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なにか息苦しいと、そう感じたのが始まりだった。私の周りが、泥で埋め尽くされている。
泥沼の中で、私は喘いでいた。眼前にはたっぷりの銃弾をその身に浴びた父の亡骸と、心電図が音を立てて、心臓の鼓動が止まった母が、まるで底なし沼のような泥に飲まれている。
必死に手を伸ばすけれど、泥沼に足を取られてうまく進めない。このまま沈んでしまうのだろうか。母も防腐処理もされないまま、黴菌だらけの泥沼の底の底へ沈んでしまう。私ですら、誰の手も届かず、見つけてもらうことすらなく、そこにいたことすら忘れられてしまうのか。
「あなたも来るのよ。この下には死者の世界が広がっているの」
顔の半分を泥沼に沈めた母が、生きているはずもないのに声をかけてきた。違う。私は行かない。私はまだ、死んでいない。死者の世界になど、行きたくない。
「それでも来るの。だって私たちは家族でしょう? とっても仲のいい探偵一家。ほら、見てごらん。その胸を」
怖かった。ただ純粋に母の語る言葉が怖く、自分の胸を見るという行為さえ、ためらってしまう。
「ほら、早く」
急かされて、私は呼吸を荒くしながら胸に手を当てる。そこには、あるはずのない穴があって、ドロドロと血が流れ落ちている。足元の泥と混ざって、趣味の悪い絵画のような混沌とした色合いを見せている。
「私、死んだの?」
泥中の父と母に問いかける。目を閉じていた父もギョロリとこちらを眼に映し、二人一緒に「ああそうだよ。一緒に行こう」。そう、私に語り掛ける。
「今までのは全部夢。あの事務所で撃たれたあなたが死ぬ前に見ていた夢。全部、ぜーんぶ死に際の夢」
父は、もう見えない。狂ったように笑う母も、その体の大半を泥の中に埋めていた。
嫌だ。嫌だ。まだ死にたくない。死んでいるはずもない。まだ、初恋だってしていない。友達だっていない。ずっと一人ぼっちで、日傘をさして、二十一年間……
――あれ、私は二十一年間、なにをしてきた?
銃の撃ち方を学んだ? 格闘術を身に着けた? 影なしと呼ばれて、性の悪い男に言い寄られていた?
それらの何を指して、生きていると言える? そもそも、生きているとはなんだ。ズブズブと体が泥に沈みながら、私は胸から血を流して、哲学的な考えにも飲み込まれていた。
人は誰かと一緒だから生きていると実感できる。数々の映画では、人と人とのつながりが喜びであり、苦しみであり、愛情であり、憎しみだった。それらを纏めて生きているというのではないか。
なら、一人ぼっちだった私は死んでいたようなものなのだろうか。
ずっと遠くに、手をつないで肩を寄せ合っている男女がいる。身に着けている服装は、なんの変哲もないパーカーだというのに、とても暖かそうだ。体の表面で感じる温もりではない。心の底から湧いてくる、誰かと共にいるから感じられる暖かさ。私には頭で理解できても実感できない。実感できる時も来ない。だって、生きている時は一人ぼっちで、こうして死んでいるのだから。
ああ、そういえばそうだ。別に、いつだって死んでいるようなものじゃないか。
この泥の先にある死者の国で、私はまた家族と一緒になれる。唯一のつながりだ。私が唯一、生の充足を得られていたのは家族との時間だ。
頭まで泥に浸かっても、不思議と息は出来ていた。ゆるりゆるりと落ちていく感覚に苛まれながら、私は膝を抱えて丸くなった。
もうすぐ、また一緒になれる。乱射事件で私は死んで、父も母も死んで、その先で、また再会するのだ。悪いことはしていないのだから、地獄にはいかないだろう。
そうして、私はどこかに落ちた。泥だらけの体で、周りを見渡してみる。
おかしいな。誰もいない。ただ、闇が広がっている。意識の及ぶ範囲に、ただただ、虚空が広がっている。人影はおろか、だれの気配もしない。
暗闇の中で、私は空を見上げた。そこには、あの乱射現場が映っていた。父も、母も、私も死んでいる。そして、黒いフードと黒マスクの男が、その顔を見せた。人の物であって、そうでない顔。髑髏の顔をさらして、私に告げる。これが死だと。永遠の孤独こそが、本当の死だと。
「あ、ああああ……!」
孤独。死ぬまでとかではない。永遠に孤独。それは私に深い絶望を植え付ける。ずっと一人だったというのに、死んでまで、一人ぼっちなのか。
お父さんもお母さんも、あの泥の中で別れてしまったのか。
嫌だ。この先ずっと、こんな暗いところで独りなんて嫌だ。嫌だ。嫌だ。いや――
その時、誰かの温もりが、私の孤独を照らした。
「あ……」
暗い。それに変わりはない。でも、目の前にはしっかりと、人がいた。もしかしたら、人生最初の友達になってくれるかもしれない、小さな何でも屋が。
「酷くうなされていたよ。隣の部屋まで聞こえてくるくらい、聞いたこともないような……なんだろう。嗚咽、かな。とにかく苦しそうだったから無理やり起こしたけれど……大丈夫かい?」
今のは、夢……? 酷く現実味があったけれど、ただの悪夢だったのか?
