バルワルド商会
エノールが無茶振りをした日からバルワルド商会の商会庁は蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。バーガルドは方々を走り回り人を集め、なんとか九割に満たない人員を集めさせた。
中には商談を早く切り上げることになったものもいて、バーガルドに対して不機嫌そうな顔を向ける。そんな人達を気にもせず、バーガルドは言うのだ。
「我々は伯爵家の話に乗るしかありません!」
「まあ待て、バーガルド。少々急きすぎじゃ」
商会長でありこの中でも最年長のジークニス・ベンガルは焦るバーガルドを宥める。
「時間がないのです! あと二日、それを過ぎれば我々にお鉢は回ってきません!」
バーガルドが必死に叫ぶが周囲は納得しない。彼の話を聞いたが、エノールはまだ七歳だ。バーガルドの言い分もわかるが、何をそんなに焦っているのかという視線を送っていた。
「バーガルド、もう一度聞きたいのじゃが、伯爵家のご令嬢であるエノール様が、我々に情報を売りたいと言ってきとるのじゃな?」
ジークニスは自体収集のために事実確認をする。しかし、バーガルドは商会長の言い方に認識の甘さを感じ取った。
「情報を売る? 違います、傘下に入れと、忠誠を誓えと言ってきているのです! それほどの交渉材料なのです! これを逃せば、我々の番はありません!」
バーガルドがここまで焦るのは親友とも言えた同業者が最近になって病死したからだ。彼の死は痛ましいものだったし、いつか自分もそうなるんじゃないかと気が気でなかった。
周囲もそんな彼の事情を汲み取っている。しかし、今の彼の焦りように関しては共感できなかった。
「バーガルド、何をそんなに狼狽えている。伯爵家の息女と言っても、相手はほんの七歳なのだろう?」
「七歳? 違う! 次期当主だ! 現領主代理だ! エノールは自分のことを身代わりだなんて言っていたが、そんなんじゃない! あの小娘は、化け物だ!」
商人達は顔を見合わせて、肩をすくめた。もはや話ができる状態ではない。話が通じなくなっていると思われたのだ。
しかし、バーガルドは冷静だった。冷静に焦っていた。あれを、エノールを敵に回してはならないと自分の商人の勘が全力で告げていた。
もしこの船に乗り遅れてしまったら、我々はうねる大洪水の中、甚だ強大な嵐に巻き込まれてしまう。人の、時代のうねりという大きく大きく人一人ではとても抗いきれないような、たとえ個々の商会が一丸となってもそのうねりに流されてしまうであろう。そんな恐怖がバーガルドを苛んでいた。
エノールは異質だ。アレは普通ではない。七歳としての喋りでも、領主の体のいい身代わりでもない。あれは、その資格と実力があってこの領地にいる。むしろ、元の領主の方がマシなはずだ。会ったことはないが、あんななりではないだろう。
バーガルドが垣間見たのは威光だ。ただの天才ではない、時代を変える変革者が持つ異彩を滲ませた光だ。商人の自分が弄ばれた。バーガルドは無能だったわけでも半人前だったわけでもない。十分に商人として成熟して、それなりにやる中堅の部類だったはずだ。
それがいつの間にか全て少女の都合のいい結果に収まっていた。我に返ったのは商会の半分ほどの人間を集めた時だ。一心不乱にエノールの言う通り働いていた自分が怖くなった。悪魔にでも魅入られたか、どうして相手を誤魔化し騙し拐かす商人である自分が、相手の言いなりになって動いていたのか全く分からない。
それがどれだけおかしなことかに気づいて、バーガルドはエノールが時代を変える特異点だと気づいた。早くしなければ我々は金の魚ともパンドラの箱ともいえるそれに手をかけるチャンスを失ってしまう。たとえ箱の中に何が入っていようと、手を伸ばしてなんとかしがみつかなければ我々はすぐに振り落とされて時代の本流に取り残されるだろう。そんな危機感があった。
