第五話
春の生命の息吹は予め待ち合わせしていたみたいに草木を芽吹かせ、透明な風が翌年の私たちの髪をさわっと揺らしました。高校二年になった私と穂乃果の担任になったのが、先生でした。181cmという高い身長は、この高校にはない圧倒的な男性性と包容感を示し、新学期初日教壇に立った先生は私たちに順に視線を配りました。
「今日から君たちの担任をすることになりました。大沢といいます。えっと、僕は皆と年も近いし出来れば教師と生徒としてというよりは、良き友人のような関係を築けたらいいなと考えています。あだ名は任せます。先生でも勿論良いですけど、砕けたような名前でも構いません。あっでも、さすがに校長先生の前では先生と呼んで欲しいかな。僕が校長に怒られちゃうかもなんで」
教師と生徒の間を隔てていた高い壁を、先生はなんなく乗り越えたのかもしれません。その瞬間、教室には笑いがおき、「えっ待ってめちゃくちゃかっこよくない?」「あんな人が担任とか最高過ぎるんだけど」「彼女とかいるのかな?」などと至るところからそんな声が聴こえてきました。
先生は周りにいる先生方よりも一際若く、おまけに若手俳優のようなくっきりとした顔立ちをしていらっしゃったので、多感な十代の、それも周りには女子しかいない桜風女学院の生徒たちにとっては憧れのような存在でした。
先生の担当は物理でした。小難しい方程式や、物体の運動法則など、女子からしてみれば床に落ちている糸くず程も興味もない授業であったはずなのに、先生の授業を皆が楽しみにしていました。休み時間になれば教壇に立つ先生の元へと女子たちが集まり質問攻めにし、先生が好きだといった香水をつけて登校してくる子もいれば、先生のお昼ご飯にとお弁当を作ってくる子まで現れました。それも、一人や二人では無かったので「とても食べ切れないよ」と先生はあどけなく笑いながらも、恐らく先生は若い女の子が好きで、尚且つ誰にも嫌われたくは無かったのか作ってくれたお弁当のおかずを一つずつ摘み、その子たちの良いところを織り交ぜながら感想を述べていました。
「あんなの、どこがいいんだろうね」
周りにいた女の子たちとは違って穂乃果は最初そう言っていました。先生は二十六歳とまだ若く、穂乃果が彼氏にする年齢のボーダーラインからは大きく下回っていたのです。一年前、私は穂乃果に気持ちを伝えました。穂乃果自身は私が理解してくれたと考えていたようで、数週間後にはこれまでと同じように男性にナンパや告白された話を平然と私に話してきました。そこに気まずさのようなものはありませんでした。ですが、私の気持ちはあの日から全く変わっていませんでした。だから穂乃果が先生のことを悪く言った時も私は「分かるよ」と大きく頷きました。先生には申し訳ありませんが、あなたは穂乃果には相応しくない。そう思ったのです。ですが、この時の私は忘れていました。穂乃果という人間は自分が美しいと自覚しているからこそ、どうすれば更に美しく人にみられるかを考えているということを。そして、常に愛に飢えている穂乃果は、愛される為には更に美しさに磨きをかけなければならないと考えているうえ、その為には手段を選ばないということを。
ある日、いつものように先生に群がるクラスメイト達を穂乃果と二人で机に座り眺めていると「ねえ」と肩を叩かれました。穂乃果は大きな目をゆっくりと細めながらこう言いました。
「私さ、好きな人出来たかも」
私はその時、あまりの衝撃に声を発することが出来ませんでした。付き合うならこんな人がいい。これくらいの年齢がいい。穂乃果が男性に求める条件を私は理解していたうえ、告白される姿は何度もみていましたが、穂乃果が自分から人を好きになることなど今まで無かったのです。
「だ、だれ?」
私の声は震えていました。喉から絞り出すのがやっとでした。
「先生」
「えっ、先生?」
「うん。タイプじゃないし全く興味無かったんだけど、かっこよくみえてきたんだよね最近」
