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二人の男女が、あらゆる国のあらゆるチャンネルをジャックして殺されてからすぐに、NSを世界は本格的に危険だと受け取ったようだ。PBI、CIA、インターポール。そういった特殊機関が、血眼になって世界中を探し回っている。
一般人たちも、遊び半分でからかえる相手ではないと理解してくれたようだ。ハリーポッターのヴォルデモート卿のように、誰もその名前を出さない。
さらに映像越しとはいえ、人が二人殺されたのだ。トラウマ気味になり、ヒステリーを起こす人も続出したという。おかげでカウンセラーの予約はいっぱいだと聞く。
「酷い雨だね」
ソファーに寝転びながら、エルピスは退屈そうにしていた。外はバケツをひっくり返したかのような土砂降りで、なんとなく気分も滅入る。
映画でも見よう。どうせ、待つだけなのだから。そう提案しようとして、エルピスの体が跳ねた。何事かと口を開こうとして、唇に人差し指を当てられる。自分の唇前にも人差し指を立てて、「シッー」と、小さな声で聞こえた。
いったい、なにが。土砂降りの雨にかき消される小さな声でエルピスに問うと、「こんな雨なのに客が来た。だから、これをつけておいてくれ」。動物的な感性のエルピスは、引き出しからサングラスを取り出した。
「君はここの新米従業員。ロシア人とのハーフだけれども、小鳥遊アリスじゃない。誰が来るのかわかったものじゃないからね。話はボクが受けるから、君はなにもしゃべらないでね」
どのような組織が来ても、NSが来ても、私が顔をさらすのは後の方がなにかと都合がいい。黙って頷き、サングラスをかける。エルピスは扉のほうはまで行くと、咳払いをして喉を整えてから、黙って頷く。一度深呼吸をして、「悪いね」と、いつものつかみどころのない調子で扉を開けた。
「これはどうも。いやはや、酷い雨ですね」
扉の先にいたのは、眼鏡姿の白人だった。黒いスーツを着込み、見るからの作り笑顔で傘をさしている。おそらくだが、銃を隠し持っている。物腰を見れば、それくらいは見抜ける。
「仕事の依頼かな。悪いけれど、ここは週休七日制だよ」
「知っていますとも、裏の何でも屋、エルピス・リーラーさん。あなたについては調べてありますから。その小柄な体に油断すれば、私のような特別な人間でも倒されてしまう」
「特別な人間、ね。自分からそんなことを言う男がいるとは思わなかったよ。しかし、なんだい? こっちのやり方を知っていて来たのなら、相応の仕事があるのかな」
「あったとしたら、今のあなたは受けられますかね。この世界で、メガトン級の核爆弾に並ぶような物を隠し持っているあなたが」
「……何が言いたいのかな」
「あなたには特に何も。私が話すのは、そこにいる銀髪のあなたですよ。そうでしょう? 小鳥遊アリスさん」
見つかっていた。知られていた。この場所に来られた。ならば、そこにいるのは誰になるのか。
「誤解しないでもらいたいですね。私はこう見えても、インターポールですから」
スーツの胸ポケットから、今時古臭い名刺なんてものを見せた。NSの手下というわけではないので、胸をなでおろす。
「イワン・コルトスと申します。少しお時間をいただけるでしょうか。この中で構いませんので」
エルピスは舌打ちを打つと、入るように促した。私は変装が意味をなさなくなったので、サングラスを外して、ソファーに座る。隣にエルピスも腰掛け、イワンは向かいの真ん中に手のひらを組んで座った。
「私を連れて行く気ですか」
挨拶など意味はない。前置きもいらない。だから私は、懸念していた最悪の事態を口にする。
「最終的にはそうしたいと考えています。なにせ私は、インターポールでも特別な地位に属していますから」
「それが、特別な人間の答えかい」
その通り。イワンはもう一度名刺を出すと、私たちにもしっかり見えるように机へ置いた。
「特別独自捜査官……」
何が特別なのか。これだけではわからない。とはいえ、そこらへんはイワンも心得ていたようで、名刺をしまって口を開いた。「殺しのライセンスがある」と。
「私が、もしこの場であなた方を撃ち殺しても捜査の一環ということで罪には問われません。なんといっても、世界を揺るがしているNSが名指しした相手ですからね。何か、見つかってはならない裏のつながりがあった。私がそう言えば、下等な警察たちは黙認するしかありませんので」
