第十一話
先生から付き合って欲しいと頼まれたのは、その年の十一月でした。
──でも、穂乃香には内緒にして欲しい。
先生はそう言いました。私と穂乃香の関係性を知っている先生からしてみれば、当然の言葉だったのだと思います。私たちは生徒と先生という関係性を表面上は装いながらも、いろんな所に繰り出しました。夜景が綺麗だからと連れていってくれた丘からみた景色に私は息を呑み、車のハンドルを握る先生の血管をみて更に気持ちが高まり、勇気を出して自ら唇を重ねに行ったこともありました。
私は目の前の景色に溺れていったのです。先生と穂乃香がその間も付き合い続けているという事実は確かに嫌だったけれど、私の中では穂乃香の彼氏とデートをしているという征服感の方が強かったように思います。
ある日、必要以上に一目を気にしていたのにも関わらず、私と先生がデートをしている姿をみたという女の子が現れました。その噂はすぐに学校中に広まり、麗華と瑠奈には「やるんならバレないようにやりなよ」と呆れられました。私はその時、否定も肯定もしませんでした。今さらじたばたしたところで何も変わらない。それに、こんな噂すぐに収まるだろう。私には先生さえいてくれたらそれでいい。その強い想いを武装していたからです。
それにね先生。知っていますか?
クソ野郎は嘘を付くことに躊躇いなんてないんです。
穂乃香から階段の踊り場に呼び出され「もしかして先生と付き合ってる?」と尋ねられた時、なんてことない顔をして私は首を横に振り、しまいには「あんなのただの噂でしょ? 私と穂乃果の関係を壊したい誰かが流したんだよ。友達を疑うなんて最低!」と罵倒しました。ええ、分かっています。私は最低のクソ野郎です。嘘をついたうえに傷付けたんです。でも、穂乃香は恐らく私の嘘に気付いていたのだと思います。「疑ってごめん」と笑った顔が、あまりにも悲しそうだったから。
ほんの一瞬ですが私の中に罪悪感が芽生えました。ですが、穂乃香が次に発した言葉で一瞬にして頭に血が昇りました。
「そりゃそうだよね。だって明日美だもんね? 中学の時からずっと私の影と一体化してさ、私より優れてるところなんて何一つないもんね。明日美ってさ、先生からどう思われてるか知ってる? こないだデートしてた時いつも付きまとわれていい加減うんざりしてるって言っ」
聞き終えるまでに、私は両腕で穂乃香の胸を押しました。とん、とまるでボールを押し出すみたいに。目を大きく見開いた穂乃香は宙に浮かびあがり、そのまま階段を転がり落ちました。私はその足で職員室に向かい先生の耳元でこう言いました。
──穂乃香を階段から突き落としたよ。
あの時の先生の慌てふためいた顔と言ったらたまりません。先生は誰にも聞かれたくなかったのか私を車に乗せ、何度も連れて行ってくれた夜景の綺麗なあの丘へと連れていきました。
「どうしてそんなことしたんだ!」
車から降りるなり、先生はそう言って泣き崩れていましたね。先生より更に向こうで、夜になると夜景が綺麗な辺りの町明かりが、うっすらと灯り始めていました。
「穂乃果にバレたからだよ。先生と付き合ってることが穂乃果に」
「だからってやっていいことと悪いことがあるだろう」
「私は、でも、馬鹿にされたんだよ? 侮辱されたの。ひどい言葉で」
私は真実を伝えていたのに、先生は気色の悪い洟を啜る音を放つばかりでした。
「ねえ先生は、私の彼氏でしょ? だったら、先生だけは味方してよ」
これは、私の心の叫びでした。恐らく、最後の。世界中の人間に非難されようとも、先生だけは味方でいて欲しかった。何故なら、先生と私のこれから先の幸せな未来を、私は守ったのだから。
「ち、がう」
先生はぐしゃぐしゃに顔を歪めながら、ぽつりとそう溢しました。
「あれは、間違いだった。お前は、おかしいよ。なんで、なん、で、そんなことが出来るんだ。この際だからはっきり言うぞ! 俺はお前と穂乃果を天秤にかけたら迷うことなく穂乃果を選ぶっ!」
「えっ」
まるで銃弾で貫かれたみたいでした。これは、例えではありません。先生の放ったあの言葉は、私の身体も、心も、ずたずたに引き裂きながら貫いたのです。全身の力が抜け落ち、私は膝から下の足を突如として失ったかのように崩れ落ちました。群生していた草の持つつめたさが、少しずつ私の中へと這い上がってきました。程なくして身体が震えました。手も、足も、背中も、なにもかも。
十二月の夕暮れ時の風は骨が軋む程につめたくて、私は震えながら地面に頭をつけ泣き叫ぶ先生をぼんやりとみていました。穂乃香に憧れ、そして全てを奪い、先生は私のものになったと思っていた。でも、実際はまるで違ったのです。恐らく私と同じように穂乃香から問い詰められ、あんな女に興味はないよ、という感じで言ったのでしょう。先生の放ったあの言葉で何となくそれが分かりました。全身を襲うつめたさが、私の意識の輪郭を少しずつ鮮明にしてくれました。そっか。そうなんだ。だから一向に穂乃香と別れてくれる気配が無かったんだ。ようやく理解しました。私は愛した人に裏切られたのです。でも、おかげで目が覚めました。どうしてこんな人を好きになり、どうして穂乃香にあんなことをしてしまったのだろうと、とてつもない罪悪感が急速に膨れ上がってきました。
