8
片手間で作ったシュークリームとマフィンを皿に乗せて捜査を再開する。いちいち美味しいと感想を貰えるので、作った甲斐があったというものだ。
とはいえ、操作は真剣に行う。紙媒体とUSBに残されたデータはまだまだあるのだから。
そんな捜査が一週間に及ぶ頃、私はエルピスに護衛されながらゴミを捨てて、武器庫もしっかり埃を払って安全な位置に戻していた。エルピスともすっかり打ち解けて、少なくなりつつあるデータを調べては、一休みに映画を見て、私の作ったお菓子を食べる。コーヒーも付け足して、たまに仮眠を取り、もうそろそろ、夕日が沈むころ合いに、エルピスがどこか遠くを眺めているように私を見つめた。茶化すわけでも、冗談を言うのでもない。本気で伝えるべきことがあると、その表情が物語っていた
「アインヘルムを開業して……何年だったかな。もう忘れるほどに一人で駆け抜けてきた。女はいたけれど、数日の付き合いさ。こんな掃きだめにいつまでもいてくれる人はいない――君を除いて」
また、女だからとからかうのか。いや、そんな様子ではない。まさか本気で告白でもするのか。固唾を飲んで、エルピスの続きを待った。すると、少し笑った。
「口説くつもりはないよ。君はいつか一生を添い遂げる相手を見つけて、幸せになるべきだ。でも、君みたいに引っ込み思案だと、それはずいぶん先になる。君やヒカルの推理に比べたら幼稚なものだけれど、そうだろう?」
思わず頷いてしまった。父からも、そんなに慎重だと行き遅れるだとか言われていたのだから。
「その、なにが言いたいのでしょう」
答えを急いだわけではない。ただ重要な事だと、そう思ったからだ。エルピスは一息つくと、私の瞳を見つめて小さな口を開いた。
「アインヘルムに来ないかな」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。エルピスも、しおらしい顔で微笑んでいる。
「この一週間、君については観察させてもらったよ。料理が得意で、お菓子も作れて、家事全般と、ゴミの処理から朝の目覚ましにもなってくれた。このデータの山だって、君はなんでもないようにしていたけれど、適切な場所に適切なデータを移して、紙は色別のクリアファイルにしっかり分けていた……撃ち合うか殴り合うかしかできないボクとは、大違いなほどに、人間としてしっかりしている。だから君を雇いたい」
言葉が出ない。職業については、すぐに小鳥遊探偵事務所で働くか、社会勉強のために人と触れ合う仕事をするか。いろいろと考えてはいた。
友達のいない私は、自らの道を満足に行くために、一人ぼっちでも頑張ってきた。
もしかしたら、これは、その行いが認められた証なのだろうか。神様なり仏様なりがいて、私のことを見ていてくれたのだろうか。
言葉の出ない私に、エルピスは慌てていた。
「もちろん、給料はそこらの新卒じゃ話にならないほど出すよ! 現場でドンパチするのはボクだけで、君には今までおろそかだった書類の整理とか、依頼主ごとのデータ化とか、そういうのを頼むつもりだ。ついでに朝起こしてもらって、御飯も作ってもらって、たまに声のかかる頭を使う仕事を手伝ってもらって……どう、かな」
珍しく、エルピスが縮こまっている。そんな姿は見たことがなかったので、思わず笑いだしそうだった。
「その、お誘いはうれしいです。残りの大学生活も、就活に追われなくて済みますし、父のいない今、身の振り方に迷いがありましたから……ですが、まだこの事件は終わっていません。お母さんだって、意識が戻っていません。ですから、全部が終わってからじゃダメでしょうか」
俯きがちに聞いてみれば、エルピスも頷いている。
「全部……そうだね。全部終わってからだ。だけど、もう近いと思うよ。見ての通り、データも数少ない。犯人の目星がつくのだって、もうあと一日か二日で済むよ」
