第3節『小さな凱旋』
魔法の小人『ハングト・モック』の捕獲に成功し、不思議な魔法使いユーティー・ディーマーとの共闘を経て邪悪な『裏口の魔法使い』キャシー・ハッターを退けた後に『ダイアニンストの森』をあとにした3人が『タマン地区』へと戻ってきたのは、その日の夕方7時を少し回った頃であった。一日中森の中を駆けまわったことで身体も服もすっかりどろどろになった少女たちは、一刻も早くシャワーを済ませて着替えをしたい心地であった。特に、ハングト・モックの放った火炎術式によってローブを傷めてしまったリアンとカレンはその繕いもしたいと感じているようである。少女たちは、宿に到着するとすぐに宿泊の手続きを済ませて、部屋に駆け込んだ。シャワーは、リアン、カレン、シーファの順に浴びることにして、二人が入浴をしている間に、シーファがその日の料理の注文をしておくことで段取りが決まった。シャワーを最後までお預けとなるかわりに、メニューは何でも彼女の好きにしてよいという、そういう話になったようである。
やがてシーファの番となり、彼女は浴室に入った。するすると乾いた音を立てて着衣をほどいて、あたたかいお湯を全身に浴びる。一日中かきっぱなしだった大汗が、流れ落ちる湯にとけて行った。べたつきがとれ、肌にさわやかな手触りが戻ってくる。若く美しい肌は、水滴を見事にはじいていた。シャボンを使って頭のてっぺんからつま先まで、汚れを洗い落とす。キャシーの魔の手によって朦朧と消えゆく意識をつなぎとめるため、決死の想いで自ら刺し貫いたつま先の傷は、ユーティの卓越した回復術式のおかげで、跡形もなくすっかり完治していた。痛みももう全く感じられない。シーファは今日一日の出来事を反芻しながら、あたたかく心地よい湯あみに身を委ねていた。綺麗なタオルで身体の水気をぬぐい、着替えを済ませて浴室を出た彼女を、先ほど注文した『タマン地区』の特別料理が出迎えてくれる。先に着替えを済ませて一息ついていたリアンとカレンは、その料理を前にして、シーファの戻りを待ちわびていたようだ。
その日のメインディッシュは、お馴染み『タマン地区』特産の野鳥の刺身 ― 実際には一度湯引きをした後で、刺身の切り身のような恰好に鶏肉を切り分けたもの ― で、新鮮な野鳥が取れた時にしか味わえないといわれるその限定料理は、若い3人の関心を大いに引いていた。
*タマン地区の特別料理、野鳥の刺身である。皿の中央に置かれているのは、その野鳥をかたどったアイスクリームで、刺身肉を新鮮に保つのに一役買っている。
とり肉に目がないリアンは、その美しく透き通る青い瞳をひときわ輝かせて、皿の中を覗き込んでいる。見た目は魚介の刺身のようであったが、その口触りと味は間違いなくとり肉のそれで、湯通しにより加熱された完全に生というわけではない表面と、その内側の生肉の味が絶妙なハーモニーを口の中で奏でて、3人は繰り出す手が止まらないでいた。ワサビやショウガなど、東洋の薬味を添えると、アクセントの効いた引き締まった味となって、少女たちの舌を大いに唸らせたのである。特に、紅葉おろしという名の、トウガラシをちりばめた薬味との相性は絶品で、リアンはそれを夢中で頬張っていた。
「おしいわね。」
そう言うシーファの顔を見ることもなく、リアンはいつものようにこくこくと頷きながら、その手を止める様子がまったくない。カレンはその愛らしい仕草をほほえましく見守りつつ、同じく『タマン地区』の名産品である白桃の生絞りジュースを満たしたグラスを傾けていた。濃いとろみのある甘さのそのジュースは、アルコールを加えたらさぞ美味いであろうという、そんな味わいである。リアンは、白ブドウのジュースを、それから、シーファは先日それがよほど気に入ったのであろう、蜂蜜レモン水を注文していた。舌の上でおどる美食がその日の疲れをやさしく癒していく。おだやかで充実した時間であった。
