特別授業
エノールが学園に帰る日はそう遠くないうちに一度設けられた。春の下旬、夏に差し掛かる前である。
久しぶりに学園に登校してきたエノールだが、学生としてではない。今日は教師としてやってきたのだ。
伯爵家による金融事業は経済の動向を領内で監視し、随時金利操作と銀行券印刷によって経済介入を図る。誰かが屋敷に残ってその業務に当たらなければならないのだ。
それには最低限の金融学と経済に対する造詣を必要とする。中央銀行の金利をどう操作すれば市場がどのような影響を受けるのかを理解し、それを実践できる人間でなくてはならない。
知識と経験、そして大きな責任を背負う決断力を必要とするのだ。その人物自体も信用できなくてはならない。文字通り、領内の経済全てを背負うのだから。
エノールとロンダー、ネルコは話し合い、中央銀行の総裁を誰にするかという話になった。最初は有力な金貸を引き抜こうかという話になったが、総裁は官職である。融資を成功させて利息で儲けるわけではないから、一定の金額しか給料を支払えない。
金貸しとして成功していればいるほど引き抜きは難しいし、そもそも向いていないのだ。総裁に求められるのは大局的な視点、金融市場に参加する一事業者としての感覚が染み付いている人間には向いていない。
無論、一人に任せるわけにはいかないので金融市場に精通している人間として各商会には金貸し業者の引き抜きを打診している。伯爵家というネームヴァリューもあるから銀行の話を聞いて聡い中堅どころの人間が引っかかってくれることを祈るばかりだが、あくまで銀行業務の補佐として雇うのだ。総裁にはできない。
そこでエノールは学園から有望な人材を見つけることにした。曰く──
『私の金融学は王国でも類を見ないのだから、経験なんてあってないようなものよ! だったら、余計な知識をつけてるよりはまっさらの状態の方が飲み込みが早いわ!』
ということだった。ロンダーが『経済に関してある程度知っていた方がいいのでは?』と口を挟んだが、エノールは『私が一から十まで教えるからいいわ! どうせ数年は私が手本を見せなきゃいけないんだし!』と言って、すぐに学園に手紙を出した。
学園で特別講師の立場で授業をさせてほしいと頼まれた学園は大いに悩んだ末にこれを受理した。今日がその特別授業の日である。
経営の授業で男子生徒と希望する女子生徒が教室に集められ、そこでエノールが教壇に立った。中にはレガルドの姿もある。久しぶりのエノールの姿に周囲の生徒が湧き立った。
エノールは小さく手を振って、レガルドも返した。
「え〜、みなさん。私はアルガルド伯爵家次期当主エノール・アルガルドです。今更紹介する必要もありませんね。私の領地では現在、新たな経済政策を予定しています。その上で、私が確立した経済学の分派となる金融学に基づいて仕事ができる人材を探しています。金融学は私が確立しましたから、現在の王国では広まっていません。最新の研究といえますから、人材を一から育成する必要がああります」
生徒達はエノールを褒め称えた。エノールすごい! エノールさん素敵! と周囲から声が投げかけられる。
エノールはそれを手で制すると、話を続けた。
「ありがとう……そのため、今回このような時間を取らせていただきました。将来有望な学生達の中から、私の補佐をしてくれる人材を探しています。この授業を聞いて、それでも興味がある言う人は授業終わりに私のもとに来てください。私は貴方達の中から我が屋敷で働く人材を確保したいと思っております。給料については宮廷貴族以上をお支払いしましょう」
その言葉に周囲が驚きでどよめいた。
宮廷貴族の給料は男爵ほどもないが、それでも貴族というぐらいには高い。王都で裕福な暮らしができる。
