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置いてかれたレガルド

 翌日になるとエノールが久しぶりに帰ってきたことで学園はわきたった。レガルドやアリスも驚き、二人はエノールの元へと駆け寄った。

 

「エノール!」

 

「エノールさん!」

 

 同時に声をかけたことによって、二人は互いを睨みつけた。

 

「久しぶり、二人とも」

 

「どこ行ってたんだ、心配したんだぞ」

 

「エノールさん! 心配しましたわよ! 父から聞いて、大変だって」

 

 レガルドはアリスの言葉に反応した。

 

「大変……?」

 

「知らないんですの⁉︎ アルガルド領で病が広がっているって」

 

「っ……」


「それで、エノールさんが飛び出していったって……私、本当に心配していたんですからね!」

 

「分かった、分かったよ。ごめん、アリス」

 

 エノールは抱きつくアリスを眺めていた。女子達はその光景を見目麗しそうに見つめている。

 

 しかし、この中で唯一レガルドだけは愕然としていた。寝ているところに冷や水をかけられたような衝撃に2歩後ずさる。


「や、病……?」

 

「貴方、そんなことも知らないんですか? エノールさんは病をどうにかするために領地に行って……」

 

「……レガルド?」

 

 エノールはレガルドの方を見る。


 レガルドは信じられないような表情で彼女を見た。

 

「どうして……言ってくれなかったんだ?」

 

「えっと、それは……」

 

「……」

 

 エノールは言葉に詰まってしまった。なぜ、と問われるととても困る。


 忘れていた、という言い方は二割ほど正しい。あの渦中ではレガルドは愚か、学園のことなど気にしている余裕はなかったのだ。


 しかし、それ以上にたとえ気にできたとしても手紙を出せたかという疑問には深く熟考した後に否と返さざるを得ない。なにせ、それほど忙しかったのだ。


 そもそも、この件はアルガルド領の問題。たとえレガルドが縁談相手であろうと婚約も決まっていないのにその件で迷惑をかけるのは筋違いに思えた。エノールは学園をさるときにレガルドに連絡しようか迷ったのだ。


 しかし、レガルドは無言で踵を返してしまう。エノールの無言を受けてひどく心を傷つけた。


 あれほど待ち焦がれた恋人の帰還だというのに、お互い待ち焦がれた再会だというのに、レガルドの胸の奥にはドス黒いモヤが巣喰っていた。エノールもその心の機微を感じ取るが、一歩遅い。


「レガルド!」

 

 レガルドは背を向けて行ってしまう。自分の声かけに応えてはくれなかった。


 エノールはその後ろ姿を追いかけようとして立ち止まってしまう。もうすぐ授業があるのだ。追いかけていくわけにはいかない。


 このまま追いかけるわけにはいかない。そう頭では分かっているのに、エノールは何度も追おうかと足を踏み出した。


「……」

 

 周囲もどんよりとしたムードだった。二人の距離を感じ取って遠慮する。

 

「エノールさん……」

 

「……」

 

「ごめんなさい、私──」


「いいの、いいのよ。勝手に飛び出して行ったのは、私だし」

 

「……」

 

 エノールはやってしまったとこめかみを抑える。きっかけを作り、あまつさえレガルドの心の傷口を開くことになってしまったアリスは青ざめている。彼女とてレガルドのことが心の底から嫌いなわけでもないのだ。


 周囲の女生徒はその光景を見てレガルドは気の小さい男だとか、女々しいとか話をし始めた。


 エノールは領地のために飛び出して行ったのである。それなのにレガルドは身勝手だと。

 

 けれど、エノールは彼女たちの心情を汲み取りつつも、自分のために言ってくれている彼女らに苛立たしさを覚えてしまった。


(もう少ししかないのに……ううん、私が、どうにかしなくっちゃ)

 

 エノールはこの一件を自分のせいだと捉えた。

 



 

 

 

 政治や経済、軍事などエノールが男子達と混ざって授業を受ける際にも、エノールとレガルドの距離感は少し疎遠になっていた。


 様子を見かねて友人がレガルドに話しかける。

 

「なあ、なんかあった?」

 

「……うるさい」

 

 エノールはずっとレガルドの方を気にしている。しかし、レガルドはエノールの方を見ない。


 たまらずレガルドの友人が話しかけてきて、レガルドはそっぽを向いた。

 

 授業が終わるとエノールはすぐにレガルドの元に向かう。しかし、エノールが追いかけてきてくれてもなお、腹の底では喜んでいるのにそれを噯気にも出せなかった。


「レガルドっ……」

 

「……」

 

「……」

 

「……何?」

 

「……あ──」


「次の授業、刺繍じゃないの。行きなよ」 


 それはその時レガルドができる精一杯の優しさだった。


 レガルドは女子生徒のスケジュールを覚える必要はない。エノールのために覚えていたのだ。


「……そうね、分かった」

 

 しかし、そんなこと伝わるはずもない。


 聡いエノールも、好きな人に尻尾を巻かれては冷静に相手の心を見ることもできなかった。

 冷静に物事を俯瞰するなんてこの時ばかりはできようはずもなかった。

 もし彼の心を覗き見て、そこに自分に対する憎悪があったら……そう思うと足がすくんでしまう。


 レガルドと真っ正面から向き合うことができない。もしそこにいっぺんでも純粋な自分に対する憎悪があったとしたら……そう思うだけでエノールは頭から血の気がなくなりそうだった。


 男子達も流石に二人の感じが悪いことに気づいて、レガルドをけしかける。

 

「お前、どうしたんだよ」

 

「せっかく久しぶりに会えたのに」

 

「うるさいな!」

 

「「……」」

 

 レガルドが初めて声を荒げた。彼がこんなふうに怒るのはエノールがいじめられていたと知った時と合わせて二度目である。

 





 エノールは放課後になるとレガルドを街に誘った。レガルドもそれに頷いて二人は外出することになる。

 

「……」

 

「……」

 

 いつもなら楽しいデートのはずだが、前のように手を繋いだりはしない。


 今まで随分と焦がれた日々にも拘わらず、肌寒い冬の空がひどく冷たく思えた。


 二人の手は冷たい。

 

「……レガルド」

 

「……なに」

 

「私ね、十五歳に家督を継ぐことになったの」

 

「……そう」

 

「貴方と婚約するわよ」

 

「……そう」

 

「……それだけ?」

 

 エノールは立ち止まった。この令息なら飛び上がって喜んでくれると思ったのだ。

 