残っているデータは、最近の父が残したものばかりだ。二十代の若きマフィア時代から調べていたので、ここまで時間がかかった。
これが調べ終われば、きっと犯人は見つかる。ここまで父が残していた神経質の極みともいえるデータ群からして、間違いない。
「全部終わったら、面接を受けます」
「じゃあ、最高の形で終わりを迎えよう」
これで父が生きていれば、どう反応しただろうか。スウィープに行くなど言語道断だと、過保護な父親が嫁に行く娘を止めるようにしていただろうか。
とにかく終わりは近い。もうひと頑張り、とA4用紙に手を伸ばしたら、ポケットのスマートフォンが振動した。誰かと発信主を見れば、ジェイムスだった。
何の用だろうか。小鳥遊探偵事務所の清掃など、とっくに終わっているはずだ。捜査もこちらが行っているので、もう話すこともないのだろうと思っていただけに意外だった。
「はい、小鳥遊ですが……え? テレビ? ええ、はい。ちょっと待ってください」
急を要する事態が起きた。ジェイムスはまずそう告げて、テレビをつけるように急かした。エルピスにその旨を伝えると、DVDの繋がる大型テレビに、信じられない映像が――「NS」という文字が映っていた。
「私はNS。つい先ほど、アメリカの新しい政治家を殺した。そして、小鳥遊ヒカルは私が殺した。小鳥遊ソフィアを撃ったのも私だ。次の死者を出したくなかったら、小鳥遊アリスを差し出せ」
G7各国の文字が七列に並び、こんな文字が映っていたのだ。十秒ほど、政治家の遺体もテレビに映った。
紛れもなくNSからのメッセージだった。データでは、父が母と出会う前から誰よりも危険視していたNSによるものだ。これだけのことができる犯罪者だと、私もこの一週間で知った。
そのNSが私を探している。世界中の言葉を使って、私を見つけ出して……殺すために。
「アリス!」
体中から血の気が引いていた。動機も息も激しくなり、とどまることを知らない。
私は、今現在から世界中で探される。この凶行を止めるための手段として、生贄のように差し出される。
あの時、小鳥遊偵事務所で愛する母が盾になったせいで殺せなかった、最も憎んでいる父の血を引く私を殺すために。
「アリス! しっかりしてくれ!」
体が、無意識のうちに倒れかけていた。エルピスがそれを受け止めたが、この最悪な現状に変わりはない。
殺される。探される。NSという脅威は、国を超えて知れ渡った。NSを止めるためなら、私の命一つくらい差し出されて当然だ。
「これで三度目だ! いいかい、よく聞くんだ。君がここにいると知っているのは、誰だい?」
何の意味が。そう思い理解する。どこの誰が、普通の女子高生がスウィープなどに身を置いていると考えるか。
「一人だけ、います。ジェイムスさんが……」
そう言いかけて、通話がそのままだったことに気づく。耳に当てれば、ジェイムスは勤めて冷静な声で口にした。他言しないと。
「だったら、いません。誰も……」
「なら、ここにいるんだ。念のための逃げ道も、このアインヘルムにはある。今は、じっとここいるんだ」
それでは、父の仇がうてない……NSを相手に、うつ? 今になって無理難題過ぎて笑えてくる。
父ですら、生け捕りにするのをあきらめた相手。その亡霊に、私が勝つなどありえない。
「……少し、寝ます。睡眠薬ならたくさんあるので……寝かせてください」
エルピスは黙って首を縦に振った。
――もう、いやだ。
~~~
有効成分としてフルニトラゼパムを含む、ベンゾジアゼピン系の睡眠薬を、規定量の三倍は飲み込んだ。どんな医者が診察してもオーバードーズとカルテに記載されるが、世界中から指名手配された、などという状態からして、こうでもしないと眠れる気がしなかった。
普段はこんな馬鹿みたいな量など飲む気にはならない。そもそも、頓服薬として持ち歩いていた。こんなオーバードーズでは、過剰な睡眠薬が血中に溶けるのに時間がかかり、丸一日はまともに歩くこともままならず、呂律も回らなくなるだろう。
