『星見の儀式』
よろしくお願いします
何もしなくては何も起こらない。
自分の環境に変化を与えたいなら、自らが最初に動くべきだ。
他人ではなく自分こそが一番変化させやすい。
これらは誰の言葉だろうか。一つ目に関しては当たり前のことを言っているように思う。
エノール・アルガルドに芽生えた佐藤健の意識は……無力だ。
佐藤健は日本という国に生まれた青年だ。スマホを持ち、ネット社会と言われた時代の渦に流され、日々を緩慢に生きた平々凡々な青年の一人だ。
彼の自意識は散漫である。様々な時代の佐藤健が入り混じっているが、性格というのは十年どころで変わるものでない。一生変わらないことだってある。
バカは一生治らないという言葉が示す通り、彼の性格はものぐさの一言に尽きた。面倒くさがりなので、致命的な事態に陥らないと滅多に行動しない。自分から動くこともあるが、本来の彼は部屋でだらけて、漫然とスマホをいじる。ただそれだけの人生だ。自分の人生で何かすごいことをやり遂げた気がする(と、老人の佐藤健が言っている)が、これは学生時代から変わらない彼のスタンスだ。きっとそれは生涯変わってもいない。
そして、死ぬまで治らなかったそれは、やはり別の生を受けたとしても変わらないようである。
「んん……」
「お嬢様、起きてください。朝ですよ」
佐藤健という記憶が目覚めて三ヶ月、彼は──エノールは何もしなかった。
あり得ないことである。自分の目の前に広がる事態が異常だとエノールの脳がつげているのに、佐藤健の意識は何を起こそうともしなかった。
これにはエノールの肉体も呆れる。なぜこのような愚鈍者が我々の中に入り込んだのか、本来は脳が作り上げるはずの意識と乖離した、佐藤健の自意識に脳は独立してため息をついた。
エノール・アルガルドは伯爵家の嫡子、七歳という立場・年齢に甘えて、日々を通して堕落の限りを尽くしていた。
周囲の使用人も何も言わない。箱入り娘であるエノールが怠けていようが気にならないのである。そもそも、子供に明確な勤労などは与えられていないから、働こうにも働けないのである。
しかし、勘違いすることなかれ。エノールの中には確実に佐藤健の記憶がある。彼の記憶がある限り、エノールが怠惰のまま生活していることに何の酌量の余地もない。それが罪だと知りながら、己の置かれた状況に漫然と流されているだけなのである。
だから、この男は、エノールは気づかない。当座の状況に陥るまで全てが闇の中だった。
「エノール様、今夜が星見の儀式です。準備はなさいましたか?」
「うっ」
エノールは低い声で唸った。幼い七歳の声帯から繰り出される唸り声は、非常に可愛らしいものであったが、仮にその肉体が佐藤健のものであったら聞くに耐えないものだっただろう。
エノールは──何も考えていなかった。考えるべき星見の儀式の内容──翌朝になって自分が『見るはずの』夢の内容を考えていなかったのである。
バルターに準備はどうかと聞かれた。それは心の準備は大丈夫かという問いかけだろうが、エノールはそれを『夢の内容を考えたのか?』という催促のように聞こえる。咄嗟にその姿を小学校時代のある教師に重ねた。
「緊張しなくても大丈夫です。腕利の占い師を呼びました」
「うっ」
「エノール様は占い師の言うとおりにして、ベッドでお休みになればいいのです。さすれば、朝になって夢の内容を覚えておりましょう。それがエノール様の未来の姿です」
腕利の占い師は、やはり高い金で雇ったのだろうか。いや、そうに違いない。
バルターの励ましの言葉がエノールには釘刺しのように聞こえた。「高い金払ってるんだから、ヘマすんじゃねえぞ」と。実際にバルターがそんな乱暴な口を聞いたことはないのだが、胃が痛くなるほどストレス源になっていた星見の儀式は佐藤健のにとって学校の宿題のようなものだった。
佐藤健は……ものぐさだ。やらなくていいなら一切の努力をしたくない。仕方がないから努力をする。
夏休み最終日に終わらせるタイプどころか、やらないで宿題を提出せず、課題はどうしたと聞く先生に『やってません』と言い訳すらして誤魔化そうとすらしない生徒だった。開き直りともいう。
あの時に怒髪天を突く勢いで怒る先生の形相は今でも忘れられない。なんとなく、執事長が彼の代わりのように思えた。この時代、この世界でエノールを怠けさせない存在に。
エノールは遠い目をする。ここまで至れり尽くせりの生活をしているのに、まだ足らないのだ。