確かなのは、ここにエルピスが居てくれた。ここに、ただ居てくれたことだ。胸には穴なんて開いていなく、この心臓は脈動を続けている。両目から、暖かな雫が垂れた。
「エルピス、さん……」
思わず抱きしめていた。背の低いエルピスだから、ベッドに座りなおした私と、目の高さは同じで、恋人のように強く抱きしめていた。
「ここは、現実ですよね……私は、生きているんですよね……」
一人じゃ、ないんですよね。
たぶん、伝わらない。自分でも何を口走っているのか、把握しきれていないのだから。それでも、エルピスは優しく抱きしめ返してくれた。子供をあやす親のように、優しい声音で大丈夫だと言ってくれた。
「ここはアインヘルムの寝室で、君はしっかり生きていて、残念ながら女だけれど、ボクがいる。こんな小さな体でいいのなら、ずっと抱きしめてるといいよ」
その好意に、私は甘えることにした。軽い不眠症と、謎の襲撃者。この二週間の葬儀の手続きや、母の容態の変化に一喜一憂する毎日。正直、一人の女子大生には重たすぎる現実の連続だった。
「……不眠症って、寝ているときに、どうなるか知っていますか」
誰かに聞いてほしかった、私にしかわからない痛み。今なら、すべてぶつけられる気がして、自然と言葉を紡いでいた。エルピスは、黙ったままでいてくれている。
「眠りが浅いと、夢がリアルになるんです。決まって、いつも悪夢なんです。ナイフで刺されたら、痛くないはずなのに、熱くて、ドロドロ血が流れていく感覚がして――夢なのか現実なのか区別がつかなくなるんです。見たこともない人と、行ったこともない場所にいて、手を取られるんです。なにも感じないはずなのに、冷たくて、怖くて……」
なにも、不眠症に限った話ではないのだろう。でも、私は眠りに対しての健常者よりも、そういう体験が多かった。一人ぼっちだからだれにも相談できず、父と母にも心配を掛けたくないから黙っていた。
それを、エルピスにすべてぶちまけた。困るだろう。どう対応したらいいのか、わからないだろう。そのはずなのに、エルピスは優しく頭を撫でてくれた。
「ボクだって、あるよ、そういうこと。ここはスウィープだからね。それに、昔のこともある。ヒカルに言われた通りに、アインヘルムは防弾どころかダイナマイトでも壊れない造りだけれど、時々不安になる。誰かが、徹底して頑丈にした扉の鍵を開けて、ボクが築いたなにもかもを奪って、犯されて、最後には殺される……そんな夢を、たまに見るよ。だから、一人で苦しまなくていいんだよ。まだ出会って一日とだって経っていないけれど、君はヒカルの娘で、ボクもまた、似たようなものだ。それに、ボクたちはチームだろう? 相棒が苦しんでいるのなら、それを取り除く手伝いくらいするのは当然さ」
ありがとう。たったそれだけが、口から出てこない。初めて同調してくれたエルピスへの、感謝の念が、なかなか出てこない。
だから、いつか伝えよう。この一件を早く解決させて、エルピスともっと仲良しになって、母も無事に回復して……そんな未来で、この一夜の悪夢から救ってくれたお礼をしよう。共感してくれたお礼もしよう。抱きしめて、抱きしめ返してくれたお礼もしよう。
「で、どうだい? 一人で眠れるかな」
埃をかぶった目覚まし時計に目をやれば、月明かりを受けて、まだ深夜の二時を指していた。データの山を紐解く作業に集中するためにも、しっかりと寝ておかなくてはならない。
でも、やっぱり怖い。また、あの髑髏が現われるのではないのかと、眠るという行為に恐怖心を感じている。どんな動物でも簡単にできる「眠る」ということが、今の私にはできない。
察してくれたのか、エルピスは背中をポンポンと叩いて、私のベッドにもぐりこんできた。
「なに、変なことはしないよ。君にその気がないことは百も承知だ。けれど、眠らないと、捜査も捗らない。しかしながら、君は一人じゃ眠れない。で、ボクは女と寝ることには慣れている。一晩だけ、そうだね……お泊り会ってことにしよう。そんな歳じゃないだろうけれど、一回くらい体験しておいていいんじゃないかな」
伝える感謝が、また一つ増えた。コクリと頷いて、私もエルピスの横で目を閉じる。すぐ隣には、確かな温もりがあって、あの悪夢から感じていた恐怖が崩れていくようだった。氷のように冷たい孤独な悪夢だったから、人肌で溶けているのだろうか。それは少し、詩的過ぎるか。
