第四話:最初の暴力
もはや、自分がどこに向かっているのか、陸には分からなかった。
ただ、一歩、また一歩と、鉛のように重い足を引きずるだけだった。
飢えと渇きは、すでに感覚の臨界点を超え、鈍い痛みとなって全身にまとわりついている。
思考はまるで水中のように緩慢で、現実感が希薄だった。
彼は、崩れかけた壁にもたれかかるようにして、その場に座り込んだ。
もう一歩も動けそうにない。
まぶたが、彼の意思に反してゆっくりと落ちてくる。
このまま眠ってしまったら、二度と目を覚まさないかもしれない。
そんな予感が脳の片隅をよぎったが、抵抗する気力すら、もはや残っていなかった。
その時だった。
ガシャン、とすぐ近くで金属が擦れる音がして、陸ははっと顔を上げた。
目の前に、二人の男が立っていた。
これまで見かけた、身体の一部を機械化した住人たちとは違う。
その姿は、陸と同じ、完全な人間のものだった。
だが、その目に宿る光は、獣のそれと何ら変わりはなかった。
男たちはぼろぼろの衣服をまとい、その手には錆びついた鉄パイプや、刃こぼれしたナイフを握っている。
彼らは品定めするような目で、陸を頭のてっぺんから爪先まで、じろじろと眺め回した。
その視線は、これまで受けてきた無関心や侮蔑とは、明らかに異質だった。
そこにあるのは、明確な悪意と、獲物に向ける欲望の光。
一人が、げびた笑いを浮かべながら陸に歩み寄る。
「おいおい、見ろよ。ずいぶんと綺麗なカッコじゃねえか」
男の視線が、陸の着ているブレザーに注がれる。
この世界ではほとんど見ない、しっかりと仕立てられた衣服。
それは彼らにとって、価値ある「資源」でしかなかった。
「持ってるモン、全部出しな。そしたら、痛い目見なくて済むぜ」
もう一人の男が、ナイフの切っ先をちらつかせながら言った。
陸は後ずさろうとしたが、背後は壁だった。
逃げ場はない。
心臓が警鐘のように激しく鳴り響く。
これまで漠然と感じていた「死」の予感が、今、明確な輪郭を持った恐怖として、目の前に突きつけられていた。
「な、何もない……何も持ってない……」
かろうじて絞り出した声は、自分でも情けないほど震えていた。
「嘘つけよ」
男は陸の胸ぐらを乱暴に掴み、引きずり起こした。
抵抗しようにも、飢えと疲労で弱りきった陸の身体に力は入らない。
赤子の手をひねるように、彼は簡単に壁へ叩きつけられた。
後頭部を強打し、目の前がちかちかと点滅する。
男たちは陸のポケットを探り、中身をぶちまけた。
出てきたのは、プラスチックの板に写真が貼られた生徒手帳と、数枚のコインしか入っていない革の財布。
「チッ、こんだけかよ」
男は舌打ちし、財布を投げ捨てた。
だが彼らの興味は、すぐに陸の衣服へと移った。
「まあいい。その服を剥げば、そこそこのモンにはなるだろ」
服を、剥がれる。
その言葉が、陸の脳天を殴りつけた。
この最後の――自分が自分であるための証明である制服まで奪われる。
それは、尊厳の死を意味していた。
「やめろ……!」
陸は最後の力を振り絞って、男を突き飛ばそうとした。
しかし、そのか細い抵抗は、男の怒りに火をつけただけだった。
「このガキが……!」
鈍い衝撃。
腹部に、鉄パイプがめり込んだ。
「ぐっ……ぁ……!」
息が詰まり、胃の内容物が逆流してくる。
立っていられず、陸はその場に崩れ落ちた。
男たちはそんな彼を容赦なく蹴りつけ、殴りつけた。
痛み。
痛み。
痛み。
全身の骨が軋むような、鈍い痛み。
皮膚が裂け、肉が抉られるような、鋭い痛み。
暴力という、あまりにも直接的で純粋な悪意が、彼の身体と心を粉々に砕いていく。
「やめて……くれ……」
懇願は、嘲笑にかき消された。
なすすべもない、圧倒的な無力感。
なぜ、俺がこんな目に。
日本で普通に生きてきただけの俺が、なぜ。
理不尽な現実が、彼の意識を塗り潰していく。
薄れゆく視界の中で、記憶が走馬灯のように駆け巡った。
母の作った、少し味の濃い唐揚げ。
父の、無骨で大きな背中。
友人たちとの、くだらない笑い声。
教室の窓から見えた、青い空。
ああ、そうか。
俺は、死ぬのか。
こんな汚くて、臭くて、誰も知らない世界で。
ただのゴミみたいに、殴り殺されるのか。
「……こんな……ところで……死にたく、ない……」
最後の抵抗として絞り出した言葉は、もはや音にならなかった。
男の一人が、鉄パイプを大きく振りかぶるのが、スローモーションのように見えた。
鈍い銀色の光が、紫色の空を背景に、死の軌跡を描く。
もう、どうでもいい。
陸は、ゆっくりと目を閉じた。