穂乃果と過ごした日々が、穂乃果の笑った顔が、中学からずっと穂乃果を想い続けてきた記憶が、走馬灯のように頭を駆け巡りました。濁流のように膨れ上がった感情が私の目の淵から溢れ、頬を伝い地に落ちた最初の涙を追いかけるように、次々と零れ落ちました。
「……なんで。なん、で」
嗚咽を漏らしながら地面に群生していた草を掴み、私は何度も何度もその言葉を溢しました。なんでこんな人を好きになり、なんで私は穂乃果を裏切り、なんで私は穂乃果にあんなことをしてしまったの。なんで。なんで。あんなに穂乃果のことを好きだったのに。
空から雪が舞い落ちてきたのは、そんな時です。白い真綿のようなちいさな塊が、私が握りしめていた拳のうえにはらりと落ち、あっと思う間もなく私の手にちいさな水たまりを残して消えました。
私は導かれるように顔をあげました。橙と深い青が入り混じったような空から舞い落ちる綺麗な雪。
その儚くも美しい様が、再び地面に立ち上がる強さを私にくれました。身体を起こした時、大きく背中を震わせる先生の背中が視界に入りました。いい気味だ。何故か、私はそう思ったのです。可哀想だとは思いませんでした。その代わりに、先生と初めて二人でご飯を食べに行った日のことを思い浮かべていました。木から落ちた林檎の話。子供のように無邪気な笑みを浮かべながら話してくれた万有引力のこと。私の頭の中には常にそれがあり、大きく色鮮やかな林檎がこの数ヶ月ずっと木からぶら下がっていました。ですが、泣き喚く先生の姿をみて、私の頭の中で実っていた林檎は木から落ちました。ヘドロのように腐って落ちたのです。ちょうどその時、空から舞い落ちた雪が私の頬にふれました。私はそれを舌先で拭い、こう思いました。あまい。嘘でも冗談でもなく、本当に甘かったのです。それもふわりとゆっくりと広がっていくようなものではなく、もう少し直線的に訴えかけてくるような、例えるなら蜂蜜みたいな甘さでした。泣き喚く先生の背を視界の端に捉えながら、私は顔をあげ、舌先をだし、次々と雪を飲んでいきました。随分前から溢れていた涙は、もうずっと止まりませんでした。
「ごめ、んね。穂乃果、ほんとに、ごめんなさ、い」
泣きながら、私はそんな蜂蜜のように甘い雪を飲み続けました。どれくらいの時間そうしていたのかは分かりませんが、ふと思い立って私はポケットから携帯を取り出しました。指を滑らせ開いたのは、私のアカウント。『少女aの戯言』でした。
それから数日間、検事や警察官には「何故あんなことをしたんだ」と尋ねられましたが、先生の事には一切触れず「穂乃香を殺したかったからです」とだけ言いました。私は決して許されないことをした。情状酌量だとあってはならず、その罪を償わなければならない。そう考えたからです。
結果、反省の余地なしということで私は少年院に送られました。当然の末路です。
幸いなことに穂乃香の命に別状はなく、肋骨と右腕を骨折しただけで済みました。それだけが私の唯一の救いです。けれど、私の心はまだ完全に救われてはいません。罪を償うべき人物がまだ償っていないからです。教師という立場でありながら私と穂乃香という二人の生徒に手を出し、おまけに双方に嘘をつき私たちを傷つけたのにも関わらずです。
先生はどうやらこの件に関して知らぬ存ぜぬを貫き通しているようですね。学校側も責任を逃れる為にどうやらあなたを擁護している様子だと聞きました。穂乃果との関係はとうに終わったらしいですが、一体どうやってこの件に関して穂乃果の口を閉ざすことが出来たのでしょう。私が口を閉ざしたのは罪を償う為ですが、穂乃果が口を閉ざす理由はありません。私はこの事を、あのクラスにいた二人の女の子から聞きました。友情とは素晴らしいものです。情報が遮断されていたこの場所で、最も罪を償うべき人物がのうのうと未だに教師を続けていることを私に教えてくれたのです。
まあでも、いずれにせよ私はあなたに復讐はするつもりでしたから、ただ時期が早まっただけなのです。これから先に記す短い文章は、何度かこの手紙に書かせて頂いた、とあるSNSの私のアカウントで呟いたものです。アカウント名は『少女aの戯言』。
〈この文章を読んだ時が、先生の人生の終わりの始まりです。
それがいつになるかは分かりませんが、私はその日が楽しみです。〉
読んで頂けましたか? 私はあの丘で泣き崩れるあなたをみながら、これを書いていました。少年院に収監されてからもずっと、今日というこの日のことを心待ちにしていました。
先生のご自宅に手紙が届く頃には、この手紙と全く同じ内容のものが私の弁護士を通して先生が働かれているあの高校、並びに教育委員会、雑誌社に送付されているはずです。
恐らくあなたは窮地に立たされることになると思いますが、当然の報いです。私がそうしたようにあなたも罪を償いなさい。
ねえ先生、これは私からの最後のお願いです。
どうか少しでも長く苦痛を味わって下さい。そして、二度とひかりが差すことのない人生に嘆き、叫び、腐って下さい。
私の頭の中で腐った、あの林檎のように。