とにかく、私の眠りは保証されたと、ウトウトしていた。恐怖もなく、寝苦しくもなく、いつの間にか、私の意識は眠りの世界に包まれていた。
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探偵とは、人と密接に関わる職業だ。犯人の傾向を探るため、どのような人間関係があり、どこへ通い、何をしているのか。癖はなんなのか。趣味はなんなのか。政治的にはどのような考えを持つのか。その人物に染み付いた人生という雲のように掴めない情報を掴むため、誰よりも被害者に対して、ある意味で「友人」になる必要がある。小鳥遊探偵事務所の二号店を造って、私にそこのオーナーを任せようとしていた父からは、その心得とも呼べる在り方を受け継いでいる。
厳密にいうのなら、しつこく教えてきた、というのが正しいようにも思えるが、この多国化の進んだ時代で、たくさんの言葉をしゃべることができるのなら、これもまた一つの処世術だ。
しかしながら、私には友達がいなかった。友人になるということは、コミュニケーション技術に長けていなければならないわけで、私はそこが欠けていた。だが友達がいなくても、何度か、私の推理が事件の解決を導いたことがある。
地味な人探しや周辺整理とかではなく、警察でも行き詰った殺人を含む事件だから解けたのだろう。加えて、義務教育のおかげでG7各国の言葉は完璧なネイティブではないが、ちょっとなまっている程度には話せるので、解決の助けになった。
そんな友達のいない私でも、願ってもいいだろうか。あの夜、泥の中に沈み、髑髏に永遠の孤独を突き付けられた悪夢。そういう夢には慣れているつもりだったというのに、恐ろしくてたまらなかった絶望。
そこから救い上げてくれたエルピスとは、探偵として捜査を続けるためだけではなく、本当の意味で友達になりたいと。苦しい時、辛い時、二十一年間の人生で付き添ってくれたのは、自分だけだ。強がって、父にも母にも頼らなかった。友達もいなかったので、いつだって一人で抱えて、人間の体が怪我や病気を自然治癒力で治していくように、時間に任せていた。
それでいいと、割り切っていた。一人でもなんとかなると――諦めていた、のかもしれない。影なしなどと指さされるボッチなのだと。友達だって作ろうとは思えなかった。一人で映画を見ているほうがマシ。そういう風に、上っ面だけの友情を私の方からも避けていた。
しかし、エルピスは違った。他の誰と何が違う? と聞かれたら、たくさんの答えがあり過ぎて困ってしまう。
父が育てたもう一人の娘であり、この事件に今のところ真剣に、かつ、報酬金もなしに働いてくれている。私を悪夢から助けてくれて、ついさっきまで一緒に眠ってくれた、初めて友達以上にもなりうるかもしれない人。
それに、ここにはしばらく泊めてもらうだろう。小鳥遊探偵事務所は、二階の部屋こそ空いているが、正直言って、まだ帰りたくない。スウィープは危険なので、横浜のホテルで過ごすかとも一考したが、わざわざ運んできたデータ類を持ち込むのは時間とお金の無駄だ。
危険なスウィープでも、ここならある意味安心できる。ダイナマイトでも壊れない造りのアインヘルムに、エルピスというガンマン。エルピスを頼りにするマフィアもいるようなので、NSだろうと、他の誰かだろうと、簡単に手出しはできない。私個人の意見として、エルピスと友達になりたいというのもあるが。
色々な理由をこね繰り合わせた結果、私はしばらくここにいるので、捜査を円滑に進め、私の欲求を満たすために、エルピスの友達になる算段をつけている。具体的には、何をエルピスにやるか決めていなかったので、チラッとアンティークな時計に目をやる。
午前の十時過ぎを指しているが、エルピスは私と一緒に眠ったベッドの上で、未だに寝ている。私は朝の六時半には起きる習慣があったので、それに付き合わせるのもなんだと思い、起こさないようにベッドから出たのだが、そんな気遣いなど必要なかったかもしれない。
一人でデータを調べようかとも、クリアファイルに手を伸ばしかけて、しばらくの住居となるアインヘルムを知らないでいた。エルピスは好きに見ていいと言ったので、客をもてなす長机とソファーのある部屋から、廊下に出る。昨日は二階の寝室しか案内されなかったので、どんな内装なのかと回ってみれば、変な臭いがする。裏口なのか、廊下の先から来る臭いのもとへ行ってみれば、つい咳き込んでしまった。
「なに、これ……」
