エノールの弱さと様々な思惑
くすくす、くすくす。
「……」
ねー、聞いた? あれが噂の伯爵だって。
えー、男好きのエノール?
「……」
婚約者にご執心だそうよ。
処女を散らしたくて焦ってるみたい。
やーねー。
「……」
「エノール様の自業自得ですからね?」
「うるさい。使用人は黙ってて」
「……」
馬車に向かうまでの道中、王城の廊下では場内の使用人たちに噂されていた。
どうやら、私のあの喧騒を聞き取ってしまった人がいるらしかった。私は勤めて平然としているが、レガルドはとても恥ずかしそうにしている。
ああ、可愛い。もう食べちゃいたい。レガルドが小人になってくれないかしら。そしたら口に含んで言葉にするのも憚られるような淫雛な口技の数々を……
妄想に浸る私に、レガルドは口を尖らせていう。
「……エノールのせいだからね」
「あら、私と噂されるのは嫌?」
「……嫌じゃないけど」
「レガルド様、貴方がそんな調子だから我らが主人が止まらないのです」
「アイシャ、余計なこと言わないの」
「失礼しました」
「……エノールにもう少し冷たくした方がいいのかな」
私はその言葉に足をとめた。
「……エノール?」
否、足をもう動かせなかったのだ。
「れ、レガルド、嘘でしょ?」
「いや、でも……」
「ご、ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 私、やりすぎたわ、本当に、本当に、だから──」
「待て待て、落ち着いて」
「本当に謝るから! ごめんなさい、ごめんなさい!」
「うん、いいよ、いいから」
目の前が真っ青になる。
レガルドがいなくなる? 冷たくなる?
とにかく嫌だ。もう生きていけない。
「もう言わないからっ、だから嫌いにならないで!」
「だ、大丈夫だから、エノールを嫌いになるなんて天地がひっくり返ってもありえないから!」
「本当に、謝るわ、ごめんなさい、ごめんなさい」
レガルドの服の裾を掴んで、縋り付くように謝る。
許してもらわなきゃ、許してもらわなきゃ。
バルターたちもオロオロして、とりあえず部屋に戻ろうと言っていたけど、レガルドがそれなら馬車の中がいいと言って、私を優しく抱きかかえてくれた。
ああ、嬉しい。でも、嫌われるんじゃないかと思うとすぐに膝が震えてしまう。涙が滲みそうになって、私はどうにかうずくまるのを抑えた。
屋敷に戻るまで、私は馬車の中でひっつき虫みたいにレガルドにくっついていた。
エノールは馬車の中でずっと手を繋いでいた。無論、レガルドとである。
突如豹変した彼女の様子にレガルドは困惑していた。
だけれども、自分がその地雷を踏み抜いてしまったことだけはわかるから、エノールのそばを離れなかった。
入婿の様子を見て、バルターは折を見て説明する。エノールが花摘みに向かった時のことだ。
「……エノール様は七歳からずっとお忙しくされていました」
「はい、聞き及んでいます」
「そう畏まらないでください。貴方様は屋敷の男主人となられるのですから」
「それは……」
「ともかく、星見の儀式を終えて当主になると確定してから、エノール様はずっと走り続けておられました。途中に腰を据えて休む暇もないほど」
「あの……そもそも、なぜエノールはそこまで急いでいるんですか? 以前も同じ話をしたのですが、自分が死ぬからと……」
その言葉にバルターは目を剥いた。
「え、エノール様がそうおっしゃられたんですか⁉︎」
「え、ええ、はい。ただ、どちらかというと自分「も」いつか死ぬんだから、それまでにアルガルド領をどうにかしたいという感じで……」
「……そうなのですね」
「あの、何か」
「……」
執事長は迷った。彼の打ち明けようとしていることは本来屋敷のごく限られたものしか知らない事実であり、たとえ婿入りしてくるレガルドであろうと、エノールに許可もなしに話していいものかと悩んだ。
けれど、話さねばなるまい。バルターはレガルドこそがエノールを支える鍵であることに賭けているのだから。
「……レガルド様、これから話すことは決して他言無用でお願いします」
「分かりました」
「……エノール様は七歳の時、星見の儀式を終えられました。その際、アルガルド領で使用人たちと一緒にいる大人になった自分を見たと、そうおっしゃいました」
