王子の洗礼
ティーハウスを出ると、店の前には豪奢な馬車が待っていた。とても今の伯爵家には購入できなさそうな馬車である。
二人は唖然としながらそれに乗ると、王子に用意された宿まで向かった。王家の賓客御用達とあって、宿というよりも一軒家に近い。
何せ、屋敷を一つ貸し切るのだ。それで料金は取られないのだから、王家は太っ腹である。この屋敷の維持費にどれだけかかっているのか、エノールは計算したくなかった。
「お待ちください、レガルド様」
「どうしました?」
「レガルド様に用意されたお屋敷は別にございます」
二人で屋敷に入ろうとすると、使用人の一人に止められた。
「どういうこと?」
エノールが確認する。
「カクレアス王子より伝言を承っております。『婚前交渉が起きぬよう婚約者殿には別の宿を用意した。好きに使ってくれて構わない』とのことです」
(やられた……)
つまり、エノールは会話の中で言質を取られたのである。『君となら何やでも共に明かしたい』というのはエノールに婚前交渉を避けたいという旨の言葉を引き摺り出すためなのだ。
最初から是を目的として仕組まれていた。カクレアスという王子は思ったよりも、いや、かなりのやり手である。
しかし、レガルドは声を荒げた。
「そんな! 俺たちは夫婦になるんですよ⁉︎」
「だからこそ、婚前での過ちがないようにと王子からのご配慮でございます」
「エノール、行こう。用意されたからといって使う必要はない」
「待って……」
「お待ちください、レガルド様。これは王子からのご配慮でございます。貴方方はそれを無碍にされるおつもりですか?」
「ああ、そうだ!」
「待って、レガルド!」
恐らくはこれも罠だ。あの王子は、婚約者であるレガルドが激昂して無視しようとすることも予想しているかもしれない。
その場合、この使用人に王子の配慮を無碍にするか言質を取らせ、後になってからその事実を利用されることになる。
王子に対して不利をとれば、これから行われるだろう婚姻交渉についてエノールは一歩遅れることになる。そうなればエノールとレガルドが引き裂かれる未来さえ近付いてくるのだ。
それだけは何としても阻止しなくてはならない。
「ここで王家からの配慮を何の理由もなしに断れば反逆行為と見做されるわっ。たったこれだけでと思うかもしれないけど、相手に対して隙を作ることになる……!」
「関係ないよ! 俺達は夫婦になるんだぞ⁉︎ そもそも、屋敷でだって一緒にいたじゃないか!」
「そうだけど! お願い……ここで断れば、王子はきっとそのことも利用してくるわ。私に対する求婚を通しやすくなる」
「求婚を? ありえない! だって、あんなの荒唐無稽じゃないか! すでに俺がいるんだよ? それを、なんだと思って!」
「レガルド……」
確かにそうだ。ありえない。すでに婚約者がいる相手に対して求婚をする。前代未聞だ。
しかし、相手は王子だ。やろうと思えばある程度の無理は通せてしまう立場にある。その上、あの策略家だ。元老院や国王とのコネクションもあるカクレアスとエノールでは人脈が違う。
良い人望を持って策略を張り巡らせれば、人の頭脳に比例してそれは成功率を高める。エノールが良く分かっていることだ。
二重の罠、最初に言質を取った上で大人しく二人別れればそれでよし、無視すればそれもまたよし。
会話の中でさりげなく罠を仕掛け、レガルドの感情もまた仕掛けのうちに入れたのだ。これで二人の仲を少しでも引き裂けたら王子にとって都合がいいし、感情的になって行動してくれたらもっと都合がいい。
これから設けられるであろう交渉に際して、邪魔な存在であるレガルドを何とかしようとしたのだ。だから、二人の中がこれ以上進行しないように別邸を用意した。
破られても、今度はそれを利用して立場の差を使って何か仕掛けられる。とんでもない策略家だ。エノールは王子のことを見誤っていた。
これはエノールの失策だ。相手の、交渉人としての技量を間違えた。その結果、会話の中で言質を取られて、今の状況に陥っている。
婚約者と同じ屋敷で眠れないというレガルドにとって最も屈辱的な状況に。
あの煽りようも意図的なものだったかもしれない。否、その可能性の方が高い。王子にとって最も都合がいいのは、ここでレガルドが申し出に反して動くことなのだ。
どこまで行っても王子の手のひらの上ということである。
「私と王子では立場が違うの。ついているバックも人脈も違う……言いたくはないけど、交渉に際しては少し不利よ」
「そんな!」