 そんなわけがない。たとえ嬉しくとも今のレガルドの精神状況ではそれをおくびにも出せるわけがない。そんなことさえエノールは気づけなかった。

 

「……エノールはどうなのさ」

 

「私?」

 

「エノールは、俺と婚約して嬉しいの?」

 

「っ……」

 

 それはレガルドからの疑いの質問だった。エノールはよろけそうになって、必死に立ち止まる。

 

 疑われたのだ、自分の愛情を。それがレガルドの「答え」だった。


「……嬉しいわ、すごく、すごく、すごく」

 

 エノールは自分の胸に手を当てて、そこにある気持ちを慈しむように言葉を重ねた。


 その言葉にレガルドの心も幾分か軽くなる。しかし、それを表情に出すわけにはいかない。引いてはならない時もある。


「……」

 

「……ごめんなさい、行きましょ」

 

「なんで、俺を置いて行ったんだ」

 

 レガルドは本心を話した。それがこの話の核心だったから。


 エノールがレガルドを置いて死地に向かった。何の連絡もよこさず事態を終えてしまった。それがレガルドのもやもやの中心となる部分だった。

 

 先ほどの言葉が嬉しくて、でも素直になれなくて、悔しさのあまりになる気にもなれなくて、それでもエノールの真心に真心で返礼したのだ。


 自分の本音で返す。それが彼にできる唯一の返礼だった。

 

 エノールはそれが話の本質だと、レガルドにどんな思いをさせたのかようやく悟る。

 

 彼女はレガルドにどういう思いをさせていたのかを思い至り、ひどく狼狽していた。動揺で答えられない。


「っ……」

 

「なんで、俺を一緒に連れて行ってくれなかった? 深夜でも、俺を叩き起こして、一緒にこいって言ってくれなかった?」

 

「そんなの……」

 

 できるわけがない、そう言おうとしてレガルドが声を張り上げた。

 

「そんなに俺が信用ならないかよ!」

 

「違う!」

 

「じゃあなんで!」

 

 レガルドの言葉に、今度はエノールが愕然とした。なぜわかってくれないのかと。


「だって……死ぬかもしれないのよ? 病に倒れて……私はその中心地に──」


 レガルドは青ざめるようなエノールの言葉に、話の途中でエノールに近寄るとその手を取った。


 あまりに我慢ならなかったのだ。


 レガルドの怒りに染まった顔が間近に来る。そのまま声を張り上げた。

 

「それは、君も一緒じゃないか!」

 

「っ……!」


「病の中心地⁉︎ 尚更俺を連れて行け! そもそも、なんで君がそんなところに行かなくちゃいけないんだ!」

 

「それはっ……黒死病に終止符を打たなきゃいけなくて、私しかできなくて──」


「そうだ! 理由があるんだろ! だったら俺を連れて行け! 行かなきゃならない理由があるんなら、俺も一緒に道連れにしろ!」

 

「できるわけないじゃない!」

 

「なぜだ!」

 

「だって、死ぬかもしれないのよ⁉︎ 死体も病人もみんなぐちゃぐちゃで、あんなところに貴方を──」


 更にその言葉にレガルドは怒った。

 

「それは! 君もだろッ!」

 

「ッ……!」 


 エノールは愕然とする思いだった。今の今まで、レガルドに指摘されるまで自分では気づかなかったのだ。

 

 否、気づいているつもりだった。だが、どこかで安心していたのだ。自分は死ぬわけではないと。

 

 杖が守ってくれる。星見の予知は二十二まで生きると差し示した。ここで死ぬわけがない。死の予感を感じながら結局、エノールはそう思っていた。安堵していたのだ、どこかで大丈夫だと。

 

 それは何の根拠もない自信、無謀であった。 

 

 エノールは自分の手首を掴むレガルドの手を振り払おうとした。しかし、できない。男の力は、強い。

 

「何べん言わせれば気が済むんだ! そんなところに君が行ったんだろ! 知ってるよ! 病の流行が危険なことぐらい! 現地に向かうなんてどれだけ馬鹿げてることか、それぐらい俺でも分かってる!」

 

「で、でも……私しかできなくて、私が行かなきゃいけなくて──」


「どうして君が行かなきゃ行けないんだ! いや、どうして君だけが行かなきゃ行けないんだ! 危ないなら、死ぬかもしれないなら俺を連れて行け! 俺たちは、夫婦になるんだろ⁉︎」

 

「でも!」


 エノールは声を張り上げて、声帯からビブラートを聞かせて、咄嗟にレガルドを見た。


 令息の目からは涙が溢れていた。

 今日、初めてレガルドの顔を直視した。

 それがエノールの動揺を誘う。


 それはレガルドの魂からの叫びだった。ここまで悲しませているとは思い至らなかった。


 エノールは自分は最低だ、クソ野郎だと思った。


 同じ境遇に立たされたら私も同じことを思うだろう。


 そう考えてしまったから、エノールは余計自分のことが嫌いになった。なぜそんなことをしてしまったのか。


 レガルドには頼られなかった怒りと悲しみ、屈辱と後悔、危険な場所にエノールを送り出した自分への怒りと蔑み、失望に落胆、様々な感情が渦巻いていた。


 エノールが自分の状況を理解していなかったことへの激しい怒り。


 それ以上に、それらをゆうに越える溢れかえるような心配が彼の心を巣食っていた。


 自分の思い至らなさに愕然として膝を崩すエノールを、すぐにレガルドは抱き抱える。

 

 結局、どれだけ恨めしくても好きな人を支えずにはいられない。


「っ……だってぇ、貴方を、貴方を──」

 

「だってじゃない! 死ぬ時は一緒だ! 君が命を賭けなきゃならんというなら、俺の命も一緒に賭けろ! じゃなきゃ自分の命なんか賭場に持ち出すな!」

 

「だって、死ぬかもしれないのよ……そんな、そんな場所に貴方を連れて行けるわけ──」


 レガルドはあんまりエノールが分からずやだから、勢いのあまりエノールの胸ぐらを掴み上げてしまう。


 その仕草にエノールは少なくない怯えを見せ、それでレガルドは張り上げた。

 

「だからッ! そんなところに君が一人で赴いた! それが問題だとなぜ分からないッ!」


「だって、だって、だってぇ……!」

 

「危険? ふざけるな! 君も危険だ! 君が死ねば、俺だって路頭に迷うんだぞ! 俺を本気で置いて行く気か⁉︎」

 

