第四話
ねえ、先生。ここまで読んでいてこう思いませんでしたか?
一体何を読まされているんだ。前置きが長いのはお前じゃないか。
ええ、おっしゃる通りです。私は自分で書いておきながら、先生が今思ったのと同じことを考えました。でも、どうか許して下さい。女の子というのは感情で動く生き物です。その時自分がどう考え、何故その行動に至ったのかというのを事細かく説明してしまうのです。理解したうえで、相手に共感して貰いたいのです。今年十八歳を迎えた女性なら尚の事。先生はそんな女性と深い関係を築いてらっしゃった経験があるので、その点はご理解して頂けるかなと私は考えています。
それに、穂乃果がどんな女の子だったかという事を先に記さなければ先生はご自身の本当の罪の重さに気づけないと思ったのです。なので、どうかあともう少しだけ、読み進めて頂けたら幸いです。
私と穂乃果は中学を卒業し、私立桜風女学院という高校に入学しました。そうです。今も尚、先生が在職されている高校です。きっかけは穂乃果の一言からでした。
──なんかさ、男の人たちって女子校っていう響きに強い憧れを抱くらしいんだよね。
中学三年の時、当時付き合っていた三十四歳の男性にそう言われたそうです。疑問に思われる前に先に書いておきますが、ついさっき記した穂乃果と付き合えて満足そうに去った男の子とは二週間後には別れ、他人になっていました。友達ではありません。他人です。
──ああ、あいつ? もう別れたし、私の世界から消したよ。
穂乃果はそう言って微笑んでいました。中学の時から過去付き合ってきた歴代の男の人たちは、穂乃果と別れてしまうと友達を通り越して他人になってしまうのです。そんな穂乃果が新たに付き合った男性は、穂乃果のSNSにDMをしてきた会社経営者で、二人で食事をとっていた時「なんか女子校っていいよなあ」とふいに呟いた言葉がずっと心に引っ掛かっていたようでした。他の男性に聞いても反応は同じで、なにか秘密の花園のような、決して踏み入れてはならないような感じがする、と言われたそうです。
結果、私は穂乃果に促され、その高校を受験しました。正直なことを言うと、私はこの高校に行きたくはありませんでした。私の第一志望は別の高校でしたし、穂乃果を女子校に入学させるなんて以ての外だと考えていたからです。穂乃果の心を動かすことが出来ない男ならともかく、もし私のように穂乃果に寄り添うことが出来る女が現れたら。そんな風に考えたらおかしくなりそうでした。穂乃果自身も「女ばっかりって気疲れしそうで嫌だなあ」なんて溢していました。ですが、穂乃果は自分が美しいと自覚しているからこそ、今の自分が人からどうみえるか、更によく魅せるにはどうすれば良いのかというのを常に考えている子でした。純白の美しい羽根を持つ白鳥は、町中でゴミ袋をつついたりしません。白鳥は、静謐な空気が満ちた湖にひっそりといるべきなのです。穂乃果もきっと、自分が生きる場所は女子校であるべきだと考えたのでしょう。
そんな事は中学の時から分かってはいましたが、穂乃果の引力は女子すらも引き付けました。女子校に入学したから当然なのですが、教室にいても、廊下を歩いている時も、周りを見渡せば女子しかいません。それも、お嬢様学校と言われるだけあって市内にある総合病院の院長の娘や、皆が一度は聞いたことがあるような有名企業に勤める父を持つ子、お父さん自体が会社を経営している子などと、女の子のタイプは様々でしたが何となくどこか温室育ちというか、気品のある子が多かったように思います。そんな中、穂乃果は入学した初日からとんでもなく綺麗な子がいると噂になり、皆が穂乃果のことをもっと知りたいと休み時間になれば穂乃果の周りは人で溢れかえっていました。
これは、昔から考えていたことなのですが、私たち学生は、水槽の中で生きる魚のようなものだと思います。教室というひとつのちいさな水槽で、極力自分と同じ大きさの、尚且つその先共存していけるであろう子と群れを作ります。群れから離れてしまうと、迫害され、追い詰められ、水槽の底や隅の方でしか生きられなくなってしまうからです。それを理解しているからこそ、誰が一番力を持っているのかということを、あるいは持ちそうなのかということを、私たちは瞬時に見分けることが出来るのです。
