第六話
午前七時に車で登校。停めるのは教員用の駐車場。それから鍵を外し、鞄や荷物を手にして車を降りるまでに約十秒から三十秒。駐車場は地下にある為、それから階段を登り真っすぐに職員室へ。
これは、数日間先生を観察して分かったことです。何しろ先生は学校にいる時は授業をしているか常に女子に囲まれている為、私が先生に個人的に近付くことは難しかったのです。休み時間に話しかけにくればいいと先生はおっしゃるかもしれませんが、私の隣には常に穂乃果がいます。それに、私は正直先生のことを新学期初日からあまりよくは思っていなかったので、休み時間の度に先生に話しかけにいっていた女の子たちよりもスタートが遅すぎたのです。
「先生」
五月の柔らかなひかりが満ちたある日の朝、私は自然を装って車から降りたばかりの先生に声を掛けました。自然とはいっても登校時間よりも随分早く、それも地下駐車場に生徒がいる事は自然ではありません。ここでいう自然とは、あくまで私と先生は偶然に出会ったという意味での自然です。
「明日美? こんなところで何してるんだ」
黒のズボンの中に青いシャツを中に入れ、くせ毛一つ残さないようしっかりとセットされた髪は清潔感に溢れ、身長が高くスタイルもいいのも相まって先生はどこかの俳優さんのようでした。そして、疑問に思って貰うことも想定内です。いえ、私が疑問を生み出したという方が正しいのかもしれません。目的は、次のステップに繋げる為です。
私はこう言いました。両親が厳し過ぎるあまりに、家のどこにも居場所がないと。だから、学校がある日はこれくらいの時間に毎日登校し、教室が開くまではいつもこの駐車場で時間を潰しているのだと。後半はまるっきり嘘ですが、前半の部分は本当です。この時間に登校することだって両親からはひどく問い詰められましたが、そこは中間が近いから図書室で勉強したいと納得してもらいました。
私の父は市議会議員をしており、母は歯科医をしています。二人とも硬い仕事をしているせいか、二人は私のことをまるで着せ替え人形のように操縦してきます。スカートはここまで、髪は二十歳を超えるまで染めないこと、夏の時期は仕方ないがそれでも極力肌をみせる服は着ないこと。あと、男性と付き合うのは二十歳から。両親にそう言われ、じゃあ女性は? と問いかけようかとも思いましたがそれを理解してもらう為には、私はきっと両親と長い時間をかけて話し合わなければならないということは目に見えていたのでやめました。
「そうだったのか。なにか先生に出来ることはないかな? 良かったら三者面談の時にでも」
先生は私が想像以上に親身になって聞いてくれました。駐車場で待つのは何だからと、わざわざ私のクラスの鍵を開け「ここで待ってるといい」と笑みを向けてくれました。両親には言わなくていい、自分で対処出来るから、と私は言うと、先生は「じゃあ俺が登校したらすぐに教室の鍵は開けとくから家に居づらい時は好きなだけでいな」と肩に手を置いてくれました。ずっしりとした重みのある、大きな手のひらでした。
「なあ明日美、学校は楽しいか?」
教室の中で先生と二人きり。私は自分の席に。先生はその一つ前に腰を下ろしていました。私は「はい」とちいさく頷きました。私の視界の左端からは、大きな窓ガラスから差し込む透明なひかりがみえます。
「そっか。いつも穂乃果と一緒にいるみたいだけど、二人はいつから友達なの?」
「中学からです。穂乃果とはずっと、一番の親友で」
そこで先生はふっと笑みを浮かべました。綺麗にならんだ白い歯が、ひかりを弾いています。
「やっぱりな。そうだよな、二人だけ空気が違うもんな。正直さ、僕のこと……あっ俺でもいい?」
「はい」
「二人は俺のことあんまりよく思ってくれてないのかなあ、とか思っちゃっててさ。いや、そりゃ話しかけたら穂乃果も明日美も笑顔で話してくれるんだけど、あんまり自分からは話しかけにきてくれないじゃん? だから、なんとなく、ちょっと気にしててな」
先生はそこで窓の方へと視線を投げました。私も吸い寄せられるようにそちらをみました。綺麗な青い空と千切れた雲。遠くの方にぽつぽつと民家がみえます。先生は私の言葉を待っている様子でした。そんなことないですよ、という自分を掬い上げてくれる慈悲に満ちた言葉を。
「そんなことないですよ」
だから望み通りにそう言ってあげました。でも、これでは次のステップへは進めません。だから、私は次の言葉へと繋げます。
「先生はかっこいいし、授業も分かりやすい。いつも私たちの目線に合わせてくれるので凄く親しみやすいと思っています。でも、穂乃果は先生がというよりは男の人自体が嫌いで、だから時々つめたい態度をとっていたのだと思います。あと、私はけっこう穂乃果の感情に影響を受けてしまいやすくて、つられて先生につめたく接してしまっていたのかもしれません。ごめんなさい」
ここで頭を下げる。一秒、二秒。長すぎず、短すぎず。ちょうどいい長さで顔をあげ、目を潤ませる。女性らしく、しおらしく、先生のように女性を値踏みするタイプの男性には最も効果的な仕草だと思ったのです。これは五年間、穂乃果と一緒にいて身につけたワザです。
穂乃果。麗華。瑠奈。梓。先生は一部の生徒だけを下の名前で呼びます。この私のこともそうです。恐らくそれは、名字で名前を呼ぶよりも、もっと深い関係を築きたいと思っている生徒を他の生徒たちと線引きする為でしょう。最初は仲が良くなった女の子をそう呼んでいるのかと思いましたが違いました。そもそも私と穂乃果は先生とは親しくなかったですし、先生が下の名前で呼び始めたのは新学期を迎えてからたったの一週間後のことだったからです。それに、下の名前で呼ばれている女の子にはある共通点がありました。それは、皆が等しく容姿が整っているということです。この私も含めて。
絶対的強者。男性としての優位性。この閉ざされた空間で、しかも教室という普段は女の子の声で賑わっているこの場所で、ついさき程私がみせた仕草は、先生のような狡猾で愚かな男性にはそれら二つを胸の中に芽生えさせ、それはそれは気持ちが良かったのではないでしょうか。周りに満ちていた空気が急に湿り気を帯びた時、「二人にも好かれるように俺も頑張らくちゃな」とそさくさと席を立ちました。先生が扉をあけ教室を去ってから、私は自分の手のひらがぐっしょりと汗で湿っていたことに初めて気付きました。