川原真海
胸糞展開、注意。
砂澤愉李子が二十六歳になる年。盆の時期が過ぎた夏の終わり。婦人用の薬を創るのに没頭していた。父方の祖父母も母方の祖父母もだいぶ弱ってきていたが、近くに住んでいる伯父伯母達が代わる代わる介護をしていた。両親も祖父母のいる北海道に戻って仕事を続けながら介護を手伝っていた。家族や親族が揃うのは年に一回の正月ぐらいだ。愉李子は盆にも帰りたかったが、今が踏ん張りどころだと思っていた。成果を出したい。
そんな時、仕事帰りの夜遅くに確認したら携帯電話が何度も受信しているのに気付いた。当時、携帯電話は既に普及していた。親友の川原真海からであった。
「ごめんね。新薬開発で忙しかったから。どうしたの?」
愉李子が会社近くの公園で携帯電話で尋ねると、真海が暗い声で、
「死にたい。痛い」
と、訴えた。こんな事は初めてであった。愉李子は一瞬、頭が真っ白になったが、
「ちょっと待って。私に出来ることは無いの?」
真海は涙声で、
「どうせ私はゴミ女なんだよ」
彼氏に酷い事をされたのだろうか。しかし、彼氏の存在を今まで聞かされていない。愉李子は、
「貴方がゴミなら私は生ゴミ以下だよ。どうしたの?」
電話口から激しい慟哭が漏れる。愉李子は息を飲んだ。余程、酷い事が有ったようだ。
「痛い!苦しい!死にたい!助けて!」
真海が取り乱している。愉李子は驚きつつもなるべく落ち着いた声で、
「今、何処にいるの?」
「沖縄にいる」
愉李子はなるべく詳しく場所を聞き出すと、
「二十四時間以内にそっちに行く。絶対に待っててね!」
と、電話を一度切った。すぐに上司に電話して明日休む旨を伝えた。上司が訝ると、
「親友が自殺しそうなのです!」
と、興奮気味に言った。上司は渋々承知した。愉李子は電話を切るとタクシーを呼び、空港に急いだ。動揺していて手続きに手間取った。
天気は運良く良かった。愉李子は仮眠を取ろうとしたが眠れない。朝、沖縄本島に着陸するとまたタクシーを呼んで真海のいる場所に急いだ。そこは真海の祖父母の家だった。
出迎えたのは真海の母の照子だった。照子の他には老年の男女が驚いた顔していた。照子は簡単に紹介した。二人は真海の祖父母である。案内されるままに中に入ると、若い男と女が真海の近くに座っていた。照子は二人に愉李子を紹介した。真海の兄と妹だ。
真海は愉李子と目が合うなり立ち上がり、
「ありがとう!ごめんね!」
と、抱きつき涙を流した。愉李子は軽く抱き返す。照子は、
「本当にここまで来てくれて⋯⋯ごめんね」
愉李子は真海を抱いたまま、照子に、
「本当に真海はどうしたのですか」
照子は真海から愉李子を引き離し、奥の部屋へ連れて行った。祖父母も続く。
愉李子を椅子に座らせ自分達も座ると、照子が暗い声で、
「一週間前、あの子は二人の米軍人に強姦されたのよ」
愉李子は固唾を飲んだ。祖母は悔しそうに顔が歪み、
「警察の取り調べも不謹慎でぞんざいだった」
祖父は両手で握り拳を作り、
「こんな事はここではしょっちゅうだ」
愉李子の頭は真っ白になった。何も考えられない。何も言えない。思わず俯いた。照子は、
「貴方が来てくれて本当に嬉しい」
愉李子は、
「産婦人科には⋯⋯」
祖母が弱々しく、
「緊急避妊薬を飲ませて治療を受けたけれど、簡単には心の傷も身体の傷も癒せない」
祖父は泣きそうな顔をして、
「俺は本土の奴等が憎い。アメリカが憎い」
オオオン。ブオオン。飛行機とヘリコプターの音が皮肉に響く。照子は祖父に、
「父さん。砂澤さんは味方よ」
「ああ。そうだな。ごめんな」
愉李子は背筋が冷たくなるのを感じた。今、自分がアイヌだと告白しても何も誰も得しないし、和人や大和民族を罵倒しても虚しいだけだ。
愉李子が呆然としていると祖母が穏やかな声で、
「巻き込んで悪かったね。その代わり、ゆっくりしてね」
愉李子は真海達のいる所に戻る。兄が愉李子と真海を連れて観光名所を運転しながら案内することにした。兄はやけに気さくに話しかけてくるので、愉李子も苦笑いしながら受け答えする。癒やすような笑みがどうしても出来ない。
真海が無表情で、
「これ以上、気を遣わないで。ここまで来てくれて本当に嬉しいから」
愉李子は涙を流した。
愉李子は翌日も休暇を取り、翌々日に帰った。真海も兄や妹も、祖父母も別れを惜しんで握手した。照子は土産と帰りの交通費を持たせた。