容姿やキャラクター、発言、性格、親の仕事や家庭環境。私が思うに力を持つもの、カーストの中でピラミッドの頂点に立つことが出来るものは、これらひとつ、あるいは複数が誰よりも優れていなければなりません。穂乃果の場合は容姿は勿論のことですが、性格もそうでした。中学の時から一緒にいる私には素をみせてくれていましたが、穂乃果は女子といる時、まっさらで綺麗な仮面をかぶります。いつも周りに笑顔を振りまき、完璧でいい女の子を演じるのです。自分はカーストの頂点の位置にいながらも最下層にいる子にも自ら話しかけ、誰かがその子を馬鹿にするようものなら「良くないよ」と諭しながらも、最終的には笑みを向ける。男子にみせる顔とはまるで違い、だからこそ中学の時は男癖が悪いとあらぬ噂がたったこともありましたが、女の子でそれを信じるものはいませんでした。
そんな穂乃果はたった一年で私たちの学年の頂点にたちました。教室を飛び越え、学年のカーストのトップにすら立ってしまったのです。廊下を歩いているだけで「穂乃果ちゃん、おはよ」と至るところから声が飛び、美しい笑みを向けられた女の子たちからの「めちゃくちゃかわいい」という黄色い歓声が鼓膜に触れます。いつも隣を歩いていた私でさえ、「穂乃果ちゃんが綺麗過ぎるから目立ってないだけで、あの明日美って子もふつうにかわいくない?」と声が聴こえてくる程でした。私と穂乃果のことを知らない子は同じ学年にいなかったように思います。
「ねえ、明日美。私って綺麗だと思う?」
ふいに穂乃果が言いました。放課後、この学校の同学年では天下をとった私たちは学校の屋上で、二人横並びになって芝生が張られた校庭を見おろしていました。陸上部の女の子たちがあひるの子どもみたいに一列になって走っています。
「綺麗だよ。穂乃果は凄く綺麗」
私はフェンスにもたれぐにゃりと身体をくねらせる穂乃果をみつめながら言いました。心からそう思っていたからです。
「私はさ、そんな風に思えないんだよ」
下から舞い上がってきた女の子たちの掛け声に溶け合うようにふいに放たれた言葉に、私は思わず目を見開いてしまいました。穂乃果は誰よりも自分が美しいことを理解していると思ったからです。
「なんで、そんな風に思うの」
「うーん、何でだろ。いや、自分のことをブスだとは思ってないよ? むしろ綺麗だと思ってる」
「うん」
「でもさ、今のままじゃ駄目なんだよね。私はまだ満足出来ない。私はさ、愛されたいの。皆からもっともっと愛されたい。その為にはもっと綺麗で、もっとかわいくならないと駄目だと思ってる」
穂乃果の首筋も顔も、スカートから伸びる細く白い足も全てが夕日に染められていて、私はその時の穂乃果の顔をみながら、悲しみの色は橙色なのかもしれないと考えてしまいました。「どうして」と問い掛けたのは、そのすぐ後のことです。
「何でだろ。親から愛情を貰えなかったからかな。母親は私が子どもの頃から旅行ばっかり行ってて家には週に一回しか帰ってこないようなクソ野郎だったし、大好きだったお父さんは莫大な遺産だけ残して私が小一の時に病気で死んだの」
「そう、なんだ」
「でも、私はまだ諦めてないんだよね。お父さんが死んだのは私がまだほんとに小さかった時だし、あれは全て私の思い違いでこの世界のどこかで生きてるんじゃないか、私がもっともっと綺麗になって皆から愛される存在になったら、いつかお父さんが迎えにきてくれるんじゃないかって考えちゃうんだよね」
中学の時から穂乃果とは一緒にいましたが、私は初めて穂乃果の中をみた気がしました。風の噂で穂乃果の家庭環境は耳にしていましたが、自分の口から話してくれたのは初めてのことだったのです。人には誰だって触れられたくない部分があります。どす黒いものや、弱くて脆くてもの。それらは普段、自尊心や羞恥心によって、かさぶたのような蓋をされています。穂乃果はそれをぺりりと剥がし、私に傷口をみせてくれたのです。嬉しかった。ほんとに嬉しかった。尊くて、愛しくて、今すぐにでも穂乃果を抱きしめたくなりました。
「穂乃果は、だから年上の人が好きなの」
これは、私にとっての最後の確認でした。穂乃果は「うん」とちいさく頷きました。
「綺麗にならなくちゃ愛されない。いつかお父さんが迎えにきてくれる。そんな風に思ってるせいなのかもしれないけど、私はいつも記憶の中で生きるお父さんの亡霊を追いかけ続けてるんだよ。だから付き合うのはおじさんばかりなんだけど、いくら年が近くたって中身は勿論私のお父さんじゃないし、っていうかそもそも私は好きじゃないから結局最後はあーやっぱり違うなって私が飽きて終わっちゃうんだけど」
聞きながら、私の湧き上がる想いは、感情は、留めることが出来ないくらいに溢れていきました。
「私じゃ駄目かな?」
だから、こう言ったのです。
「えっ?」
「穂乃果はたぶん満たされてないんだと思う。中も心も全部全部。お父さんの代わりにはなれないけど、私が穂乃果を満たしてあげるのって駄目かな」