「だから、当主になることが確定したわけですね?」
その言葉にバルターは首を振る。
「いいえ、そうではありません。エノール様が見られた夢はおそらく、もっと別のもののはずです」
「……どういうことですか?」
訝しげな表情になったレガルドに、執事は続ける。
「エノール様はその後、私だけに教えてくださいました。『今は全て打ち明けることはできないが、伯爵家に危機が迫っている』と」
「そういえば、父であるマルデリア公爵と話している時も、十五歳になるまでに伯爵家のゴタゴタを片付けると、そう言っていました。エノールには何かビジョンがあるような……」
「おそらくエノール様は伯爵家に訪れる危機に対して何らかの計画を練っているのではないかと……そう、私めは思っておりました。しかし、なるほどその話で合点が行きます」
「どういうことですか?」
「エノール様は……信じられないかもしれませんが、元々はものぐさな方でした。何をするにもぐーたらで、おおよそやる気などを見せない方だったのです」
「あのエノールが? 信じられない……」
「しかし、星見の儀式を経た途端に大人びた性格になられて、これまでの性格が嘘のように領地のために働かれるようになりました。伯爵家が危機に見舞われると聞いた時は責任感で頑張られているのかと思いましたが……おそらく、エノール様にも何らかの形で危機に見舞われています」
「そ、それってどういうことですか⁉︎」
レガルドがテーブルに身を乗り出した。がしゃんと食器が鳴って、バルターは首を振る。
「分かりません」
「そんな……」
「しかし、エノール様はレガルド様にだけそれをお明かしになられた。恐らくは打ち明けた直後に思い直してはぐらかされたのでしょうが、生き急ぐ理由を聞かれて「自分が死ぬ」などと考えなしにおっしゃる方ではありません。おそらく何か意味があるかと」
「嘘だろ……?」
「気をしっかり保ってください。エノール様もおっしゃられる通り、人はいつか死にます。ですから、それまでに何をなすかが重要なのです。レガルド様は何があっても、エノール様のおそばを離れてはなりません」
「そう、ですね……すいません、動揺しました」
「いいえ、貴方様がお強い人で本当に良かった」
かろうじて立ち直るレガルドを見て、バルターはほっと一息つく。
「話がそれましたが、エノール様は多大な重圧の中、これまで仕事をこなされてきた。商人たちを従え、騎士達を支配下に置き、税の問題を解決して、領地の治安を確保しようとしている。未だかつて、アルガルド家の人間が一度として成し遂げられなかったことをエノール様は齢十ほどにして達成された。それはとても偉大なことだと思います。思うのですが……しかし、代償が、何もなかったとは思えません」
「どういうことですか?」
「……それが、あの狼狽えようということです。レガルド様に嫌われると考えた途端にひどく狼狽される。私もあんなエノール様は見たことがありません。一回りどころから二回りも三回りも年上の、海千山千の商人を大勢相手にしてでさえ老獪に立ち回り翻弄してきたエノール様です。動揺するそぶりを見せるなど、それこそ病の騒ぎがあった時でさえあれほどの狼狽えようは見たことがありません」
「俺は……どうすればいいですか?」
「寄り添ってあげてください。レガルド様のことになると、エノール様も失くされてきた幼年時代を取り戻すようにはしゃがれます。少々熱を入れすぎている気もしますが……それほど、レガルド様をお慕いしておられるのでしょう」
「俺が……エノールにそこまで慕われる理由がわかりません。彼女にしてみれば、俺なんて……」
自信を喪失する成人になりたての青年に、バルターは力強く助言した。
「自信を持ってください。レガルド様は、エノール様がお認めになった方です。きっと何か理由があります……それに案外簡単な理由かもしれませんよ?」
「……どんな?」
レガルドの問いに、バルターは──
「一目惚れ、かもしれません」
「……それは俺ですよ」
国王面前での裁判の結果、エノールは無罪とされた夜、教皇は王城の一室にいた。教皇は国王の判断に腹を立てている。
「なぜ国王は分かってくださらぬのか! 聖女の名を騙る者の言葉を信じるなど……!」
教皇はエルトラ教が国教となって久しく、強硬である自分の立場もそれ相応になったのだと考えていた。