「貴方をあんなところに呼べるわけないじゃないッ! 死体だらけの、腐臭撒き散らされていた地獄の戦場にッ! そんなところに最愛の人を巻き込めっていうの⁉︎」

 

「巻き込まれたんだよ! 俺はなッ!」

 

「っ……」

 

「俺は! 好きな人を! 勝手に戦場に送られた! その人が俺に何も言わず勝手に行ってしまった! 声もかけてさえもらえなかった!」

 

「ひぐっ、うぐっ……」

 

「それでも! 君のことだからきっと何かあるんだろうと思って待ったさ! 君と居れなくて寂しくても! この二ヶ月ヤキモキしても、それでも待ったさ! いつか君と夫婦になるんだって!」

 

「えぐっ、うぐぅ……」

 

 涙が溢れてしまう。レガルドの健気な真心が直に伝わってきて、なんて最低なことをしてしまったのだとようやく実感した。


 エノールの目元は後悔と懺悔でいっぱいになった。ぼろぼろと泣き溢れるエノールに、レガルドはさらに声をぶつける。


「そしたらどうだ⁉︎ 君は病をどうにかするために自室に篭りきっていて、知らぬ間にそれに終止符を打つために現場に向かっていましたァ? ふざけるのも大概にしてくれ! 俺が、俺がどれだけ心配したか! この一ヶ月、この一ヶ月!」

 

「ごめっ、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

「全くだ! 俺は君に頼られもしなくて、声もかけてもらえなくて、自分が知った時は全てが終わった後でッ! 情けなくてへっぽこで役に立てなくて……」

 

 泣き崩れるエノールの前で、更にレガルドはうずくまる。そこには令息の自罰心が表れていた。


 その頬からは涙を流し、地面に落とした。彼の制服もまた土埃で汚れる。


 エノールは目の前で懺悔するように咽び泣く最愛の人を見た。

 

「何もできなかった自分が……恨めしい! きっと、君に連れていってもらえても、何もできなかった! 何も成せなかった! そう思う自分が憎くて仕方ない! 君に頼られなかったことが、頼られるような男になれなかったことが……!」

 

「れがるど……」

 

 涙に腫れぼった声で、最愛の人の名を呼ぶ。


「君は……みんなに愛される、みんなに頼られる。でも、誰も支える人はいなくて、みんな君に頼りきりで、だから俺が支えになろうって、そう思っていたのに……」

 

 エノールがすぐに側に寄る。エノールがレガルドを抱き抱えると、さらに彼は泣き出した。

 

「君を病の中心地に送り出した自分が憎い! 情けない! 恋人の凶星にも気づけなかった自分が、君が大変な時にのうのうと過ごしてきたこの一ヶ月の自分が、憎くて憎くて堪らない! 許せない……!」

 

「レガルド、貴方のせいじゃない、私が、私が悪い、悪いから……自分を責めないで、お願いっ!」


 エノールはぐちゃぐちゃに泣き腫らした顔で、レガルドを一生懸命抱きしめて、目の前で自分の心を傷つける想い人を止めた。このままだとレガルドの心が壊れてしまう気がしたのだ。それだけは何としても食い止めなければならない。何をしてでも、何を代償に支払ってでも。


 心でも体でも人生でも将来でも、何もかもベットしてでもこの人だけは救わねばならない。それだけは何をベットしてでも取りこぼしてはならない。

 

 エノールの言葉にレガルドは顔を上げた。涙で泣き腫らした顔だ。目元は赤く腫れている。エノールはそのボロボロの顔を咄嗟に抱えた。あまりにも愛おしく、今にも壊れそうなその顔を。

 

「そうだ! 君も悪い! 勝手に一人でどっかに行く君も! 一人で死地に向かう君も! 俺を頼ってくれなかった君も! 君に頼られなかった俺も……ッ」

 

「レガルド……ぉ!」

 

 エノールの声はひしゃげていた。ぐちゃぐちゃに潰された空き缶のように歪んで、必死に涙を流しながらレガルドを掬い取ろうと縋った。エノールの手をレガルドも力強く握る。

 

 レガルドは縋るようにエノールの背中に手を回し、指で服を掴む。


「もうどこにも行かないでくれ……どこかに行くなら一言言ってくれ、危険なら俺を連れて行ってくれ……夜に叩き起こしてもいいから、引っ叩いても俺を連れて行ってくれ、君のそばを離れさせないでくれ……もう、君が、知らないところで、傷ついてるなんて、考えただけで、考えただけで……」

 

 レガルドは発作を起こしたように背中を揺らした。あんまりに恋人が痛々しくて、自分がそうさせてしまって、エノールの目からは罪悪感に打ちひしがれた大粒の滴がこぼれる。


 どうにかこの人を慰めたくて、一生懸命抱きしめて、何度も何度もごめんねと囁いた。レガルドもまたエノールをもう離したくないというふうにお腹に巻きつく。


 二人はどうしようもなく抱き合った。道のど真ん中で迷惑な二人だ。けれど、そんなことどうでも良かった。

 

「エノール、君が憎くて憎くて仕方ない。それ以上に愛してる。俺のお嫁さん、もう、君を離さない……ッ!」

 

「離さないで! 離さないでちょうだい……っ! ごめんね……!」


「言ったな? 聞いたからな? 後から撤回しても…………おそいんだぞぉ……」

 

 それから二人はわんわん泣いた。

 街中で、迷惑そうに通り過ぎる街の住民を気にも止めずに、二人で抱き合ってわんわん泣いた。

 泣き終わった後もべそをかいたように二人は抱き合って、近くのベンチに座った。

 





 しばらく二人は泣き腫らした顔のまま、抱き合っていた。


 エノールがレガルドの膝に乗る形で抱きついている。


 彼女の足はレガルドにはしたなく絡みついていた。


 二人は、やがて泥濘のように唇を重ね始める。

 

「んっ……んっ……」

 