エルピスが腰のホルスターにあるベレッタに手をかけた。しかし、イワンは手を振って、そういうこともできるだけ、と、苦笑いで訂正した。
「私としても、裏の世界で名の知れているエルピスさんとの撃ち合いは、ごめんこうむりますので」
「なんだろうね。その、なにもかも見透かしたっていう態度。正直、気に入らないよ」
「あなたにどう思われても私は結構。用があるのは、アリスさんですから」
「なら、二人で話すんだね。ボクは外にいるよ」
この雨の中、外に行くのか。イワンもそれには目検にしわを寄せたが、邪魔者がいなくなるのと同意義だ。すぐに済みますと、笑いながらエルピスを追い出した。
「せっかくのメルセデスベンツが天井付きだと、台無しだね」
扉の先に停めてある白い車に、エルピスはぼやいた。イワンは「仕事用ですので」と、特に気にしていなかった。
そうしてエルピスが出ていくと、イワンと二人きりになる。いくらなんでも、いきなり銃を向けてくるとは思えないが、警戒しておくことに越したことはない。いつ襲われてもいいように、コルトはスカートの下に隠してある。
「さて、何から話したものでしょうか」
「なら、私から聞かせてもらいます。なぜ、ここにいるのがわかったのですか」
「簡単な事ですよ。安全のためという名目で、空にはドローンが飛び、地には人間と全く変わりないアンドロイドが歩き、監視カメラは電柱のすべてに取り付けられています。このスウィープはそうではないようですがね」
言葉を区切り、タバコを取り出す。銘柄は、なんてことのないメビウスだった。
タバコの煙をくゆらせ、「運がよかった」と口にした。
「あなたが泊まっていたホテルは、この国の警察が調べていましたからね。そこから移動する際、運転免許を持たないあなたならどうするか。探偵の娘にこの程度の推理など笑われてしまうかもしれませんが、タクシーのデータを調べました。結果は、見ての通りです」
私も、唯一居場所の知られる可能性として、あのタクシーを調べられるのは防ぎたかった。エルピスのツテで、ハッカーに削除の依頼をしていたが、遅かったようだ。
「ですが、なぜこのアインヘルムにいるとまでわかったんですか」
「――企業秘密、とでもさせておきましょうか。今のあなたのように、情報がどこから漏れるのかは、いくら神経質になっても足りないくらいですからね。私も一人の人間として、お金には目がないので。手柄を独り占めするのが一番儲かるのですよ」
エルピスの言うことももっともだ。どこまでも見透かしたかのようなしゃべり方は、癇に障る。
「そう怖い顔をしないでくださいよ。せっかくの美貌が台無しです」
「おだててもなにも出ません。あなたはなぜ、ここに来たのですか」
「最初に言ったでしょう。あなたをそれ相応の場所に連れていくためですよ」
ここまでなのか。私は考える。仮にもインターポールの人間に連れていかれる場所はどこか。NSに見つかるよりはいいかもしれないが、私とエルピスで追い詰めることはできなくなる。私たちの共同捜査も、終わりになる。
「ちょっと失礼」
と、イワンの言葉に臆していたら、エルピスが扉を開けて入ってくる。
「話は外からでも聞こえたよ。どうやら、ボク達の共同戦線は終わりのようだね」
何か、手はないものか。私の父によってNSが動いたとしたならば、私の手で終わらせたかった。そういう点では、エルピスと一緒にいるということは最も望まれる状態だった。
それが終わってしまう。部屋の奥に戻り、財布を持ってきたエルピスは「タバコを買ってくる」と言い残して、出て行ってしまった。
「では、続きは車の中で話すとしましょう」
行きたくない。だが断ったところで、イワンには別のやり方はいくらでもある。今は温厚でも、拒否し続ければ、強引に攫って行くこともできる立場の人なのだから。
「それでは行きましょう。雨も静かになってきましたので」
イワンに続く形で、アインヘルムを出る。振り返って外観を眺め、しばらく過ごした隠れ家を後にする。
せめて、エルピスに別れの言葉を言いたかったというのに、タバコを買いに行くとは。案外、薄情だったのかもしれない。
「では、行くとしましょう」。レディーファーストとでも言いたいのだろうか。イワンは扉を開けて、先に入るように促している。
さようなら、エルピス。私は心の中で、同じ父に育てられた友達に別れを告げる。