私は逃げたのだ。受け入れがたい現実から。逃避したい事態から。逃げるのは甘えだとか、睡眠薬の飲み過ぎはよくないだとか、そんなことをもしも私に対して言うのならば、想像してみてほしい。
生まれてからずっと生きてきた家は風穴だらけで、父は死に、母は意識不明の重体。葬儀の手続きも母の入院もこなして、こんな掃きだめにまで丸腰でやってきて、男たちに襲われかけた。どうにかチームを組めて、めげずに犯人探しに尽力していたら、父ですら生け捕りにできなかった殺し屋の亡霊が、私を世界中で名指しした。警察はもちろんのこと、調べてみて判明したことだが、NSは各機関に最悪の殺し屋として語り継がれている。過去には、FBIやCIA、インターポールまでもが草の根わけても探し出そうとしていた。だというのに、No Shadowの呼び名通り、その影すら踏めなかった。
その殺し屋が、私を探している。亡霊が、死者の世界から復讐しに来た。一介の女子高生には、重たすぎるどころではない。すでに潰れてペシャンコだ。
そこをすんでのところで支えてくれているのは、エルピスと、スウィープのアインヘルムという隠れ蓑だ。一日や二日で、ここにいることを知られるわけがない。微弱ながらも、私が私を失わずにいられるのは、そのおかげだ。
「お父さん……お母さん……」
意識がオーバードーズで無理やり眠りへと落ちていく間、頼りたい「親」という存在。いつまでもいてくれて、助けてくれると、ある意味期待していた二人。そのどちらも、私の窮地に駆けつけてこられない。
「……エルピス」
小さくて男の子みたいな裏の世界の何でも屋。私が今頼れるのは、彼女しかいないのだろうか。
他に誰か、と思い浮かべようとしてジェイムスの顔が浮かんだころ、私の意識を睡眠薬が持っていった。
けたたましい音がする。また悪夢だろうか。夢まで私を虐めに来たのか。耳を塞ぐように意識してみる。けれど、けたたましい音――聞き覚えのある音は止まろうとしない。
いったいどんな悪夢なのだ。また泥の中に沈むのか。なら、またエルピスが助けてくれるのか。
……いや、どうにも違う。人の気配がしない。というよりも、意識は目覚めているようにも感じる。やかましい音は止む気配はなく、私は目をほんの少しだけ開いた。すっかり夜で、目覚まし時計は深夜の二時を指している。中途半端な時間だ。私はまだ眠っていたかったのに。
「はぁ……」
ため息を一つ吐き、昼間の映像を思い出す。世界への犯行声明とも呼べる映像は、一度眠った後でも、恐怖が薄れない。
だから鳴りやんでくれ。耳を塞いで、このままもう一度眠りにつこうとする。それでも、この音は止まない。
仕方がない。私は起き上がる。オーバードーズのせいで、足元はおぼつかなき、意識だって半分夢の中だ。音が止めば、すぐにだって眠れてしまう。
眠りを妨げる要因を排除すれば、私の現実逃避は朝までは継続する。一分一秒でも逃げていたいので、音がどこから聞こえてくるのか探すと、机に置きっぱなしのスマートフォンだった。
「サイレントモードにしていたはず……」
なぜ音が――着信音がするのか。このままではエルピスを起こしてしまうので、非通知電話に出た。悪質な嫌がらせだろうか。とにかく耳に当てれば、夢かと勘違いしそうな言葉が聞こえてくる。
「アリス。聞こえているかな。いいかい、よく聞くんだ。考え方と、見方を変えなさい。そうすれ
ば、お前なら乗り越えられる」
「おとう、さん……?」
父の声がした。確かに父の声だった。普通の眠りならハッキリ目が覚めそうなところだが、生憎とオーバードーズで意識を保っているのもやっとだ。
「覚えているんだよ」。父の声はそれを言い終えると、プツンと通話が途切れる。
夢? 現実? いや、父は死んだはずだ。この目で、棺桶に入った父が埋められていくのを見た。
