第六話:託されるもの
圧倒的な力を見せつけた老人が、その場に崩れ落ちた。
その弱々しい姿は、先ほどまでの超常的な力の行使とは、あまりにもかけ離れていた。
陸は殴られた脇腹の痛みに顔を歪めながらも、恐る恐るその人影へと近づいていった。
ローブの隙間から、老人の顔が覗いていた。
深く刻まれた皺。
落ち窪んだ目。
乾ききった唇。
生気は、ほとんど感じられない。
そして陸は気づいてしまった。
老人が押さえている腹部のローブが、どす黒い液体でぐっしょりと濡れていることに。
それは陸がこの数日間で嫌というほど嗅がされることになった、血の匂いだった。
「あんた、怪我……」
陸が声をかけると、老人はぜいぜいと喘ぐような呼吸の中から、かろうじて言葉を絞り出した。
「……ガキ……こっちへ……来い……」
その声には、不思議と逆らえなかった。
陸は引きずられるように、老人のそばに膝をついた。
死の匂いが濃厚に漂っている。
この老人は、陸を助けるずっと以前から、すでに致命傷を負っていたのだ。
「……なぜ、俺を……」
助けたんだ、と続けようとした言葉は、老人の乾いた咳に遮られた。
「……お前が……あまりにも……無力だったからだ……」
老人は自嘲するように、かすかに笑ったように見えた。
「……かつての……ワシを……見ているようだった……」
老人は震える右手を、ゆっくりと陸の方へ差し出した。
その手に握られているのは、あの古びた金属片だった。
近くで見ると、それは黒曜石のような鈍い光沢を放つ素材でできている。
表面には微細な回路のような紋様が刻まれていた。
そして中心では、まるで呼吸をするかのように、小さな光が明滅していた。
「……これを……やる……」
「これって……さっきの……」
「……スキルチップ……この星で……いや、この宇宙で生き抜くための……『力』だ……」
老人はチップを、陸の胸に押し付けた。
その瞬間、陸の脳を強烈な静電気が貫いた。
ブツッ、と古いテレビの電源が落ちるようなノイズ。
それと同時に、網膜の裏側で無数のイメージが火花のように炸裂する。
――見たこともない、きらびやかなネオンの摩天楼。
――緑豊かな、穏やかな田園風景。
――巨大な工場が煙を吐き出す、煤けた工業都市。
――そして、星から星へと光の粒子となって跳躍する、目も眩むような感覚。
「う、あ……!?」
あまりの情報量に、陸は思わず呻き、チップから手を離そうとした。
だが、老人の骨張った指が力強く陸の手を掴み、離さない。
「……聞こえるか……ガキ……」
老人の声が、遠のきかけた意識を現実へ引き戻す。
その目は、もはや陸を映してはいなかった。
遠い過去か。
あるいは、すぐそこにある死を見つめているかのようだった。
「……生きろ……」
その一言に、老人の全ての執念が込められているように、陸には思えた。
「この……クソみたいな世界で……生き延びろ……。そのためなら……」
老人は最後の力を振り絞るように、陸の手を強く握りしめた。
「……人であることを、捨てろ」
それが、彼の最期の言葉だった。
握りしめていた力が、ふっと抜ける。
老人の腕が、だらりと地面に落ちた。
その目はうっすらと開かれたまま、もう何も映さない。
紫色の空を、虚ろに見つめていた。
静寂が、死体の間に横たわる。
陸は、しばらく動けなかった。
自分を助けてくれた恩人が、目の前で死んだ。
その事実が、まだうまく飲み込めない。
殴られた身体の痛みよりも、もっと深い場所がずきりと痛んだ。
彼の掌には、まだ老人の体温が残る一つのスキルチップが残されていた。
それは先ほどの幻覚を見せた元凶であり、二人の屈強な男をいとも簡単に殺してみせた、圧倒的な力の結晶でもある。
そして名も知らぬ老人が、自らの命と引き換えに陸へ託した、最後の希望だった。
陸は、ゆっくりとチップを握りしめた。
それは彼の掌の中で、まるで生きているかのように、微かに、そして暖かく脈打っていた。
「人であることを、捨てろ……」
老人の遺言が、重い十字架のように心へとのしかかる。
この小さな金属片は、生きるための力なのか。
それとも、人間性を失わせる呪いの道具なのか。
答えは、誰にも分からない。
ただ、チップの中心で明滅する光だけが、これから始まる彼の運命を静かに予見しているかのようだった。