「嘘じゃない、かなりの不利がある。知力、人脈、立場、交渉に必要な三代要素よ。勿論、あっちが求めてくるものはかなりの難題だから、そこは王子が不利なんだけど……それでも王子は何をしてくるかわからない。少なくとも、婚約者にいる私に婚約を取り付けさせるなんて不可能だとは言い切れないの、あの王子ならね。かなり最初から策を練られて誘導されてる。ここで王家の申し出を断ったとあればそれも利用してくるわ。それは、どうしても避けたいの……お願い、レガルド」
エノールにとって最も避けたいのはレガルドとの未来が潰えることなのだ。その可能性を1%だってあげたくない。
レガルドは黙った。きっと分かってくれたのだろう。
それでもやりきれない顔だ。拳を握って、わなわなと震わせている。その姿を、エノールはあまりに痛々しくて見ていられなかった。
抱きしめてあげて、違うのだと言いたい。貴方を愛しているのだと、傷つけることもしたくはないし、できれば一緒にいたい、王子に従うのでさえ二人が縁良く結ばれるためなのだと伝えたい。
一生懸命愛を伝えて、本当なら今夜だって一緒に寝てあげたい。大体、いつもはエノールから求めていることなのだ。それをレガルドはエノールのためを思って断っている。
思春期の男の子がその申し出を断るのがどれだけ嫌なことか……エノールは佐藤健の記憶を持ってそれを知っている。身近に好きな女の子がいるのに、手を出さないことがどれだけ偉大なことか。それなのに、普段の誠意を裏切るように今度はレガルドに寂しい思いを強いている。
おそらく王子の息がかかっている使用人の目の前で迂闊なことを言うのは避けなければならない。本当ならその使用人の案内通り別々の屋敷で過ごすのがいいだろう。
だけれど、レガルドを今すぐ慰めたい。目の前で傷ついている思い人を助けたい。
エノールの中で理性と感情がぶつかり合って、何も言えずにいた。
その沈黙を破ったのはレガルドである。
一歩、手遅れであった。
「……分かったよ。エノールが、言うなら」
「……」
エノールは何も言えなかった。何かを言おうとして、何も。
レガルドはすでに傷つき切ってしまったのだ。目の前で、まだ取りこぼさずに済んだのに、声をかけなかったことによってレガルドは自分の中で結論を出してしまった。辛い結論を自分だけで導くように強いてしまった。
本来なら自分がその責を持って納得させねばならないのに、薔薇を飲み込むようなことをレガルドにさせたのである。
己の無力を恥じた。未だレガルドの顔はひどいままである。そうしたのは自分だ。今何もできていないのも自分だ。
レガルドは、嫌で嫌でたまらないのに、自分のためにどうにか飲み込んだという顔である。骨が引っかかって、剃刀だらけの鋭利なものを喉をズタズタにしながら嚥下しきったと言う顔である。
自分があんな言い方したからである。「分かって」と、物分かりがいいことを求めた。その結果、レガルドに自ら自分の心の内側をズタズタにするよう強制してしまった。これでは意味がない。
あまりに痛々しい姿に、エノールは思わず手を取った。
レガルドも反射的にエノールの方を見て、涙目になって上目遣いでこちらを伺うエノールの顔が飛び込んでくる。
その顔は、王国でも一二を争うだろうほど端正で、ひどく魅力的だった。それでも今のレガルドは彼女の顔を直視できない。ふっと目を逸らした。
今まで自分のものだと思っていた人は、しかし、ここに来て誰かのものになろうとしているのだから。エノールをして『交渉で不利』と言わしめた王子に敵う自信があるはずもない。
レガルドは王子に気後れしていた。
「……レガルド様、別邸にご案内いたします」
「……そうしてくれ」
「レガルドっ」
エノールは恋人の名を呼ぶ。心配で顔を伺って、どうにか気持ちが伝わってほしいと顔を見つめたのに、レガルドには目を逸らされてしまったのだ。
無駄だった。このまま彼を逃してしまうのか。今夜新所で何を考えるかなんて想像に固くないのだから、レガルドから安眠を奪ってはならない。
さりとて、エノールは結局のところ十五の娘だ。男としてならもっと年上として経験があるが、女としての経験は今世初めて積んでいる。
男を女として励ます方法なんて知らなかった。
「……また、明日」
「……うん」
エノールは心の中で王子のことを恨んだ。それは八つ当たりのようなものである。
翌朝、エノールはボサボサの髪と共に起床した。当然のことながら、隣にレガルドはいない。