現実と今の意識とで照らし合わせて、早急にエルピスと話し合う必要がある。もし父が生きていたのなら、私たちの使える手段は何倍にも膨れ上がる。
しかし、オーバードーズが私を眠りの世界に引きずり込む。スマートフォンを机に落として、意識とは関係なく、ベッドに倒れこんだ。
幻聴かもしれない。夢かもしれない。でも、もしも現実だったら――なんてことを、眠りに飲み込まれながら考えていた。
~~~
次に目が覚めたのは、習慣通り朝の六時半だった。睡眠薬は無事に血中に溶け切ったのだろう。
普段なら、まず顔を洗う。だが私は、真っ先に机の上にあるスマートフォンを掴んだ。興奮気味に指紋認証を済ませて、着信履歴を確認する。
「誰も、いない……?」
あの時聞こえた父の声。間違うはずもない。しかし、着信履歴には、昨日のジェイムスからの電話が最後となっている。
夢を見ていたのだろうか。それともオカルト気味になるが、天国の父が助けに来てくれたのか。
「見方と、考え方……」
父はいつだって、私に的確なアドバイスをくれた。ならば、たとえ幻聴や夢の中でも、現状を打破する改善策として、その二つを伝えたのかもしれない。
だったら熟考だ。顔を洗うのも、歯磨きも、寝癖直しも、シャワーさえ後回しにして、目覚めたばかりの頭をフル回転させる。
「見方」。これは、今の私を包む状況――全世界への犯行声明に対し、別の視点から見ろ、ということだろうか。NSが私一人だけを探すために、テレビジャックまでした。そこまでして殺したいのか。父、小鳥遊ヒカルの娘だからと、影すら踏ませぬ老いた殺し屋は、私を狙うのか。
……待て、小鳥遊ヒカルの娘? 当たり前だ。私は小鳥遊ヒカルと、母ソフィア・アバカロフとの間に生まれた娘だ。この体の半分は父の物でも、もう片方は、NSの愛した母の物だ。その事実は、「考え方」に繋がる。NSは私を殺すのだろうかということにだ。
私を殺した後には心の底から愛した母が孤独に苛まれるというのに、息の根を止めるのだろうか。
違う。父の残したデータには母への証言もあった。監禁するような歪んだ愛情に見えるかもしれないが、確かな愛を感じていた。過去に父とNSが撃ち合った際、母が盾となったのでNSは撃てなかったともデータの山にはあった。それだけ愛した女の娘――殺せない。NSは殺し屋としては優れているかもしれないが、感情を殺した殺人マシーンではない。人を愛し、愛されることを望むのだ。
だったら、私を名指しして世界に語り掛けたのはなぜか……これも「考え方」だ。見つけて殺す。それだけなら大々的に声明を出すとは考えづらい。警察だけではなく、FBIやCIAにも身柄を確保される。その後にNSに差し出される交換条件となるか……そんなことはない。一夜寝てみて考えが変わった。安全を保障されるように手厚く保護されるだろう。
つまり殺したいのなら、こんな真似はしない。
「あ……」
殺されない。保護される。しかし、スウィープのアインヘルムに私がいることを知る人物はジェイムスしかいない。他言しないと約束してくれたのなら、私とエルピスの捜査は、まだ継続される。
「考え方」。そう、考え方だ。今、世界中でNSに一番コンタクトを取りやすい人物は誰か。
「おはよう~……」
寝癖だらけのエルピスが扉をノックして入ってくる。朝ごはんの支度は私の役割なので、この部屋を訪れたのだろう。そんなエルピスへ、糸口に気づくことができたと口にする。
NSは世界中の機関を使い私を探し、私は父のデータもとにNSを探す。磁石のように、それらは互いを求める。
世界で一番NSに近いのは、私なのだから。
~~~
自分でもびっくりしていた。あんな犯罪予告とセットになって名指しされたというのに、まさか夢か現実とも区別がつかない父の助言のおかげで、データのサルベージに取り組めている。マフィア時代のデータは、まだNSを知らなかった可能性の高い若いころから、三十前半までに分けておいた。ほかにも、中途半端な探偵業をしていた年代のものに分けて、真っ先に調べるのは、父と母がNSという共通点でつながる四十歳からプラスマイナス三年の範囲と、この一年だ。