そして、周囲が自分と同じようにエノールのことをただの七歳の少女だとして一切その脅威に気付いていないことだ。このままでは二の舞になってしまう。それだけは避けなければならなかった。
まるで呪いの最中にいるかのようだった。自分はすでに呪われた後で、だからこそその怖さを理解できるが、それを知らない人間は理解せずノコノコと蟻地獄にハマってしまう。そんなふうに感じながらもバーガルドは必死に訴えた。旧知の仲間に、時には商売敵ともなってきた人間達に。
しかし、周囲は小首をかしげるばかりである。
「バーガルド、一旦落ち着けよ」
「とりあえず、要点を整理しようか。エノール様は病の原因とそれを防ぐ方法の両方を知っていて、我々に提供する用意がある。代わりに『商会の八割の賛成を取り付けて』『忠誠を誓え』と、そう要求してきたのじゃな?」
商会長の言葉に周囲は押し黙る。バーガルドは頷いた。
「一週間待ってくれと言ったら、ダメだ、三日後だと……あと二日しかない! あいつらは……病をコントロールすると言ったんだ! それを商売にすると……それが本気かは知らないが、もし話が本当なら我々に選択権などない! その情報を欲しがる商会はいくらでもいる!」
「しかし、それは他の商会が伯爵家の娘の言葉を信じたらの話だろう?」
「伯爵家の目的は資金提供と見ていい。それなら、適当な言葉で金をせびって、後から言い訳でもするつもりじゃないか?」
「そもそも、なぜそんな重要な情報を他に売らない? なぜ我が商会なのだ。王国に売れば王の覚えもよくなるし、なんなら英雄にでも祭り上げられるだろ」
「バカ、そもそも信用されやしねえよ。適当に誤魔化されて情報だけ抜き取られるだけだって」
「エノールは……全ての商会にこの話を持ちかけるつもりだ! 手当たり次第に! 俺らはその一つでしかない! 俺らが首を振ったとて、アイツらには何のデメリットもないんだ! 有象無象いる顧客のうちの一つが減るだけだと、それほどまでに自信があるんだよ! それが話の信憑性の証拠だ!」
「むしろ、それがブラフの可能性はないか? そもそも、周囲の奴らが入れ知恵したり、それこそ父親である伯爵自身が支持すれば少々のハッタリぐらいかませるだろ。いくら子供といっても、相手は伯爵家の娘なんだしよ」
「アレはそんなんじゃない! 目を覚ませ! 侮るな、服従するしかない!」
周囲は『もうこいつはダメだ』と言わんばかりの態度だった。彼のいっていることは支離滅裂、商人としてもダメかもしれないとあまつさえ商人としての評価も下方修正されてしまう。
その雰囲気を感じ取ってバーガルドは愕然とした。あの娘に会っているのはこの中で自分しかいない。アレと対面して話したことがないから、そうして実際に取引をしたことがないから言えるのだ。
アレは確実に中に何かが入っている。悪魔か神か、はたまた別の……恐ろしくなってバーガルドは首を振った。
商会長が口を開く。
「しかし、病を回避する方法となれば見過ごすわけにもいくまい……それだけ自信満々なのだ。嘘を言っていないとしたらそれなりの……対価にして相応のものかもしれんな」
「しかし、仮に嘘だった場合どうするのです。商人ならまだしも、相手は伯爵ですぞ? 我々としてもやりようが……」
「それなら王国に訴えればいい。話を聞く限り、あちらは他の商会にも話を持って行くようだしな。被害にあった商会と協調してことにあたれば採算を取るのは難しくない」
「しかし、問題は相手の要求です。八割の賛成はまだいいとして、忠誠を誓えというのは……」
「どれほどの範囲が分からんな。皆、どう見る?」
周囲がうーんと頭を悩ませる。商会長の問いかけに一人が答えた。
「危険ですな」
「うむ、危険だ」
「どれほどの見返りを要求されるかわかったものじゃない。むしろ、その話が本当であった時の方が厄介だ」
「なら、この話は丁重にお断りする形で……」
「そんな!」
バーガルドの悲鳴のような声が上がった。
「……バーガルド、正直わしも今回は庇いきれん。相手の要求が見えない以上、軽率に首を振るのは──」
