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『聖女』

 エノールの数量規制は地主の権利を侵害しているとして始まった運動だが、すぐにエノールが伯爵家の在庫によって市場介入し、必要量を供給した後、すぐに周辺の地主に対して公布が出た。

 

 手紙は売買ストライキを行っている家にも届き、一部の地主が売買を取りやめたことで相場が上がっていたこと、そこで伯爵家が麦を売ったことが綴られていた。

 

 せっかちな地主はそこで怒ったが、それは単なる前座であった。次の一文には『伯爵家の麦倉庫に麦を運んでくれば、その時の売買レートに従って麦を買い取る。数量については売った分だけ、先に来た者との売買を優先する。この売買は数量規制の範疇外とし、証明書を発行してその分はカウントしないことを保証する』と書かれてあった。

 

 それによってストライキに参加していた地主の一部はエノールが自分たちの意を汲んでくれたと喜び、すぐさま大量の麦を馬車に乗せて向かわせた。早い者勝ちだということですぐに地主達が集まり、騎士立ち合いのもとで売買が執り行われた。

 

 すぐに売買は終わり、無制限取引は終了したと勧告があったが地主達は文句を言った。しかし、彼らも帰らねばならずストライキは不発に終わった。

 

 エノールは全地主に事の顛末を書き綴った手紙を送り、今後地主達の売買取りやめによって同様のことが起これば、伯爵家が介入し供給を安定させると共に、売った分は他の地主から買い取ること、その売買は数量規制の範疇には入らないことを伝えた。

 

 極一部の地主は気づいていたが、ほとんどのものは気づかない。これは伯爵家から完全に地主達全体の取引量を管理されると同義であり、上限も下限も設定されるようなものだった。しかし、地主達の間で利益の偏りを作ることによって地主達が団結することを防いでいるのである。

 

 かくして伯爵家に対するストライキは「取引規制をやめさせる」という当初の目的を達成できぬまま、更に堅牢なシステムを作り上げて終了となった。

 

 

 

 

 

 昼になればまた食事を摂り、午後は乗馬や芸事に勤しんだり、また執務室に戻ったりと日によって違った。

 

 昼食に関しても執務室で取ることも多く、レガルドはエノールの仕事熱心な姿に感心した。

 

 しかし、夕方になると不穏な空気になるのである。

 

「れ〜が〜る〜ど」

 

「な、何? エノール」

 

「ねえ、私ってすごく頑張ってると思うの」

 

「そうだね、こんなに働き者の貴族は他にいないと思うよ」

 

「だから、レガルドに疲れを労って欲しいの」

 

「俺が?」

 

「そう。ちゃんと私を癒して?」

 

「エノ──」


 頬に手を添えられて、唇を奪われる。令息は息をのみ、唇を離した後もエノールに釘付けになる。

 

「え、えのーる」

 

 彼の諌めの言葉は実に単調だった。突然のことに頭が真っ白になって、もう何度も口付けは交わしたというのに──発散できぬ情動を二人で口づけによって解消してきたというのに、今でもなおエノールから唇を求められると動揺してしまうレガルドだった。


 そんな婚約者の色合いに、エノールは嗜虐的で満足気な笑みを浮かべる。

 

「ねえ、こっちにいらっしゃい」

 

「なんだか、近づいたらパックリ喰われちゃうような気がするんだけど……」

 

「人聞きが悪いわね。そんなことしないわよ」

 

「……」

 

「ちょっとベッドに誘うだけ」

 

「やっぱりそうじゃないか!」

 

「待ちなさい!」

 

 大抵の場合、こうなる。エノールがからかい半分にレガルドを誘って、レガルドが蠱惑的な気配に逃げようとする。

 

 彼にしてみればこういう時のエノールは蛇か鷹に見えるのだ。肉食動物を前にしている草食動物のように、一度間合に入られれば逃げられる気がしない。だからこそ戦略的逃走を図ろうとする。

 