帰っても、できる限り仕事や宿題を避けようとする佐藤健の生活は変わらない。彼の心労ともいえない心労も、その元凶もなくなりはしないだろう。星見の儀式が、あの日本では勉強や仕事に取って代わるだけである。そのことを理解しながらも、エノールは現実逃避に浸っていた。
「ねえ、バルター」
「なんでございましょう、お嬢様」
「星見の儀式ってさ……」
「……星見の儀式がどうかなさいましたか?」
「その……どうすればいい?」
「……」
バルターはお手本のような笑みを浮かべる。
「心配することはございません。このバルターが、全て手配しておきます」
「……そう」
──その晩に全ての準備が整えられた。
付近の部屋は空となり、今夜だけは人の気配がない。儀式に邪魔は一切入れないという占い師の言によるものだという。おのれ占い師……
薄暗い部屋の中、蝋燭に火を灯し寝巻きで待っていると、伝統的な衣装を着た老婆が入ってきた。
老婆は何も言わない。名乗るでもなく、宵の挨拶をするでもなく、中にはいるとエノールを凝視した。その姿に、エノールは顔をこわばらせる。
老婆はなんらかしらの準備を整えた。手持ちの小袋から色のついた小石を取り出したり、それを周囲に置いたりしていたが、その行動の意味はわからない。黙々と仕事をこなしていく姿にエノールは異質なものを覚えた。
「では、参りましょう」
「はっ、はい!」
エノールは背筋をピンと伸ばした。老婆のなんの動物だかわからない、それでも何かの目にそっくりな瞳に見つめられ、それに魅入られようとしていた。
咄嗟に首を振るが、その目に見つめられては──自分を取り巻く異様な状況も相俟ってなぜだか背筋を伸ばさなければならないような気がした。
エノールのものぐさ意識を一時的に取り除いた老婆は、星見の儀式の手順を説明する。エノールが何をしなければならないかを簡潔に告げた。
「エノール様、貴方はこれから無数の時と星辰の振り子に誘われます」
「せ、星辰……」
「そこで悠久の時を過ごし、あまねく星々が観測した『より良い結果』を見ることでしょう」
「『より良い結果』……」
エノールは、まだ夢の内容を考えていなかった。老婆に『より良い結果』と言われてようやく思い出す。
ついには当日までに考えていたほうがいいだろうという当初の戒律さえ自ら破り、もう明日になって咄嗟に言い訳しようと考えた。朝なら何か思いつくかもしれない。臭いものには蓋ををするのだ。
余談だが、エノールも佐藤健の自意識も朝は苦手だ。
老婆は話を続ける。
「星と人の『目』はあまりに違います。故に、彼らにとって『より良い結果』が必ずしもエノール様にとってより良いものとは限りません。星は、時の河川に揺蕩う中で最も大きな楔を示すに過ぎません」
「楔……? えっ、待って、悠久の……時?」
エノールはワンテンポ遅れて反応し、青ざめた。
自身が反芻した言葉がどれだけ恐ろしいものなのかを理解した。
普段なら一笑に付す老婆の言葉を、なぜだかエノールは真に受けた。バルターに言われてでさえ星見の儀式を本物として認識しなかったのにも関わらず、彼女の言葉はそれを信じさせるだけの凄みがあった。
老婆の言葉は鉛よりも重く続けられる。
「ご安心くだされ。星見の儀式の間、貴方には意識がありません。揺蕩う星辰と時と夢の狭間で貴方は揺れうごき、星が指し示した、あるいは選び取った時の河川に打ち付けられた楔に赴き、そこでようやく夢を見るのです」
「全然大丈夫じゃない……!」
それは話についていけないがための『大丈夫じゃない』でもあったし、どう考えてもそれは佐藤健の中にある『五億年ボタン』という概念に通ずると気づいてしまったがための『大丈夫じゃない』でもあった。
何を言ってるかさっぱりわからないが、意識が無ければいいと言う問題じゃない……気がする。
そもそも、あれは哲学の問題であって明確な正解がない。もしかしたらこの老婆の言っていることの方が正しいのかもしれないが、全身麻酔を直前まで恐怖する人間は五万といる。エノールも、その中に眠る佐藤健の自意識もそうだった。何も安心できない。
首を振るエノールに、老婆は少し困った顔をする。
「……困りましたね」
すると、老婆はいきなり立ち上がりエノールを押し倒した。
「えっ……⁉︎」
「獅子は崖から子供を突き落とす。何、心配なされるな。貴方が眠れば、すぐに夢の中まで誘われるでしょう。次に起きれば、それは朝焼けの光景となりましょう」