客をもてなす、いわば事務所の中央から奥に進むと、空になったエナジードリンクが、ほかのゴミと一緒にゴミ袋から零れ落ちている。強炭酸が故のキツイ臭いが、缶の底に残った微々たるエナジードリンクから漂ってくる。一袋だけとか、そんな生易しい物ではなく、山のように積み重なっていて、ちょっとしたごみ処理場で処分される前の廃棄物程には山になっている。
タバコを吸うか、エナジードリンクを飲んでいたエルピスならば、これだけ溜まるのも納得がいくが、なぜ捨てないのか。しかし、これはちょっとしたチャンスかもしれない。
「まず一」
スマートフォンのメモアプリに、「ゴミ処理」が追加される。
次に廊下に出て突き当たったのは、頑丈な扉で閉ざされた一室だった。鍵はかかっていなかったので開けてみると、四畳半ほどの部屋の中に、あらゆる銃器が乱雑に散らかっていた。
父からの教えで、銃については詳しい。その他の地雷や手榴弾、ロケットランチャーやライフルなども頭に詰まっているが、ここには私が十代半ばで教わった全てが転がっている。まるで戦争でもしに行く準備でもしていたように。
「S&W M29って、ダーティーハリーじゃないんですから」
作中、世界で一番強力な拳銃として扱われた、一世紀以上前に作られたマグナムを手に取って、被っている埃を吐息で吹き飛ばす。
メモアプリには、「銃器の整理整頓」が並んだ。
アインヘルムの一階はこんなところだろうか。二階はエルピスの寝室と、貸してもらったもう一つの部屋くらいしかない。
しかし、そろそろ十時半だ。
不眠症を患っているので、眠りというものの大切さは知っている。せっかく自然に眠れているというのに、妨げるのは気が引けたが、起きてくれないと捜査もできない。幸せそうに眠り呆けているエルピスの体を揺らす。
「起きてください。もうすぐお昼ですよ」
誰もがはとっくに学校で勉強するか仕事をはじめている時間だ。仕事が休みで、特に予定がない人でも、こんな時間までは眠らない。
エルピスはぼんやりと眼を開けて、口を大きく開けると、あくびをした。そうして、ウトウトとしながら私を視界に捉えると、面倒くさそうにため息をつく。
「アインヘルムは、週休七日だよ。あとで調べる手伝いはするけれど、まだ眠っていたいんだ。二度寝で見る夢は、奇想天外で面白いからね」
若干呂律の回っていないエルピスだったが、私は決めていた。捜査を進めるため、友人になるため、この自堕落で適当な生活を改めてやろうと。
「タイムイズマネーです。朝食なら作りますから、シャワーを浴びておいてください」
朝食。エルピスはその一言に、口を開こうとしてやめていた。キッチンならあったはずだが、ガスが通っていないとでもいうのか。
エルピスをシャワーに送り、事務所中央の冷蔵庫を開ける。いつもここからエナジードリンクを取り出していたエルピスには、よく尽きないな、と流し目で見ていたが、冷蔵庫の中身に頭痛を覚える。
「……三、食料調達」
家電良品店に並ぶ、一人暮らし用の冷蔵庫には、エナジードリンクがザっと三十本と、コンビニ弁当しかない。積み重なっていて、下にある物を見てみれば、賞味期限ギリギリの、ハンバーグ弁当が潰されかけていた。こんな食生活では、いつ体調を崩しても文句が言えない。
とにかく、エルピスとの距離を詰めるため、シャワーを浴び終えるまでに、何かしら作らなくては。小鳥遊家は、何でもこなすイメージのある父は料理音痴で、母はロシア生まれで、偏見かもしれないが、料理は得意ではなかった。二十代は絶世の美人だったアイススケートの選手も、コーチになるころにはブヨブヨに太っているように、ロシアの食生活は筆舌に尽くしがたい。
そういうわけなので、五歳くらいのころから料理については学び、小鳥遊家の食卓は、私の手料理だった。三食栄養があり、カロリーもとり過ぎない食事をレシピ本で学び、磨き抜かれた料理の腕を振るって作っていたのだ。
しかし、ここにある物では、ろくなものが作れない。とりあえず、積まれているコンビニ弁当を下からいくつか取り出し、賞味期限を確認してから、奥のキッチンへと運ぶ。料理器具そのものは揃っていたが、使われた形跡はない。活躍させてやろうと、まずはコンビニ弁当を並べて、入っている料理を吟味する。どれもこれもカロリーや栄養面では許しがたいものだったが、いくつか目星をつけると、電子レンジに一つずつ入れていく。
数十秒ごとに出来上がるコンビニ弁当から、無駄に多い皿に、できるだけ栄養を気に掛けながら品を並べていく。私も朝がまだだったので、二人分だ。