穂乃果は「ちょっと何言ってんの? 冗談きついんだけど」とぎごちなく笑みを浮かべました。
けれど、私は本気でした。中学の時から私はずっと、穂乃果のことを心から愛していました。美しく、気品があり、中にどす黒いものを抱えながらも普段は仮面を被っている。けれど、私にだけは素の一面をみせてくれる。きっと穂乃果は跳ね返りがある子を自分の一番近くに置いときたかったのだと思います。穂乃果があまりにも美しく普段は仮面を被っている為、誰も穂乃果の言う事を否定しようとはしませんでした。けれど、私は何となく穂乃果がそれに寂しさを覚えている気がして、言葉を選びながらも自分の意思や意見は伝えてきました。
中学に入るまで、私は自分の容姿に自信がありました。誰よりも私がかわいいに決まってる。そんな風にすら思っていました。けれど、私は穂乃果に出会ってしまった。圧倒的な美しさを目の当たりにし、私はこの子の陰になろうと心に決めました。この子が望む存在になろうと思えたのです。そして、穂乃果のことを知れば知るほど私は穂乃果の魅力に溺れていきました。最初の内は、誰かに告白された、ナンパをされた、どこどこに遊びに行き、キスをされた、そんな話を穂乃果を聞かされる度に私は吐き気を覚え、それと同時に抑えきれない怒りを抱えていました。ですが、ある時に気付いたのです。男には無理だと。穂乃果の中を満たすことが出来るのは、きっとその痛みも、欲も、感情の揺れ動きを全て理解し受け入れることが出来る私だけだと。それから先は楽になりました。私が穂乃果に相応しい。私が穂乃果の中を満たす。そんな風に考え始めたら、もう引き下がる事も気持ちを抑える事も出来なくなってしまったのです。
「冗談じゃないよ。私は、穂乃果のこと」
「ちょっと待って! それ以上は言わないで」
穂乃果は腕を前に突き出し、瞳は深い悲しみの色に染まっていました。その瞬間、「あっ」とも「えっ」とも聴こえるような、よく分からない声が私の喉から零れ落ち、それと同時に胸が凄く痛くなりました。私は、とんでもないことをしてしまった。その考えが急速に膨れ上がってきたのです。穂乃果が初めて弱いところをみせてくれたから、私はそれに感化され、自分の中もみせようと勢いあまってほとんど気持ちを伝えてしまったのです。事もあろうに穂乃果が一番嫌いだと言っていた前置きまでしたうえで。
「あのさ、私の勘違いとか、だったらほんとにごめんなんだけど」
穂乃果はどうしたらいいのか分からないといった様子でぶつ切りになりながらも言葉を紡いでいました。
「明日美は女の子じゃん? 女の子の気持ちに私は、応えられないよ。ほんとにごめん」
「いや、違うの。私、なんか、ほんとにおかしくなってて」
必死に訂正しながらも、たぶん私の声は潤んでいたように思います。振られたのです。正式な告白をした訳ではないとはいえ、気持ちには応えられないとはっきりと明言されました。痛い。痛い。私は胸の中で叫び声をあげ、唇を引き結び、必死に決壊寸前の涙を抑えました。嘘じゃんか、あの言葉。あまりにもつらくて、ふいにある言葉が頭に浮かびました。それは、私が毎日お守りのように大切にしていた言葉でした。なにかのドラマで、もしかしたら映画だったのかもしれません。男の子を想い続けていたヒロインの女の子の恋が中々うまくいかなくて涙を溢した時、傍にいた彼女の友達がこう言うのです。
──想いはいつか届くよ。想い続けてさえいれば、いつか相手にも届くから。
私はその言葉をお守りにし、いつも力を貰っていました。いつか。いつか。不確定な未来ではありましたが、穂乃果と気持ちが通じ合うと信じ四年も待ち続けていたのです。でも、それは叶わなかった。真っ赤な嘘じゃんかあれ。微かに震える私の身体を、穂乃果が抱き締めてくれたのはそんな時でした。
「あのね、それ以上は言わないでって言ったのは、先の言葉を聞いちゃったらなんとなく友達のかたちが変わっちゃう気がしたの」
「か、たち?」
「うん。中学の時からの私と明日美の友達のかたち。私はさ、明日美のこと好きだよ。友達として、人として、ほんとに好き。だから、これからもこのかたちを壊したくないの。私の隣にはずっと明日美にいて欲しいから。分かってくれる?」
私は泣きながら何度も頷きました。なんて美しい子なんだろう。容姿は勿論のこと、中身まで。こんなにも私の痛みに寄り添ってくれた穂乃果のことを、やっぱり嫌いになんてなれないよ。そして、こう思いました。こんなにも容姿も中身も美しい人を、好きでいられる自分。そんな私を、これから先もずっと守り続けようと。