唯一の男
春の終わりに優二と愉李子は新田組本家に行った。いかにも丈夫そうな塀と扉。時間より少し早く着くと係の者が開けた。二人は緊張した面持ちで入る。係の者が引き続き案内する。優二はスーツ姿で、愉李子は地味なオフィスカジュアルな服装だった。
敷地も広々としており、駐車場や池が有った。そこを通り過ぎて大きな建物の中に入る。窓は大きいが、防弾ガラスになっている。
エレベーターで最上階に行き、奥の部屋に案内される。係の者がインターホンで二人を連れて来た事を伝えて慇懃に扉を開ける。二人は深々と頭を下げる。ゆっくり頭を上げると、部屋の奥には還暦間近の男が足を組んで座っている。川倉だ。極道用の雑誌で何度も写真が載っていたし、色んなサイトの記事でも画像が映っている。
川倉の両脇には護衛の男達が五人ずつ並んでいる。皆、優二と愉李子を見つめたまま、微動だにしない。優二は固唾を飲んだ。
川倉は二人を真っ直ぐ見つめたまま、机を人差し指で叩いた。優二は頭をまた深く下げると愉李子を促しながら前へ進んだ。川倉の席の五歩手前で立ち止まる。川倉は膝の上で指を組む。優二は、
「時観組の夢村優二と砂澤愉李子です」
と、簡単な自己紹介をした。川倉は無表情で、
「お前達の事はよく知っている」
優二の目が一瞬、泳いだ。傍らで愉李子は緊張した面持ちで川倉を見返している。川倉は、
「砂澤。お前は右翼団体としての俺をどう思ってる?正直に答えてくれ」
川倉が新田組組長に就任する前には右翼団体として活動してきた事は愉李子も知っている。過激な反原発派を批判し、中国を非難し、アメリカを支持していた。愉李子は、
「アメリカをそんなに支持なさらなくても良いのではないかと思います」
優二が愉李子に振り返る。護衛の者達も呼吸を荒くする。川倉は、
「そうか。米軍基地に喧嘩を売った事を否定していないんだな」
「過去は変えようがありません」
愉李子は無表情で答えた。川倉はチラリと優二を見やり、
「砂澤、他の男を紹介してやろうか」
「突然、どうなさったのですか?」
愉李子が尋ねる。優二の顔が蒼白になる。川倉はニヤリと笑い、
「お前。夢村では物足りないんだろ。だから駒になりきれていない」
「お断りします」
愉李子は冷たい声で言った。川倉は薄ら笑いを浮かべたまま、右手を上げて、
「若くて有望な男だ。おい」
護衛の一人が愉李子に近寄った。確かに三十代の美形だ。川倉は、
「俺が所属していた虹山組の若頭、夏場政吾だ」
「私は家畜ではありません!」
愉李子は大声で反対した。夏場が、
「組長の前で騒ぐな」
川倉は頬杖をつき、
「命令だ。夏場の女になれ」
「私の夫は夢村優二ただ一人です」
愉李子は低い声で言った。夏場は愉李子を睨む。川倉は、
「なんだ。しっかり夢村に恋慕しているじゃないか」
愉李子は深呼吸した。優二は目が泳いでいる。夏場は溜息を吐いて引き下がる。川倉が、
「茶番をして悪かったな。ちょっと試したかったんだ」
愉李子が訝しそうに川倉を見ると川倉は、
「俺はお前が俺達の所に来るのを内心、反対していた。しかし夢村の妻でいる限りは受け入れておこう」
優二は安堵の溜息を吐いた。川倉は人差し指を天井に向けて、
「それからもう一つ」
愉李子と優二が緊張した顔で川倉を見つめると川倉は、
「以前、山田に『新田組に入ってからアイヌではなくなった』と言ったみたいだが、そんな事を言うな」
愉李子が不思議そうな顔をすると川倉は悲しい顔で、
「民族なんて辞められるものではないだろ」
愉李子は俯いた。川倉は優二と愉李子を見比べて、
「お前達を確かめられて良かった。もう良いぞ」
優二は深々と頭を下げると愉李子の腕を掴んで退出して行った。
優二は複雑な気持ちになった。愉李子が川倉に躊躇わずに反発した。それは畏れ多かったし、腹立たしかった。けれども愉李子は優二を唯一人の男と言い放った。それは嬉しい。単に他の男に乱暴に扱われたくないからだとしても、今の生き方をただ変えたくなかっただけだとしても、悪い気はしない。
「愉李子」
「優二」
二人は本家を出ると向き合った。二人共、気まずそうな顔をしている。優二は、
「アホ。相手は本家だ。無茶するなよ」
愉李子は苦笑いしながら、
「私があそこで簡単に別の男に切り替えたら、本当に本家から見限られていたかもね」
優二は大きく溜息を吐く。確かにそうかも知れない。
二人は桐風村に帰る前にホテルで抱き合った。