ハンバーグやカツといった、朝から食べるには重たいものは切り分けて二つの皿に盛り、主張の小さな野菜はかき集めて、蓋にくっついていたドレッシングをかける。インスタントのコーンポタージュもあったので、それも温めて深い皿に注ぎ、最後に、賞味期限に余裕のあるコンビニ弁当から、白いご飯を盛り付けた。
我ながら、ありあわせどころか、インスタントをかき集めただけの朝食は上手くいったのではないか、などと、今回は使わない料理をタッパーに入れながら満足げにしておく。
ちょうどエルピスもシャワーを浴び終えたようだ。トレイに乗せた朝食を、データ類をどかして、長机に置く。亜麻色の髪をタオルで拭いて出てきたエルピスは、呆気に取られていた。
「ええと、記憶が正しかったら、そんな食材なんてないはずなんだけれど……」
「放っておいたら賞味期限どころか消費期限まで切れそうなお弁当がありましたので、それで作らせていただきました」
ついでにコーヒーとシュガースティックをエルピスの座る方へ置いておいたので、まだ夢を見ているかのようなエルピスは、まずそこから手を付けた。シュガースティック五本の入ったコーヒーを喉に流し込み、ようやく現実だと目が覚めたようだ。
「この場合は、いただきますでいいのかな」
「食事のたびに神様へお祈りをする習慣があるのならばお好きにどうぞ。私はいい加減お腹がすいたので、先に食べています」
「見たことも聞いたことも、ましてや救ってもらったことすらない神なんて信じないよ」
つまりはそんな習慣はない。エルピスは箸を手に半分にしておいたハンバーグから食べ始める。口直しにご飯にも手をつけ、コーヒーにも手を伸ばす。
「なんというか、美味しいけれど、食べなれたものばかりだね。感謝はしているけれどさ」
「調味料がなかったんですから仕方ないです。これでも、こうして泊めてもらって捜査にも協力してもらっている、せめてもの恩返しです」
とはいったものの、いつまでもコンビニ弁当をバラしているだけでは、底が尽きる。捜査も、軽く見積もって一週間はかかる。その間、またコンビニ弁当を買いに行かれては、小鳥遊家の料理長である私が許さない。
「行きたいところがあるんですが、いいでしょうか」
エルピスはコーヒーを口に含み、「ん?」と見上げる。そこで私は答えた。横浜にあるスーパーと。
「料理のできる女はモテるっていうけれど、あまりやり過ぎると疲れるよ」
「いえ、食材を集めて料理にするくらいなら、疲れるなんてことはないです」
「作ったことがないから、なんとも言えないね……あれ、電話だ」
早々に出ようとしていたが、エルピスの足が止まる。どうやら、スマートフォンを耳に押し付け。少し待つように制され、通話が終わるのを待つと、「面倒ごと」とぼやいた。
「マフィアとかギャングとか、そういう表の社会から見たら疎ましい連中を排除しようって考えの政治家が、アメリカの政治界で重役に着いたとさ」
エルピスにとっては、仕事場であるスウィープになんらかの影響があるかもしれないニュースに、ため息をついていた。
「まあ、今までもそういう輩はいた。たいてい、お金で転んでいたけれどね」
特には気にしていないようだったので、私たちはスーパーへと向かった。
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朝食を済ませ、フィアットに乗って訪れた横浜のスーパー。なんにも特別な物なんてなく、せいぜいドローンが天井付近を飛び、万引きを防止している程度だろうか。レジも、アンドロイドがこなしている。父の若いころは学生からフリーターまでアルバイト先の有力候補だったスーパーも、機械に乗っ取られたのだ。
「へぇ、これがスーパーねぇ」
入ったことがないのか、キョロキョロと店内を見渡していた。挙動不審で職務質問でもされたら、エルピスが頑なに離さなかったベレッタが見つかり、事となる。ちょっとした冷や汗をかきながら、カートに食材を入れていく。
「なにか好き嫌いとかありますか? アレルギーとか、そういうのもあったら教えてください」
「なんだか家政婦みたいだね。ま、好き嫌いとかはないよ。そんなのがあったら、今頃ボクは餓死している」
孤児だったころと、父に拾われてからの数年。その後の孤児院暮らしでも、好き嫌いなど許されなかっただろうし、許す気もなかったのだろう。だったら腕によりをかけて、栄養満点で美味しい食事を用意してみせる。
