第七話:選択の時
静寂は、長くは続かなかった。
血の匂いは、この世界の飢えた獣たちにとって、何よりのご馳走を知らせる狼煙だった。
陸は、肌を刺すような複数の視線を感じていた。
瓦礫の山の陰。
崩れた壁の向こう側。
闇に紛れて、光る目がいくつもこちらを窺っている。
先ほどの戦闘を、遠巻きに見ていた連中だ。
二人の屈強な男と、謎の力を持つ老人が相打ちになった今。
残されたのは、見るからに弱りきった少年と、三つの新鮮な死体。
そして、謎の力の源泉である、一つのスキルチップ。
彼らの目に、もはや警戒の色はなかった。
あるのは、ハイエナのような卑しい欲望だけだ。
じり、と瓦礫が擦れる音。
包囲網が、ゆっくりと、しかし確実に狭まってきている。
陸の掌には、あのチップが握られていた。
老人の体温は、もう感じられない。
代わりにチップそのものが、まるで自らの意思を持つかのように、微かな熱と脈動を放っていた。
トクン、トクン、と。
それは、恐怖に高鳴る陸の心臓と、不気味に共鳴しているかのようだった。
『人であることを、捨てろ』
老人の最後の言葉が、頭蓋骨の中で何度も反響する。
このチップを身体に埋め込むこと。
それは、取り返しのつかない境界線を越える行為だと、陸は本能で感じていた。
人間が、人間でなくなるための儀式。
この小さな金属片は、圧倒的な力と引き換えに、何か決定的なものを自分から奪い去っていくのではないか。
そんな根源的な恐怖が、全身を支配していた。
やめておけ、と理性が叫ぶ。
それは、お前の手に負えるものじゃない。
未知の力に身を委ねれば、どうなるか分からない。
正体不明のガラクタ一つに、自分の魂を売り渡すつもりか。
だが、理性の声は、別の、もっと生々しい記憶によって、すぐにかき消された。
腹部を殴られた時の、息の詰まるような衝撃。
地面に押さえつけられた時の、アスファルトの冷たい感触。
鉄パイプが振り下ろされる瞬間に見た、男の醜い笑顔。
そして、なすすべもなく、ただ死を待つだけだった、あの絶望的な無力感。
「……もう、ごめんだ」
陸の唇から、かすれた声が漏れた。
もう、あんな思いはしたくない。
虫けらのように嬲られ、ゴミのように殺されるのは、二度とごめんだ。
地球に帰るんだ。
母さんの飯を食って、親父の背中を見て、くだらないことで友達と笑い合うんだ。
あの、当たり前だった日常に、俺は必ず帰る。
そのためには、まず、ここで生き延びなければならない。
この理不尽な暴力が支配する、クソみたいな世界で。
じり、と、また一つ包囲網が狭まる。
一番近くの物陰から、涎を垂らした獣のような顔が、半分だけ覗いていた。
もう、時間の猶予はない。
陸の脳裏で、天秤がギリギリと軋みながら揺れ動いた。
片方には、「人間としての尊厳」と、未知への恐怖。
もう片方には、「生きる」という、あまりにも原始的で強烈な希望。
『人であることを、捨てろ』
その言葉の意味が、すとん、と胸に落ちてきた。
それは、獣になれ、ということではない。
この世界で生きるために、昨日までの平和な世界で生きてきた、甘い自分をここで捨てろ、ということだ。
無力なまま、誰かに運命を委ねるだけの弱い自分と、決別しろということだ。
そうだ。
これは、呪いの道具なんかじゃない。
これは俺が、俺自身の足で立って、運命に抗うための、たった一つの武器なんだ。
陸の目に、決意の光が宿った。
恐怖が消えたわけではない。
手も足も、まだ震えている。
だが、その震えの中心には、燃えるような熱い覚悟が生まれていた。
彼は震える手で、近くに転がっていたガラス瓶の鋭い破片を拾い上げた。
その切っ先を、自らの右腕――ブレザーの袖をまくった先、青白い血管が透けて見える柔らかい皮膚に当てる。
ひやり、としたガラスの感触。
今から自分がしようとしていることの重大さに、再び心がくじけそうになる。
だが彼は、迫り来るスカベンジャーたちの、欲望に満ちた視線から目をそらさなかった。
これは、選択だ。
誰かに殺されるのを待つか。
それとも、自らの手で未来をこじ開けるか。
答えは、もう決まっていた。