この中のほとんどが長男ではなく次男以下や女生徒であり、彼らの将来は騎士として従軍するか、他家に嫁ぐと決まっている。特に女性に関しては嫁ぎ先が見つからなければ年を経るごとに煙たがられるから、相手が見つからず家を追い出されることだってあるのだ。
そんな彼らにしていきなり宮廷貴族レベルの待遇を受けるチャンスというのは千載一遇のチャンスだった。突然転がってきた幸運に生徒達がざわめく。
もちろん、うまい話には罠がある。宮廷貴族は宮廷貴族でも、下級宮廷貴族レベルの給料かもしれない。しかし、それでも彼らにしてみれば惜しいのだ。能力がなければ宮廷からすぐに追い出されることだってあるのだから、生徒達はすぐに目つきを変えた。
エノールは面々の表情に満足するように頷いた。
「よろしい。それならこれから私が教える金融学の授業を聞いて、それでも私のもとで働きたいと思った人は授業の後で私のところに来てください。それでは授業を始めます」
そうして、エノールの話は始まった。
まず彼らに貨幣の価値と物の価値が別物であることを教える。次にインフレとデフレについて教え、貨幣流通量と物価の上下、それが経済にどんな影響を与えるかを教えていく。
そこから発展的な内容になり、インフレとデフレが交互にやってくる理由、『景気の死の波』と店舗型の商売の関係、景気の安定化のメリットと……更に中央銀行の導入と業務内容、金利操作による貨幣流通量の操作などを説明した。
生徒達は後半になると理解が完全に追いつかなくなっていた。発展的な内容も前半は実際の経済に基づいた話なので複雑だが理解できる。しかし、中央銀行というのは彼らの辞書にはない全く新たな概念なのだ。それを飲み込むのにも時間がかかるというのに、その存在を前提として応用が語られる。
いうなれば『どうしてその公式をいきなり出してきたんだ?』と数学教師の教えに疑問を抱くようなものだ。話はわかるが全く脈絡がつかめない。そんな状態に陥っている。
それはエノールによって仕組まれたことでもある。自分の理解を超えてもなお、齧り付いてくる気骨ある人材を求めたのだ。
そして、授業が終わると周囲がぐったりしていた。普段の授業の数倍わかりやすかったが、更にその数倍は難しかったのである。エノールは手をパチンと鳴らして授業を止めた。
「はい、それじゃあ今日はここまで。私の元で働きたいよーって人は私のところに来てね」
ほとんどの生徒は諦めていた。今の話を理解できない以上、仕官は不可能だと。
それでもエノールの元には人が集まった。数少ない女子生徒の受講者達は、その半分がエノールの方に向かった。元から授業に全てついていけるとは思っていなかったから、逆に開き直っていたのである。
男子生徒の中にも志願者はいた。経営の授業で優秀な成績を修めている者達だ。エノールの導入した新概念に戸惑いながらもなんとか授業を理解したのだ。
その中にはレガルドとアリスの姿もあった。
「レガルド、貴方もなの?」
「当然だ。未来婿が手を上げちゃいけないって決まりはあるのかい?」
その姿に周囲は一歩引いた。エノールが身内贔屓するかと思ったからだ。
「そう、でも実力主義で行くわよ。アリスもそれでいい?」
「もっ、もちろん! ちゃんとエノールの役に立たないといけないわけだし!」
そういうアリスの手は震えていた。
「それじゃあ、今日の放課後に試験をしましょう。場所は使われていない空き教室一階、そこで私が試験を出すわ。その後に面接をして、採用者を一人発表する。それでいい?」
周囲の参加者達は頷いた。
「それじゃ、放課後まで復習、頑張ってね?」
エノールは自分の板書した黒板を見た。
放課後はすぐにやってきた。参加者達は指定の空き教室に向かい、そこでエノールの姿を認めた。
「みんな、よく集まってくれたわね。それじゃあ試験を執り行うわ」
試験時間は三十分、机にはすでに解答紙が用意されている。