「ここで乗らなければ、我々には一生チャンスが巡ってきません! もしこの話が領地中で成功した場合、我々は取り残されることになります!」
「問題ないだろう。相手は伯爵だ。貴族のすることと我々商人は関係ない」
「我々はアルガルド領にいます! 領地中を巻き込む騒ぎとなれば、我々も無関係ではいられません!」
「……よし、わかった。それなら文面に起こしての契約としよう。相手の要求とこちら側の要求、それを『具体的』に明記した上で署名する。それで良いな?」
商会長が皆に問う。
「商会長、商会長の名前ではなくバルワルド商会の名前でサインしてはいかがでしょうか」
「何かあれば商会を解散して名前だけ変えるのか?」
「そうです」
「よし、そうしよう」
商会長は決まったと言わんばかりに椅子から立ち上がり、エノールの待つ客室へと向かう。
「そんな……」
「バーガルド、お主も手ひどくしてやられたようじゃが安心せい。お主がそこまでいうのじゃ、わしも油断はせんよ」
「商会長、そういう問題では──」
「いいから、年長者に任せておけ」
そう言って、商会長は会議室から出て行ってしまった。
残った面々はバーガルドに対し侮りとも憐憫とも取れる視線を送っていた。この男の背中が哀れに見えて仕方がない。
その中で、バーガルドだけは無条件の服従とはならなかった今の事態に青ざめていた。
悪い予感が早鐘を鳴らすように鳴り響く。
扉がノックされる。私は『どうぞ』と返事をした。
「お待たせしてすいません、エノール次期当主様。いえ、現当主代理と言った方がよかったですかな?」
「別にいいわ。エノールで結構よ」
「それならエノール様、アルバルド商会としての決定を伝えるために本日は参りました」
「そう、それで、どっち?」
興味がなさそうに端的に聞く。
「文面に起こしていただいた上で、双方の要求を明記した契約を交わしていただければ我々はそちら側の要求を飲む意思を──」
「論外ね」
「はい?」
「論外と言ったのよ」
七歳の少女が、いきなり『論外』と言ったのだ。ジークニスは思わず聞き返してしまう。
「あなた、まさか我々の間における話し合いが対等なものと思っていたの?」
「……どういう意味でありましょう?」
「貴方ね。私たち貴族が領民を守って税を納めさせる上で一々契約書を交わしていると思う? これはそういう類の代物よ。言ったでしょ? 『忠誠を誓いなさい』と」
(……そういうことか)
「しかし、エノール様。市井における新たな契約には書面でのやり取りが必須です。後々遺恨を残さないのであれば……」
「なるほど、それなら書面で残しましょう。こちら側の要求は『忠誠を誓うこと』よ」
「それは……」
ジークニスは考える。
「……それは、どの程度の範囲を言うのでしょう?」
「……貴方はアルファート王国を知らないの?」
「いえ、知っていますが──」
「たとえ準男爵家でも『忠誠を誓うとはどういうことですか?』なんていう人はいないわよ? 貴方達にはアルガルド伯爵家に忠誠を誓ってもらう。そして、庇護に入った民を私が守る。当然のロジックじゃない」
「しかし、それではあまりにも……」
「何?」
「いえ……」
ジークニスは少したじろいだ。
「……ねえ、ジークニス・ベンガル商会長?」
「……」
まだジークニスは名乗っていない。どこで聞いたのか、この少女はどこまで抜け目がないのか。
自分を探られている気がして、本来商談の場では当たり前なのに、妙に寒気がした。
「命あっての物種だと、そうは思わない?」
「……そうですね」
「この領地はひどいものだわ。荒野や平原には『ベティクート』が走り回り、強盗団が彷徨っている。都市に入れば犯罪組織が跋扈して、売春は横行し拡大した貧困層は犯罪者となってさらに治安を悪化させる悪循環……ここの領地に安全と言える場所はほぼないわ。私も道中盗賊に出くわして一つ潰したぐらいだしね」
ジークニスは聞き流しそうになって、耳を疑った。
今、盗賊を潰したと言ったか。潰す、潰す……それはまさか盗賊団を?