意気揚々と食材をカートに詰めていく私に、エルピスは不思議そうな顔をしていた。なにかあったのか。知り合いでもいたのか。おせっかいかもしれないが話しかけてみる。「気がかりなことはあるのか」。当たり前のように。
少しばかり悩んだエルピスは、私が不思議だと答えた。
「君は依頼人で、ヒカルの娘で、一応同じ立場のチームだ。でも、なんで君はここまで……なんていうかな、ちょっと恥ずかしいけれど……」
どもったエルピスは、頬を叩いて私を見据えた。
「なんで、こんなに尽くしてくれるの」
尽くす。私はその一言に、否定を心に抱いた。これはあくまで友達になりたいからであって、尽くすなんて大仰な事をしているつもりはない。
でも、嫌がられていたり、鬱陶しいと思われていたら、こういった行動は慎まなくてはならない。
「ああ、いや、嫌じゃないんだよ。ボクは普段料理しないし、たまに横浜に出てきては、コンビニ弁当で食事は済ませていたからね。こういうスーパーで一から料理を作ってくれようとする君は、正直うれしいよ」
しかし、なぜここまでするのか。嫌ではないと伝わったのでホッとしたまま、笑って見せて、「友達になりたい」。なんて臆面もなく口にしていた。
「なんでしょうね、ホント。出会って二日なのに、エルピスさんにはたくさん助けられてばかりです」
「た、助けたって、悪夢から起こしてあげただけだろう?」
また、どもった。クールで掴みどころのないエルピスはどこへやら。私は、本当に心の底からを伝えることにした。
「お父さんが育てた、もう一人の娘みたいなものではないですか。それに、嫌な顔一つせずに、この一件に携わってくれています。あの悪夢だって、二十一年の人生で、最悪だったかもしれないんです。そこから救ってもらった……他にもある要素を付け足したら、友達になりたいなって、素直に思えたんです」
恥ずかしいことを口にしている。しかし、不思議と羞恥心はない。エルピスの方は顔を赤くしながら、首筋をポリポリと掻いて、「エルピスでいい」と、チラチラ私へ視線をやった。
「とも、だち、なんだろ? ボクにはいなかったから、どういうものが友達なのかわからないけれど、朝ごはんはあり合わせでも美味しかったし、早くに起こしてくれたから、一日を無駄にせずに済んだ。だから、敬称はいらないよ」
あの時間で早くというのなら、普段はどうしていたのだろうか。疑問はわいたが、今聞くことでもないだろう。
「ヒカルの娘で、クライアントで、チームで……それで友達になれるのなら、ボクとしても、いいかもしれない」
なんだろう。父が死に、母は重体。犯人も知れていないというのに、心には、暖かなものが生まれた気がする。もっと、違う形で出会いたかった。
「では、エルピスさん……じゃなくて、エルピスは、何か食べたいものとかありますか」
名前呼びに照れているエルピスだが、向こうも友達として認めてくれたのか。なんとなくいつもの調子を取り戻したような素振りを見せると、「甘い物」と、安売りしていたクッキーの詰め合わせを指さした。
「朝は食べたばっかりだからね。捜査のついでに食べられるものがいいかな」
「でしたら、一から作った方が美味しいものが作れます。予算はかさみますが」
「それくらい出すよ。大学生って、自由に見えて、意外と忙しいんだろう? バイトをしているような感じもしないし、ボクが払うよ」
「ああ、いえ、お金ならあるんです。百五十万か、二百万弱か……手元にも、常に十万円はおいていますから」
クレジットカードは、大学を出て社会人になってからと止められていたので持っていないが、甘いお菓子を作るくらいなら痛手にもならない。
「……二百万弱って、言ったよね」
「え……あ、はい」
どこか、不穏なエルピスが、私を見る目つきを変えた。
「君は普通の女子大生。バイト経験もなさそうで、友達もいなかったから人付き合いも苦手……どうやって稼いだんだい。まさか、脂ぎったオジサンたちに、体を売って……」
「~~! 私の貞操は、生涯を共にする相手が現われるまで守り続けているんです!」
カッとなって大声になったが、エルピスは納得していない。
「だって、二百万だよ? 教習所に通って、中型のバイク買って、ヘルメットやボックスにお金かけても余るほどだ。何をどうしたら、一介の女子大生が、そんなに稼げるのかな」
「なんでって、それは……」