 そして、大抵の場合、エノールに捕まって押し倒されるのだ。今日もレガルドは後ろから押し倒され、うつ伏せに床に寝っ転がった。

 

「はしゃぎすぎだよ!」

 

「あら、いけないこと? 好いた男を目の前にして盛るのはいけないことなのかしら?」

 

「淑女としての慎みを持ってよ! あるベレット先生が見たら泣いちゃうよ!」

 

「……」

 

 エノールは一瞬動きを止める。

 

「……アルベレット先生ならきっと応援してくれるわ」

 

「嘘だー!」

 

 令息達の喧騒は屋敷の大半に響いているのだが、使用人は見て見ぬ振りをする。エノールはもうご令嬢でも少女でもなくこの屋敷の主人なのだ。主人の異性関係に口を出すのは野暮なのである。

 

 しかし、毎回水を差してくるのが執事長のバルターだ。今日も騒ぎを聞いて執務室のドアをノックする。

 

「エノール様」

 

「ダメよ」

 

「お気を確かに、結婚式までは純潔を守りませんと」

 

「貴方に言われたくないわ、バルター。貴方は執事よ、主人の言うことに従いなさい」

 

「初夜の前に貞節を失ったとあれば不名誉になります」

 

「よくあることよ。それに、もう婚約してるのだから問題ないわ。ねえ、レガルド?」

 

「助けてください、バルターさん!」

 

「あらあら、婚約者より執事の名前を呼ぶなんて公爵も躾がなっていないわね。私が代わりに教えてあげるわ、ゆっくりと……」

 

「ターベーラーレール!」

 

「失礼します」

 

 バルターによってドアが開かれる。

 

「あら、バルター? 私は入っていいとは一言も言ってないわ」

 

「冷静になってください、エノール様。まだエノール様はご結婚なされてないのです。初夜式まではまだ三年はあります」

 

「待ってられないわ。それに、この朴念仁はいつまで経っても手を出さないの。私から襲わないときっと初夜も何もないわ」

 

「そんなことないよ!」

 

「お気を確かに、ご両親もマルデリア公爵も嘆かれます」

 

「あら、公爵なら喜びそうだけど」

 

「……」

 

「……」

 

 二人にしてもそれは事実のように思えた。

 

「さあ、お義父上にも許可はとったことだし──」


「とってない、とってないよエノール!」

 

「いい加減にしてくださいエノール様! 使用人達も聞いています!」

 

「ええい、ここは私の屋敷よ! 私の意見に従いなさ──」






「エノール? 好きな男の子を好きでいるのは別にいいのよ? けど、お屋敷で騒ぎを起こすのは……」

 

「……」

 

「それに、あんなに堂々と……レガルドくんが好きなのはわかるけど、まだもうちょっと待たなきゃダメよ?」

 

「はい、お母様」

 

 エノールはその後、執事長に呼び出された使用人に取り押さえられて両親のもとに連行されていた。

 

「でも、後三年なんて……」

 

「後少しの辛抱よ。それに、三年も経てば男の人なんて飽きるほど求めてくるんだから。ねえ、アイジス?」

 

「わ、私に振るな……」

 

 ミラルダがニコニコとアイジスに話をふる。娘の前で夜の話を引き合いに出されるとバツが悪かった。

 

「だから、今は仲良しこよしの生活を楽しみましょう? ね、エノール」

 

「……お母様がそう言うのであれば」

 

「まさか、まともに我が娘に教えることが性観念とは……」

 

「あら、お父さん。こういうことも大事ですよ?」

 

「男女が逆だろう、普通……」

 

 アイジスは優秀な娘だけに頭を抱えていた。

 

 

 

 

 

「エノール」

 

 レガルドがエノールの部屋をノックする。返事はない。

 

「入るよ」

 

 そう断って、レガルドはドアを開けた。

 

 エノールがベッドの上で肌着だけを纏ってうずくまっている。布団をかけて、透けがちの服を隠すようにそこにいた。

 