この少女が潰したというのか。いやいや、そんなわけない。さしづめ地元の人間や騎士・諸侯に助けを求めたのだろう。潰したというのも追い返したの間違いかもしれない。
商会長はエノールの最後の言葉に囚われすぎて反応に遅れる。
「商業は安全な場所で行いたいと、そうは思わない?」
「……えっ、あ、そうですね。全くもってその通りです」
ジークニスは焦りを見せる。令嬢はそれを見逃さなかった。
「私はね、この領地をどうにかしたいの。流行病もその一つよ。私は次期当主としてこの領地の病死者、その七割を減らすつもりでいるわ」
「なっ、七割⁉︎」
「ええ、それもあと八年以内に」
「八年以内……」
ジークニスは常に冷静たれという商人としての自戒も破って声をあげてしまった。それに気付くこともなく、少女の出した見通しに、その大それ具合に反芻する。
「それは、いくらなんでも……」
「とりあえず、私の持っている『衛生』の知識を各都市に配布するわ。それから、病気を未然に防ぎ、罹患者が爆発的に増えた際に被害を最小限にできるよう迅速に動くことのできる体制を整えるつもりでいる。地方に分散した資本を使って町を動かし、それぞれを立派な商業都市にしてみせるわ。勿論、どこが商業が発展してるかの度合いは相対的なものだから、実際に商業都市と呼ばれるのは数限られるのだろうけど、現状この領内には安全安心に商売をする下地がない。そのせいで経済活動が活発化せず、市民の購買意欲は減り、賃金が減ることで買い手が少なくなる。どれだけ生産しても買い手がいないんじゃ話にならないわよね。でも、人の欲望は尽きることがないわ。暮らしが安全になれば、次に娯楽を求める。そこに大きな商業チャンスがあると、そうは思わない?」
エノールの捲し立てるような言葉の数々はジークニスを閉口させたまま圧倒する。
ジークニスはかろうじて、最初に聞いた不可思議な言葉について尋ねるのだった。
「あ、あの……『衛生』とは?」
商人として商談相手に物を尋ねるのは愚の骨頂だ。相手の都合のいい情報を与えられて誘導されるかもしれない。
今、ジークニスの中には商人の矜持が消え去っている。
「あら、知らないの? 言葉としてないのかもしれないわね……『病原から遠い状態』のことを指す言葉よ。貴方の周囲が衛生的であればあるほど、貴方の周囲には病気になる人が減り、貴方自身も病気になりにくくなるわ。病気の正体、その広まり方、どうすればかかってどうすればかかりにくくなるのか、それが分かれば貴方は格段に病気になりにくくなると思わない?」
「え、ええ……確かに、その話が本当であれば、そうなのですが……」
「情報を売り買いするとき、対価を渡すまでその中身が本当か嘘かは分からないわよね。不安だわ。自分は騙されているんじゃないかって……私はこの情報に伯爵の名前をかけてあげる。アルガルド伯爵家嫡子にして現当主代理エノール・アルガルドの名を持って保証してあげる。そして、私はその情報をもとに全ての街を変えるつもりよ。病気になりにくい、病気者が増えても最大限抑え込めるまちづくりを、私自身が行うの。その意味は分かっているわよね」
ジークニスもかろうじて思考できる。
もしその情報が間違いであった場合、エノールは領地経営で失敗することになる。その場合、余裕のない伯爵家はどうなるであろうか。ただ単に更なる没落の一途を辿るだけかもしれない。しかし、大規模な商会も敵に回したとすればすぐにでもアルガルド家は切り崩される。
伯爵家の名前、エノールの立場、領地の将来……全てを信用の天秤にかけてジークニスは揺れ動く。
「本当に、病気にならないんでしょうな?」
それはすがるかのような声だった。
「あら、まさか貴方達が病死しない体になるとでも。冗談よしてちょうだい。私は神じゃないのよ」
「し、しかし……」
「それじゃあ、やめとく?」
エノールが急に梯子を外す。それにジークニスは容易にたじろいだ。