あれだけ落ち込んでいたというのに、なぜこうも捜査に取り組めるのか。エルピスは不思議そうにしながら、私の分けたデータからNSの名を探す。図太い神経だな、などと思われているのだろうか。父も母も、そういう面では分厚かったらしいので、遺伝かもしれない。
遺伝。その人の一生が凝縮された物を受け取るということ。この捜査もよく似ている。父についてデータの海で知らなかったことを知ることによって、新しい父の在り方が見いだせたように、このNSに対しても、日記のようなデータから頭の中に構築されていく。
一つ、男性であること。エルピスが知っていたのでそこまで重要な事ではないが、人違いや見落としを避けられる。
二つ、無駄な殺しは行わないということ。あくまで依頼されたターゲットか、表の世界と裏の世界のバランスを崩す相手しか殺していない。あの映像に映された政治家も、一夜で中国マフィアとのつながりが露見した。アメリカのマフィアたちを抑え込んで、中国マフィアが裏の世界を牛耳るように手を回していたのだ。
今のところは、この二つだけだ。しかし、ちょっとした問題が浮上した。頭痛の種であり、エルピスもソファーに寝転がりながらSNSを開いている。
「どんな時代も、馬鹿はいるものだね」
昨日のテレビジャックは正真正銘世界中で流れた。アメリカやロシアの富裕層から、あばら家で寝泊まりする田舎者まで、私の存在は知れわたった。もちろん、NSの名も。
エルピスが馬鹿な事をする、とぼやいたのは、当事者の苦労も知らない愉快犯たちだった。
自分こそがNSだ。私が小鳥遊アリスだ。ネットには、NSと小鳥遊アリスの名が並んでいる。どこもかしこも愉快犯だらけだ。
とはいえ、これはいい傾向かもしれない。SNSを用いての愉快犯たちは、ふざけてコスプレをしていたり、私とNSを対峙させて、おもちゃの銃で撃ち合うような動画が多い。しかし、中には自分こそが小鳥遊アリスだと、深刻なツイートを投稿している人もいる。同姓同名か、なにかしらNSと関係があるのか。ただ心の病んだ人の妄想か。
愉快犯から妄想まで世界規模なので、その数は計り知れない。捜査の合間に目を通してみたが、全てを見るには父のデータをサルベージするより数百倍時間がかかり、無駄に終わるだろう。
だが、いい傾向とはまさにこれだ。
私を探しているNSは、世界中でふざけている人々から邪魔をされる。警察に出頭した人もいるそうだ。NSがどのような網を世界に敷いているのか、それこそ妄想の範囲だが、こんな滅茶苦茶体な情報の中で、私一人を見つけ出せるか。ただでさえスウィープにいるというのに、判別できるのか。
難しいだろう。私は、馬鹿な人たちを新たな隠れ蓑として利用させてもらうことにした。
~~~
そろそろアインヘルムに来て二週間が経つだろうか。入念に調べつくしたデータの中から、ようやくNSについて焦点をあてたデータが見つかった。なんの変哲ないUSBで、中には「NS」とだけ打ち込まれたファイルがあった。すぐさま向かいのソファーに寝転がってタバコを吹かしていたエルピスに声をかける。思わず、加えていたタバコを落とす程度には驚いてくれたようで、こちらへと回ってきた。
「開き、ますよ……」
鬼が出るか蛇が出るか。マウスのカーソルをファイルに当てて、ダブルクリックで開く。
しばしのロードを挟み、ディスプレイいっぱいに、父の残したNSに対するデータが姿を現す。小鳥遊探偵事務所を襲う一週間前に、現場で使われた粗悪品のマシンガンを買ったこと。その他、タバコ、酒、薬、それと……
「花?」
物騒な物か嗜好品くらいしか買い取られていない中に、小さく真っ白な花弁の花が――シロツメクサが「予約」買取されていた。受取日の指定はなく、ページを下へと進ませていたが、ここまでしか調べられなかったようだ。
