20
御殿のさらに奥。森の中の泉を模した庭のある廊下の先に、離れとして建ててある昼孁の寝所があった。侵入者を寄せ付けないように武人が二人、入り口を守っていた。千千姫に続いて寝所に入ると、そこは広い板敷きの間になっていて、薄い布をめぐらせた一角があった。そこにどうやら寝具が置いてあるらしい。
植物が燃える匂いがした。暗くなってきたので、植物油にひたした芯に火を付けて、灯りとしている灯台が幾つか置いてあった。蝋燭はこの時代、まだないのだろう。
寝所の入り口には一人の年老いた男がいた。千千姫が入ってくるのに気づくと礼のため頭を下げてそのまま動かなくなった。
「この者、籐弥といいます」
翠は籐弥におじぎをした。紬もそれに倣った。籐弥はますます頭を下げて恐れ入った。
千千姫は寝具のそばに行き、薄布からは少し距離を置いて板の間に座ろうとした。すると籐弥が足音も立てず、なめらかな動きで近づいてきて、藁でできた敷物を差し出した。
翠も紬も敷物を借りて、その上に座った。キジトラ猫のニンゲンは翠の膝の上に飛び乗った。
千千姫は手で顔を覆い、めそめそと泣き出した。
不思議な光景だった。
紬は訳が分からず首を傾げた。
薄布で覆われていた寝具の中には誰もいなかった。
翠と紬は顔を見合わせた。
千千姫はとても悲しそうに涙を流しているのみだ。
翠が部屋を見回すと、籐弥は入り口付近に戻って座っていた。
「千千姫……」
翠が心配そうに声をかけた。
「おわびします」
千千姫は涙を巫女装束の袖で拭った。
「……昼孁さまはすでに身罷られておいでです。もう何年も前です。病に伏せったあと、籐弥だけをこの寝所に入るのを許し、それから程なくしてのことだったそうです」
翠と紬は驚いた。ニンゲンも翠の膝の上でもぞもぞと動いた。
「それを他の人は……?」
「知っているのは籐弥と私だけです」
一国の主が死亡したことを事情により隠すことはありえることだとは思う。しかし、何年もの間、隠し通せる者なのだろうか。
「私も昨年、大巫女になってから知ったのです」
千千姫は籐弥のほうに視線を向けながら言った。
「それまでは籐弥が昼孁さまの遺言を守り、一人で隠し通していました。かんがたり(神託の意)も、籐弥が籤を引いて、付き合う木簡を選んで皆に出していたようです」
「木簡?」
「昼孁さまは木の板に神からのお告げをたくさん書いて残されました」
千千姫は部屋の隅のほうに置かれた低い棚を指さした。そこには山のように積まれた木の板の塊があった。
「どうして昼孁って人は自分が死んだことを隠そうとしたのかな?」
紬が不思議そうに言った。
「自分が死んだことが分かれば、高天原の力が弱まると思ったからじゃないかな?」
翠の意見に千千姫は頷いた。
「そうだと思います。実際には昼孁さまがお隠れになってから、周りの国たちの心は離れてしまいましたけれど……」
千千姫は憂いを見せた。
「あなたが大巫女になったのは……?」
「私が忍穂耳さまと娶せていただいたのも、大巫女にしていただいたのも、籐弥が籤を引いて付き合った木簡のかんがたりの指図でした……。私が大巫女になってはじめてこの寝所に来たとき、籐弥がすべてを打ち明けてくれたのです」
「あなたはどう思ったの?」
「とても驚きました。お隠れになったあとも、昼孁さまのかんがたりは私たちを救ってくれていましたから。でも、籐弥が籤を引いて出されるお告げには少し不思議なときもありました。なので、私が大巫女になってからは、私が一度木簡の意味を確認してから、おかしいときはもう一度くじ引きするようにしています」
「くじ引きなんて、ただの運次第なのでは?」
紬はそう言ったのだが、翠は紬の膝を軽く叩いてそんなこと言うなと目配せした。
「もちろん、私にも少しは神のお告げが聞こえることがありますので。出雲の八俣のおかげでいよいよ困り果てたとき、祈りのなかで昼孁さまの声が聞こえた気がしました。八百万の神々に助けを求めれば、あの祠から救い人が現れるだろうと。そこで、祠を祀り、祈りを捧げたのです」
それで私たちがここへ来る道が開かれたってわけか。翠は考えた。