言われて、なぜか、と腕を組む。いつも普通に銀行へ納められていて、あまり大金を出したことはない。やたらとお金のかかるメイク道具も、肌が弱いのと、あまり流行やブランドに興味がなかったので最低限だ。最低限、人の中を歩いていておかしく思われない程度。日傘のせいで、それも薄まってはいるが。
どこで得た金だったか。黙考の末、「あれら」があったと思い出す。
「父が別の仕事で忙しい時の接客とか、そもそもの依頼を私が受けていたりとかしていましたから。父でも解決できなかった事件の解決にも何度か力を貸しましたので、そういうところからの謝礼金とか、お父さんから働いたのだから給料を払うだとかで、いつの間にか溜まっていました」
いくら父が激動の人生を送っていても、男性なのだ。そこからでは見えない、女性からしか見つけられない証拠があった。そこから独自に推理して、解決した事件は、なんとか両手で数えられるくらいだ。
「そういうわけなので、お金の方はご心配なさらず。お菓子作りも趣味でよく作っていましたから」
さて、何を作ろうか。そんな考えに浸ろうとすれば、エルピスは笑っていた。
「いや、なに、君が思っていたよりも立派でさ。ヒカルでも解けない事件を解決したんだろう? それは誇ることだし、ボクも尊敬するよ。加えて、料理が得意とまできた」
「料理だけじゃなくて、家事全般はこなせますよ。母は不器用でしたから。料理を作っているうちに、いつの間にか家事にも手を付けていたんです。エルピスと友達になるために、こんなメモまで残していたんですから」
スマートフォンの、メモアプリを開いて見せる。ゴミ処理や銃器の整頓などが並んでいる画面を見て、「一人では手が回らなかった」と、言い訳のように誤魔化していた。
「しかし、それだけの技量に、どこへお嫁に出しても問題ない能力。おまけに銃だって撃てて、昨日はあっという間にデータを捌いていった……」
一度、エルピスが口を閉じた。不快にさせるようなことはしていないはずだが、どうしたのだろうか。声を掛けようとして、「まだ考える」と、よくわからない言葉ではぐらかされた。
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アインヘルム内と離れ過ぎない距離を見て、色々とやることをメモアプリに追加していった結果、まるでメイドか家政婦のような事をするようになっていた。
まずは溜まったゴミとこれから溜まっていくゴミの捨て先だ。スウィープにはゴミ収集車なんて来ないので、自分で捨てに行かなければならない。
だが、スウィープを一人で、更にゴミ袋を持って歩くのは危険だ。ということで、まずはエルピスに車を出してもらう日を決めた。これからどれだけここにいるのかわからないので、とりあえず週二日は出してもらおうと決めた。しかし、エルピスの飲むエナジードリンクの量とタバコの吸い殻は二日ではどうしようもなく溢れてしまう。今までどうしていたのか聞いても、仕事のついでにそこら辺に捨てていたとかで、まったく参考にならない。
それに、エルピスもわざわざ車を出すのが面倒なようだ。週休七日を掲げているのだから面倒くさがりなのはわかっていたが、このままではゴミ屋敷になってしまう。
「逆に聞きますが、いつだったら車を出すんですか」
なんてことを聞くと、「買い出しの時?」のように決まった日にちはない。しかし、決まっていないだけで車自体は出すのだ。
エルピスの買い出しは、大きく分けて二つ。「エナジードリンク」と「タバコ」だ。それら二つは、エルピスにとって欠かせない趣向品であり、エナジードリンクみタバコもスウィープでは法外な値段だ。つまり車を出して横浜に買いに行くので、その時に持っていくとした。
「で、どこに捨てるのさ」
今日がその日だった。私は行きの道で建物に背を預けていたり、ゴミを漁っている人を見つけては、帰りに車を止めてもらい、代わりに捨ててもらうよう、いくらかの手間賃を払って頼んだ。エルピスは不思議そうに、「お金払ってまで、なんで渡すの」と聞いてくる。どうやら、エルピスにそこら辺の常識や責任といった感情はないようだ。
「放置したら、普通怒られるものです。ですから、その責任をお金で買ったんですよ」
「お偉いことで。あの二人の教育のたまものかな?」
「ただの常識ですよ……」
「呆れられても困るな。ボクは常識を教えてくれる親がいなかったんだから」
そうは言うが、一応孤児院にいたのではないかと聞く。帰ってきたのは大きなため息と愚痴だったが。