3人は、翌日に『スターリー・フラワー』のリリー店長を訪れることに決め、報告書を誰がどう分担してしたためるかを取り決めたあと、早々に床に就くことにした。ずっと歩き詰めの上に、ハングト・モックの大捕り物、そして裏口の魔法使いとの思わぬ対峙と、目まぐるしく息つく暇のない一日であったが、心地よいシャワーと偶然に巡り合えた特別の食事によって、十分に英気を取り戻していく。
食事をしながら船を漕ぎ始めたリアンをカレンがベッドに連れて行って休ませ、それに続いてふたりも床に就いた。時刻はまだ9時をまわったばかりで、眠るには少しばかり早い。窓の外を見やると、雲に見え隠れする三日月の周りを真夏の星座がとりどりに彩る美しい宵闇が目に届いてきた。やがて、その夜の帳が3人の精神をすっかり覆っていく。小さな勇者3人の眠りを妨げるものは、もうそこにはなかった。夏の夜は、彼女たちを労わるかのように、ゆっくりゆっくりと更けていった。
* * *
少しずつ、東の空が白み始める。朝が来ようとしていた。窓の外からは小鳥の鳴き声が聞こえ始める。リアンとカレンはまだ夢の中だったが、窓側で寝ていたシーファは外の薄ぼんやりとした白さに誘われるようにして、早朝に目を覚ました。真夏の朝ではあったが、日の出間もないこの時間は少しひんやりした感じがする。寝巻の上にローブを羽織って彼女は窓の外を眺めた。東の空が彩雲に彩られ、そこから朝の始まりが感じられる。薄桃色に光る夜明けは実に美しく、深い森の中で昨日経験した妖しく呪われた赤桃色の煙の色と対照をなしていた。またしても、軽挙妄動に出ようとしてしまった…。シーファはその時のことを思い出し、己の未熟をかみしめる。なにより、自分の欠点と言うべき特性を、出会ったばかりのキャシーに見透かされたことが悔しかった。まだまだ、外的にも内的にも己を鍛えていかなければならない。視野を広げ、状況をよく見やり、全体を把握する意識の広さ、その獲得を急ぐ必要がある!彼女は決意を新たにしながら、夜と入れ替わろうとして次第に昇って来る朝日の動きをその美しい瞳で追っていた。
「もう、起きてたの?早いですね。」
そう言ってカレンも起き出してきた。彼女もまた、寝巻の上にローブを羽織ってシーファの横に並び、窓の外を眺める。
「綺麗ですね。」
「ええ、とても。」
「昨日は、ごめんね。またしても二人を危険にさらすところだったわ。」
謝罪の言葉をカレンに向けるシーファ。
「何を言っているんですか!あなたの勇敢さがなければ、私は危うく彼女の脅しに屈するところだったのですよ。リアンが言ったように3人の勝利です。」
「ありがとう。」
カレンの言葉に、照れくさそうにしてシーファは礼を告げた。二人が窓の外を見やりながらひとつふたつと言葉を交わしていると、リアンも起き出してきた。
「ふたりとも、ずいぶん早いのですよ。私はまだ眠たいのです。」
そう言って、目をこするリアンに、
「おはよう、リアン。今日もいい一日しましょうね。」
シーファがそう声をかけた。カレンもあたたかい微笑みをリアンに向けている。
その時、宿の部屋に備え付けてある通信機が着信のベルを鳴らした。カレンがそれに応答する。
「おはようございます。302号室です。」
「おはようございます。お目覚めはいかがですか?今朝は、朝食付きのプランでお泊りいただいておりますが、お部屋でのお召し上がりをご希望とのことでしたので、これからお持ちいたしたく存じますが、いかがでしょうか?」
通信機の向こうの声はそう訊ねてきた。
「朝ごはん、これからでいいかしら?」
そう訊ねるカレンに、二人は頷いて答える。それを見てカレンは応答を続けた。