 エノールは開口一番に罵る。

 

「何、へっぴりレガルド」

 

「うっ、微妙に傷つく言葉だね」

 

「好きな女に手を出さない度胸なしに用はないわ」

 

 そう言ってふて寝してしまった。

 

 レガルドに女性経験なんてない。しかし、本で調べて女性の気持ちを考えて、そうやってここまでやってきたのだ。

 

 ここで立ち去ってはいけないことぐらい、レガルドにもわかる。

 

「……ごめんよ」

 

「謝罪なんか聞きたくないわ」

 

「君が大切だから、だからまだ君に手を出すわけにはいかないんだ」

 

「……」

 

「毎晩君のことを思ってる。君のために下着を汚しているよ」

 

「そういうことを言うから──」


 エノールは振り返って、レガルドの目を見て、動揺した。顔を合わせられなくて、とっさに伸ばした手をレガルドの腕にかけたまま、話す。

 

「……そう言うことを言うから、私は……」

 

「だから、ごめんよ……」

 

「……好き」

 

「……俺も」

 

「好き、好き、大好き。さっさと抱いて」

 

「初夜になったら、腐るほど」

 

「ばか、レガルドのばか」

 

「うん、そうだね」

 

「……少しは言い返しなさいよ、ばか」

 

 レガルドは小さくなったエノールの背中を抱いた。薄い寝巻きは彼女の体温とほのかな汗の湿っぽさをじんわりと腕にかけて伝えてきた。

 

 

 

 

 

 アルファート王国の国教は歴史が深い。その歴史は王国より離れたある国から始まる。

 

 エルトラ教は祖国において国教として広く国民に信じられてきた。各地に修道会があった。各地に教会があった。強大な権力を持ち、栄華を誇った。

 

 しかし、戦争によって彼らの祖国は灰に帰った。真偽不確かな風聞では属国になったという。エルトラ教は流浪の末に王国に流れてきた。

 

 教皇や枢機卿陣は全て祖国と共に置いてきた。辿り着いたのは幾許かの大司教と司教、それに信者達のみだ。しかし、彼らをまとめる役目を担っていたクォラベッテル初代教皇は元は大司教の座に立ち、王国においては王に対してエルトラ教を国教にしてほしいと進言した一人だ。

 

 それから、エルトラ教は王国の国境に定められた。王都には本部である本教会と組織的中枢である教皇庁が置かれている。教皇は教皇庁のトップに立つが、お飾りだ。実権は複数人の枢機卿が握っている。

 

 枢機卿の一人が大神殿で報告を聞いていた。王国の力によって各地に教会を建てている。その情報網は点と線の繋がりではあるが、王国全土に広がっていた。

 

「アルガルド領の教会から良からぬ噂を耳にしたと報告が上がっております」

 

「なんだ」

 

「エノール・アルガルド、アルガルドの地を収める領主が『聖女』として民に崇められているのだとか」

 

「何?」

 

 聖女とはエルトラ教にとって重要な意味を持つ。

 

 典型的な末世論を説き、人類はやがて大地・大空・大海の怒りを買って滅ぼされるのだという。

 

 その中で、大空が滅びの火蓋を切ったタイミングで現れたのが聖女だ。

 

 聖女は彼らの教えを理解し、教えを学び、教えを説いた。そんな聖女が神である大地・大空・大海に向けて人類の生存と神の慈悲を訴えたのだ。

 

 それによって人々の死は数百年ほど先送りになった。今はその余生を過ごしているというのである。滅びはもう決まっていて、三つの神──神が単数か複数かは定かではないが──は聖女の願いを聞いて人類への鉄槌を今しばし待っているにすぎないとしている。


 人類の歴史において聖女はかつて存在したこの世で最も敬虔な信者であるとされている。そして、彼女のおかげで人類は今もなお『延命』され、彼女の教えが後にエルトラ教になったというのだ。

 