だが、花? 何のためだろう。予約で購入したということは、いつか受け取りに行くわけだ。趣味だろうか。世界で恐れられている殺し屋が、花を愛でるというのだろうか。
「シロツメクサの花言葉は復讐」
ふと、エルピスが口にする。
「詳しいですね」
「ボクだって女だよ。こんな顔でメイクもしないけれど、大人の女らしいことくらいするさ」
「花を愛でるのは、そういうわけですか」
「だって、美しいじゃないか。映画と一緒で、種というフィルムがある限り色合いが褪せることはない。品種改良でどんどん新しい花が作られても、すべてが違った美しさを抱いている。クリスマスツリーのてっぺんにあるベツヘレムの星は、真っ白で見惚れてしまう。色合いだけなら君の顔に似ているね。それに比べて、ボクときたら……似合う花はないね。花言葉だけなら、クフェアの自由気ままくらいしか当てはまらない」
クフェアがどんな花なのか、スマートフォンで調べてみたら、赤く小さな花だった。こういう場合、同情は控えるべきだろう。
しかし、どんな目的なのか。花言葉とNSの相関を黙考してみるも、殺し屋に花は見合わない、という答えに……
いや、もしかしたら――
画面をスクロールしながら、花の行き先を推理できたが、それ以上に重要な情報が羅列されていた。
「これって……!」
ファイルの中には、編集したのか、NSと大きく画面上部に表示され、その下に真っ先に知るべきだった真実が、画像と共に残されていた。
「やっぱり、生きていた……」
ディスプレイに映る画像には、父がまだ四十歳前後に、NSを「生け捕り」にし、薄暗い鉄格子に閉じ込めていた。
ようやくNSの姿を知れた。パッと見たところ、身長は百八十から百八十五。引き締まった体をしていて、髪の毛は銀色とも違う銀灰色をスポーツ刈りのように短くしていた。
NSの姿かたちは知れた。なら、内面はどういったものか。精密に知るために、画面をスライドさせていく。そこには、父の苦悩が綴られていた。
NSとの撃ち合いの際、母が盾となったので、撃ち返されなかった。しかし、父は殺しをただの一度も行ってこなかった。
そんな父は、NSすら殺せなかった。手足を撃ち抜いて無力化させ、警察にレクレールの名で居場所を伝えた。しかし、とうの昔にNSは各国の警察たちに恩を売っていた。法では裁けないマフィアやギャング。テロリストなどの暗殺依頼を請け負って、実行してきた。故に、あっという間に自由の身となった。父はそれを誰よりも早く知り、マフィアの引退と合わせて、手足の自由が利かないNSを捕らえ、どこかの地下室に幽閉していたのだ。
苦悩はここから始まる。NSを幽閉した四十代から五十代は、私という子供ができたので、なかなか監視に行けなかった。探偵業と子育て、それから家族サービスを行いながら、どこかの地下にいるNSを確認しに行く。そのたびにNSは体を鍛えて、食事用のホークやナイフで鉄格子を削っていた。家族のことと、自らの年齢。父はこのままではNSが脱獄するのも時間の問題だと、小鳥遊探偵事務所が襲われる一か月前から懸念していた。
それは、まさに大当たりだったわけだ。
「で、どうするんだい、名探偵」
「どうするもこうするも、さっき話した通りです。NSは私を殺せません。特別な理由があるのは確実ですが、今の私たちにできることは……待つこと、だけでしょうか」
「待つって……最終的にはどうするんだよ。ここにいるのが見つかって、殺されなくても対面した時、君はどうしたいのか。そろそろ決めてもらうよ」
腕を組んで、ほんの少し声が強かったエルピスは、霊園からこっち、迷っていたNSへの報復を私に問う。殺すか、生け捕りか。そもそも、そんな悠長なことをできる暇はあるのか。
改めて現状を確認してみる。NSは殺し屋として世界で暗躍し、父は、そのNSを二十年は幽閉していた。私にどんな用があるのかわからないが、父の二十年間の幽閉はやり過ぎだ。恨まれて当然で、殺されたって文句は言えない。