そうして、車は走り出した。メルセデスベンツとはクラシックカーだったと記憶にあるが、中身は最新式のようで、自動運転だ。スウィープはイワンが運転していたが、横浜に入ると、ハンドルを手放した。
「知っての通りですが、今や世界にはNSという過去の亡霊が彷徨っています。過去のデータでは、ロシアのクレムリン付近で銃撃戦があったという事件以来、忽然と消えていましたからね。それが突然蘇り、世界に存在を知らしめた。今の世界は、謎の人殺しによる恐怖で、どこも静まり返っています」
父のデータがないのならば、調べられるのはそんなところだろう。この先で喋ることになるのかわからないが、インターポールもたいしたことないようだ。
「あまり黙られると疑ってしまいますよ? なにせNSがこのような犯行に出たのは、あなたの父、小鳥遊ヒカルのせいだという意見が大半ですから」
それは違う。感情に任せて口に仕掛けて、私は舌を噛む。実際、間違っていないのだから。父の行き過ぎた正義が、NSを突き動かしたのだ。
「まあ、日本人は「口は禍の元」とも言いますので、黙っていていただいて結構ですよ。しかし、いつまでもそれは貫けません。次に誰が殺されるのか。予想がつくことなどありえませんから」
NSの狙いは私だ。実際に会い、用件を聞けば、この馬鹿騒ぎは収束する。
「しかし、こうもあっさり仕事がうまくいくと、いささか不安になりますね」
「不安?」
そんなものはないだろう。あとはインターポールの事務所なりにでも連れて行けばいいのだから。だがイワンは目を細めて笑うと、ポケットから別のタバコを取り出した。
「ええ、不安ですとも。雇い主が、雇い主ですから」
イワンが煙を吐き出すと、急に、頭に霧がかかったかのように意識が遠くなった。
「エルピス・リーラーは脅威と呼ぶにふさわしい存在と調べてありますので。こんな簡単に追い出せては、色々と練った策が台無しというものです」
騙されていた。私は遠くなる意識で、ようやくそれに気づく。この男は、真っ当なインターポールなどではない。
「NSがお待ちです。それまでゆっくりお休みください」
コルトに手を伸ばそうとして、意識を失った。
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夢を見ていた。NSに襲われる前の、なんてことのない日常の夢だ。父は机でPCをいじり、母は事務所を掃除する。私は大学に行かず、家ですっかり廃れた紙の本を読んでいた。
ある時、父がコーヒーを飲みたいと言って、母が用意する。私も欲しいと口にすれば、母はいつものようにブラックのコーヒーを淹れてくれた。
不眠症気味でよく眠れなく、朝が弱かった私は、十代のころからブラックコーヒーを飲んでいて、いつの間にか好きになっていた。それを知ってくれていることに感謝しつつ、熱いので吐息をかけて冷ます。父は、そんな泥水をよく飲むな、などと、砂糖とミルクをたっぷり混ぜたコーヒーを口にしている。
本当の泥水は自販機のブラックだと言ってやれば、死ぬまで買わないと笑っていた。父も母も、人間が百年を生きるのが当たり前な世界では、まだまだ四十年は生きなくてはならないのだから。死ぬまでなら、あんな泥水はなくなるかもしれない。
そうして、インターホンが鳴った。父は仕事の時間だと、PCをスリープモードにする。体を伸ばして、関節を鳴らして、客が入ってくるのを待つ。私は部屋の隅から、コーヒーの入ったマグカップを手に、階段を上がろうとしていた。
――ああ、そうだ。この時だ。私は夢の中で、傍観者のように過ぎていく時間を眺める
この次の刹那、事態は始まりを告げるのだから。
扉を蹴破られ、母は悲鳴を上げて私の方へと逃げて来た。
何が起こっているのか、当時の私には皆目見当もつかなかった。しかし、夢は一か月近く前の風景を精密に映し出す。フードをかぶりマスクをした男が、父へ向けてマシンガンを乱射した。ばらけた弾丸でも、父の上半身には鉛球が何発もめり込む。それを見て言葉を失っていた私に、弾丸が一発飛んでくる。映画やアニメのように斬ったり避けたりなどできるはずもなく、私の胸めがけて、弾丸が真っ直ぐに飛んでくる。
それを、母が両手を広げて守ってくれた。マシンガンの一発とはいえ、当たれば当然、致命傷になる。口から血を吐き出して倒れた母と、狼狽しているNS。薬を噛み砕いて飲み込んだNSは、頭を押さえてその場を去った。
