ここはどこ?
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どうして立っているんだろう?
視野が開けて乃愛が真っ先に頭を過ぎったのは、自分がいつの間にか立っていたことへの疑問だった。
きちんと椅子に座っていたはずだ。立ち上がった記憶はない。
乃愛はその矛盾したような感覚に思考が捕らわれてしまい、俯きながらその場に立ちすくんだが、周囲の騒ぎ始める音が耳に入り、ハッと顔を上げた。
「どこだここは」
「何が起こったんだ?」
「暗くてよく見えない。……なにあれ……ろうそく?」
「え、地震?」
「揺れてたっけ?なんかさっきすごい眩しかったんだけど……」
囁き程度の声量のはずだが、やけに音が響いて聞こえてくる。この場の空間が広いのか、声が反響しているようだ。
辺りを見回すと、壁際には燭台が等間隔に並び、明かりが灯っている。窓は見当たらない。周囲の壁はごつごつとした感じから、剥き出しの岩肌にも見え、どことなく空気の湿っぽさや閉塞感もある。
洞窟の中にいるようにも感じたが、面前だけは鉄格子になっていて、これではまるでレトロな牢屋だ。
この場に人がいる気配だけは分かるが、辺りが薄暗くて判然としない。
普段からシーリングライトなどの電化製品に囲まれた生活を送っているためか、蝋燭のような原始的な灯りだけでは心もとなく感じる。
囁きと蠢く人影しか見えない光景に、乃愛は徐々に恐怖を抱いていた。
鉄格子の近くにいた誰かが動いた。
乃愛と同じ学校の男子生徒のように見える。まさかつい先ほどまで同じ教室にいた生徒たちなのだろうか。
――ガシャンッ
乃愛は肩を跳ねさせた。
近くで突如、重たい金属音が大きく響いた。
場の空気が瞬時に凍りつき、聞こえていた話し声がピタリと止んだ。
「……開かない。南京錠みたいなのが付いてる。これ、閉じ込められてんじゃねーの」
静寂を破ったのは、先ほど動いた男子の声。
淡々と呟かれたその言葉に、乃愛の心拍は急激に速くなる。鉄格子を揺らしたのだろう。どうやら扉もあったようだ。
乃愛の心臓はあり得ない早さで鼓動し始めていた。
一方では、様々な声音の囁きが再開されていた。
「は……マジかよ」
「……冗談やめてよ。ちょっと今は笑えないんですけど」
声に少し怯えが混じっている。軽く言おうとして失敗したようだ。
「てかここは何なんだ。俺らは何でこんなとこにいる?先生は?」
「いや先生はまだ来ていなかった気がする」
冷静に現状を把握しようとしている者もいるが、視界や音から得られる情報はあまりにも少ない。聞き慣れたクラスメイトたちの声が聞こえることもあって、まだ皆、教室の延長のような感覚でいた。ここで先生の声が上がらないということは、実際にいないのだろう。
――その時、近くで誰かが首を傾げた。
「あれ?なんか周りが見えるようになってきた」
気の抜けたような呟きだが、聞き慣れた声だった。隣の席にいた新田知聖という女子生徒だ。
乃愛は思わず声の主の方へ顔を向けると、パチリと目が合った。なぜか顔の輪郭がはっきりと見えて、驚きに目を見開いた。近くにいたとはいえ、周囲が薄暗い状況は変わっていない。さらに乃愛は軽い近視で、本来なら裸眼ではここまで見えない。色調は暗いものの、眼鏡をかけているときよりも細部が鮮明に見えている気がする。
ただその妙な視界の見え方に、すぐに言いようのない気持ち悪さを感じた。相手も同じなのか、驚きつつも訝しげに目を眇めている。
「あ、志津さんもこっち見えてるのかな?んー、なんか変な感じするよね?」
話しかけられたことで、乃愛の全身からぶわっと一気に冷や汗が出てきた。身体が小刻みに震え出す。先ほど感じた緊張から倍増した。バクバクと心臓の音がうるさい。
顔は向けているが視線はすぐに外してしまった。早く返事をしなければならないが、言葉がなかなか出てこない。黙っていたせいで、妙な間が生まれたようだった。
「……っ……!」
結局、乃愛はうなずくだけの返事しかできなかった。
新田はそれに苦笑を返すだけで、改めて辺りを見回し出した。先ほどまで声や人影でしか存在を感じなかった、他のクラスメイトたちの顔ぶれを確認するためだろう。
胸の奥に小さな軋みを覚えたけれど、視線が逸れて会話が終了したことで、緊張状態は次第に治っていった。
乃愛は心を静めようと、そのまま顔を俯けていたけれど、周囲の騒めきが段々と大きくなっていくのに気づいた。
視界が開けたことで初めは弾んだ声が多かったが、次第に啜り泣きや気色ばんだ声が入り混じるようになっていた。なんだか雲行きが怪しい。
「おい!聞いてんのか!?」
突如、誰かの苛立った大きな声と共に、乃愛の肩が軽く揺すられた。
ぼうっとしている間に声をかけられていたらしい。慌てて顔を上げると、鋭い目つきでこちらを睨んでいる男子生徒がすぐ傍にいた。それを見てクラスメイトだということは分かったが、名前までは思い出せない。
乃愛は人の顔を覚えるのが苦手だった。目も合わせられず、会話も続かない。気づけば誰が誰なのか曖昧になる。
それでも半年以上も同じ教室に通えば、さすがにクラスメイトの顔くらいは覚えたが、全員分の顔と名前を一致させることまでは難しかった。
「……どうした?具合でも悪いのか?」
何を言われていたのかよく分からないが、悪意が向いていたわけではなさそうだ。彼は乃愛の様子がおかしいことに気づいたのか、眉をひそめて不安げな声をかけている。
しかし乃愛は再び話しかけられたことで血の気が引いてきていた。せっかく落ち着き始めていたのに、振り出しに戻ってしまった。
目に怯えが出て一歩後ずさってしまう。堪らず視線を逸らせば、周囲にいるほとんどの人がこちらを見ていることに気づいた。目の前にいる彼の一声で、注目を集めてしまっていたようだ。しかも今では、皆の顔が鮮明に見えてしまっている。
やはりここにいたのは、同じ教室にいた生徒たちであるようだった。
先ほどまでの怪しい雲行きは一時霧散し、乃愛への気遣わしげな雰囲気に包まれ始めた。
あちこちから人が寄ってきて「大丈夫?」などの声をかけられるが、それらが余計に乃愛の焦燥に拍車をかけて、症状がどんどん悪化していく。逃げ場のない状況で、消えてなくなりたい気持ちも膨れ上がる。
乃愛は普段から学校を休みがちであることや、薄幸そうな風貌も相まって、クラスメイトから身体虚弱なのだと思われていた。このような異常事態なので、何らかの発作でも起こしてしまったのかと、彼らは純粋に心配しているのだ。
実際は乃愛が現状についていけなくなって、勝手に切迫感を引き起こしていただけだった。
気づけば、さっきから息が苦しい。酸素が足りない。この症状には身に覚えがあった。過呼吸だ。
分かっていても冷や汗が止まらない。息が乱れてうまく呼吸ができない。胸も苦しくなってきて意識が朦朧としてくる。
震えていた足はすでに立っていられなくて、乃愛は倒れるように足元から崩れ落ちた。
遠のく意識の向こうで、誰かの悲鳴のような声が聞こえた。




