夢村優二
1970年の春に京都府京都市で夢村優二が生まれた。しかし、母親は出産に耐えきれなくて三日後に死亡した。父親は優二を引き取り、育てることにした。
だが父親は優二を男手独りで立派に育てたわけではなかった。父親は極道。極道として弟分や愛人に子育てを命じて、自分は親分の為に抗争に参加したり様々なシノギをしていた。事実上、子育てを丸投げしていた。
それでも優二は首がすわり腰がすわり、一歳になる頃には歩けるようになっていた。父親の愛人達や弟分達にたらい回しにされていたが、無事に育っていた。愛人達も弟分達も優二の父親を怖がっていたので、優二をぞんざいには扱えなかったし、粉ミルクや離乳食で一所懸命に育てた。
一歳半の時に優二は人見知りが激しくなったが、大人達もそれを面倒臭がって育児放棄をするようになった。すると、幼心に察した優二は誰にでも笑うようになった。笑ったり愛想が良ければ大人達も可愛がる。
五歳になると、やっと父親が直接面倒を観るようになったが、異母弟妹四人と一緒に住むようになった。父親は優二の母親に死なれた後も別の女性と子どもを設けていたのだ。それも弟妹四人の母親は全て違っていた。弟二人に妹二人。一番上の弟の実母親が五人の子どもを育てていた。
優二はそんな義母を手伝った。幼心に義母を憐れんだ。家事はなるべく手伝ったし、弟妹達の面倒も不器用ながらに観た。義母も健気な優二を不憫に思いつつも頼った。父親は週に一回、家に帰るぐらいである。義母や弟妹達に気に食わないことが有ると容赦なく殴ったり蹴ったりする。庇うと更に怒鳴られる。
七歳頃になると学校に行くようになったが、イジメられていた。義母からは問題を起こすなと懇願されていたし、父親からは勇敢に立ち向かえと命じられていた。殴られたり蹴られたり、物を盗まれたり壊されたりしていたが、優二はヘラヘラ笑っていた。その後、誰が何を何時したかを淡々と教師達に笑顔で語る。教師達はそんな優二を不気味に思い、イジメる生徒達を軽く注意するだけだった。
社会から極道の息子として疎まれている事を幼心に優二は気付いていた。下手に反撃すれば加害者扱いされる。義母は悲しい顔をして怪我をしている優二の手当てをする。時には抱きしめて謝る。優二はニコニコしながら、
「母さんは悪くない」
放課後は父親から喧嘩を教わる。手取り足取り親切に教わるというよりも、単に殴られ蹴られ刃物を向けられるのを素早く避けるのだ。優二が慣れれば慣れるほど父親も手加減をしなくなっていく。父親の攻撃が速い上に重くなっていく。それでもかわしていく。
九歳ぐらいになると子育てや家事は上の弟がやるようになり、優二は勉強を頑張った。成績が良ければ教師達は文句を言わないし、誉める事すらあったからだ。学校の教室に引きこもっていれば父親の特訓を受けなくて済む。直接的な暴力に対しては怪我する前に避けられるようになったし、好成績で教師達に少しは認められている。イジメは少し下火になっていた。
しかし夕方になって帰っても、父親は待っており、特訓させた。素手の喧嘩や刃物からの逃げ方だけでなく、父親は優二に刃物を持たせて素振りをさせたり樹木や野菜を刺して穴を開けさせたり、定規や木刀で斬り合いをさせたりした。
優二はそんな特訓を受けたくはなかったが、父親に逆らおうとすると父親が斬りかかったり、弟妹や義母を蹴ったりするので、従った。こういった特訓は父親の気の向くまま、毎日続いたこともあった。
十二歳になる頃には既に拳銃を握らされていた。暴発の恐れがあるので父親は手取り足取り教えた。安全装置の付け方や外し方、弾薬の替え方、構え方、狙い方、撃ち方。最初は組事務所の地下室で動かない的に当てるように父親から命じられていた。中心に当たるようになると今度は山に連れて行かれて動物を撃つように命じられる。
小学校を卒業するまでに、優二は包丁で鹿や猪を、銃で熊を仕留められるようになった。
だが、中学生になる時に、抗争に参加していた父親が逮捕されてしまった。