そして、私は母の止血を行った。今にして思えば、この時、自分を失わなかったのだ。今やるべき最善の事をやる。二人の教育は生きていた。すぐさまバスタオルを持ってきて、撃たれた母の胸から背中に回して、強く結ぶ。
意識はない。だが、学ばされた出血量や弾丸の着弾地点からして、今すぐ死ぬことはない。だから次は、父の番だ。いくらばらけた弾丸とはいえ、父を中心に狙われたのだ。机から出ていた上半身は、風穴だらけで、とてもではないが助からない。
だとしても、すぐに救急車を呼んだ。たとえ致死量の弾丸を撃ち込まれていようと、日本の最先端医療技術なら、何とかなるかもしれない。私は微かな望みに賭けて、父と母を救急車で運んでもらう。
――でも、父は死んでいた。母も重体で、私は途端に一人ぼっちになった。虚無感に苛まれながら、父の葬儀の手続きを行う。どうやら遺書を残していたようで、火葬ではなく、棺に亡骸を収めて、作っておいた墓標に埋めてほしいとのことだった。
手続きは、万事つつがなく終了した。父は死化粧をされた穏やかな顔で、棺に納められた。不思議と涙は出ず、その後にすぐ、私はスウィープのアインヘルムを目指したのだ。
「ん……」
事件が起きてからの一連の流れを夢で見ていた。目覚めた私は、最低限の照明しかない、どこかの――バーだろうか。二十を超えてから、父に連れられて何度か行ったことのある、静かで落ち着きのある店に似ている。どうやらカウンター席に腰掛けたまま、突っ伏して眠っていたようだ。目の前には、棚に並ぶ様々な酒と、バーテンダー服姿のアンドロイドがいる。
私は、なぜこんなところにいるというのだ。たしか、イワンの罠にはまって、意識を失っていたはずでは……。
「起きたか」
途端に、背筋が凍るような感覚に襲われる。老いたが故の低く、しゃがれた声。「殺し屋」の名が最も当てはまるだろう声の主は、左隣のカウンター席でウイスキーのロックを手にしていた。
私はおさまらない胸の鼓動と、荒くなる息を整えて、「あなたがNS」。そう、面と向かって言った。
「その通りだ」
隠す気はないのか、NSはウイスキーを口にしながら肯定した。
ついに、見つけた。いや、見つけられた、と言うべきなのだろう。どちらにせよ、NSと、こうして話すことができる。
「……なぜ、私を? それに、どうやってアインヘルムにいると……」
殺されない。NSは私を殺せない。私の推理はそう導き出した。しかし、それはあくまで推理だ。憶測の域は出ているかもしれないが、絶対ではない。恐怖と自信。それらに揺られた私の問いに、NSは「小鳥遊ヒカルのやりそうなことを片端から調べたらたどり着いた」と答えた。ウイスキーを一口飲むと、「殺そうかとも考えていた」などと、愛憎を含む黒い瞳で私を見つめる。
「お前を殺せば、俺の人生を二十年間奪った小鳥遊ヒカルへの復讐の一因になる。考える時間なら、いくらでもあったからな。小鳥遊ヒカルを殺すために用意できたのは、時間と金のせいで、あんな安物になったが」
「父が幽閉していた時間」と聞けば、「察しが早くて助かる」と、若干微笑んだように見えた。しかし、世界で恐れられる殺し屋は、俯きがちに口を開いた。「俺には無理だった」。そう、諦めとは少し違う、納得のいった答えを導き出したように
「なにもかもを奪うつもりだった。命も、愛する家族も。だが、あの場――小鳥遊探偵事務所を前にした時、我ながら驚いているんだが――マシンガンを持つ手が震えていてな。扉越しに聞こえる、ヒカルと、ソフィアの声。それからお前の声がした」
カチリ。ロックの氷が音を立てると、NSの瞳から憎悪が消えた。
「ガキのころから散々殺してきた。だから殺す術はいくらでも知っている。ヒカルのことも心の底から恨んでいて、よく知っている。しかし、な……ソフィアとお前の声が、目を覚ましてくれた。ヒカルは殺せても、ソフィアと、ソフィアが育てた子供は殺せないと」
「私の推理は、当たっていたというわけですか」
見抜いていたのか。NSは驚いた様子だが、仮にも探偵の娘としておく。
「まだ指先の震えは止まりませんけどね」
No shadow。全盛期にはどんな組織にも影すら踏ませなかった殺し屋。殺されないとわかっても、震えてしまうのは、その雰囲気からだろう。
「しかし、なぜあそこまで大々的に私を名指ししたんですか」
