【やさしい仕返し】レジの順番
人は時々、「ちょっとだけなら」と思って、
誰かの時間や気持ちをすり抜けていきます。
列の順番も、譲り合いの空気も、
ほんの少しのことなら、大丈夫──
そう信じたまま、後ろを振り返らずに。
でも、世界は静かに見ているのです。
誰かの“気づかれなかった不快”が、
風のように、ふいに戻ってくる瞬間を。
この物語は、“怒り”ではなく、
そんな「小さなズレ」にふれた記憶のためにあります。
やさしく、気まずく、
けれど確かに届く“仕返し”の話を、ひとつ。
……お読みいただければ幸いです。
佐野という男がいた。
時間に追われ、機嫌の波も読めず、
せっかちさを正義のように振るまう癖があった。
その日も、昼休みのコンビニで彼はやった。
レジに並ぶ列の前へ、
「すみません、急いでるんで」と、誰にともなく声を置いて、
無言の人たちのあいだを割り込んだ。
──たった数歩ぶん、前に出ただけのこと。
翌日、同じ店でまた列に並ぶ。
今日は時間に余裕があった。
ふと、前に立っていた人物が振り返った。
黒縁の眼鏡、地味なワイシャツ、手にお茶のペットボトル。
どこかで見たような──いや、たぶん昨日のあの人。
その人物──青年は、佐野に目を細めて言った。
「お急ぎでしたら、どうぞ」
柔らかい声だった。
責めるでもなく、皮肉でもなく、
ただ、そこにある“余白”のような譲り方。
佐野は戸惑った。
「いえ……大丈夫です」と言って前へ進み、
財布を取り出した。
──ない。
あったはずの千円札が、見当たらない。
何度めくっても、小銭ばかりが音を立てた。
レジの店員が小さくうなずいた。
「またどうぞ」と言われ、佐野は頭を下げた。
会釈もできず、言葉もなく、
ただ、弁当を棚に戻して帰った。
店を出たとき、後ろで誰かがぽつりとつぶやいた。
「順番って、守らないと……戻ってくるんですね」
声の主は見えなかった。
でも、その言葉だけが、不思議と胸に残った。
……“やさしい仕返し”は、
誰の手にも触れず、風のように終わっていた。
……ただ、それだけのことです。
仕返しという言葉には、
どこか鋭さや重さがつきまといます。
けれど“やさしい仕返し”は、
誰かを傷つけるためのものではなくて、
すれ違いに、そっと輪郭を与えるためのもの。
無理に許す必要も、
忘れる必要もないのです。
ただ──
「こんなふうに返ってくるのか」と
心のどこかで知ったとき、
私たちは少しだけ、
別の歩き方ができるようになるのかもしれません。
風のようにやってきて、
煙のように去っていく違和感たちへ。
……それでも、胸に残るものは、
きっと優しさだったのでしょう。
お読みくださり、ありがとうございました。