「エノール……ん……」


 もう、どうしようもなかった。 


 言いたいことを全部吐き出して、残った火の手は互いに燻った。


 燃え移って火災になって、煉獄のように二人を焼いた。


 この気持ちを伝えなければならない。だが、言葉じゃあまりにも掬い取れない。


 その末の口付けだった。


 熱い衝動が二人の心を支配する。独占欲や破壊衝動にも似たその感情は痛烈に二人を突き動かした。その感情に相応しい営みを街のど真ん中で始める。


 火傷にもがく二人は水を求めるように互いを貪る。互いの唾液は、まるで砂漠の中の一滴の滴のようだった。


 飲んでも飲んでも飽き足らない。もっともっととせがんでしまう。その度に真っ赤に燃える舌を情熱的に絡め合うのが二人にとっては堪らなく心地よかった。


 会えなかった二ヶ月を埋め合わせるように。

 舌を絡め合って嬲るように。

 お互いの文句と情愛と憎しみを混ぜこぜにして、それらを原動力に蒸気機関を動かす。


 直情的にお互いの首と腕と指を絡めあって、ひっつき虫みたいに絡み合った。


 どうしようもなくキスをする。口づけを交わす。唇を重ね合う。


 視線を合わせて舌の感触を愉しみ、互いの体の温もりを冬の冷たい外気の中ではしたなく感じ取っていた。


 恋に燃えた二人の恋人は、今この瞬間に寿命を燃やし尽くさんとばかりにお互いを求める。その様相は泥に塗れた子犬のようだった。


「ん……レガルド」

 

「愛してるよ、エノール」

 

「私もよ、大大大好き」

 

 恋人特有の砂糖を蜂蜜で煮詰めたような言葉を恥ずかしげもなく交わし合う。


 喧嘩をしていたが、二人は恋人で、しかも一ヶ月も会っていなかったのだ。

 今日の再会はお互いにとって待ち望んでいたものである。

 そうして甘えようかなと思っていたのに、その矢先に転んでしまった。


 とんだお預けだ。だけれど、もう『いい』のだ。もう何をしてもいいのだ。

 そんなはずないのに、密かに全能感が二人を支配した。

 過激なことをしなければ『何をやってもいい』。

 

 条件という名の免罪符で二人は自分自身に赦しを与えた。

 今こそ『キス』と『ハグ』の定義が崩れていく。


 まるで時間を取り戻すように、睦言を囁き合って。

 夏のアバンチュールのように、恋する乙女のラブレターのように。

 耳が火傷を負うような甘い甘い睦言を、ゼロ距離で互いに囁き合う。


 互いに重度の火傷を負わせて、それでも二人は止まらない。

 ほおを擦り合わせるのが、鼻をかし合わせるのが、唇を重ねるのが泣いてしまうほど嬉しかった。二人とも泣きながらキスをした。


 それが互いの心をまた燃やす。

 二人の絡みはあまりに情熱的だった。

 思わず通行人が凝視してしまうぐらいには、見ていた婦人が股を濡らしてしまうぐらいには。


 レガルドは男の怒張を恥ずかしげもなくエノールに当てられていた。いつもの彼ならすぐに腰を引くところだが、唇を重ねすぎて半ば酸欠になっている二人にそんな思考力は働かない。


 エノールもそれに気づいて、股を開いて受け入れる。女として、メスとしてオスを受け入れたのだ。


 エノールの最も秘められた部分が、怒張に当てられる。それは彼女の最大限の好意の証だ。

 

 しばらくすると睦言に「言葉」がなくなる。


 口ではなく視線を持って、その目線に炎のような熱を乗せて、視線が当てられる場所をジクジクと焼いた。

 瞳の奥を焼き合う中で、時折視線が胸やら首やらの際どいところに落ちる。

 レガルドの性欲に塗れた視線にエノールもその気になった。

 目線を外す彼にイラついて、自分に夢中にさせるように口を苛烈に絡めたり、はたまた服の間から垣間見せて挑発したりした。

 途中からその気になって、男の性を煽るように自らの喉から鎖骨にかけてをわざとらしく見せた。

 その仕草に彼が反応して、どうにも口角を上げてしまう。目の前の最愛の男が自分に興味を示してくれることがたまらなく嬉しいのだ。それも、飛び上がってしまいそうなほどに。


 もう二人の間にどんな法規も割り込む余地はなかった。

 婚前ではしたないとか、面前ではしたないとか、そんなのどうでもいいといわんばかりに腕で相手に抱きついて、エノールは足もレガルドの背後に回して、わざとらしく身じろぎをして性的快感を揺さぶりながら口づけをする。


 それは従来のキスとは一線を画すものだった。燃え盛る火の手をどうにか鎮めようとして、灯る梵火は互いにぼやを起こし、更に燃え広がろうとする。


 見つめあって、手を重ねて、絡めて、エノールはわざとらしく身じろぎして少しだけ彼の男を刺激する。

 佐藤健の記憶は幼いエノールに『悪知恵』をもたらしたのだ。

 ぬるま湯のような心地よさにも似た状況が漂う。服を脱がせるわけにもいかない。

 だから、エノールは奥ゆかしく身じろぎするだけだ。時たま足を組み替えたり、弾んだり、お尻の位置を変えたときに自分の愚息を大きくしてしまったレガルドが性的快感を感じてしまうのは、ちょっとした『事故』のようなものだろう。

 事故だから、他意はないから、二人はそうやって言い訳をしていた。

 両者の合意によって革新的な法規の抜け穴を形成したのだ。



 処女膜をやぶらなければいいのだろう?



 そんな法外な思惑が二人の間に共通認識として横たわっていた。

 今やレガルドさえも情熱の虜になっている。

 理性的な彼の心を浮かせる程にはこの再会は熱を帯びていたのだ。


 エノールはレガルドが性的に感じていることを気づきながら、わざとその動作を繰り返していた。

 エノールの瞳は、今や暗雲と立ち込めるドス黒いモヤのように澱んでいる。

 この人を喜ばせたい。もっと気持ち良くなってほしい。エッチなことをしたいはずだ。


 佐藤健の記憶のせいで男心が分かってしまうだけに、女から求められることの嬉しさが分かりすぎるほどに分かってしまっていた。

 男の業を、性欲を、薄汚い渇望を、エノールは女の身でありながら理解していた。

 好きな気持ちも相まって、彼女の理性の間抜きを緩めている。

 だって、どれだけ嬉しいかを身をもって知っているのだから、やってあげるしかないじゃないか。


「エノール……」

 

「ねえ、もう婚約するんだから、いいと思わない?」

 

 令息は一瞬逡巡する。


「ダメだよ……」

 

「あら、こっちはそう言ってないみたいだけど」

 