世界中のテレビがジャックされ、G7各国の文字が七列に並んだ異常事態。小鳥遊家の名前は、今や子供でも知っている。なにが目的で、私を探していたのか。NSは私への復讐心を捨てたが、私の心には、父を殺された恨みがある。殺せなくても、警察が引き取ってくれなくても、決着は付ける。その覚悟が伝わったのか、NSは遠くを見るような面持ちをすると、自らの首筋を指さした。その行為にどんな理由があるのか、私の頭が追い付く前に、NSは「この首をくれてやる」。そう、笑っているようで悲しそうな顔で、首を指先でトントンと叩く。
「小鳥遊ヒカルは殺した。だがお前とソフィアは生きている。入院している病院をハッキングして調べたが、生きてはいる。俺は小鳥遊ヒカルを殺したという罰として、残りの命をお前にくれてやる」
私は頭にクエスチョンマークが浮かんでいた。そんな折、NSは頭を抱えた。どうしたのかと席を立てば、銀色のスーツのポケットから小瓶を取り出す。中には事務所で見た特注の頭痛薬が詰まっており、適量など気にせず、小瓶の半分は口の中で噛み砕いている。口の中の残りは、ウイスキーで飲み込んだ。
「っ……! はぁっ……ああ、すまない。ガキの頃から脳に腫瘍があるようでな。ずいぶん大きくなったようで……もう長くないと宣告された」
だから、この命をくれてやる。NSは、その一言を理解していない私へ強調した。
「世界中のテレビをジャックして、政治家を殺した。どんな組織でも知る俺を、お前が捕まえるんだ。ヒカルがいなくても、その噂は人を呼ぶ。大金も得られるだろう。その中から、自分でもなんとかなりそうな依頼を探せ。俺にできることは、それくらいだ――願ってもいいのなら、間違った愛情を向けてしまったソフィアに、一言だけ、すまないと伝えてくれ」
思わぬ事態に吃驚するが、NSは本気だ。本気で、私に捕まえられることを望んでいる。母への謝罪すら心の内にある。敵をうつことも、撃ち合いや殴り合いではなくなる。どうやって捕まえたのかを警察に伝わるよう、舞台を用意する必要があるが、この一件は平和的に解決する。
中国マフィアと繋がっていた政治家と、馬鹿騒ぎをしていた二人の命は失ってしまったが、NSなら、死刑になるだろう。昔の恩で死刑を逃れても、何十年も出てこられない。短期間でも、脳の腫瘍が原因で死ぬ。
解決した。流す血は最小限に抑えて、NSを捕らえることができた。その先に待つのは、世界中からの感謝の念だろうか。謝礼金だろうか。とにかく確かなことは、NSの身柄を警察に届けられるということだ。
それでは、どういう形にしましょう。私が、そういう風に相談しようとしたら、NSの持っていたグラスが銃声と共に破裂した。すぐさま体が跳ねて、隠れ場所と撃った人、撃たれた人を探す。銃声のした方を見やれば、イワンがホルスターに一丁と手のひらに一丁、拳銃を持っていた。
「ダメですよ、こんな終わり方。それでも世界が恐怖する殺し屋ですか」
NSの仲間だと思っていたイワンが、銃を構えている。私は状況が理解できずに、ただ身を伏せていた。
「……CZ P-09 ダーティーか。インターポールにしては、ずいぶんと物騒なものを持ち出したな」
手に持っていたグラスがはじけ飛んだというのに、NSは表情一つ変えず、イワンが手にしている拳銃を言い当てた。
「誰が言ったかは忘れましたが、戦いは数ですからね。世界最大の装弾数を誇るダーティーなら、弾切れを気にせず無駄弾を撃てるというものです」
「こんな掃きだめでも、このウイスキーは美味かった。十分に弾丸一発の役割は果たしている」
「褒めていただけるのなら、今の一発も満足でしょう。さて、これでも早撃ちには自信がありまして。あなたが銃を手にするより先に、私はあなたを殺せる」
頭を整理しろと、私は私に言いかける。今、何が起きているのかを。
イワンの銃口は、NSへ向けられている。そのNSは動じずに座ったままだ。
イワンはNSに雇われて私をさらったはずだ。ならばなぜ、雇い主であるNSを狙うのか。
「裏切った……ということですか」
導いた答えは、イワンの歪んだ笑みで肯定された。
「インターポールとしてこの事件に関わり、NSの手先としてあなたを連れ去り、二人が揃った時にこうして動けなくする。見事な手際でしょう?」
確かに、どこにも嘘をついて、最低限の仕事だけで旨みを得ようとしている。