それでも、私の胸の内には復讐心が燃えている。調べ、見つけ出し、殺す……のか。結局こんなことになっても、私の覚悟は固まっていない。
返答がないからか、エルピスはタバコを灰皿に捨てて、スマートフォンの画面を寝転がりながら見ていた。私は覚悟を決めるか否か、そんな迷いを抱いていたわけだが、エルピスが跳ねるように飛び上がった。
「リモコン取って!」
血相を変えたエルピスへ、こちら側にあったリモコンを手渡す。
「まさか、またテレビジャックですか」
「大当たり。世界中のテレビに、三分前からタイマーが表示されているみたいなんだ」
その言葉に間違いはなく、黒い背景に二十と表示された。タイマーはゼロに向かって時を刻み、運命の時とも呼べる時間が訪れると、男女が二人、目隠しをされ、さるぐつわもされ、椅子に縛り付けてある。その背後に「NS」と書かれた仮面をかぶる男がいた。仮面の男は、懐から二つのスマートフォンを取り出した。
「ここにいる二人だが、どうやら俺と小鳥遊アリスらしい。まさか、自分から名乗り出てくれるとも、体が分身していたとは知らなかったよ」
声は生のそれだ。仮面越しでくぐもっているが、NS本人の声で間違いないだろう。
仮面の男は、そのスマートフォンを薄暗いどこかの一室に放り投げた。
「俺たちの世界には同じ腕の奴は二人といらない。そして小鳥遊アリスはロシアとのハーフで銀髪だ。なら、お前たちはどうだ。男にしては細い奴と、黒髪でアジア系の顔をしているように見えるが」
二人とも必死に抵抗――助かろうと懇願している。椅子をガタガタとさせているだけだが、あれでは弁明すらできない。その二人の目隠しを、仮面の男は取った。そして見せつける。
「ワルサーPPK。あのジェームズ・ボンドが使っていた拳銃だ。これで死んだら、あの世で歴代のジェームズ・ボンドに挨拶してこい」
命乞いなどできるはずもない。私もエルピスも、何一つ助けになることなどできない。
ただ見ているだけの私たちへよく見えるように、固定されたカメラへワルサーを押し付けると、何のためらいもなく、振り返りざまに二人まとめて撃った。脳天を撃ち抜かれ、弾丸の衝撃で、椅子が倒れる。
「頭を狙ったのは間違いか。頭蓋骨が邪魔をして、殺しきれないかもしれないからな」
画面外の男女二人に、仮面の男はマガジンから弾丸が尽きるまで撃つと、血飛沫が飛び散る。それがついたカメラを拭い、仮面の男は画面越しから忠告した。「馬鹿騒ぎを続けるのなら、死者はもっと増えるぞ」。そうとだけ言い残して、画面は元のトーク番組に戻る。当然、現場は混沌としていた。
――少しばかり不味くなったかもしれない。
NSの必要以上に人を殺さないという情報が覆されてしまう。私は無事でいられるかもしれないが、万が一アインヘルムが狙われたら、エルピスの命までは保証できなくなったのだ。
「エルピス、あの……この一件のことなんですが……」
「当てようか? ボクが殺されるかもって思っていたろう?」
まさにその通りで、「どうしてわかったのですか」と疑問を投げかける。答えは、私が懸念していたそのものだった。
「ボクを生かしておく必要はないからね。君さえ捕まえるか連れていくかしたら、ボクはその場で殺される……いいじゃないか。スリルがあって」
撃たれて死ぬかもしれないというのに、この余裕たっぷりなのは、自分の腕に自信があるからか。NSに対して資料を漁っていたので、情報面では有利だからか。
「とはいっても、ベレッタじゃ六発で打ち止めだ。口径も小さいから、そこまで頼りにできない」
ならば。エルピスは立ち上がると、いったん奥に引っ込んだ。武器庫の方から音がするが、何をしているのだろうか。
とにかく、今の私にできることは、受け身に徹すること。どんな組織、NS本人、この際何でもいい。調べつくしたデータを実践すれば、切り抜けられるだろうから。