先物取引と自警団
木々が若葉を青く染め、もうすぐ夏の喧騒を届ける。春の夜は季節の下旬に差し掛かり肌寒さを脱いでいく。
「ん……ん……」
ベッドのシーツがシワを作る。真っ暗な部屋は蝋燭の火で灯されていて、艶やかにエノールの肉体を照らしていた。今の時分はもう肌を晒しても部屋の中では冷えを感じない。むしろ春の空気に心地よさを感じるほどだ。
ひんやりとしたベッドの上でエノールは自分の股に手を伸ばす。こなれてしまった動作で愛しのレガルドのことを思いながら、あの日の二人で秘められた情事のことを思い出していた。
(佐藤健のは確か……ううん、レガルドのじゃなきゃダメ)
前世の知識を思い出そうとして振り払う。たとえそれが自分のものであるという意識があっても、エノールはそれが浮気に抵触することを恐れた。
令嬢はそろそろ十四になる。四年生となるが、きっと学園にはたまにしか戻れないだろう。戻っても、レガルドと肌を合わせることは叶わない。
「レガルド……」
エノールは夜の寝室で孤独を感じていた。
翌朝のエノールは乱れた服を整えて、執務室へと向かった。
農学者達には測量の次に該当地域の畑に石灰を撒くように指示を出した。学園での土壌研究によって土壌が酸性になっている地域を割り出したのだ。早速、『1ジュールあたりどれくらいの石灰をまけ』というふうに指示した。
家畜や人間の糞尿を回収して肥溜めにして有機肥料とする試みは、エノールが指示する前に市場で既に行われていた。伯爵としてこれらを主導し、商会にそれなりの値段で買い取らせ、需要がある事を知らしめたので各地で生産されていくだろう。
診療所の無償化はまだ財政が安定化するまで待つことになる。せめて次の収穫期までは待ちたい。版画職人への依頼や職業訓練施設の建設、それから造幣局も新たに造らねばならないのだ。今年は出費が多い。借金の返済もあるので来年以降となりそうだ。
エノールが指示を出すために執務室で手紙を書いていたときに、来客が来た。麦商人だという。
麦は基本的に自領の町で消費される。麦商人は地主から麦を買取り、他の麦商人に転売したりパン屋に売りつけることによって生計を立てている。その年の収穫量は彼らの生計に直結するので、豊作か不作かの機微には聡かった。
そして、そんな商会の麦商人から先物取引を持ち出されたのだ。
「いかがでしょう?」
「……」
私は悩んだ。どう見てもこれは私を出し抜こうとしている取引だ。
「商会からの許可も得ていますし、エノール様にしても手元に資金が欲しいのではないでしょうか」
「なら、先に何を決めるのかしら」
「というと?」
「先物取引は事前契約の形をとるから、取引内容の一部が必ず商品のやり取り以前に決められるわ。特に一般的な事前契約と違うのは契約の全てを決めるわけではないこと。そちらが現金を先に支払って、収穫期になって決められたレート通りに支払うのか、それともこちらが一定量の麦を必ず受け渡すのか。レートを事前に決めるのなら貴方は不作なら儲かる、豊作なら自滅する。一定量を私が現物で支払うなら豊作なら私が儲かる、不作なら私が自滅する。どっちなの?」
私の言葉に商人は少したじろいだ。
「そ、それならこちらはいかがでしょう。レートと量を事前に決めてこちらがその通りに支払うと……」
「それなら先物じゃなくて元来の事前契約ね。貴方、先物取引の意味わかってる?」
「それは……」
「それなら……結局意味は変わらないわ。豊作なら私の勝ち、不作なら貴方の勝ち。言っておくけど貴方に傾きすぎているようなレートは認めないから、ちゃんと私と勝負なさい」
「っ……」
この商人はおそらく私が先物取引の素人だと踏んでいたのだろう。今年は不作だと睨んでいるな。あんな病があった後だ。種まきの時期に騒動があって普通は例年より実りが少ないと思うはず……それで商会に仲介を頼んで私に損をさせようとか度胸あるわね。
「……まあ、確かに今年が不作だと私も困るのよね。収穫量が少ないと借金も減らせないし……そうだ、それならこうしない?」
商人はエノールの言葉に恐ろしいものを見るような目で見た。