「おっと、NSだけではありません。小鳥遊アリスさん。あなたも隠し持っているコルトで撃たないでくださいね。というより、あなたに人は撃てませんか。ならば話は簡単です。この場でNSという、現在世界で最も恐れられている犯罪者を殺し、余計な事を言われては面倒ですので、加担者としてアリスさんにも死んでいただく――言ったでしょう? 手柄を独り占めするのが一番儲かるのです、と」
下賤だ。NSはただそれだけを呟いた。イワンは作り笑いにひびが入り、照準をNSではなく私に向けた。
「あなたにとって、アリスさんは最高の人質ですからね。私としても、できるのならば生かして捕えたいのですよ。アリスさんには、後々に死んでいただきますがねぇ」
「その通りだ。アリスの死を俺は望まない。この距離だと、反撃もできない」
そんな状態だというのに、全く動じていないNSは、アンドロイドにもう一杯と注文する。そして、深く溜息を零した。
「記憶が正しければ、アリスは二十一。イワンは二十九。そして、俺は六十八……場数の違いか」
何を言っている。なぜそこまで余裕面でいられる。イワンとて、No Shadowを相手にしているのだ。どれだけ優勢に立っても、その作り笑いは簡単に壊れるだろう。
「……この音、ここの構造。あの体。あと、三十秒といったところか」
「なに……?」
「俺は殺し屋としてあらゆる神経が常人の何倍も過敏になった。薬莢一つが落ちるのだって、俺にとってはスピーカーのように聞こえる。お前たちには決してたどり着けない境地だ。だからヒントをやろう。ここは、スウィープに次ぐ埋め立て地だ。どこもかしこも似たような造りで、通りも建物も、こんなバーだって、日本が決めた移民への格差を生まないような造りになっている。スウィープもまた、こことまったくと言っていい程、同じ造りのものばかりになるはずだった」
だからなんだというのだ。イワンは、「二十」とカウントを進めるNSから不気味な気配を感じているのか、今にもトリガーを引きそうだ。できるなら生け捕りにしたいと言っていたが、この訳の分からないカウントのせいで撃たれても文句は言えない。
「あと十秒だ。覚悟はできたか。ヤクザなインターポール」
もう待ちきれない。イワンは、NSにダーティーの銃口を向ける。なおもウイスキーを口に含むNSに、不気味だからとトリガーを引く、まさにすんでのところ。刹那とも呼べる瞬間に銃声がして、イワンの右手からダーティーが弾け飛んだ。
誰が撃った。どこから撃った。なんのために撃った。すべての謎は、NSが「ゼロ」と言い終えて、判明した。
子供しか入れないだろう空気供給管のダクトを、メリケンをはめた小さな拳が何発か殴り、外れる。すると、小さなガンマンが舞い降りた。
「胡散臭いからついて来てみれば、なんだい? この状況は」
エルピスが、いた。空気供給管の中を這いずって、埃まみれになりながらも、私の窮地に駆けつけてくれた。
「とりあえずアリス、状況を教えて」
「えっ? そんな突然……それに、どうやってここに……」
「状況を聞いているんだ。老けても、そこに座っているのはNSで、どういうわけかイワンが銃口を向けていた。君を攫った当人だから邪魔したけれど、本当は不味かったかな」
「いいや、最高だ」。NSはウイスキーを片手に上機嫌といった様子で、ダーティーを弾かれ、右手を押さえるイワンを見下した。
「俺の命令通りにしていれば、金ならいくらでもくれてやるつもりだった。一生遊んで暮らせる額をな。それもこれも、終わりだ」
「ッ! どうやった! 貴様のような何でも屋が、どうやってここにやってきた!」
イワンが怒鳴り散らすと、エルピスは剽軽な仕草で答えた。
「タバコは買いに行けなかったけれど、トランクに身を隠すことはできた。その後は見ていただろう? 空気供給管を這いずってきたのさ。スウィープにもよく似たバーがあってね。そこで一度ドンパチするはめになった時、逃げ道として使ったんだけれども、ここでも通じていたのは驚きだ。とはいえ、本当になんなんだよ、この状況」
しばし、沈黙が流れた。エルピスはイワンの方へ、ベレッタを向けていた。薄暗いバーでイワンはそれを目にすると、勝ち誇ったように立ち上がった。
「六発しか入らない小型拳銃ですか。その体にお似合いですよ? 小さな手のひらにもねぇ」
「もうとっくにこの体のことは受け入れているけれど、どうにも君の言葉は馬鹿にしているみたいに聞こえる……やりあうつもりかい? ボクと」
「ハッ!」。イワンは鼻で笑った。「ダクト越しに一発撃っていて、残りは五発じゃないか」などと、勝ちを確信していた。