「はい、これからで大丈夫です。よろしくお願いします。」
「かしこまりました。朝食には『タマン地区』名産のあたたかいお茶がつきます。おいしいものですので、お楽しみになさってください。」
そういうと、通信が切れた。ほどなくしてドアをノックする音が聞こえる。
「朝食をお持ちしました。」
メイドの声がした。
「開いています。どうぞ。」
そう答えて、カレンがメイドを迎え入れた。彼女は手押し式のカーゴに3人分の朝食とお茶の準備を整えて、部屋の中に入ってくる。あたたかい料理の香りが部屋いっぱいに広がった。その朝のメニューは、トーストとベーコンエッグ、そしてタマン地区特産のホットティーのようだ。
*宿が用意してくれた朝食。充実のメニューである。
通常、職務で宿に宿泊するときは、食事は夕食だけを頼み、朝食は持ち合わせの非常食や魔法瓶詰で簡単に済ませるのが常であり、またその方が収支的にも有利ではあった。しかし、前夜20時前に到着した彼女たちに、素泊まりのプランは残されておらず、仕方なく朝食付きプランを選択していたのだが、結果的には大成功である。3人は充実の朝食をゆっくりと楽しんで、その日一日のための活力を大いに摂取した。『タマン地区』特産のお茶というのは少し渋味と苦みの強いお茶で、一般的なものよりも薬草っぽい、独特の甘みが同居する不思議な味わいの飲み物であった。カレンはその風味を大いに気に入ったようであったが、シーファとリアンは少々苦手に感じたようである。
食事を終えた後、めいめい洗顔と着替えを済ませて、最期にローブを羽織った。結局、昨晩は疲れと眠気に負けてしまいローブの繕いに手が回らなかったリアンとカレンのローブには、それぞれ肩口と裾の部分に焦げた跡が残ったままであった。
3人は、手荷物をまとめてからエントランスに向かい、シーファが荷物の預かり証と荷物を引き換えてそれらを受け取った。リアンはまたしても大荷物に押しつぶされそうな格好になっている。カレンは会計を済ませ、必要経費精算のための領収書を受け取っていた。
「特別コースの夕飯に朝食付きプランなんて、リリーさんか先生のどちらかからお小言があるかもしれませんね。」
冗談っぽく言いながら、カレンはその領収書を慎重にローブのポケットにしまった。
「まぁ、必要経費よ!」
そういうシーファの顔をみながら、リアンもこくこくと頷いている。
「さぁ、出発しましょう!」
シーファの掛け声を合図にして、3人は揚々と『タマン地区』の宿を後にした。
太陽はまだ東の空にいて、そこから日脚を伸ばしている。雲が少しあったが、雨が降る気配は皆無で、その日も暑くなりそうな、そんな空模様であった。宿から南大通りへ出ると、3人は『サンフレッチェ大橋』を目指して一路北に進路をとった。リリーの店までは、まだしばらく歩かなければならない。
* * *
南大通りを北上するにつれて太陽はその高度を天頂方向に高くし、熱気と湿度をもって小さな旅人の身体をとらえていた。早朝に比べると暑さははるかに増し、3人はまたもや上半身ぐっしょりと汗にまみれる格好になる。汗で衣類が肌に張り付いてくるのが不快で仕方がない。ローブを脱ぐことも考えたが、せっかく背負った荷を一度おろしてまた背負い直す面倒を考えると、このままリリーのもとまで行ってしまおうと、そういうことになった。
南大通りをようやく抜け、マーチン通りにさしかかる。ここを北に抜ければいよいよサンフレッチェ大橋だ。『スターリー・フラワー』は少しずつだが近づいてきている。大荷物でぺちゃんこになりそうなリアンを二人して後ろから支えながら、前へ前へと進んで行った。
