第八話:痛みの契約
包囲網が、動いた。
一番近くにいた獣のような貌の男が、喉の奥でグルルと唸り声をあげながら、一歩、前に踏み出した。
それを合図にしたかのように、他のスカベンジャーたちも、じりじりと距離を詰めてくる。
彼らの手には錆びついた凶器が握られ、その濁った目は、陸の掌にある一点――スキルチップ――に釘付けになっていた。
もう、迷っている暇はなかった。
「うおおおおおおっ!」
陸は意味のない咆哮を上げた。
恐怖を、迷いを、昨日までの弱い自分を、すべて吐き出すような魂の絶叫。
それはスカベンジャーたちを威嚇するためでも、自分を鼓舞するためでもなかった。
ただ、そうせずにはいられなかったのだ。
絶叫と同時に、彼は右手に握ったガラスの破片を、左腕の内側――青白い皮膚の上へ、力任せに横一文字に引き裂いた。
「――っ!」
声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まる。
皮膚が裂け、肉が断たれる生々しい感触。
想像を絶する激痛が腕から背骨を駆け上がり、脳天を貫いた。
傷口から、堰を切ったように鮮やかな赤色の血が噴き出す。
それはぼろぼろのブレザーの袖を濡らし、地面にぽたぽたと滴り落ちて、乾いた土に黒い染みを作った。
スカベンジャーたちが、一瞬、足を止める。
獲物が、自らを傷つけ始めたのだ。
その常軌を逸した行動に、彼らの卑しい欲望が、わずかにためらいの色を滲ませた。
陸は、その一瞬の隙を決して逃さなかった。
痛みで霞む視界の中、彼は左手に握りしめていたスキルチップを、今しがた自ら作り出したその生々しい傷口へと、強く押し込んだ。
――瞬間、世界が反転した。
「ぐ、あああああああっ!?」
痛み、ではなかった。
それは、痛みという陳腐な言葉では到底表現できない、異質な感覚の奔流。
冷たい金属の塊が、熱を持った肉をこじ開け、体内に侵入してくる。
その物理的な異物感。
チップが血管に触れたのか、心臓を直接鷲掴みにされたような強烈な圧迫感。
そして、チップから放出された未知のエネルギーが、まるで高圧電流のように腕の神経を伝って、全身へと駆け巡っていく。
拒絶。
拒絶。
拒絶。
彼の身体が、そのすべての細胞が、この異質な侵入者を全力で拒絶していた。
全身が、まるで陸の意思から独立したかのように激しく痙攣する。
歯の根がガチガチと噛み合わず、耳の奥ではキィンという甲高い金属音が鳴り響いている。
視界が、赤と黒に点滅する。
自らを傷つけた時の生々しい痛み。
未知の異物が体内を侵食していく、冒涜的な感覚。
そして、この先に何が待っているのかまったく分からない、底なしの恐怖。
後戻りはできない。
もう、引き返せない。
やってしまった。
俺は、人間じゃない何かに、なってしまうのか。
絶望が、黒い津波のように彼の心を飲み込もうとする。
だが、その津波の底で、ほんの小さな光が、確かに瞬いていた。
これで、何かが変わるかもしれない。
あの無力なまま、ただ殺されるだけの自分ではなくなれるかもしれない。
生きられる、かもしれない。
「俺は……」
痙攣する唇から、血の混じった声が漏れる。
「生きて……帰るんだ……!」
それは、誰に聞かせるでもない、彼自身の魂との契約だった。
その言葉を合図にしたかのように、腕に埋め込まれたチップが、ひときわ強い光を放った。
もはやそれは、ただの金属片ではなかった。
陸の肉体に根を張り、彼の血を吸い、彼の魂を喰らって、今まさに覚醒しようとしている未知の生命体。
契約は、果たされた。
その代償が何であるかを、陸はまだ、知らなかった。