 エノールはまたわざとらしく身じろぎした。エノールの太ももの肉感が先程から膝の上に伝わっている。

 熱と硬さと存在感が服の上からでも伝わってしまう。エノールはその存在に思いを馳せて、また高揚してしまった。

 事実、レガルドの声も上辺だけで拒否を示していない。一番敏感な部分でエノールの肌を感じるのだ。否という言葉には芯がない。


 レガルドに瞳にわずかに喜々が滲んでいるのはエノールは見逃さなかった。蛇のように舌なめずりをする。


 それでもレガルドは真摯な愛を叫んだ。


「それは……さ。エノールが好きだから。だから、そうなっちゃうんだ」


 レガルドの告白にエノールは震えて潮でも吹いてしまいそうな気分だった。

 十四だけれども、もういいだろうという何とも早まった早熟の誘惑がせめぎ合う。

 それでも、エノールにはまだ仄暗い欲望があるのだ。レガルドを組み敷きたいという欲望が。


 それが彼女を取り乱させまいとしていた。

 

「あら、奇遇ね。私もよ」

 

「……」

 

 恋人はそのまま見つめ合う。


 沈黙に違いの胸に火が灯り、荒れ狂う洪水か、はたまた大火のように溢れかえって、二人は耐えきれずまたキスをした。


 衝動的に重ねた唇は、すぐにこじ開けられた。泥のように熱された互いの舌がねぶる。

 お互いの唾液を混ぜ合わせて、獰猛にそれを味わった。

 酷く淫猥で淫靡で艶美な音がする。下品な音を立てながら二人は唇を貪った。


 エノールが誘ってしまったことで、レガルドの想いが一段と重みを増し、理性のタガが緩んだのだ。

 勢いが先ほどより増してしまう。エノールはレガルドの威勢にメロメロにされてしまった。


 それに溺れてしまいそうになる。このままレガルドに身を委ねてもいい。

 犯されてもいい。押し倒されたら百点だ。


 土煙の中で地面の上に押し倒されてぐちゃぐちゃにされる。それを思うと酷く濡れる。

 妄想に思いを馳せる中、情熱的で濃厚で、とろけてしまうようなキスが自分を襲う。

 これこそが妄想なんじゃないか。ずっとベッドで夢見てきたレガルドとの時間が、今ここにある。


 大人でもそれをする場面は限られているだろう。そんなキスが二人の間に横たわる。


 二人は知的好奇心のもと、子供の身で秘密の花園を探求しようとしていた。

 性に対する知的好奇心、子供には少々刺激が強い甘く熱く痺れるような体験の数々。

 レガルドの口技に口説き落とされながら、エノールは真っ赤になった頬で、恋人の肌を感じながら囁く。


 エノールは時折、内股をキュッと閉めた。耳年増な彼女は早熟で、性に関しても同世代より少し進んでいる。性感帯もある程度発達しているのだ。性的な価値観、あるいは感じる度合いも含めて。


 残念なことにレガルドはその仕草がなんなのか知る由もない。


「大好き……」


 漏れるような言葉だった。だからこそ最も本音に近い。


「奇遇だね。俺もだ」


 二人はそのまま見つめ合う。うっとりとしてしまうような時間だった。


 その幸せな静寂を破ったのは意外にもエノールだ。


「……でも、貴方と違うところだけが一つあるわ」

 

「何?」

 

 エノールは少し黙った。

 

「……やっぱり、言わない」

 

「なんだよ、意地が悪いな。もう隠し事はなしだろ?」

 

「そうだけど……言ったらきっと、喧嘩になるわ」

 

「なんで?」

 

 エノールは少し困ったような顔をして、それでも小さな唇で茶目っ気に話す。

 

「私の方が、貴方より、貴方のことを愛しているからよ」

 

「……ははっ、それは喧嘩になりそうだな」

 

「でしょう? きっと大喧嘩になるわ」

 

「それで「だったらそれを証明して!」とか言われてベッドに連れ込まれそうだね」

 

「あら、考えてたことが伝わっちゃったわ。エスパーなのね、貴方」

 

 エノールはクスクスと笑った。本気でそうしてもいいと思えてきたのだ。


 エスパーが何のことだか分からないレガルドだったが、考えていたことが同じだったのは悪い気がしなかった。

 

 レガルドは拍子に本音を漏らしてしまう。彼とて男なのだ。好きな人を抱きたくないわけがない。


 だから、レガルドの告白はエノールにとって大変好ましいものだった。


「君のこと、早く抱きたい」

 

「あら、奇遇ね。私もよ。さっさと抱かれたいわ」

 

「……」

 

「……この際だから、ちょっと抱いてみる?」

 

「ちょっとって何だよ」

 

 二人はそう言って、お互いに笑い合う。くすくすと二人の笑い声が街角に響いた。


 思いが同じことにエノールは嬉しくなって、許してあげたくなった。

 ちょっとぐらい、いいじゃないか。思春期の男子に我慢をさせるなんて体に毒だ。

 男の人は定期的に欲を吐き出さないといけないんだから。


 そんな、宛先のない理論武装をエノールは胸中で組み立てる。

 

 レガルドがハハっと笑って流すと、エノールは急に抱きついた。取り合ってもらえなかったからだ。

 恋人の突然な行動に少々驚いたが、そんなエノールの背中をレガルドが優しく撫でる。

 エノールは、そんな恋人の優しさに打ち震えた。少しだけ下着に染みたような気がする。それも本望だ。最高だ。

 きっと世の女が垂涎を垂らして求めるような「私の考えた最高の男」が彼なのだ。きっとそうに違いないと確信する。異論は地の果てまで認めない。絶対神が決める至上定理なはずだ。


 エノールはレガルドの肩もとで大きく息を吸う。男の匂いがして、レガルドの匂いだと思うとそれだけでエノールの体は少し迸った。

 

「エノール?」

 

「すぅぅ……やっぱり、男の匂いね。うなじとか、特に匂いがする」

 

「嘘⁉︎ ほんと⁉︎」

 

 レガルドはびっくりした。王国では匂いの処置などマナーの範疇なのである。


「嫌な匂いじゃないわ。むしろ私は好みよ」

 

「……」

 

 自分の匂いを嗅いで満更でもないという少女に、レガルドは男心を両手で鷲掴みにされた。


 エノールの体はまだ精神年齢に追いついていない。彼女の精神が二十七歳ぐらいとしたら、まだ体は歴とした十四なのだ。

 成人さえ終えていない。まだ体は成長しきっていないのだ。だから、彼女の心がどれだけできあがっていても体との連動は多少の「食い違い」が出てくる。

 エノールの体が大人のものだったらそれは大変なことになっただろう。レガルドはすぐにベッドに連れ込まれるか、もしくは大人の色香を持って押し倒さずにはいられなくなっていたはずだ。