「いえ、そんなことは……」
「私が言ってるのはね、伯爵家の傘下に入れってことなのよ。そうすれば、貴方達は王と貴族、貴族と騎士の関係のように奉仕と庇護の立場になる。私は貴方達を守る義務が生じるの。貴方達は私に協力して、そうして安全を買うの。それが大きな対価であればあるだけ、安心は大きくなる」
「……」
「私はね、この領地にとりあえず衛生観念を広めるわ。各商会の力を使って町を生まれ変わらせる……といっても、そこまで変わらないでしょうが。問題は人よ。病気は人から人へと伝染る。誰とも会わなきゃ、病気にはそうそうならないもの。少なくとも流行病はね……だから、人をどうにかするしかない。貴方達は商人としてこの場に立っているんじゃないの。そのシステムの利潤を享受する一市民として、貴方達が町を変えるの」
「我々が、町を……」
「その後は……そうね、各地の医者の知識をまとめ、まともなものを選び取って領地全体で共有する。情報の集約と共有のシステムを作り、流行病が起こったのならその解決策を見つけた医者を通じて各地にそれを伝える。そして、私たちが建てた医療施設でそれを提供する。ねえ、すごく金になる話だと思わない? 資金は騎士と諸侯から出させるわ。自分が治める土地で病を収める義務があるとか言って、商会の資金援助のもと医療施設を開く。当然、庶民に払える医療費ではないから負担は騎士・諸侯達よ。彼らにしても領民を失うのは厳しいでしょうからね。普段は借金という扱いで庶民に医療を提供してもいいわ。そうして健康になった領民はせっせと働いて、長い年月をかけて返済するでしょうね。私が認めた有事の時に騎士達を弱らせればいいの。そして、頃合いを見計らって私が再吸収するわ」
「な、なぜですか⁉︎ 既に騎士達は伯爵家に……」
「あら、知らないの? それとも知らんぷりかしら」
「な、何を……」
「私たちの税金の半分、あいつらが持って行ってるのよ。全くもって度し難いわね。でも、今は何もしない。既に根回しは済ませているわ。こちらに協力的ではない騎士達にはこちらが中抜きに勘付いていることを遠回しに伝えている。たとえ負担を強いられたとしても表立って文句は言えないでしょうし、それだけの蓄えが彼らにはあるはずよ。なければこちらから金を貸し出すわ」
「そんな余裕があるのですか?」
「あるわけないでしょ? でも、貴方達がいるじゃない。そう言った場合、騎士達には破産してもらうわ。こちらから貴方達に借りた借金で援助する。その代わりにこちらから人を送って、納税に関して監視して騎士の取り分を無くせば税収は二倍。返済は容易だと思わない? 騎士領の規模に対して、その土地の税収が二倍よ?」
ジークニスはここで初めて目を剥いた。この少女の考えていることが並外れていることをようやく理解したのだ。
同時にバーガルドの言ったことがようやく分かる。これだ、こういうことなのだ。異質だ化け物だとわめていていたが、ジークニスにも同じ光景が見えていた。
これが七歳? ふざけてる。こんな神算鬼謀、マルベク家にもいるものか。あの家の現当主にも迫りそうな神機妙算は異質と言って差し支えない。いいや、化け物だ。少女の皮を被った商売の悪魔だ。
ジークニスはそこで震えを覚えた。少女の言っていることがようやく理解でき始めたのだ。
これは……商売の匂いがする。それもわざわざ鼻を鳴らす必要もなく漂ってくるような強い匂い。バーガルドが時代のうねりだと言っていたのはこのことか。確実に少女の考えは領地全土を揺るがし、街の風景を変えるだろう。
一見何も変わったようには見えない。しかし、ジークニスには見えるのだ。商売の地として活気を帯び始めたアルガルド領内の姿が。
バーガルドはさしづめ預言者か使者であろう。この得体の知れぬ少女が遣わせた、もしくは言葉を預けた宣教師なのだろう。そして、ジークニス達はその言葉に耳を傾けようとはしなかった。だから、少女自身がこの場にやってきて──実際にやってきたのはジークニスの方だが──教えを説いたのだ。