 数多いる聖人達は聖女に少しでも近づこうと邁進してきた。かつては完徳者になるために海や崖から身を投げる人間もいたという。

 

 聖女とは人類の救済の象徴であり、崇拝の対象でもあり、最も敬うべき存在なのだ。彼らが敬う三位──大地・大空・大海のこと──とはまた別の神と言ってもいい。


 そんな中で、現代において聖女を名乗るのは現人神だと自称するようなものだ。枢機卿は思わず顔を顰める。

 

「バカな領主が自分が神だと崇めさせているのか」

 

「はっ、そのようだと。どうやら自らを君主として自警団を組織させているようです」

 

 エルトラ教の教えでは君主は三位以外にない。エルトラ教は率先して聖女を崇めているため、そういう意味ではエルトラ教の君主は聖女である。元々、エルトラ教の教義も聖女が伝えたものとされているし、預言者・宣託者・開祖の立場にあるのが聖女だ。

 

 しかし、本来においては三位のみが君主として振る舞うのを許されている。王や他の権力者は三位の庇護下において勝手にそう振る舞っているにすぎないのだ。また解釈する人によっては三位から統治者としての立場を任されたという人もいる。

 

 君主というのもまたエルトラ教にとっては重要な概念であり、厳密にいえば君主は三位のみ。それを自らが君主だと崇めさせるのは傲慢なことなのだ。

 

「なんと嘆かわしいことか。俗世に爛れ、信心も忘れてしまったか」

 

「いかがいたしましょうか」

 

「放っておけば我々の弊害になりうる。すぐに異端審問会を開こう。王都で糾弾するのだ」

 

「しかし、相手は伯爵です。王国が応じるかどうか……」

 

「あやつらも我らを利用しているのだ。御せぬ貴族達をまとめ上げる『網』としてな。全くもって嘆かわしい……」

 

 アルファート王国初代王がエルトラ教を国教にすることにした。しかし、その理由は至って単純だ。

 

 王国にはまばらでまとまりのない土着宗教しか存在しない。そこで、国全体で信者を集めていたというエルトラ教を利用しようとしたのだ。

 

 国教に指定することによってエルトラ教を王国全土に広める。その信仰のつながりによって王国を一枚岩にしようと企てたのだ。エルトラ教の首脳陣を通して各地の人間を動かせるようになれば、領地の境などない支配が完成する。それは王宮の悲願でもあった。

 

 祖国から亡命してきたクォラベッテルもそれを理解した上で承諾した。王国でまた新たに自分たちの教えを布教できるならと考えたのだ。。

 

 エルトラ教はばらばらの王国をまとめ上げる『網』だった。そして、教皇と枢機卿(じぶんたち)がその支配の窓口に利用されていることにも気づいている。

 

 力を蓄え、この国で布教するのは当たり前だと考えるようになったエルトラ教の首脳陣はそれが頭の痛い問題だった。王宮内の政治に巻き込まれて面倒をかけられることもあるし、単純にいいように使われるのが靴力と感じるようになったのである。

 

 それは国教に指定されて年月がたった故の増長であった。

 

「すぐに王国に訴えさせます」

 

「早くしろ。我々の権威が失墜しかねん」

 

「すべては聖女様の御心のままに」

 

「……」

 

 余談だが、教皇は教会を取りまとめる役割を王国に与えられ、内部的には教会の便宜的な象徴とされている。しかし、一人間がそのような座に居座るのは傲慢だと考え、初代教皇クォラベッテルは自らをお飾りの首脳とした。

 

 そのせいで、枢機卿は神から宣託を受ける教皇に変わって、宣託を受けた教皇に従い事をなす『代理人』として実権を握るようになったのである。

 

 だが、この男は枢機卿に就任してから一度も教皇に会ったことがない。本来は教皇が宣託を受けて支持を出し、それを枢機卿らが代行するという形なのにだ。

 

 この場に『聖女の御心』を知るものはいない。


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