それぞれが机に座り、鉛筆が用意されている中でエノールが試験を配った。
「それじゃあこれから三十分、頑張ってちょうだい」
静かな教室で黙々と試験が執り行われる。それぞれが即座に問題を解いたり、頭を悩ませたりさまざまだ。
何せ、その試験はエノールが授業でやった基礎問題と応用の二つで構成されている。特に応用問題はややこしく、全員の頭を悩ませた。
「終了! みんな、手を止めて!」
一人だけ手を止めない女子生徒がいた。必死になって解こうとしていて、エノールはその子の元に行って手を重ねる。
「ごめんなさい、必死なのね。でも、ルールはルールなの。私は一生懸命な貴方を失格にさせたくはないわ」
「っ……」
その場で試験は返される。最も点数が高かったのはレガルドだった。
「さすが、座学で優秀な成績を収めているだけのことはあるわね」
「くっ……」
その言葉にアリスは悔しげだった。アリスの成績は三番目だったのだ。
やはり成績上位を占めていたのは男子生徒だ。普段から頭を使い慣れていて、エノールの授業を聞いても自信を持って立候補してきた人たちだ。年季が違う。
それでも女子生徒も奮闘していた。男子生徒は既存の経営価値観にとらわれて本質を見失いがちな中で、女子生徒はエノールの言葉だけを聞いてそれで問題を解いたのだ。実直にエノールの教えが実を結んでいる。
「それじゃあ、次は面接試験よ。一人一人呼ぶから、呼ばれたら隣の教室に来てちょうだい」
生徒達は元気よく返事をした。落ち目と言われるアルガルド家で働こうと思うのは彼らの立場もあるが、それ以上にエノールのために働きたい一心である。彼らの士気は高かった。
一人一人隣の教室に呼ばれる。レガルドの順番が来た。
「さあ、レガルド。座って」
「ああ」
レガルドが座る。
「貴方はなぜこの場に立候補したの?」
「言っただろ。俺はエノールを助けたい。だから、できることは何でもする」
「頼もしいわ。金融の話を聞いてどう思った?」
「実際の経済の変動と共通点があると思った。どうしてああ言った現象が起こるのか、それをわかりやすくメカニズムから説明された気がしたよ」
「嬉しいことを言ってくれるわね。それじゃあ最後に意気込みを聞かせてくれる?」
「俺は……エノール、きっと君の役に立って見せる。絶対にだ」
その言葉にエノールは立ち上がってレガルドに近づく。
「素敵……枕元でも聞きたいわ」
「……次の生徒がいるんだろ?」
「少しぐらいいいじゃない」
「まったく……」
憎まれ口を叩きながらレガルドはエノールとイチャイチャした。
「──さて、全員面接が終わったわね。お疲れ様」
周囲は緊張した面持ちになる。もう、エノールの中では採用者が決まってしまったのだ。
「それじゃあ、早速だけど採用者を発表するわ。呼ばれた人はこちらにいらっしゃい」
金切のような緊張が迸る。それぞれがそれぞれに自信や不安や期待を胸に浮かべて、エノールの言葉を待つ。
「アリスベリアさん、採用よ! みんな拍手!」
落胆するものもいる中、盛大に拍手される。アリスは信じられないというふうにエノールを見た。
「嘘……」
「嘘じゃないわ。こちらにいらっしゃい」
アリスが辿々しい歩調でエノールの元に行く。
「私、面接でやらかして、絶対ダメだと思ったのに……」
「面接でうまくやるのが採点対象じゃないわ。対面的な能力はあまり重要でないもの」
エノールはアリスベリアの採用理由を端的に話した。
「アリスさんを選んだ理由は主に二つ。女子生徒の中で最もいい成績を挙げていたこと。私の授業だけで純粋に知識を吸収した。その飲み込みの速さね。レガルドやもう一人の男の子の方が成績は良かったけど、アリスの問題の解き方は私の教えに忠実だったわ。解けない問題もあったみたいだけど、アプローチは悪くなかった。まっすぐな分、私の求める人材向きね」
