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翠はその夜、御所に帰ると、夕食を軽く取ってから、誰にも何も言わずに禊を済ませた。
そして自室の畳の上に座って瞑想した。少し眠くなったときは素直に畳の上で横になった。スマートフォンのアラームを付けて日付が変わるころには起きれるようにした。
アラームが鳴る前に目を覚ますと、ちょうどよい時刻になっていた。
顔を洗ってさっぱりすると足音をあまり立てないようにして自室を出る。
巫女が着るような白衣と、軽い織物でできたこれも白い袴を着用していた。長い黒髪を一つ縛りにして、自分の色でもある淡い翠色の髪飾りを付けていた。
御所の回廊のようになっている廊下には護衛の者が椅子に座っていたりもしたが、翠が通っても軽く会釈をするだけで何も言われなかった。
翠は大きい階段があるところまで来てあたりを見回した。廊下の奥の方で護衛が翠のほうを見ていた。
翠は階段を降りた。この下は地下になっていて皇族のみが入れる部屋がある。
宝物殿とも呼べる大きな部屋は、皇族が大切なものをしまっておける場所だ。そしてそれを見て回ることもできるようになっていた。そこには重要すぎて値段が付けられないようなものばかりが置いてあった。
翠は生まれてからずっと御所で暮らしているので、ある意味見慣れている場所だった。
鎧や刀、仏像、絵画、金細工物、皿や茶碗、布や着物。ありとあらゆる皇室に伝わる宝物が置いてあった。翠はそれらには目もくれず、部屋の奥に進んだ。
間仕切りがあってその中に今では誰も使うことがなくなった祭壇があった。
祭壇は木製だったがとても古いものだった。柵のようなものが途切れ途切れに残っているものだけこの位置あったであろうという場所に、柵の意味をなさぬまま置かれていたり、祭壇そのものは朽ちかけていたが不思議な趣があるように思えた。
翠はしばらく祭壇の前に立ち、それを見つめていたが意を決したように床に正座した。白衣の袖から勾玉を取り出す。その勾玉の穴に紐を通して自分の首にかけた。
立ち上がり礼をした。
思い出しながら祝詞を唱えた。
宙皇家に伝わる儀式と詞の中から、翠は自分に口伝された、とある詞を祭壇にささげた。
現代科学の世では宙皇家の儀式や祈りについて、重要視されなくなって久しいが、翠はそれらの力について軽視してはいなかった。それらをしっかりと行うことも彼女の計画のうちでもあったのだ。
祝詞を捧げ終わる。
頭を上げ祭壇を見た。
この詞は別段特別なものでもなかった。世の平和と繁栄を祈る言葉でできている。そんな詞であるが皇族たちにも忘れ去れさられたようなこの古い祭壇に捧げる意味があろうかと思ったのだ。
そしてこの勾玉。
依代ではあるけれどおじいさまが私に授けてくれたこれを身に着けて一度試したかった。
祭壇の上には古い鏡が安置されていた。
パキン
その鏡から音がした。
翠は少し驚いて体が震えた。
翠が体を固くして辺りの様子を伺っていると、祭壇の裏から一匹の猫が出てきた。
「ニンゲン!」
呼びかけられた猫は軽い足取りで歩いてから祭壇の横にある木製の台に飛び乗った。彼は変わった名前をしているが、キジトラ模様のオス猫で翠の飼い猫である。
「驚かせないでよ。あんたなんでこんなところにいるの」
ニンゲンは片腕を上げて舐めては顔にこすりつけた。
「もう!」
翠は拍子抜けして肩を撫で下ろした。
「部屋に戻ろう。ニンゲン。おいで」
翠は猫に呼びかけたがニンゲンは顔を洗うのをやめなかった。
「勝手にしな」
翠はそう言ってニンゲンのことも祭壇のことも諦めて踵を返して歩き出した。
そのとき、背後から人の声が聞こえた。
「……ゲートは開き、願いは聞き届けられた」
翠は驚いて振り向いた。
誰もいない。
ただ、ニンゲンが顔を洗うのをやめて翠の顔を凝視していた。
「なに?……誰?誰かいるの!?」
翠は少し大きな声で呼びかけた。
しかし返事はない。
「ニンゲン?あんたがしゃべったわけ……ないよね」
ニンゲンは台を飛び降りて尻尾を立てながら翠を追い越して歩き、祭壇の間仕切りの外へ出ていった。
翠は怖くなってニンゲンの後を追った。