「なら賭けるかい?」
「まさか、勝つつもりなんですか? ダーティーは二十発も装填できるんですよ? 予備のマガジンだってある。ですが見たところ、あなたはカバンの一つもない。その右肩にかかっているベルトにも、何一つない。噂の二丁拳銃もないご様子。これでもインターポールですので、撃ち合いには慣れていますから……右手を痛めつけた報いを受けてもらいます」
両者が、まず一発撃った。牽制のようなもので、エルピスはスライディングで丸テーブルを倒し、盾とした。小柄なエルピスだからできる戦い方だ。
「賭けだそうだが、お前はどちらに賭ける」
「こんな時に――! また人が死ぬかもしれないんですよ! 片方は、私の友達でもあります! 賭けだなんて……」
「なら、勝敗がついたら逃げろ。お前まで裏の世界に来なくていい」
と、NSがなにか放り投げてきた。手に取ると、車のキーだった。「メルセデスベンツのキー」と付け足され、それを聞いたイワンが、「私の車だ」と声を荒げようとしたら、エルピスの眼ヒカルが鋭くヒカルる。
「五発目、いくよ」
ベレッタナノから、弾丸がイワンの横腹に向けて放たれた。避ける術はなく、隙を作ってしまったと自覚する前に、弾丸はイワンの横腹を貫こうと回転する。しかし、
「残念でした」
銃弾が当たったというのに、イワンは衝撃でよろけただけだった。
「手品の種明かしはこちらです」
黒いスーツの下、ワイシャツのボタンすら外すと、下に銀色の防弾チョッキが着こまれていた。
「あのNSを裏切って手柄を独り占めしようとする私が、この程度の準備をしていないと思っていたのですか? 滑稽ですね! 実に滑稽だ! これは米軍でも使われているんですよ……ですが、そんなちんけな銃でも、とても、とても痛いんですよ!」
「せこい男だね……」
エルピスはすぐに身を隠そうとした。しかし、イワンとてインターポール。机に隠れる前、小さな体の左肩を弾丸が抉った。貫通し、血が飛び散る。
「これで私の勝ち! 残ったのは残弾ゼロのチビと、老いた殺し屋。それに、銃を持っていても撃てないヘタレ。これでは、呆気なさ過ぎて……」
瞬間、弾丸が空を切る。イワンの、ついさっき撃たれた場所へ正確に、ベレッタナノから弾丸が発射される。、防弾チョッキを着ていようと、痛いことに変わりはない。それも同じところを続けてならば、イワンにも苦悶の表情が浮き出る。
「いったい誰が……ベレッタでダーティーを弾いたと言ったんだい?」
左肩から胸にかけて失血の酷いエルピスは、右手であるはずのない六発目を放った。
「あの短時間に、予備のマガジンを用意していたのか……? だったら、どこに隠して……」
撃たれた箇所が痛み、防弾チョッキ越しに抑えているイワンは、エルピスの手品の謎が解けないでいる。私ですらわからない。ただ、NSだけは理解していた。「便利屋なら早く終わらせろ」などと、エルピスを急かしている。
「驚きだね……見抜いていたのかい? こっちの隠し玉まで。流石は、No Shadowだ」
何をごちゃごちゃ言っている。怒りと痛みがかけ合わさって、作り笑顔が完全にはがれたイワンへ、エルピスは背中に回したベルトから、厳つい拳銃――マグナムを右手で構えた。
「マガジンはどこにしまったか忘れていたからね。アリスが整理してくれた武器庫の中から、ボクのクラシックコレクションの一つを持ってきたのさ」
イワンが何らかの抵抗をするより先に、その一発が、砲弾チョッキの胸部を強打する。あまりの衝撃から、イワンは倒れた。
「S&W M29……一世紀以上前に作られた、グリズリーでも一発で仕留める44マグナム弾が撃てる……ものすごい衝撃だけれどね……やっぱり、クラシックが一番だ」
出血と、とてもではないがエルピスが片手で使うには衝撃が強すぎるマグナムにより、両手がふさがってしまった。しかし、イワンも動けない。
「貴様……なぜ、そんな博物館物の拳銃を……」
「……父の、影響かな。まあ、君がいくら装弾数の多い新しい銃を使っていても、ボクとしたらどうでもいいけれど……男にしては、度量がないね」
動けない両者。撃ち合いは引き分けに終わったので、エルピスに駆け寄る。
「は、はは……これでしばらくは動けないはずだよ」
「もういい! 喋らないでください!」