 レガルドが耐え切れているのは、エノールがまだ完熟前の体だからだ。最も、青々とした果実はそれでいて性的な魅力を迸っているのだが。

 引き締まったエノールの体の感触を全身に受けていたレガルドは、抱き合って熱を溜めてきた心に連動して、体にも変化を与えてしまう。


「あ、今、ぴくんってなった」


「……言わないでくれ」

 

「ふふっ、こういうことを言われるのが好きなのね。もう覚えたから、覚悟しなさい」

 

「……それは、恐ろしいな」

 

「うふふ、ええ、恐ろしいわよ。貴方の好み、全部把握するんだから」


 それは悪魔の囁きでもあり、女神のお告げでもあった。

 

 つまり、それは全部レガルド好みに自分を変えるのだというから、いい女の究極形でしかない。


 レガルドは愛おしさのあまりにエノールの髪を指先でといた。


「それじゃあ、今度はレガルドの番よ」

 

「え?」

 

「『え?』って、分かってなかったの? 今度は貴方が匂いを嗅ぐ番よ。ほら、早くして」

 

「えっと、どうして……?」

 

 エノールは勘が悪いなあというふうに勿体ぶっていう。

 

「相手の匂いを覚えておいて、今日の九時に自分を慰めましょう?」

 

「えっ……!」

 

「そしたら体を重ねたことにもならないし、私も処女のままよ? 良かったわね」

 

「で、で、できないよ、そんなこと!」

 

 エノールが提案してきたことはあまりに倒錯的だった。男のレガルドでもそうそう考えない。

 もはや成人した大人でもしないのではなかろうか。一体どういうプレイなんだとレガルドは困惑する。

 しかし、エノールは自信満々に言うのだ。


「あら、私じゃ無理?」

 

「そ、そんなこと……」

 

「私はするわよ。貴方を思って、この一ヶ月貴方を思ってどれだけしたと思うの?」

 

 レガルドはごくりと喉を鳴らした。その仕草にエノールは笑ってしまう。

 

「素直な人……」

 

 エノールはそんな恋人を嬉しく思う。自分の恋人が素直なのがどれだけ嬉しいことか。


 しかし、レガルドは慌てて続ける。


「で、で、でも、そういうの、淑女的にはどうかなって……!」

 

「あら、レガルドはこういう女は嫌い?」

 

「っ……」

 

「嫌ならやめるわ。貴方の理想の女になりたいから」

 

(なんだよ、それっ……)

 

 男に対する理想的すぎる殺し文句だ。余裕を与えなさすぎて、逆にレガルドは腹が立つ。


 どうしてそこまで自分のことを好きにさせてくるのか。もう十分だし、過剰もいいところである。これ以上何を求めるというのか。


 好感度はとっくの昔に100なのに。


「俺は、なんというか……」

 

「ん?」

 

「…………」

 

 レガルドは沈黙した。しかし、興味津々のエノールの前では無意味だ。この場を立ち去るぐらいじゃないと意味がない。そして、この令息はそんなことできない。

 体も心も、エノールにがっちり掴まれてるのに、逃げるなんてできようはずもない。

 彼女が本気になったら、今でもどうしようもなくベッドに連れ込まれて今晩中にお互いの貞節を散らすことになるだろう。

 そして、きっとそれを少年は後悔できないのだ。そういう体験をさせられてしまう。そんな予感があった。


 目の前にどうしようもなく抗いがたい誘惑が鎮座していて、それでも今のレガルドにそんなことできない。

 この冬空の中、エノールの温もりがないと死んでしまうけれど、血涙を流す思いで否定しなくてはならない。

 

 したい理由も、したくない理由も、どっちも「エノールが好きだから」だ。


「──一般常識的に? 好きだと思うけど……」

 

 レガルドが出したのはある種の『逃げ』であった。


「ダメよ、貴方の感性を聞かせなさい。貴方はどうなの? 貴方を思って、自慰をする女はどう思う?」

 

「…………好きだけど」


「素直に言って」


「すごく、嬉しい……」


 レガルドがそう言うと、エノールはゆっくり肩を寄せて。

 

「よかったぁ……」

 

「え……?」

 

「嫌われるんじゃないかって、ちょっと本気でそう思ったのよ?」

 

 エノールは本気で安堵したように言った。


「そんなこと……」

 

「いつまでもはっきりしない貴方が悪いわ。それじゃ、嗅いでちょうだい?」

 

「……えっ?」

 

 いい話で終わると思ったのに、なぜだか続きの話になった。そんなはずないのに。


「ほら、早くして? どこを嗅ぐの? どこでもいいわよ、そこまで恥ずかしい体臭はしてないつもりだから」

 

 エノールはこういうこともあろうかと香水から自分の体臭研究までバッチリなのだ。いくら好きな男のためとはいえ、アイシャはエノールの熱意に引いた。

 

 しかし、実際にエノールの予想していたことは起こってしまったのだから、これからアイシャは「そんなこと起きません」と言ってエノールを嗜めることができなくなる。


 それは後にエノールがエスカレートする要因の一つとなった。


「ほら、早く」

 

「えっ、えっと、どこを……」

 

「どこでもいいわよ。胸でも腋でもお尻でも、好きなところを嗅いでちょうだい?」

 

「好きなっ、ところ……⁉︎」

 

 エノールは令息の前で、脇を野ざらしにして、胸を張り、全ての部位を無防備にさらした。

 かなり大胆な行動だ。いくらエノールといえど、普段の彼女ならしないだろう。

 もちろんそれは世間体とか風聞とか常識とか、要するにそういう対外的なものを気にしたもので、本来の彼女はそういうことを割と積極的にする人種なのだが(性欲が強いともいう)、レガルドが気にするためしない。

 けれど、今この場においてレガルドのタガも外れてしまっている。彼女にとってのブレーキ役がレガルドなのだ。そして、その彼までもが今、エノールに夢中になっていて自分の役目を忘れている。

 それが、エノールに極めて放胆な行動を取らせた。


 自信満々に自分の体を晒し、男が嗅ぎたくなるであろうところを全て完璧にアピールしている。

 拒絶されることなんか一切考えていない。実際、レガルドは今の彼女を拒絶できる状況にない。

 ──それは紛れもなくセックスアピールだ。

 女性のフェロモンを漂わせて、自分の性的魅力を存分に押し出すのは性的誘引セックスアピール以外の何物でもない。

 極上の獲物が自ら食べにきていた。その姿にレガルドは手を所在なさげに宙に浮かべる。

 どこにつかめばいいかわからない手は空を掴んでいた。


「ほら、どうしたの? 嫌ならやめちゃうけど」

 