「貴方は事前にお金を払う。レートも量も決めずに、伯爵家の取り分の何割かを貴方に支払う。それなら豊作なら貴方の勝ち、不作なら私の勝ち。これでいいんじゃない?」
「で、ですが、よろしいんですか? エノール様は農地改革されていると、効果が出れば豊作になるのでは……」
「いいんじゃない? 私はリスクを避けたいし、商会への返済もあるわ。随分と融通してもらって利息で火の車だから、安定して返済したいのよね」
(そもそも、騙したいのが見え見えだし……)
「そ、そうですか……」
「それじゃあ金額と割合の交渉に行きましょう? できるだけ高く買ってね?」
「お、お手柔らかに……」
この時の交渉は商人の鼻っ柱をおって、場を制していた私が勝ち越したのだった。
「──よろしかったのですか?」
バルターが商人が帰った後に聞いてくる。
「別にいいのよ。確かに農地改革しているけど、今回は種蒔きの時期と病が被っちゃったからね。あの商人も不作だと見込んできたんだから、どっちにしてもリスクを避けられないのよ」
「であれば、よく商人が帰りませんでしたな。自分に損があるとわかっているなら手を引くものと思いましたが……」
「だって、わざわざ次期伯爵に時間を取らせたのよ? それも対面で。あそこで帰ったら私の顔に泥を塗ることになるし、それは商会のメンツを潰すことよ。それだけはあの商人もできない。商売の世界は自分の領分だと思ってたみたいだから、私に一泡吹かせようとして読みを誤ったのね」
「しかし、麦商人が潰れれば当家としては困るのでは? 大事な買取先ですぞ?」
「そうなったら商会に売りつけるわ。麦商売なんて誰でもできるし、儲けるとしたらああいう事前売買よ。麦商人なんて腐るほどいるから空いた間隙に同業者が入ってくるだけだと思うけど……いざとなったら高騰した市場に高値で売りつけるわ。大抵の商会は町に構えられてるから、自分のお膝元は良くしておきたいわよね」
「恐ろしいことを考えますな」
「あら、あっちだって私を食べようとしたのよ? こうなって当然だわ」
エノールは一つの格言を思い出した。
撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ、と。
収穫期では思ったより麦は少なくなかった。エノールが病の騒動を最小限に食い止めた影響である。
夏に入ると比較的穏やかな日々がすぎた。各所から収穫量の報告は飛んでくるものの大半はバルターが処理するのだ。執事は秘書の役割もしてくれる。便利だ。
収穫期を終えるとエノールの元には麦が集まった。それらを麦商人達が買い取っていく。
先物取引を持ちかけてきた商人との勝負ではエノールが勝者となった。契約では伯爵家の取り分の何割、ではなくどこの地域の取り分を開け渡すかで契約が行われていたのだ。
エノールによる『私が収入を誤魔化すかもしれないでしょ? その方が安心じゃない?』という詭弁のもと商人は指し示した範囲の畑で収穫された麦を開け渡されることとなったが、蓋を開けてみるとやはり貧作な方だった。予想されたよりは多かったがそれでも例年と比べれば少ないのである。
エノールは普段より高いレートで麦を売れたことに満足していた。そのまま秋となり農民達が暇になる。そういえば、と治水工事を任せたジャイナのことを思い出した。
すぐに手紙を書いて治水工事を進めさせようと思い立った時である。執事長からとんでもない報告を聞いた。
「はぁ?」
エノールは執務室で素っ頓狂な声を上げた。おおよそ淑女がしてはいけない顔だ。それほどまでにバルターの報告が意味不明だったのだ。
顔を顰め、口を呆然と開けている。アルベレット教師が見たらきっと泣いてしまうような顔をして、そんなこと気にもしなかった。もっと大事な話があるからだ。
「──ですから、元からあった自警団が『聖軍』を名乗り、『聖女エノール様』のもと大部隊を組織して盗賊団を壊滅させたのです」
「……聞き間違いかしら? 聞き間違いよね。バルター、悪い冗談はやめて。私は今疲れているの」
夏の収穫期が終わり秋に差し掛かろうとしている。
農学者達は測量を終え、あたりの治水工事と農地改革に従事している。