ようようにしてマーチン通りを抜け、サンフレッチェ大橋に差しかかる。面倒だが、リリーの店に到達するにはこの橋の上で道順暗号を実践しなければならない。右、左、中央というお決まりの進路を踏襲しながら、あたり一面に立ち込めて来る湿気たっぷりの濃い霧をかき分けるようにして、やっとその目的地にたどり着いた。リアンはその場にへたり込んで、肩と胸を大きく上下させている。その口はすっかり開いていた。
霧をかきわけ、かきわけ、橋の突端の左手を探すと、その神秘の魔法具屋の看板が確かにそこに見つかった。
「さあ、行きましょう。リアン、起きてください。」
そう言って、カレンは扉のノブに手をかけた。シーファはリアンの手を引いて立たせ、カレンの後についていく。扉が開くと、その上に取り付けられた呼び鈴が鳴った。
「いらっしゃい。」
声こそするが、リリーの姿は見えない。おそらく、最奥の執務室にて何事かしているのであろう。カレンは通信機能付光学魔術記録装置を取り出して、リリーに連絡を取った。
「あら、あなたたちだったの。あたくしは今ちょっと手が離せないから、奥のあたくしの部屋まで来てちょうだいな。」
リリーのその促しを聞いて、少女たちは店の奥へと歩みを進めて行った。展示即売室からホールを抜けた先に広がる特別展示室の果てに設置された従業員控室の更にその奥にリリーの執務室への扉はある。3人がそこを訪れるのは今度で2度目だ。シーファがその扉をノックした。
「どうぞ。おはいりなさいな。」
リリーが少女たちを迎え入れてくれる。ドアをくぐると、以前と同じ、非常に瀟洒で洗練された執務室が広がっており、案の定、その場所に極めて似つかわしくない醜い魔法生物が、今度は作業台の上に横たえられていた。どうやら、すでにそれはこと切れているようで、頭部をみると、その片目はもう既にえぐり取られていた。リリーは今まさに、金の隠し場所が刻まれているという秘宝『ハングト・モックの瞳』を外科手術の方法で摘出したところだったのである。
「お疲れ様。」
3人の顔を見て、リリーがねぎらいの言葉をかけてくれた。
「状態はどうでしたか?」
そう訊ねるシーファに、
「極上よ!よくやってくれたわね。片目が無事なら御の字だと思っていたけれど、両目ともに無傷とは、お見事なおてまえだわ。」
上々の機嫌で彼は答える。言葉を発しながらもその手はせわしなく動いていた。
「摘出後はちゃんと保存処置をしないと瞬く間に干からびてしまうから。面倒だけど後処理こそ手を抜けないのよ。摘出と保存さえうまくいけば、その瞳に刻まれた隠し場所をたどって金にたどり着くのは造作もないことよ。」
そういって、リリーは笑った。その間も、その手は魔法と錬金に必要な所作を巧みに繰り出し続ける。その手際は、『裏路地の魔法具店』の店主にふさわしい卓越したものであった。彼は、様々の魔法処理を施したその瞳を小ぶりの瓶に入れ、その中を保存液であろう液体で満たしていった。その瞳は持ち主の身体からくり抜かれてなお、神秘的な魔法光を放っている。リリーの説明では、特別な方法で保存されたその瞳を覗き込むことによって、金の隠し場所の情景が立体地図のように脳裏に浮かび出るのだということであった。その立体地図を手掛かりとして無事に隠し場所に行き当たることができれば一獲千金できるのだと、彼は得意げに言葉を紡ぐ。
「リリーさんのお店の経営は順調に見えますが…。」
美しく整えられた彼の部屋を眺めながら思わずそう口にするカレンに、
「あら、それほどでもないのよ。世の中、物の値段は上がるばかりだしね。かといって商品を値上げしたら売れなくなっちゃうでしょ。困ったものよ。そんなわけで、お金はいくらあっても困らないの。お嬢ちゃんたちも、高等部になればいよいよ差し迫って実感するようになるわよ。」
そう言って、リリーはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