「…………」

 

 エノールは「どこでも」という言葉にすぐさま胸を見てしまった目の前の恋人にどうしようもなく仄暗い笑みを浮かべてしまう。どうにも胸の奥の歓喜を抑えることができない。


 自分の体で好きな男を夢中にさせているのだ。自分のことで頭をいっぱいにさせている。まるで子供がクリスマスプレゼントに贈られた自分のおもちゃを見るように、キラキラとした視線で自分のことを見ている。


 これほどまでに女冥利に尽きることがあるだろうか。いや、ない。


 レガルドは恐る恐るエノールが晒した脇に顔を寄せる。長袖の制服越しだが、密着すればそれなりに匂いは貫通するだろう。

 

「へぇ、そこがいいんだ」

 

 エノールはねっとりとしてレガルドの趣向を嬲る。


「どっ、どれが正解なんだよ⁉︎」

 

「正解なんてないわ。貴方の好きなように嗅いでいいの。本能のままに貪りなさい」

 

 エノールの言葉はレガルドに『許し』を与えるものだった。

 人間社会において発展とともに抑圧しなければならなくなった『性欲』、ダーウィンの進化論が正しかったとでもいうような人間の秘めた獣性を「解放していいよ」と聖母のようにレガルドの醜さを肯定してみせた。

 誰しもに抑圧せよと戒められる中、エノールだけは「いいよ」と言ってくれるのだ。これほどまでに胸を突く言葉はない。

 レガルドの幾重にも張られた建前と自制の心を、エノールは言葉で一つ一つ剥がしていく。

 理性というタガを、「エノール(わたし)なら許してくれる」という認識を植え付けることで引き剥がす。

 無理矢理にでもこじ開けたのは、全てを晒して欲しかったからだ。

 心の全てを、そのためにエノールも体の全てを差し出した。尤も最後まで行くわけではないのだが。

 今、たとえ下を触られても何も言わない。それだけの覚悟はあった。


「据え膳食わぬは武士の恥、よ」

 

「……」


「──恋人を無茶苦茶にできるなんて、今を逃せばしばらくないわよ」

 

 エノールは続け様にレガルドの理性を刈り取りにきた。


 レガルドはよく分からないが、騎士道に反するというならやぶさかでないというふうに手を動かす。


 彼女の肩に手をかけ、そうしてレガルドが最初に選んだのは脇ではなく『首』であった。

 

 レガルドの鼻がエノールの首元に辿り着く。鼻先が喉に触れて、少しの息をすると、エノールはくすぐったそうに身を捩った。


「っ……そこなのね」

 

「ごめん、嫌だった?」

 

「嫌じゃないわ。ただ、貴方に匂いを嗅がれると思うと、ちょっとゾクゾクして……」

 

 エノールはきゅっと股をしめた。女が昂るのを必死に抑えている。


 エノールにとっては酷い生殺し状態だ。


 けれど、この状況もまた彼女が自分で招いたことである。 


「……すすっ」

 

「……どう?」

 

「……いい、匂いがする」

 

「もっとがっついてもいいのよ? 貪られるうちが女の花だから」

 

「……じゃあ」

 

 レガルドは遠慮なしにエノールの脇に鼻を押し付ける。

 

「……すすっ」

 

「……変態」

 

「どうして⁉︎」

 

 レガルドが悲鳴のような声を上げた。

 

「何よ、男にとって褒め言葉でしょ?」

 

「そんな趣味はないよ!」

 

「そもそも、貴方は変態じゃないわけ? 進んで脇の匂いを嗅ぎたかったのよね?」

 

「うぐぐ、罠だ……」

 

 レガルドは悔し気に見る。エノールは勝ち誇っていた。


 ただし、聖母のような、男を堕落させてしまうような妖艶さもまだ鳴りを潜めていない。


「私の前に曝け出して。貴方を見せてちょうだい。私は貴方が変態でも……笑ったり引いたりしないわ。むしろ大歓迎よ」

 

「……ほんと?」

 

「ええ、貴方になら手錠をはめられて○○されて◯◯させられた後に、◯◯○されてもいいと思ってるぐらいだわ」

 

「そんな……っ! そんなことしないよ!」

 

 慌ててレガルドは否定した。


「うふふ、冗談よ。けど、それぐらいされても構わないって話ね」

 

「……」

 

「ほら、どうしたの? 続きをしないの? しないなら、もう終わりよ」

 

「あっ」

 

 レガルドはエノールが腕を下ろしてしまったことに声を上げてしまって……エノールはその表情を見てまた腕を上げる。

 

 彼女に顔はどうしようもない歓喜で口角を釣り上げていた。どうしようもなく加虐的な笑みを浮かべてしまう。


「早くしなさい。それで、私の臭いを脳裏に刻みつけなさい。貴方は今日、この匂いで果てるの」

 

「……」

 

「ゾクゾクするわね」

 

 耳元で、まるで悪魔のように囁かれる。

 

 レガルドはエノールが悪魔なら溺れてもいいと思わされた。

 

「すすっ、すぅ……」

 

「……他はいいの?」

 

「すっ、すっ……」


 甘い声がレガルドを誘導する。「他はいいの?」というのは「もっとやっていい」ことを前提とする言葉だ。

 

 エノールはレガルドにさらなる許しを与える。神に代わってあらゆる免罪符を恋人に与えた。


 性的な欲望は自分エノールに対してだけは罪ではないと。


 段々と鼻先が移動して、エノールの胸へと向かう。そして、レガルドはエノールの胸を揉んだ。

 

「……」

 

「……言ったでしょ、私は貴方がどれだけ変態でも、構わないって」

 

「っ、エノール」

 

「がっついて、貪って、この場で許されるだけ、仲睦まじく絡み合いましょう?」


 レガルドはその言葉に身を乗り出した。

 