ネルコもエノールの指示により運送業と保険業を領地規模にまで拡大しようとしている。
ロンダーは各町の人材需要を調査するため、領地中の町を回っていた。帰宅に予定している日はもうすぐである。
エノール自身も関係各所とやりとりをして急な改革に戸惑う声に耳を傾けつつ、必要に応じて返事を出していた。定期的に行われる商会連盟の集まりでもエノールの改革による影響が議題に上がって、それに対する説明もしなければならない。各地に理解を求めるのは大切なことだった。
一つがネルコの運送業拡大による運送業者の苦情だ。地元の商会が議題に挙げたが、エノールは『物流の促進は経済活性化において必要、物流が強化されなければ好景気が得られず経済の発展は見込まれない。新たなサービスを展開し、しぶとく生き残る姿勢を見せなければ今までのやり方に固執するだけの人間には経済発展の礎になってもらう』という力強い演説で苦情を説き伏せた。
一つが金貸し業者による苦情、しかしこれは多くの商会長が金貸し達に辟易していたので大半が黙殺され議題にも上がらず却下となった。
最後がエノールによる(正確には伯爵名義であるが)麦の取引規制について。地主に対して課せられるもので、これにより数量と価格について常識的な範囲の上限が設けられた。麦商人は苦情をあげていたが、こちらにしてもエノールは『庶民の生活を安定させ一定の余裕を持たせることによって市場に安定して買い手を提供し第二次・第三次産業を発展させる。それが領内の経済発展につながる』と説明した。他の商会長も納得して麦商人に肩入れする紹介は納得しなかったもののこれも説き伏せた。
全ての苦情を説き伏せて、なんだか論破しかしていないような気がするが、ともかくエノールは忙しかった。早くレガルドに会いたいのに一向に学園に戻る猶予を作れない。そんな時に舞い込んできた厄介ごとに笑いたくなった。
そんな彼女にとどめを刺すような言葉をバルターが投げかける。
「それでエノール様に謁見を求めています」
「できるわけないでしょ⁉︎ こんな忙しい時に!」
「その者達はエノール様を君主に迎えたいようです。放っておくのもまずいのでは?」
「そっ……」
感情面はひとまず置いておくとして、元々治安の改善は領地の課題だったのだ。そのために真っ当な自警団を組織しようという話にもなっていた。
しかし、他でも改革を進めていることもあって費用や労力、他方からの反発を考えて見送っていた。それが自分から降って湧いてきたようなものである。この忙しい時期に……そう文句を言いたいエノールであったが、これは利用せねばなるまい。
そもそも自警団は勝手に発足したのだ。単純な戦力を何の指揮系統も置かずに、御さずして放置すれば何をしでかすか分かったものでない。それはエノールの領分である領地経営の範疇にも食い込んでくるため、どちらにしても領主の立場に座る誰かが対応しなくてはならない。次期領主のエノールの仕事が増えたことが確定していた。
なら、何をするのが利があるか。考えるまでもない。
「………分かった、会うわ。聖女云々も教会に聞かれたら厄介だし、訂正しないとね」
「ところでエノール様、同様の事件が現在でもあと二件起きています」
「は?」
「その者達に感化されたようで、他の街でも続々と町で自警団を組織しています。同様に犯罪組織を攻撃する事例が相次ぎ、どれも敵組織に相応の被害を与えているようです」
エノールはまたしてもとんでもない顔をした。何を言ってるんだこいつ、という顔である。
「くぅぅぅぅ……!」
「エノール様への謁見が許可されたと知れれば、更に勢いづいて類似組織が発足するでしょう。謁見を求めた彼らに倣って他の町の自警団も謁見を求め、各地に自警団が発足するかもしれません」
「レガルドー………!」
令嬢の叫びが屋敷に響き渡った。
こうしてエノールは不本意な経緯で全ての町に自警団を持つことになった。
自警団の名前はエノールがなんとかおかしな名前をやめさせようとしたが、どうにも聞く耳を持たないので最初に謁見した派閥を尊重し『聖軍』で統一することとなった。なぜそれになったのか、一番まともだったのである。