呼ばれたもう一人の男子生徒は悔しげな表情を浮かべた。自信があっただけに悔しかったのだ。
「もう一つはやる気の問題ね。アリスは私の授業で混乱したみたいだけど、後から頑張って復習して、あそこまでやり遂げた。私はその熱意を買いたいわ。何せ、採用者の人は数年間私の金融政策を見て学ぶだけだもの。シミュレーションしてもらって、ある程度実践的なこともしてもらうけど経済的なことを一から学んでもらうわ。その時に余計な知識があると邪魔になるの。アリスは気質的にも実直な分、向いていると思うわ」
レガルドは途中で口を挟んだ。
「俺は、やる気も理解力もアリスには負けてないと思ってる。そこらへんはどうなの?」
アリスは言われて、悔しげな顔をする。確かにその通りなのだ。いつも座学の授業を受けているだけのことはある。レガルドは経済についてもある程度知っているし、金融によって経済現象を説明づけられることにも気づいた。応用力も理解力も前提知識も、申し分ない。
エノールは申し訳なさそうにいう。
「貴方は出来すぎるのよ……確かに貴方も適任なんだけど、貴方は経営が一番得意なわけではないでしょう? 領地に束縛されるし、できれば私は貴方をそばに置きたいの」
「……」
「分かって、レガルド。決して貴方にチャンスを与えなかったわけじゃない。貴方が抜きん出た才能を見せて、他に代わりがいなければ貴方に頼むしかなかった。分かってちょうだい、貴方を選ばなかったのは私が貴方を頼りにしているからなの」
「……そうなのか」
「そうよ、レガルド。愛しているわ」
「俺もだ、エノール。愛してる」
いつの間にか二人が抱き合って、何だこれと周囲は思った。
「……こほん、とにかく理解力があって、余計な知識がなくて、私の教えを素直に受け入れてそれらを忠実に守る、その上で応用力があるからアリスを選んだわ。レガルドを選ばなかったのは……まあ、ある意味彼は屋敷に入ることが内定しているからかしらね。なら、アリスを選んで二人とも引き込んだ方が得だと判断したのよ」
エノールは今度はアリスに向かって向き直る。自信を失っているアリスに向かって。
「ねえ、アリス。私は貴方に期待してるの。じゃなきゃ、こんな大役任せないわ」
「……ほんと?」
「ええ、レガルドも優秀、貴方も優秀、そう思ったの。だから私は二人とも欲した。それにね、貴方に任せる予定の金融業務って、下手したら領内の経済を滅茶苦茶にするから責任重大なの」
「えっ」
「だから、信頼してるのよ。こんなこと、アリスにしか頼まないんだからね?」
エノールは励まそうとアリスに声をかけるが、アリスからすればいきなり重責を投げられたに過ぎない。
アリスは引き攣った笑顔で返事した。
「だ、大丈夫……うん、頑張る」
「それじゃあみんな、お疲れ様。ちなみにだけど代官の募集は受け付けているの。ここにいる人は十分見込みがあると思うし、流石に宮廷貴族ほどのお給料は出せないけど……騎士クラスの給料は出せるわ。ちなみに王都の騎士クラスね。業務は徴税、興味がある人は手を上げてちょうだい。手を挙げたら即採用よ」
周囲が驚く中でちらほらと手を上げる面々がいる。二番目の成績を出していた男子生徒もまた手を挙げていた。
「あら、貴方もいいの? 能力が高いから、見上げればもっといい職にもつけると思うけど」
「……うちはそんなに格がある家ではない。能力だけじゃどうにもならないことがある。それに……俺は次男だ。家督を告げないから、家を出るしかない」
「分かったわ。アルガルド家は貴方達を歓迎する。卒業したら私の屋敷にいらっしゃい。この後、貴方達に路銀を渡しておくわね」
そう言ってエノールは教室を出ようとする。
「あ、エノールさん!」
「アリスも、ね。必ずいらっしゃい。来なかったら貴方の実家まで乗り込むから」
「っ……分かった!」
アリスは嬉しくなって大きく叫んだ。