魔法社会では、アカデミーに所属する者は、位階(学年)が進むにつれ、徐々に実務をこなして経済的に自立することを求められていた。初等部ではごく例外的に、中等部ではアルバイトやパートタイムとして実務と関わるようになり、高等部に至ると、基本的には専攻科と関連の深い職能ギルドと契約を取り交わして、定期的な依頼を引き受けるようになる。またその他には、『アカデミー治安維持部隊』や『漆黒の渡烏』といった、アカデミー内部の警察や軍事部門に職を得るエリート・コースも用意されている。実は、今年のウィザード科の1年生の中で最も優秀なシーファは、非常勤ではあるものの『アカデミー治安部隊』のエージェントの資格を持っており、その自負が彼女を必要以上に正義的行動へと突き動かしている側面があった。プライドは時に勇気や活力を大きく喚起するが、別の場面では、焦燥や軽挙、過信の温床ともなる諸刃の剣としての側面も併せ持っている。まだ10代前半と幼さの残るシーファは、自己の使命感と大局的判断との間のバランスの会得がいまだ完全ではなく、その牽連関係の中で人知れず悩みを抱えることも多かった。
* * *
やがて、せわしなく動いていたリリーの手が止まる。瓶のふたはしっかりと閉められ、不思議な保存液の中で、魔法光を放ちながら『ハングト・モックの瞳』がゆらゆらと揺蕩っていた。
*リリーが手際よく保存した『ハングト・モックの瞳』。この保存はかなり難しい術式のようだ。
「さて、おまちどうさまでした。」
リリーは作業台の奥から手前に出てきて、3人を従業員控室へと案内した。
「かけてちょうだいな。」
そう言って、少女たちを長椅子にかけさせる。
「あなたたちには感謝しているわ。精算をしましょうね。まずは、必要経費の領収書を出してちょうだいな。」
その案内に従って、カレンが2枚の宿の領収書を手渡した。リリーはそれをまじまじと見やる。
「往路はまぁいいとして、びっくりは復路よ!あなたたちタマンの名物をしこたま堪能したようじゃない?しかも、朝食付きなんて、ずいぶんとまぁ豪遊したものね。」
案の定、小言を言い始めたリリー。
「すみません。宿への帰りが遅くなってしまって、そのプランの部屋しか残っていなかったんです。」
申し訳なさそうにシーファが事情を説明した。
「まぁ、プランはいいわよ、プランは。そういうことはあるものだから。しかし、この日の夕食の豪勢さは、わざとでしょう?」
そういって、リリーはいつものように口角を上げる。
「はい、その日偶然用意可能な特別メニューということだったので、つい…。」
シーファはしおらしくこうべを垂れた。
「まぁ、いいわ!それも含めてお仕事よ。腹が減ってはなんとやら、って異国でも言うしね。約束通り、半分はこちらで負担しましょう。」
そう言うと、リリーは引き出しから札束とコインを取り出して、その領収書の記載額のちょうど半分をシーファに手渡してよこした。
「面倒だけど、領収書にサインをよろしくね。」
シーファは、リリーが差し出した領収書に金額を書き入れ、自分の名を署名する。
「ありがとう。こんな場末の法具屋でもね、最近は何かとうるさいのよ。世知辛い世の中になったものよね。」
そう言いながら、更に引き出しから札束を取り出し、それを3束に分けて少女たちの前に差し出した。
「よくやってくれたわ。両目とも無傷だったから、もちろん満額の支払いよ。それから、あなたたちの勇気をたたえて、あたくしからの気持ちを乗っけているわ。約束の1.5倍。受けっとたらそれぞれ領収書にサインをお願いね。」
その札束は、3人の予想を遥かに超える額であった。
「こんなにたくさんはいただけません。」
シーファが首を振って、リリーの顔を見る。
リリーは彼女の美しい瞳をまっすぐに見て言った。