事実、彼の要請によりエノールは夜分にもかかわらず呼び出され、裁判を受けることとなったが結果は無残なものである。
エノールに反論を許したばかりか、この件を水に流されてしまった。これではエノールに付け入る隙を失ってしまう。
王国のたかが伯爵などどうにかなると考えていた。無論、この国において伯爵という立場が重要の意味を持つことはわかっている。それでも今のエルトラ教教皇の言葉であれば、教えに則って軽く処罰させることなど容易だったはずだ。
それを見世物にすることでエルトラ教は王国での躍進を誇示するはずだった。しかし、結果的にはエルトラ教はやはり外様であり、古参である貴族には勝てないと証明したようなものである。
彼は自分の怒りを、聖女に対する信仰で正当化していた。彼の抱いているそれは単なる野心家のものと何ら変わりない。
しかし、教皇のそばに控える枢機卿の一人、ヴェラルダ・ミランケラーは冷静であった。教皇の乱心を落ち着いた面持ちで見ている。
「教皇陛下、お鎮まりください。誰やも聞いているかもしれません」
「なら聞かせておけ! 正義は我々にあるはずなのだ! あの小娘伯爵の悪名を轟かせてしまえ!」
「今回は相手が悪うございました。相手も糾弾されていた時のことを考えていたのでしょう」
「どうするのだ。このままでは我々はまだ王国に利用されている立場に甘んじることになるぞ」
「ご安心ください。次の手は考えてあります」
枢機卿ヴェラルダは密かに笑みを浮かべた。
エノールに求婚したカクレアスはあの後、結局エノールに会うことは叶わなかった。
今日に王都を出発し、屋敷に戻ってしまうという。そうなればエノールに会うことは難しくなる。
勿論、自分から足を運べばいい。しかし、そうなるとあの面倒な小僧がいるのだ。婚約者なんだか知らないが、遠慮するつもりはない。
そして、王子は考えた末にエノールに手紙を出すことにした。書き上げたのは既にエノールが出発した後だったが、早馬を走らせれば問題ない。きっと、道中で追いつくだろう。
「カクレアス様、早馬を今送らせました」
「ご苦労」
御付きのジークニスに労いの言葉をかける。
ジークニスはカクレアスの側付きとして左大臣ながら教育係という立場に追いやられてしまった男だ。元老院の間でも政治闘争は行われるということである。
当初、ジークニスはカクレアスの乱心を諌めようとしたが、今度は逆に協力する立場となった。王子と伯爵の婚姻がなれば、彼が王座に座った暁には王国が真にこの地を支配したと言える。
王宮は傀儡であり、大諸侯の直系である伯爵こそがこの地の支配者であるという考えはまだ蔓延っているのだ。時代が変わったのだと世に喧伝できる材料となる。そうなれば、カクレアスの王宮派閥内での存在価値は高まるであろう。伯爵に用意に取り次げるようになる。
十五歳にしてこの政治手腕は天才だとしか言いようが無い。もともとカクレアスは勉強が嫌いで今でも家庭教師の授業をサボってはいるが、頭が悪いわけではないのだ。自分の将来を憂いて努力する意味を見出せなかったのである。
しかし、伯爵家の当主との結婚が成れば、カクレアスの手札は増える。そして、それは貴族を相手に挑むには十分なものだ。ハンデがあると言わざるおえないほどの戦力差だが、カクレアスならばその程度許容範囲である。
ジークニスは閑職に追いやられたものの、この仕事に徐々にやりがいを見出していた。
「それで殿下、次はどうなさるのですか?」
「どうって?」
「どのようにしてあの伯爵家を取り込むのですかな?」
「……?? 言っただろう、結婚して内縁を取り付けると。そろそろボケたか、爺」
「それは聞いていますが、どのようにして結婚なさるのですか……?」
「口説けばよかろう」
「しかし、相手には婚約相手が……」
「破棄させれば問題ない。ホスト側であるアルガルド家が丁重にお断りすればいいのだ。鞍替え先は王家、マルデリア家とて面目は保たれるだろう?」
「噂によればマルデリア公爵は随分とアルガルド伯爵との婚姻に入れ込んでいると聞きます。彼女の誕生日パーティにもはるばる出席したとかで……」
「考えすぎだ。それより準備は済ませているだろうな?」
「……御意に」
「よし、それでは姫君を迎えるとしよう」
王子は立ち上がる。恋愛という戦争を勝つために。