これは間違いなく領地が変わる。地図が変わる。地理学者のではなく、商人達のだ。
見える。人の流れが、行き交う人が、彼らが生み出す商業チャンスが。
彼女の言う診療所は平時において金貸し業者の側面を帯びるだろう。そうして、労働によって市民から取り立てるのだ。回収された金銭はまず間違いなくこのシステムの立役者であるこの少女の懐に入るに違いない。次期当主は騎士達の中抜きを憂いていたが、伯爵代理である彼女自身が動けば、それは伯爵が動いたことになる。彼女の父親の名前を使えば誰も文句は言えない。騎士領に領主直轄の税務署を置くのと同義だ。
彼女のノウハウが正しければ、効率よく各地の医者の知識を集められれば診療所で提供される医療のニーズはいくらでもある。何せこの領内は病と苦しみに蔓延っているのだ。ただの体調不良と病の区別のつかない彼らはことあるごとにそこに駆け込むだろう。そんな診療所を無闇に騎士は攻撃できない。そんなことをすれば騎士の方が民か領主に断罪される。あるいは両方かも知れない。
「医者が病気について有益な情報を伯爵家にもたらせば、財政から報奨金を出すことにするわ。そうすれば我が領は医学が発展するでしょうね。貴方達も最新の医療を受けられるようになる。他の町でその情報を検証して真実だと証明されれば、配布する予定の医学書にさらに新たな知識が付け加えられる。診療所を各地に設置すれば、それは雇用を生み出すし健康な領民が増えて生産力が増えるわ。そして余裕ができた彼らは消費する。その恩恵を被るのは間違いなく貴方達商人よ」
恐ろしいことを考える。領内全体で経済活動が活発化すれば、それは局所的に盛り上がる比ではない。
それは経済の大きなうねりを生む。その下地を作る。もしかすればこの少女の代で大聖人が一人増えるかも知れない。騎士達の横暴を滅却した後、彼女は何をするのだろうか。次に何をしてくれるのだろうか。
大いに興味がある。これは商会長の個人的な知識欲だ。しかし、知りたい。それ以上に見てみたいのだ。自分の故郷である街が、自分たちの領地が活気にあふれる姿を。
このエノールにはビジョンがある。やることが定まっている。言葉に説得力がある。これ以上望むことはない。商人としての資質・実力大いに揃っている。何かをなすべき人間の条件が全て揃っている。ジークニスはこの少女が他の商会の説得にも成功すると言う予感がした。期待と言ってもいい。
そうして全ての商会の協力を取り付けた彼女は確実に目的を遂行するだろう。もはや彼女に敵はない。商人達のやり方も、欲するものも全て知っている。商業を盛り上げる上でどうするべきか、商売を成り立たせる上で何が必要かも把握されている。自分たちが味方につく以外に選択肢などありはしない。
そこまで考えたところで、ジークニスは跪いた。わざわざ椅子を降りて、膝をつく。
これにはエノールのそばにいた執事長も驚いた。
「何をすればよろしいですか?」
「服従なさい。そして、誓いなさい。無常の忠誠を。そうね、貴方達は紙面に書かれていること以外事実ではないとする文化があるようだから、書面に起こしてもらうわ。バルワルド商会の名の下、全ての人間が『個人として』私に忠誠を誓うこと。これが条件よ」
「かしこまりました。すぐに説得します」
「必要であれば私から説明しても構わないわ。これから何かと頼るだろうから手を貸してね」
「このジークニス・ベンガル、必ずやエノール様の期待に応えて見せます」
「そう。それなら早くしてね。私は先を急いでるから」
「はっ、わかりました」
商会長は客室から去っていく。雰囲気に飲まれていたバルターは思わずため息をついた。
「驚きましたね。まさか、ああまでなるとは」
本人であるエノールは肩をすくめながら──
「全くね」
趣味の悪い紅茶を飲んだ。