「何を言っているの。それは温情でも施しでもないのよ。あなたたちがやり遂げた仕事の対価です。何を遠慮することがあるというのかしら?自分たちの仕事と労力に誇りを持ちなさい。あなたたちは立派よ。」
そう言うリリーの眼差しはあたたかだった。
「ありがとうございます。」
めいめいに、報酬を受け取り、代わりに署名した領収書をリリーに渡した。
「ただし、報告書には3人で二人分とするのを忘れないでちょうだいね。計算はそちらに任せるわ。それから、もう一つボーナスがあるのよ。ちょっと待ってもらえるかしら?」
そう言って自室に戻って行くリリー。3人は何事かと顔を見合わせている。
彼はすぐに戻ってきた。その手には、法具らしい小ぶりの斧が握られている。
*『ハングト・モック』が手にしていた魔法具の斧。強力な術式媒体のようだ。
「これはね、『エレクトの斧』という法具よ。あの『ハングト・モック』のやつ、こんなものを持ってるなんて相当の手練れに召喚されたようね。商品にすればいい値段で売れるけれど、あいにくあたくしのお店にはこういう無骨で野蛮なものは似合わないのよ。強い術式媒体はいくらあっても困らないでしょ?なんならお金に変えたっていいんだし。あなたたちにあげるわ、もっておいきなさい。」
そう言うと、リリーは複雑な魔法光をたたえる小さな斧を3人の前に差し出した。リアンは興味津々なようで、さっそく手に取って眺めている。
「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えてちょうだいします。」
「どうぞ、どうぞ。」
カレンとリリーがそんな言葉を交わした。
* * *
「それじゃあ、これにて一件落着ね。」
リリーは3人に席から立ち上がるように促した。
「本当にありがとうございました。感謝しています。」
そう言うシーファに、
「あたくしこそ、すっかりお世話になったわ。」
リリーはウィンクを返して見せた。
彼は少女たちを出口まで送っていき、ドアを自ら開いてやる。3人が振り返ってお辞儀をし、もう一度感謝の言葉を告げて店を出ようとしたその時だ、その背中に向かって、リリーが声をかけた。
「ああ、そうそう。実は近いうちにもうひとつお願いしたいことがあるのよ。あの気の短い先生に連絡するから、よかったらまた手伝ってちょうだいな。」
そう言って見送るリリーの方を振り返ってめいめいに会釈した後、彼女たちはサンフレッチェ大橋に煙る霧の中に消えて行った。
夏の陽は西に傾きかけてたが、それでも夜までにはまだまだ十分に時間は残されている。橋を南に下るに従って神秘の霧ははれ、見慣れた姿を取り戻しながら更に南に続くマーチン通りと接合した。ここを下ってアカデミー前の大通りに出れば、学園はもう目と鼻の先だ。
すっかりあたたまった懐を大事に抱えながら、仕事をやり遂げた充実感に満たされて岐路を急いでいく少女たち。この仕事のために10日の予定を組んでいたが、往路1泊、復路1泊のわずか二泊三日で凱旋することになったのだ。その日は奇しくも夏期補習の最後の日、すなわち夏期休暇の前日であった。これで夏休みに間に合った!その感動が彼女たちの小さな胸中を大きく占めていた。
暑さはなお厳しく続いていたが、内心が晴れ晴れとしたさわやかさで満たされた少女たちの足取りは軽い。リアンもその小さな体で、軽々と荷物を背負っていた。
* * *
アカデミーに帰着した3人は、一度帰寮しようかとも相談したが、折角なので職務完了の報告だけは済ませてしまおうということで、その足で『全学職務・時短就労斡旋局』の事務所に直行した。担当職員に、職務が無事に完了したことを告げた後、帰着日を記録簿につけてから、報告書は後日提出に来ると伝えてその場を去ろうとした時、職員が3人を呼び止めた。
「先生から、皆さんが帰着次第連絡するように仰せつかっていますので、しばらくお待ちください。」