これまでも朝起きて隣にれガルがいた試しはない。しかし、歩いてすぐの距離にレガルドの部屋があったのだ。
朝起きて身だしなみを整えたら、一番に向かうのはレガルドの部屋なのだ。ノックもせずに侵入して、レガルドの寝顔を拝むこともあれば、すでに着替え終わった彼と出会すこともある。
レガルドが寝ている時は、こっそり彼の朝方に張られているテントを拝んだり、自慰の途中に割り込んでしまったことも屋敷に彼が来てから一度だけある。レガルドは何とも可愛らしい様子でそれを取り繕っていたから、ご褒美に捗りそうなものをその後見繕うことにしたこともあった。余計なお世話である。
しかし、そのレガルドがいない。屋敷のどこを探しても、レガルドの姿はない。当然だ、レガルドは別邸にいるのだから。
エノールは一人で食事を食べた。屋敷のように使用人達と一緒、などというわけにはいかない。ここは王都なのだ。どこに誰の目があるかも分からないし、伯爵として使用人と食卓を共にするなどあってはならない。
エノールも、もうそろそろ止めようかなと思っていたところなのである。これを機に使用人と主人の食事は別々にした方がいいだろう。これから貴族との繋がりを強化し、第二フェーズと第三フェーズを完遂すると言うなら、アルガルド家の伯爵としての格を高めなければならない。
けれど、その日の朝食は味がしなかった。
「美味しくない……」
エノールがこれから使うことになる屋敷には王家から用意された使用人がいくらかつけられていた。向こうも同様であろう。
王子からの指示を使用人がエノールに対して完遂する。
「今日はお昼から王子との会食を予定しておりますが、ご都合は尽きますでしょうか」
「ええ、問題ないわ」
「左様でございますか。それならお昼前となりましたら、馬車にてご案内させていただきます。それまではエノール様に王都のご観覧を楽しんでいただくよう王子からは指示を受けておりますので、どうかご準備ください」
「レガルドは一緒でいいのかしら」
「レガルド様は別でもてなすよう指示を受けております。あちらの使用人が──」
「嫌よ」
「ですが──」
「嫌。一緒にして? 当たり前でしょ、私たちは婚約者よ?」
「……かしこまりました。すぐに手配いたします」
「そうして」
エノールは朝食を取るとすぐに玄関に向かった。
バルターとアイシャを連れて、王家の馬車に乗る。しばらくしてレガルドの泊まっている別邸に着いた。
使用人がおりて中に取り次ぐ。計画の変更を伝えて、しばらくしてレガルドが出てきた。
「……おはよう、エノール」
「ええ、おはよう、レガルド」
エノールは昨日ぶりにレガルドと顔を合わせられたことに嬉しく思っていたが、レガルドの雰囲気はそうではなかった。
どういう感情なのか、もはやエノールには読みきれない。微妙、複雑、込み入っている。その浮かべられた薄い笑みが一体何を意味するのか、どうして笑えるのか、もはやおかしく思っているのかもしれない。
二人は一緒に王都を観覧した。けれど、馬車の中は揺れと車輪の地面を転がる音しかしなくて、二人が会話することはない。あってもポツポツと、だ。
「……レガルド、昨日は眠れた?」
「……ああ」
「……嘘、つかないでね」
「つかないよ」
「……ごめんね、私ならこんな時、嘘ついちゃうだろうなって、思ったから」
「……」
「……」
長い時間を経て、昼食の時間となった。馬車は王子との会食場へと向かう。
それは王都でも屈指のレストランだ。上流階級御用達の、政治ごとで重宝される場所である。王子が関わる建物は何から何まで豪華いっぱいだ。
「……センス、良さそうだね」
「そうかしら」
「あはは、俺にはそういうの分かりもしないから」
「……レガルド──」
「やあやあ、アルガルド伯爵!」
その時、横から声が聞こえる。誰、とはもう聞くまい。
カクレアス・アルファート、この国の第一王子が出迎えてきた。
「これは王子、中で待っていただけていれば私の方から出向きましたのに」
「いい、私が呼んだのだからな。さて、どうしてレガルド君がここにいるのかな?」
使用人が王子の方に近づく。
「エノール様より、婚約様であるレガルド様と王都を観覧したいと申し出がありまして」
「ふぅん……」
カクレアスは二人の様子を見る。自分が声をかける直前の二人の雰囲気と表情、どうやらこれ以上仲が良くなることは防げたようである。
おそらく一番いい方に転がりはしなかっただろうが、エノールならば予想できたことだ。王子もまたアルガルド家に生まれた傑物の噂は耳にしている。否、誰よりも理解しているかもしれない。