「外面だけはいい子供好きの変態が集まった施設だったんだよ。それに、狭い部屋に三十人が雑魚寝だよ? 国籍もバラバラで、ほとんど誰がなにを言っているのかわからないんだ」
「それは、その……大変でしたね」
「大変なんてもんじゃない!」。エルピスは運転しながら声を荒げた。
「朝起きる時は誰かが鼠に耳なり指なりを齧られた悲鳴で起きて! 怒ってやってきた大人が平気で殴ってきて! その齧られた傷も殴った跡も、書類上では「無かったこと」になってるんだ! こればかりはヒカルを恨んだね」
マフィアを騙し、悪を裁いていた父でも万能ではなかったのだ。もはや父から謝罪の言葉を貰うことすら叶わないので、代わりに謝っておいた。プイッと顔を逸らし、「本人じゃなきゃ許さない」と、ずいぶん根に持っていたようだが。
「まぁとりあえず、ゴミ問題は解決しましたね。次は……」
と、メモアプリを目にする私に、エルピスは「ご苦労だね」と笑っていた。
「そんなに常識とか世間体って大事かな」
ふとエルピスが言った言葉に、私は顔を向ける。
「いや、だからさ、そんなの守ってなんになるのって思わない?」
言われるも、私にはピンとこない感覚だった。言葉にしようとしても、「そういう風に教えられたから」としか言えない。
「誰が教えたんでしょう……」
「ん?」
「そういう常識ですよ」
「そりゃ、親とか学校なんじゃないの? ボクにはいなかったし行ったこともないから知らないけどさ」
果たしてそうだろうか。父や母から教わったかと聞かれても、明確に「常識はこうだ」とは教わっていない。学校だってそうだ。道徳の授業や生活についての授業こそあれ、確かなものとして教わっていない。
考えてみて、私はエルピスに「洗脳?」だなんて口にしていた。
「なぜか知りませんが、いつの間にか頭に入っていたとしか……」
「いつの間にか、ゴミをそこら辺に捨てたらいけないとか、責任があるだろうとか頭にあったの? なんだかそれ、怖いね」
「自分でも、なんだか不気味に感じてます……」
本当にいつのまに「あった」のか。誰からも教えられず、手本を毎日見ていたというわけでもないのに、どうしてだろう。
「少なくともスウィープじゃ、そんなものは誰も考えていないね。車で通るだけでもよく見えたろう? 路頭で寝る人や、タバコをポイ捨てする人。ボクはああいう人たちと一緒なわけだからなんとも思わないけど、君はおそらく違う。顔に出てたからね」
言われ、顔に手をやる。無意識のうちに出ていたのなら、本当に洗脳でもされたようだと思う。
「まぁあれじゃないかな、育った環境ってやつだよ」
「環境一つで、そうも変わりますかね」
「そりゃとっても変わるよ。問題をゴミじゃなくて人の命に代えてみればよく分かる。ボクにとって、他人の命は売り物みたいなものだ。人によって値段が違うのさ。ヒカルやソフィアの値段は、ボクの中では法外に高くて決して傷つけられない品だけど、そこらのチンピラは二束三文で手放してもいい。なんならいらないって捨ててもいいくらいにね」
少しゾッとした。命を物に例えるとは、私には絶対にできないのだから。
そんな様子を察してか、エルピスは「誤解しないでくれよ?」と口にする。
「あくまで例えだからさ。そうだなぁ、興味があるかないかだよ。君からしたら常識の一つは、興味があるから大切に守るんだ」
「興味、ですか」
「そ、興味。ゴミをしっかり捨てないと世間体が悪いって興味を示しているから、それに対して真摯に取り組むんだ。命だって同じだよ。興味のある人の命だから大切だと思える。でも地球の裏にいる名前も顔も性別もわからない人の命は、誰だってそんなに興味ない。ゴミもそうだろ? ブラジルでゴミ問題が起きたとして、君はどう思う? 精々対岸の火事くらいだろ? そりゃそうだ、目に見えない場所でちょっと問題になっていても、自分たちとは関係ない。興味の対象にはならないんだ。自分のいる環境の中でしか興味は示せない。そういうことさ」
エルピスはそう締めくくった。なんとなく納得してしまうあたり、この小さな見た目でも年上なのだと思い直す。
「ですが、これからは私がアインヘルム内のことに興味を持って生活しますから。事件が解決するまでとはいえ、ここは私の環境になってしまいましたからね」
どうぞご勝手に。エルピスは適当にあしらった。私も頭を切り替える。今日もこの後、捜査の続きが待っているのだから。