駆け寄って応急処置をしようにも、ここには都合よく医療キットなどない。私がスマートフォンで、こういった場合の対処法を検索していたら、NSがため息交じりに席を立ち、激痛で動けないイワンを見下ろしていた。
「俺を裏切ったのなら、覚悟はできているんだろうな」
私と話していた時とは明らかに違う声音で、イワンへ問う。
「魔が差した」。「もうやらない」。「なんでもする」
そんな懇願など聞く耳持たずといった様子で、懐から拳銃を――ワルサーP38を取り出した。
「裏切りには報復を。いつ、どんな時代だってそればかりは守られてきた」
だから、死ね。激痛でかすれた声で命乞いをするイワンの脳天を、一切の容赦なく撃ちぬいた。そして、私の方を向く。
「これでわかっただろう。ここはお前のいるべき世界ではない。とっととこの場を去れ」
言われなくても去る。エルピスに肩を貸したが、NSは眉間にしわを寄せた。
「その小娘を連れていくのか」
「当たり前じゃないですか」。私は至極当然に口にしたが、NSは「許さない」と、銃口をエルピスへ向けた。
「ッ!」
トリガーに指をかけ、もう後一秒もあれば、エルピスが撃たれるという、すんでのところで、私が盾になった。NSは撃てなくなるも、銃口はそのままだ。
「捨てていけ。その小娘がいる限り、お前は裏の世界から出ていけない」
「捨てろって……エルピスは! ……エルピスは、私の友達です。たった一人の友達で、同じ父に育てられた兄弟でもあります! 捨てるなんて、私にはできません」
「だから捨てろと言っている。裏の世界の友達など作るな」
「この……分からず屋のエゴイスト!」
いったんエルピスを床に寝かせ、コルトを抜いて構えた。私の陰になっていて、エルピスは撃たれない。しかし、指先の震えが止まらない。人を撃つということがどれだけ重大な事なのか、まだ、受け止めきれていないのだ。
「……言っておくぞ、アリス。俺なら、跳弾で後ろにいる小娘を殺すこともできる。それだけ震えていては、この距離でも当たらないだろう。だから、黙って捨てていけ。もう血を見るな」
凄み、というやつだろうか。NSの刃物のような眼ヒカルが、私を氷漬けにしたかのように動けなくする。
「所詮、犯罪者の一人も撃てない。お前はずっと夢を見ていたとでも考えろ。そろそろ表の世界に戻って、夢から覚めるんだ」
それは、この状態のエルピスを見捨てることになる。見捨てなくても、NSなら殺せる。どうしたらいいのか。冷汗が頬を伝って、床に零れ落ちたエルピスの血液と混じった時、NSの胸元から着信音が流れる。たったそれだけのことに、NSはひどく狼狽していた。
「まさか」。NSは胸ポケットからスマートフォンを取り出すと、すぐにタッチする。すると、スピーカーとして、聞き馴染んだ声がする。
「エルピスを殺したら、一生恨むから」
二十一年間耳にしてきた声が、聞こえてくる。
「おかあ、さん……?」
スピーカーから聞こえてくる声は、間違いなく母のものだった。なぜなのか、どうして電話などできるのか。疑問がいくつも浮かびながら、母はもう一度言う。「エルピスを殺すな」と。
NSは、非常に困惑していた。かつて愛して、今でも愛している母――ソフィアの声に、視線が泳いでいた。
「この番号を、まだ覚えているとはな……」
ようやく口にできたのが、そんなものだ。だがNSは電話越しに「そう何度も願いは通じない」とだけ伝えて、電話を切った。
「運がよかったな、何でも屋の小娘。だがお前は邪魔だ。その傷で生き残ったとしても、アリスのために処分する」
わかったら、出ていけ。カウンター席に座りなおしたNSをしり目に、エルピスに肩を貸して、このバーを出る。外はもう夕暮れ時で、病院など見当たらないが、ここはスウィープとは違い、スマートフォンの地図アプリは起動できた。
「あった!」
メルセデスベンツがバーの横に造られた駐車場にあったので、NSから受け取ったキーで扉のロックを解除する。エルピスは助手席に乗せて、止血代わりにシートベルトをギュウギュウにしめた。
あとは病院だ。出血量は、体の小さなエルピスにとっては致命的なものにつながりかねない。しかし、銃創のある患者を受け入れてくれる病院などあるのか……
「絶対に……絶対に助けますからね!」
無茶を口走っていることくらい百も承知だ。しかし、こうなったら神頼みでも何でもする。
すると、スマートフォンが着信音を奏でた。
こんな時に誰だと画面に目を向ければ、
「え……?」
死人が口を開いていた。