第十一話:紫紺の瞳
活気に満ちた大通りを、陸は亡霊のように彷徨っていた。
右も左も、上も下も、目に入るものすべてが、彼の常識からかけ離れている。
だが、そんな非現実的な光景よりも、今、彼の意識を苛んでいるのは、もっと現実的で切実な問題だった。
空腹。
それは、もはや我慢の限界をとうに超えていた。
ウロボロスで感じていた、鈍い痛みのような飢えとは違う。
目の前に、手の届く場所に、食欲をそそる匂いを放つ「食料」が溢れているからこそ、その飢餓感はより鋭く、攻撃的に彼を苛んだ。
彼の視線は、一軒の屋台に釘付けになっていた。
山のように積まれた、黄金色のパン。
こんがりと焼けた、香ばしい匂い。
陸は、ごくりと乾いた喉を鳴らした。
金はない。
この世界で通用する通貨など、一銭も持っていない。
だが、もう限界だった。
プライドも理性も、焼きたてのパンの悪魔的なまでの芳香の前では無力だった。
彼は周囲の喧騒に紛れ、ゆっくりと屋台に近づいた。
店主は別の客の対応に追われている。
今だ。
心が、そう叫んでいた。
これは生きるためだ。
仕方ないんだ。
そう自分に言い聞かせながら、彼は震える手を、一番手前にあったパンへと伸ばした。
指先が、パンのまだ温かい表面に触れた、その瞬間。
「――こらあっ! この泥棒ガキ!」
巨大な毛むくじゃらの手が、稲妻のような速さで陸の腕を掴んだ。
見れば、屋台の店主――熊のような筋骨隆々の獣人――が、怒りに顔を歪めて陸を睨みつけていた。
(しまった!)
陸は腕を振りほどこうとしたが、万力のような力で掴まれていて、びくともしない。
「は、離せ……!」
「離すわけねえだろ! 代金を払うか、その腕をここでへし折られるか、選びな!」
店主の怒声に、周囲の通行人たちが何事かと足を止め、こちらを窺っている。
好奇の目。
軽蔑の目。
その視線が槍のように陸に突き刺さった。
まただ。
また俺は、無力なまま誰かに尊厳を蹂躙されるのか。
ウロボロスでの、あの悪夢が蘇る。
違うのは、相手が鉄パイプを持っていないことと、周囲に野次馬がいることだけ。
店主が、陸の腕をぎりぎりと締め上げた。
その時だった。
掴まれた右腕、ブレザーの袖の下で、スキルチップが、まるで警告を発するかのように微かな青白い光を漏らしたのだ。
光はすぐに消えた。
ほんの一瞬の出来事。
店主も、周囲の野次馬も、誰も気づいていない。
だが、その一瞬の光を見逃さなかった者が、一人だけいた。
「――おじさん、そいつ、私が払うよ」
鈴を転がすような、涼やかな声だった。
声のした方を見ると、群衆の中から一人の少女がすっと歩み出てきた。
小柄で、深いフードの付いたコートをまとっている。
顔はフードの影になってよく見えない。
少女は懐から銀色に輝く硬貨を数枚取り出すと、それをカウンターに放った。
ちゃりん、と軽やかな音が響く。
「これで足りるだろ?」
店主は少女と、カウンターの上の銀貨を交互に見比べ、やがて強面をわずかに緩めた。
「……ああ、お釣りが出るくらいだ。
分かったよ、嬢ちゃん。
今回は、あんたの顔に免じて見逃してやる」
店主は乱暴に陸の腕を離した。
陸は、その場にへたり込みそうになるのを必死にこらえた。
助かったのか。
この、見ず知らずの少女に。
少女は陸の方へ向き直った。
「突っ立ってないで、行くぞ」
それだけ言うと、彼女は踵を返し、雑踏の中へと歩き出す。
陸はわけが分からないまま、しかし彼女に引きずられるように、その後を追った。
人通りの少ない路地裏へ入ったところで、少女はようやく足を止めた。
そして、ゆっくりとこちらに振り向く。
「その腕」
静かな、しかし有無を言わせない響きを持った声だった。
「面白いモノが、ついてるな。
……ちょっと、ツラ貸しな」
その言葉と同時に、少女は自らのフードを、ゆっくりと外した。
現れたのは、星屑を溶かして流し込んだような、美しい銀色の髪。
そして、その下に、まるで作り物のように整った、人形めいた顔立ち。
だが陸の視線は、そのすべてを通り越して、彼女の瞳に釘付けになった。
紫紺。
深く、どこまでも澄んだ、紫がかった紺色の瞳。
その瞳はまるで夜の湖面のようで、陸の心の奥底まで、すべてを見透かしているかのようだった。
そこにはウロボロスの住人たちの獣じみた光も、この星の通行人たちの無責任な好奇もない。
あるのは、鋭い、刃物のような知性の光だけ。
陸は直感した。
この少女は、何かを知っている。
俺のこと。
この腕のチップのこと。
そして、この世界のことを。
彼女は自分にとって、希望の光なのか。
それとも、新たな絶望の始まりなのか。
その答えを、紫紺の瞳は、まだ教えてはくれなかった。