 エノールは目の前の好いた男が目の色を変えて自分の体を目の前で貪る姿に、仄暗い興奮を覚えていた。際限のない許しを与えて、この場で許される限りの情事に及ぶ。


 レガルドもまた発情期の雄犬のようにがっついて、エノールの体を堪能していた。あの理性的なレガルドを、エノールは完全に落としきったのである。


 無理もない。大好きで大好きで仕方ない人に「いい」と言われたのだ。必死に守っていたはずの人から無防備な背中をぶすりと刺されたようなものである。


 エノールのまだ熟れる前の体を必死に堪能する。それでいて女性の体を丁重に扱うという気遣いを忘れていないのだから、レガルドの獣性は紛れもなく女たらしのそれだろう。


 エノールはどうしようもない笑みを浮かべた。

 お互いに発情して、一線だけは超えないという意味があるか知れないものだけを守って、公共の場でギリギリのラインを突き続ける。

 もう二人は戻れない。お互いの瞳には相手のことしか写っていない。他のことなど一切どうでもいい。

 エノールは熱に浮かされた口で、熱に浮かされたような言葉を吐く。

 それでレガルドは許しをもらい、獣となる。それを繰り返す。


 近所の少年たちがその様子を眺めて、大人までもが下品に立ち止まる。

 見せ物にされてもエノール達は互いのことにしか興味がなく、互いの体を制服の上からまさぐった。

 エノールは恍惚とした表情を浮かべ、レガルドは余裕なくオスの顔をする。

 女が調教師であり、男が鎖で繋がれた獣だ。子飼いに自分の体を貪らせている。


 それは一方的な蹂躙に見えるが、この場において一番幸福なものが誰かと聞かれれば、それは間違いなくエノールに他ならない。

 彼女が彼を獣たらしめたのだから、全てはエノールの望んだ通りなのである。

 自分の体を貪らせながら、手綱を引いている獣に煽る言葉を投げかけた。

 

「もうこんなになってるのね」

 

 エノールは膝裏の感触にそう言った。


「……エノール、愛してる」

 

「こういうタイミングで言うと薄情って思われるわよ。でも……ありがとう、私も大好きよ。愛してる」

 

 心からの言葉だ。


「君との初夜が待ち遠しくて仕方がない」

 

 情熱的な告白だ。


「あら、私は随分前から待ち遠しいわよ。待ち遠しくて──」


 エノールはレガルドに耳打ちする。

 

「今も濡らしてるぐらい」

 

「っ……」

 

 倒錯的な独白に、レガルドは頭を金槌で殴られたような気がする。


 けれど、今度はエノールから離れなかった。


 レガルドは女なんかわからない。


 女の体も、彼女らの思考回路も彼にとっては未知のものだ。


 未知とは恐ろしいものである。どう扱っていいかさえわからないのだ。その言葉にレガルドはどうしたらいいかわからなくて、何をしたらダメなのかもわからなくて、ただぎゅっと彼女のことを抱き寄せた。


「ふふっ、触る?」

 

 エノールの言葉に、レガルドは弾丸で心臓を撃ち抜かれたようだった。間違いなく心を射止められた。そんな気がした。


 この、目の前にいる少女はどこまでも自分の気を引く言葉を投げかけてくる。

 自分の魅力を最大限引き出すような言葉を投げかけて、完全に自分を手玉に取ってくるのだ。

 エノールがレガルドの見た中で最も至高を極める女であることは疑いようもない。

 この上、まだ肉体は成長途中などと……


 エノールはレガルドの手をとって。自分のスカートの中に招こうとする。


 女の園がすぐそこにきて、レガルドはさらに増長しそうになって── 


「……やめとく」


 枷をかけた。獣が自らに首輪を嵌めたのだ。

 

「うふふ、賢明ね。もし貴方が暴走したら、私は止めないから」

 

 エノールは小さい悪魔のように微笑んだ。


「また嵌めようとした?」

 

「ええ、貴方を自分の巣に招きたくて仕方がないのよ。だから、どんな手でも使いたくなるわ」

 

 エノールはまるで聖母のような美しい笑みを浮かべて、またレガルドの側による。


 けれど、見誤ってはいけない。彼女は蛇か蜘蛛の類だ。もしくは悪魔だ。


 甘い汁を吸えたからと良い気になってはいけない。すぐそこに落とし穴があるのだ。そこにハマれば二度と這い上がれはしない。


 エノールはレガルドがその落とし穴に嵌まるのを待っていた。その道には二人の破滅しかないというのに、暗い蜜のような道を用意している。それはどうしようもなく魅力的に思えてしまう『穴』なのだ。


 レガルドにはエノールの顔がまさしく聖母に見えた。女神か、悪魔か、どちらにしろこの世で最も美しいと崇めるべき存在であることは確かだ。

 

「だから、初夜までに貴方に絶対手を出させてみせる」

 

「っ……エノール」

 

「安心して、避妊具はつけておくから……処女証明書はでっちあげないとね」

 

「……本気なの?」

 

「もちろん、私はいつだって本気よ。貴方のことなら特に」

 

 エノールは淫らな雰囲気は終わりだというふうに隣に座って、手を繋ぐ。

 

「だって、貴方のこと大好きなんだから」

 

「……エノール」

 

「レガルド──」


 その日、二人は恋人のキスをした。





 後日、二人の様子が変わった。昨日は何かあったようなのに、今度は二人が仲睦まじく話しているのだ。

 

 男子達はそれを見て『仲直りしたんだ!』と能天気に考え安心し、女子は逆に『何かあったな……』と妙な勘ぐりをした。彼女達のゴシップ精神が今回は当たっていたのである。

 

 学園のベンチで肩を寄せ合い睦言を交わし合う二人の様は学園の『理想の恋人像』として認識された。自分たちもああなりたいものだと、方や公爵家の令息でエノールを明らかに愛し、方や品行方正・一生千金・紅口白牙の完璧器量よしなのである。


 学園内の実質的なトップでその権力は今や教頭どころか学園長とまで渡り合うかもしれない。成績よし、気立てよし、美人で伯爵家次期当主。欠点だと思われていた部分さえ今度は憧れの的になっていた。

 

 そんなわけで学園では二人を中心に段々と男女の交流がはじまるようになり、それらの対応に学園は追われた。ここに通う子女達はいつか政略結婚の未来が待っている。ここで処女を散らさせるわけにはいかない。

 

 しかし、学園でのロマンスもまた恒例行事なのである。幾つかのカップルは周囲の反対を押し切り、家を巻き込んだ騒動となったがエノール達にしてみれば関係ない。気にせず二人で貪りあった。

 

 愛を、時間を、互いの好意とちょっとばかしの快悦を、健全とされる肉体的接触によって交換しあった。

 

「レガルド、愛してる」

 

「俺もだ、エノール」

 

 そうして、一ヶ月もせずにエノールは屋敷に戻った。

難しい……下品になりすぎないように、ただここでの再会はどうしても情熱的になってしまうし、だけれども読者に不快感を与えないように……そもそもこういうのを求められているんだろうかという心配もあります。

書き方も変えてみたのですがいかがでしょうか。過激すぎたら修正します。

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