重ねた。


リオは寸法を測るたび、必要以上に真面目な顔をした。


「腕を上げて」


「はい」


「少し動かないで」


「くすぐったいです」


「仕立ては戦いだから」


「リオさん、戦ったことがあるんですか?」


その瞬間、リオの手が止まった。


ほんのわずかな沈黙。


「少しだけ」


その夜、街に鐘が鳴った。


魔族たちがざわめき、店の外を兵士が走る。


「人間の勇者一行が、街の近くまで来ている!」


ナナの血が冷えた。


翌朝、店の扉が乱暴に開いた。


入ってきたのは、勇者ルカだった。


白金の聖女も、騎士も魔術師もいる。かつてナナを置き去りにした全員が、そこにいた。


ルカはナナを見るなり、眉をひそめた。


「生きていたのか」


胸が痛まなかったと言えば嘘になる。


けれど、前のように足元から崩れそうにはならなかった。


「何の用ですか」


「戻れ。新しい聖女が倒れた。魔王城の結界を破るには、お前の力がいる」


「私は、もう勇者一行ではありません」


「ふざけるな。人間が魔族の街で何をしている。そいつに騙されているんだろう」


ルカの視線がリオに向いた。


その瞬間、彼の顔色が変わった。


「お前……魔王の弟、リオネルか」


店内が凍りついた。


ナナはリオを見た。


リオは逃げも隠れもしなかった。ただ、申し訳なさそうに目を伏せた。


「黙っていてごめん。怖がらせたくなかった」


魔王の弟。


人間の国で、残虐な王族だと語られていた存在。


でも、ナナが知っているリオは、布を大切に扱う人だった。古いドレスに宿る思い出を笑わない人だった。泣きながら倒れていたナナに、行く場所を無理に聞かなかった人だった。


ルカが剣を抜く。


「ナナ、こっちへ来い。そいつは敵だ」


「敵?」


ナナはゆっくりと首を振った。


「私を森に捨てたのは、あなたたちです」


ルカの顔が歪んだ。


「それは作戦上、仕方がなかった」


「私の杖を持っていったのも?」


「必要だった」


「一度も、戻って探してくれなかったのも?」


誰も答えなかった。


ナナは作りかけの花嫁衣装に触れた。


月蚕の布が淡く光る。銀糸が震える。店中に置かれた服たちから、小さな光が集まり始めた。


癒やしとは、傷をなかったことにする力ではない。


破れた場所を見つめ、それでももう一度、形を選び直す力だ。


ナナは初めて、自分の力を自分のために使った。


光が広がり、勇者の剣を静かに押し返した。傷つけるためではない。ただ、境界を作るために。


「帰ってください」


ナナの声は震えていなかった。


「私はもう、誰かの都合で連れていかれる聖女ではありません」


ルカは信じられないものを見る目でナナを見た。


「人間を裏切るのか」


「いいえ」


ナナはリオの隣に立った。


「私を裏切らない場所を、私が選ぶだけです」


しばらく睨み合いが続いた。


やがて、魔術師が小さく呟いた。


「勇者様、今は引くべきです。この結界は破れません」


ルカは悔しげに剣を収め、背を向けた。


「後悔するぞ、ナナ」


その言葉に、ナナは少しだけ笑った。


「後悔なら、もう十分しました」


勇者一行が去ったあと、店内には長い沈黙が落ちた。


リオが口を開いた。


「ナナ」


「はい」


「僕は魔王の弟だ。兄とは違う道を選んで、この街で仕立て屋をしている。けれど、人間の国から見れば、きっと僕は危険な魔族だ」


「そうですね」


ナナが頷くと、リオは少し傷ついた顔をした。


だからナナは続けた。


「でも私は、あなたがどんな手で布を扱うか知っています。どんな声でお客さんに礼を言うか知っています。私が泣いていたことを、誰にも言わなかったことも」


リオの瞳が揺れた。


「それで十分です」


「本当に?」


「はい」


ナナは作りかけの花嫁衣装を見下ろした。


「このドレス、完成させたいんです」


「……君のために?」


「私のために」


少し迷ってから、ナナは言った。


「それから、いつか。あなたの隣を歩くためにも」


リオはしばらく固まっていた。


それから耳まで赤くして、片手で顔を覆った。


「仕立ての採寸より難しいことを言うね、君は」


「リオさんが教えてくれたんです。自分の幸せへ歩いていく服だって」


リオは笑った。


今までで一番、困ったようで、嬉しそうな笑顔だった。


花嫁衣装が完成したのは、春の最初の日だった。


魔族の街の広場には、青い月花が咲いていた。人間の国の聖堂も、王の許しも、勇者の祝福もなかった。


それでも、店の客たちは皆集まった。


角のある子供が花びらを撒き、羽のある老婦人が泣き、尻尾の長い少年が「ナナ姉ちゃん綺麗!」と叫んだ。


ナナは自分で縫ったドレスを着て、石畳を歩いた。


白い布は朝の光を受けて淡く輝き、裾の銀星が一歩ごとに揺れた。胸元の青い月花は、まるでこの街で生まれた心臓のようだった。


その先で、リオが待っていた。


仕立て屋の黒い上着ではなく、銀糸の刺繍が入った礼服を着ている。けれど、緊張で少し襟が曲がっていた。


ナナは近づいて、その襟を直した。


「仕立て屋さんなのに」


「今日は手が震えるんだ」


「私もです」


二人は笑った。


誓いの言葉は短かった。


守るでも、所有するでも、救うでもない。


ただ、隣を歩くこと。


破れたら繕い、迷ったら話し、嬉しい日は一緒に布を選ぶこと。


リオがナナの手を取った。


「ナナ。僕と生きてくれますか」


ナナは、かつて勇者に捨てられた森のことを思い出した。


あの日、すべてを失ったと思った。


でも、失ったものの中には、最初からナナを幸せにしないものも混じっていたのだ。


だから今、ナナは胸を張って答えた。


「はい。私が、そうしたいから」


広場に祝福の声が満ちた。


聖女ナナは、もう誰かの旅路の後ろを歩かない。


魔族の街の小さな仕立て屋で、彼女は今日も針を持つ。


誰かの破れた服を直しながら、ときどき自分のドレスの裾を撫でて笑う。


それは、捨てられた少女が縫い上げた、世界で一番自由な花嫁衣装だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