「言ってる……意味が……全然……まったく…………」
エノールの意識は、そこで途絶えた。
エノールはガバリと起きた。周囲には使用人達が控えている。
エノールを囲むようにして、エノールの眠るベッドの周囲で控えていた使用人の一人、執事長のバルターは飛び起きたようなエノールに声をかけた。
「エノール様、お目覚めになりましたか」
エノールは肩で息をしていた。髪を振り乱し、枝毛が新たに生えている。眠っている間に折り目がつけられたのだ。
「占い師は今朝方出て行きました。それで、如何でしたか? 未来のエノール様はどうでしたか?」
「……」
エノールは絶句していた。それは自分の見た光景があまりにも……いや、考えるべきことはたくさんある。
まず、夢を見た。これだけでも驚きだ。老婆の、執事長のいう通りに夢を見たのだ。あまりにもピンポイントすぎる。
エノールはこれまで、それほど夢を見なかった。悪夢は見たことあるし、体調が悪ければそれだけ夢も見やすい。けれど、その夢は悪夢とはまた別の──今までのような荒唐無稽なものではなかった。ひどく理性的な、明らかに現実感のある代物だった。ただの夢とは明らかに違った。
次に、夢の内容を覚えている。これだけでもおかしい。エノールは普段、夢を見てもすぐにその内容を忘れてしまう。けれど、今回の夢は数年経っても思い出す自信がある。酷い内容で今でも忘れたいのに、頭の片隅にこびりついて離れないのだ。どうやっても忘れられる気がしない。それもまた今回の件の異様さを物語っていた。
そして、最後に──その夢で見たのは、自分だった。背が伸びて、髪も伸びたエノールだった。
予言の通り、夢の中で見た自分の姿は無様だった。騎士に捕えられ、きちんと寝られていないのかクマも酷い。髪もところどころボサボサで、顔からは疲労が窺える。
見た目は二十代かそこらに見える。もしかしたら三十代でも魔性の容貌を保っているのかもしれなかったが、どう言うわけか自分の年齢がわかった。二十二歳だ。ピンポイントにわかった。
容姿はそれなりに悪くない。エノールの肉体には当然オリジナルと言える元のエノール本人の意識があるから性的な感情は一切湧かないが、佐藤健の記憶から見ても二十歳のエノールはそれなりに美人だった。王国の中ではもしかしたら結構な美人かもしれない。
それよりも、その周囲に広がる光景が問題だった。
その夢はあるワンシーンを切り取ったものだが、断片的に動画のように再生もできて、喧騒や声なども聞こえる。夢を見ている本体である自分が、意識的に再生と停止ができたが、周囲は静かで物々しい。明らかに何か不穏な儀式の最中だ。
王城だ。レッドカーペットの敷かれた王城でも特に聖域とされる王座の間、そこにエノールは膝をついていた。
周囲には右大臣・左大臣、他貴族の代表的な面々が一堂に介していた。全ての伯爵家が揃い、子爵家はいくつかの家が欠けていて、アルファート王国唯一の侯爵家もその場にいなかったが、明らかにそれは単なる欠席ではない。それを直感できた。どうやら、その夢のワンシーンに限った情報は全て思いのままのようだった。
会した面々の表情は苦々しいものだった。親の仇のように、ドブネズミのように、路傍の石のように全員がエノールを睨みつけている。中にはエノールに一切の興味を示していないものまでいた。アリズバンド・エウレカ・マルベク、四つある王国の伯爵家のうちの一つ、マルベク家の当主だった。
今のマルベク家当主はその父親、その情報からも見た光景が今より未来であることを指し示している。つまり、この夢の日付までには家督交代がなされるということだった。
夢の中の自分には胸中に悲壮が満ち、裏切られたという思いだけが巣食っていた。
嵌められた。無知だった。どうしてこんなことになった。
当座の状況に至っても何も行動しなかった自分が、最終的に全ての結果を招き入れたことに深い深い絶望を抱いていた。自分が知らない間に、すでに自分は沼の中にハマっていたのだ。
地獄の沙汰のような光景の最中、エノールの意識は突然浮上した。まるで、溺れている最中に誰かから引き上げられるように。
最後に見た光景は、赤いカーペットに撒き散らされる真紅だった。
「お嬢様?」
「……バルター」
「お顔色が優れませんが、如何いたしました? もしや、悪い『夢』でも見たのですか?」
使用人にはそこまで強い悲壮の色は伺えない。もし悪い光景を見たのなら、それを回避できるように動けばいいのだ。
