第十話
その年の蝉が産声を上げた頃、先生と穂乃香が付き合っているという噂が流れてきました。ですが、私はそれよりも前にあなた方が付き合っていることを知っていました。穂乃香から先生についての相談をずっと受けていたからです。
先生から告白されたという事実を真っ先に聞かされたのも私でした。雨が降る中、一つの傘の下で穂乃香と二人。沸き立つ土の匂いが、雨が地を打つ程に強くなっていくのを感じました。私は「やっと付き合えたんだ。良かったね」と傘の柄を持つ穂乃香の手をぎゅっと握りしめました。祝福の気持ちではありません。あまりの悔しさにです。
私は、他の数人の女の子と同じように先生のことを本気で好きになっていました。勿論最初は、穂乃果の飛び立つ場所を奪う為でした。穂乃果よりも先に先生と私が付き合えば、穂乃果はきっと先生のことなんかに興味を失い、私の元に戻ってきてくれる。そう考えていました。でも、いつからか私は、先生の優しさに触れている内に、包みこんでくれるような安心感に、心を奪われていたのです。私は子供の頃を思い出しました。記憶の海に手を伸ばした時、そこには徒競走が一番早かった男の子がいたのです。ああ、そうか。そういえば私は男の子のことも好きだったんだ。私が愛することが出来るのは、女性だけではなかったんだ。それに気付いたのです。
ねえ、先生。先生の担当科目である物理が苦手で、成績が伸び悩んでいた私の為に補習授業を開いてくれたことを先生は覚えていますか?
先生と穂乃香は特別な引力を持っている気がします、と言った私のことを連れて近くのファーストフード店に入り、木から林檎が落ちる様をみて発見したとされるニュートンの万有引力の法則を教えてくださったことを覚えていますか?
「全ての物体には引力がある。それを証明したのが万有引力の法則だ。明日美が俺に感じたように、俺も明日美に引力を感じてる。物体は互いに互いを引き合ってるからこそこの世界は成り立っているんだ。どう? 物理って面白いだろ?」と言ってくれたあの日のことを覚えていますか?
私はあの時からずっと、いえあれよりも少し前から先生のことを想っていました。だから穂乃香から先生と付き合ったと聞かされた時は、あまりにも悲しくて身体を真っ二つに引き裂かれたようでした。それから間もない内に先生とデートをした、先生とキスをした、などと聞きたくもない話を穂乃香から聞かされ、次第に私の心は闇に沈んでいきました。
全てを手にした穂乃香のことを憎むようになったのです。ええ、分かっています。これは嫉妬です。本当に醜いですよね。
でも、あの時の私はその感情を抑えられなかった。穂乃香にはいつもと変わらぬ笑みを向けながら、私は全てを奪い去ってやると心に決めました。穂乃香の足が細いと誰かが言えば食事を節制し、髪が綺麗だと先生に言われたと聞かされた時はその週末には美容院に行き、トリートメントをしてもらいました。
その結果、先生と穂乃香が付き合って三ヶ月が経った頃、ようやく私は先生から声をかけて頂けました。
──最近成績が上がってきてるな。良かったら、また学校ではないどこか別の場所で物理の話をしないか? 勿論、明日美が良かったらだけど。
あの時の事は、今でも鮮明に覚えています。穂乃香の彼氏である先生に誘われた。初めて穂乃香に勝ったと思ったんです。勿論自分が最低なことをしている事は分かっていました。友達の彼氏に手を出すなんて皆が最も毛嫌いするタイプの女の子ですから。でも、私はこうも思いました。たとえ蔑まれても、他人を蹴落としても、私が幸せであればそれでいい。
結局人なんて生き物は自分が一番大切で可愛いものなんです。自分よりも他者を思いやりなさい。そうすればいつか自分にもいいことが巡ってくるから。このような綺麗事はいくらでも言えると思います。でも、たとえば自分と一番大切な親友。その両方の首筋に刃物の切っ先を当てられ必ずどちらか一人が死なねばならないという状況に置かれた時、親友ではなく自分を殺してと言える人はどれくらいいるのでしょう。私は、ほとんどいないと思います。
そんなものは極論だ、と先生はおっしゃるかもしれませんが、人生なんてものは結局それと似たようなものでしょう。仕事に恋愛、それから受験に就活。皆気付いているのか気付かないふりをしているのかは分かりませんが、自分が何かを手にするということはそれを有するはずだった誰かを蹴落としているのです。自分の実力で勝ち取ったと喜ぶのは勝手ですし周りが祝福するのも当然だと思います。でも、それを手にすることが出来なかった人間の感情や人生を考える人はいますか? その会社に就職出来なければ、その人と付き合えなければ僕は私は死ぬ。仮にそんな風に泣きつかれたとして、自分が手にした席を譲る人なんていますか?
他人の人生なんか皆所詮はどうでもいいのです。
先生だってそうでしょう。人生なんてものは弱肉強食で、殺し合いです。私は穂乃香を蹴落としたまでなんです。