穂乃果は美しい眼差しを先生に向けました。その眼差しは、恋をする女の子が相手に向けるそれでした。呆然とそれをみつめていた私に穂乃果がふわりと笑みを向けてきて、それからこう言いました。
「もしさ、私が先生の彼女になったら、もっと輝けそうじゃない?」
それは、私の胸を引き裂くには十分過ぎる言葉でした。輝く。かがやく。脳内で言葉を噛み砕き、私はゆっくりと咀嚼して、その言葉の持つ本当の意味を理解しました。愛されたい。それが穂乃果の持つ一番大きな欲求でした。その為には今よりもっと可愛くならなければならない。綺麗でいなければならない。穂乃果の放ったあの言葉はきっと、先生の隣にいる自分を想像したうえで言ったのだと思います。学年で一番若く人気な男性教師と、学年一の美少女。映画や小説でよくみるようなあまりにもありきたりな組み合わせだとは思いましたが、実際もし二人が付き合えば、先生の彼女という肩書きを手に入れた穂乃果は、更に皆から羨望の眼差しを受けることになるだろうというのは容易に想像出来ました。
ああ、やっぱり私じゃないんだ。私が、女だから? 最初に思ったのはそれでした。それから、考えたくもないのに二人が付き合った先のことまで思い浮かべてしまい、私は吐き気を覚えました。たとえば先生の手のひらが、たとえば先生の唇が、穂乃果の手のひらや穂乃果のぷっくりと膨らんだ唇に触れたなら。嫌だ。嫌だ。私は胸の中で叫び声をあげます。嫌だ。舌を噛みました。口内に血の味が広がるまで、強く、強く。
中学からずっと、五年もの間穂乃果を想い続け私は隣にいたのです。だから、その時の穂乃果の心情が、私には手に取るように分かりました。これまで軽くあしらってきた男性とは違う。穂乃果は心の底から先生を好きになり始めている。愛されたいが為に。皆から綺麗だと思われたいが為に。先生の彼女という名の聖域に住むのは私だ。聴こえるはずのない穂乃果の心の声が、私には確かに聴こえたのです。美しい白鳥は、その湖の水が濁り始めたなら、自分が本来いるべき場所へと飛び立つことを私は知っていたからです。
だから私は心に決めました。奪われるくらいなら、先に奪ってやろうと。先生から穂乃果を奪うのではありません。その当時の私の力では無理だと分かっていたからです。一度は穂乃果に告白し振られている身でもありましたしね。
私が奪おうと考えたのは、先生の彼女というの名の聖域です。私が穂乃果よりも先に先生と付き合ってしまえば、穂乃果はそんな汚れた場所にはよりつかなくなる。それによって、もしかしたら私と穂乃果の関係は一時的に壊れるかもしれないが、穂乃果はきっとまた私の傍に戻ってきてくれる。私はそう考えました。何故なら、穂乃果にとって私は一番の理解者であり、私も穂乃果がいなければ生きていけない。それを口には出さずとも互いに分かっていました。言わば魂の双子だったからです。
先生はご存知ないかもしれませんが、SNSで裏アカウントを開設し、私が呟き始めたのもその辺りからでした。アカウント名は『少女aの戯言』。いちいち言わなくても分かるかと思いますが、少女aというのは勿論私のことです。明日美の頭文字からとりました。
先生のお手間を省く為にも私が呟いた内容を、これから時折この手紙に挟ませて頂きます。まず一つ目ですが、これはその当時の私の心境が記されたものです。
〈戯言。アカウント名にそう名付けた。適当につけたけど、ヘッダーとか自己紹介文とか書いてちゃんと作ってみたら意外としっくりくるっていう不思議。
今日、心に決めたことがある。
いつか、とか、もしも、とか、そんな不確定でも遠い未来を描けている内は、私は幸せものだったんだなって気付いた。待ってたって好きな人が振り向いてくれる訳ないよね。今日は、なんかそれが身に沁みてよく分かったわ。身体を真っ二つに引き裂かれた気分。
こんなに辛くて、こんなに苦しんだ。もういいでしょ。
破壊なくして再生なしって言葉をどっかで聞いた気がしたけど、私がこれからやろうとしている事はまさにそれなのかも。偉人は偉大だ。
あの子は誰にも渡さない。渡すくらいなら辺り一帯全て全部、この私が焼け野原にする〉