占い師の手腕は確かだ──と、思われているが、たとえ未来を正確に予知していたとしても、それは占いを行う前のものだ。
占いの結果を受けて行動を変えたのなら、往往にしてその未来は変わる。普通に過ごしていても、意識的に変えようとさえ思っていれば未来は変わるものだ。焦ることはない。特に、自分にとって都合の悪い未来は訪れにくいというのが定説だった。
エノールは苦笑いを浮かべる。確かに、バトラーのいう通りこれは悪い夢だ。
最早、あの老婆の手腕を疑う気はない。高度な物理文明に生まれ、ほぼ幽霊がいないのだと証明されたような世界に生まれ落ちた佐藤健を持ってして、認めざるを得なかった。
それは神の所業だった。その神の一端にエノールは触れたのだ。
「……大丈夫。世界はきちんと正常に回ってたよ。みんなと……この屋敷で仲良く暮らしてる光景が見えただけ」
エノールのおかしな言動を受けてもバルターは眉ひとつ動かさない。星見の儀式を終えた人間は、こうなることが多いのだ。
どこか超越した視点を持ったような言い草、『世界はきちんと回っていた』という言葉も時の本流に揉まれた人間の、一人間を超越した観点からの物言いだ。独特である。
「……左様でございますか」
きっと、この執事長の心中には落胆と安堵があるのだろう。
エノールが次期当主にならざるをえないことが決定してしまったことへの落胆、そして、エノールの未来が暗くないことへの安堵。それらが同時に訪れていた。
前向きな未来が見えたと言うことは、その未来は高確率でやってくる。そんなふうに言われている。次期当主の立場はもはや変え難いものがあったが、それはそれで悪くないものなのかもしれないとバルターは考えた。たとえ、それが現当主夫妻の解任の不可能を意味していたとしても。
その一方で、エノールは歪んだ笑みを浮かべる。乾いた笑いだ。強がりとも言える。
認めなくてはならない。これから十五年経った夏に、エノール・アルガルドは……処刑される。
それも、『悪い予知を見た場合、その未来が現実になる確率は低い』とされるセオリーを超え、自分の見た光景はおそらくこれから先、なんらかの対策を講じて具体的な対処をしなかった場合、否応なく訪れる。
修正力とも言うべきものが働いている。それをエノールは浮上する最中に知った。あれは……本来星しか知らない知識だ。そんな知識を一人間であるエノールに開示した理由はわからない。フェアではないとでも思ったんだろうか、うっかり見させてしまったなんてミスをあの超常的な存在が犯すわけがない。これは明らかな『インシデント』である。
それは、星見の儀式の影響といえた。本来自分が知り得ないことを星見の儀式で時の本流に触れ、星の見ている世界とその河川に触れた。ほんの一部だ。河川に指先で触れて、ついた雫ほどの量しかない。けれど、それでいいのだ。人間にはそれほどの許容量しかない。その河川の水を飲んで仕舞えばタダではいられなかっただろうから。
確信する。星見の儀式を終え、その夢が遠からず訪れる現実であることを。その未来が不可能になる楔──タイムパラドックスを起こす特異点を形成しなければ必ずその未来は確実に実現する。たとえ変えようとしても簡単には変更できない。星の修正力が、なぜだか一人間の未来に対して微量に作用しているから。たとえ星にとって微量だとしても、人が争う上ではきっとそれは強力だ。
どれだけの確率で実現される未来なのかについては本来星見の儀式でも知り得る範囲ではなかったのだけれど、エノールはそれを把握した。なぜだか星がその知識をもたらした。幸運ともいうべきだろう。不幸中の幸いとはこのことだ。
エノールはこれから休んでいる暇はない。十五年先、迫り来る死の未来を回避するためにあらゆる手を尽くさなくてはならないのだ。じゃなければ、自分はきっと──
「バルター、早速準備して」
「は、何を……?」
──皆が待ち受ける王城で、大罪人として逆賊の被疑をかけられ、失意の中に処刑される。
その未来が確定してしまう。
「──次期当主としての戴冠よ」
だから、エノールは立ち止まるわけにはいかない。なりふり構っていられなかった。
これは、迫り来る二十二の夏にエノール・アルガルドが処刑される未来を回避するために、あらゆる可能性を排するために奔走する物語である。
「競争よ、星」
これは、星との競争である。
読んでくれてありがとうございました。明日からぽんぽこ出します