自ら体験せずして彼女の本質を理解しているのは王子だけだろう。その荒唐無稽とも言える噂の数々を王子は是として彼女を高く評価していた。単なる噂ならば、アルガルド領の様子が変わるはずもない。噂と結果を照らし合わせて信憑性ありと判断したのだ。
王子もまたエノールについでアルガルド領の酷さを知っている。だからこそ、王家の情報網がとらえた噂を耳にして、彼女を傑物だろうと理解している。
(この程度なら別に構わないな……)
王都観覧でも二人の仲は修復しきれていないようである。警戒には値しないと王子は本題に入った。
「さあさあ、とりあえず中に入ろうじゃないか。ここは王都でも随一と言われるレストランでね、元老院の奴らもよく利用しているところなんだ」
「元老院の方がですか?」
「ああ、この国の重役がこぞって利用するのがここなんだよ。俺もここの味には一目置いていてね」
「まあ、それは楽しみですわ!」
エノールの変わり身は社交辞令とわかっている。けれど、レガルドにはそれがどこかお似合いに見えてならない。
エノールのこの明るい仕草は本物なのではないだろうか。自分よりも王子の方が婚約者としてふさわしいのではないだろうか。
エノールへの尊敬や魅力の認知がここにきて彼の劣等感へと裏返っていた。それが王子への気後れにつながっている。本来ならば、二人の会食にレガルドが参加できる道理もない。
エノールが半ば捩じ込んだのだ。それを理解できないほどレガルドは愚物にもなれなかった。余計に傷ついてしまう。
会食はつつがなく進行した。王都での料理は王国でもはるかに群を抜いている。長く太平の世は芸術と美食を発展させてきたのだ。政治的な重役が何人も集まっているため、会談や会食の場でそういったものは必要になってくる。
戦争が起こったりすれば質素倹約の方向に多少は傾くが、まともに戦備をしているのはエルガード家ぐらいのものだった。
確かに美味しいのだろう。料理長の技巧がふんだんに凝らされているし、きっと給料はとんでもなく高いに違いない。屋敷の料理女中達に学ばせたいぐらいである。
ただし、だからといって味がするかは別だ。屋敷で食べた時と二重の意味で比べられるはずもない。使用人達を伴って、二人で一緒に食べた料理とは比べられない。
味がしない料理を食べ終えて、エノールは口元を軽く拭いた。その仕草も艶っぽく見えてしまう。
「それでアルガルド伯爵、これから時間はあるかな?」
「はい、ございます」
「それなら丁度いい。一度君と、この国の治世に関わる人間として話がしたかったのだ。どうだろう、王都でも屈指の長めのいい場所があるのだが」
「ぜひご一緒させていただきたいですわ」
「レガルド君も王都観覧を楽しみたまえ。何、使用人達には飽きさせぬよう忠告してある。それに王都に来て一日で飽きるということもないだろう」
「……殿下? レガルドを連れていくことはできませんか?」
これはエノールの失敗である。男に目が眩んで、判断を見誤ってしまったのだ。
その要望が通るはずもないことは、普段のエノールなら気づいたはずだ。そればかりか、その発言によってレガルドがどう思うか、今のエノールには思考できなかった。
王子は困ったような顔を浮かべて、毅然とエノールに言う。
「私は伯爵として君と話したいと、そう言ったな?」
「……おっしゃる通りです」
「申し訳ないのだがね、彼は民の一人でも持っているのかな?」
それはレガルドの心に深く突き刺さる言葉だった。
そのことを彼の些細な表情から感じ取ると、エノールは小さく目を見開いて、頭が真っ白になった。今、自分は何を言ったのか。
「……」
「……」
「……そういう訳だから、婚約者殿には一度離席していただこう。よろしいかな、アルガルド伯爵?」
「……かしこまりました」
エノールは真っ青になった。
今、自分は何をした?
王子からなぜ、彼を傷つけるような言葉を引き出してまった?
普段の自分なら気づいたはずだ。それを、『婚約者として一緒にいることを懇願せねばならない』と、『それが婚約者としての甲斐性だ』と気持ちを先行させて、全く考えなしで発言した。
その結果、今、何をした?
エノールの首筋に冷や汗が一筋伝う。
「おや、どうしたのかな。この部屋は少し暑いかい?」
「……いえ」
「それじゃあ、そろそろ出るとしよう。会計は気にしないでくれ、私が持つ」
「ありがとう、ございます……」
「では、そろそろ出るとしよう」
こうしてエノールはレガルドと別れた。