そう言うと、担当職員は事務所備え付けの通信装置でウィザードに連絡をとる。
「すぐに先生がおいでなるそうです。面談室でお待ちください。」
3人は同局の面談室に通され、そこでウィザードを待つことになった。面談室の中は魔法空調が効いており、外に比べるとずいぶん涼しい。リリーの店にいた時の他はずっと歩き通しだった3人のあつく火照った身体を、そこは心地よく冷やしてくれた。体中からあふれ出ていた汗が次第に引いていく。身体にからみつく衣服の気持ち悪さからもようやく解放された。
3人がようよう人心地ついたところに、ウィザードが入室してきた。席から立ち上がろうとする少女たちにそのままでよいという仕草をしながら、
「なんだ、お前たち。もう帰ってきたのか!」
と驚いた様子で声をかけた。
「はい、無事に職務は完了しました。帰着の連絡と報酬の概要だけ事務局に伝えました。報告書は後日提出いたします。」
そういう、シーファに、
「それはなんとも結構なことだが、今日はまだ夏期補習の最終日だぞ。夏休みは明日からじゃないか。これだと、お前たちに休暇を満喫されてしまう。それじゃあ罰にならないだろうが!なんてやつらだ。」
やれやれという調子で言い放つウィザード。しかし目元はあたたかさを称えていた。
「よく無事に戻ってきたな。詳細は報告書を読んでからになるだろうが、様子を見る限りそれほどデタラメな無茶をしたというわけではなさそうだ。多少のゴタゴタはあったようだが…。」
そう言ってから、リアンとカレンのローブの焼け焦げに目を移す。
「何にせよ、大ごとがなくて何よりだった。お前たちを誇りに思うぞ。」
その言葉を聞いて、3人の顔にようやく安堵の表情が浮かんだ。
「約束通り、明日からの夏期休暇は自由に過ごしていい。しかし、どうするんだ?予定通り帰郷するのか?」
ウィザードのその問いに、3人はどうしたものか、という顔をしている。最初に口火を切ったのはシーファだった。
「当初は帰郷する予定だったのですが、まったくその準備ができていません。ですから家族に連絡して、私は、今年の夏は休み明けまで学園で過ごそうと考えています。」
「そうか、それもよかろう。」
頷くウィザードに、リアンも口を開いた。
「シーファが残るなら、私も残るのですよ。家に帰っても退屈なだけですから、ここにいる方がいろいろ面白いのです。」
その言葉を聞いて、カレンも意を決したようにして言う。
「そういうことなら私も残ります。私の故郷は少々遠いので、今から準備をするというのも少々気が引けるのは本当のところです。寮で過ごします。」
「そうか、わかった。君たちには自由に夏期休暇の残日を消化してよいと約束した。めいめい思うように過ごすといい。」
「はい、ありがとうございます。」
3人は声を揃えて返事をした。
「しかし、ずっと寮生活というのも息が詰まるだろう。何なら3人で、ビーチにでも繰り出してはどうだ?南の海は、今年はとりわけ美しいと聞く。よければ検討してみたまえ。何にせよ、ご苦労だった。報告書は明後日までに提出すること。早いのは特段構わない。『南5番街22-3番地ギルド』としての報酬は、報告書の提出後に改めて支給するから、この事務所で受け取りなさい。では、よろしく頼むぞ。」
そう言うとウィザードは3人を残して面談室を後にした。
期せずして、今年の夏休みを共にアカデミーで過ごすことになった3人。リリーからの再度の依頼とやらも気になるところだが、明日から始まる夏期休暇をどう過ごすか、3人の頭はそのことでいっぱいになっていた。
窓の外では、太陽が大きく西に傾き、橙色を帯びた光が斜めに差し込んでいる。それは3人の少女たちの顔を誇らしげにいつまでも照らしていた。彼女たちの夏休みが始まる。