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まず、私たちはエルピスが自称「離れ」と呼ぶ、アインヘルムの裏にある崩れかけの家屋に向かった。ギザギザのコンクリートが露出する中に、赤いフィアットが停めてあった。
助手席に乗ると、エルピスは今時珍しく自動運転ではなくハンドルを握った。スウィープは地図アプリやカーナビに登録されていないからだそうだ。AIも知らないことばかりはどうしようもない。これに乗って、新宿の襲われた事務所を目指す。その前に寄るところがあるらしいが。
スウィープを抜けて横浜に入り、そのまま高速道路へと入る。ここまで来れば自動運転でも問題ないので、ハンドルから手を離して、パーラメントとジッポーを取り出した。
「あれ」
箱の中から一本取りだそうとしていたようだが、どうやらもう無いようだ。どうしたものかと途方に暮れているようなので、私はカバンからタバコを――トレジャラーを取り出した。
「おやおや、これは世界最高級のタバコじゃないか。なんだ、服装とか振る舞いから、こういうものとは縁がないと思っていたけれど――なかなかどうして、悪いものに手を出しているんだね」
「普段は吸わないんですが、たまに、どうしても落ち着きたいときに吸うんです。開けてからずいぶん経つので、しけっているかもしれませんが、よかったらどうぞ」
「いやいや、なかなか吸えたものじゃないからね。ありがたくいただくよ」
取り出した黒いジッポーで火をつけ、深く吸い込んで吐き出す。どこかトロンとした顔つきなのは気のせいではないだろう。
「安物とは違うね。なんていうのかな……雑味がない、とでも言おうかな」
「お気に召したのなら、よかったです」
どうせだから私も吸おうか。一本咥えてライターを探すが、どうにも見つからない。ガサガサとカバンを探しているのが目に映ったのか、エルピスがジッポーを差し出す。
「すいません。ここのところバタバタしていたもので」
「バタバタというより、ドンパチじゃないかな」
的を得ているが、少々不謹慎が過ぎるのではないか。エルピスを睨むように見ると、冗談だと笑っていた。
とりあえず吸って、煙を吐き出す。フィアットは自動でタバコの煙を外に排出させると、エルピスがこちらへ視線を向けた。
「寄るところだけれどもね、霊園なんだ」
霊園。今行くということは、先ほど父が眠った墓標が目的地なわけだ。
「死んだときのために用意してあったろう?」
「え、ええ、家族三人分用意してありました。そんなことまで知っているんですか?」
「ボクからしたら恩人だからね。別れ際に聞いたよ」
どこか遠いところを見るようなエルピスは、「墓参りもかねて」と続けた。
「まずは仕事の前に、ヒカルの墓に挨拶しておかないとね。わざわざボクを頼って君を寄越したんだから、仕事を始める前に顔は見せておかないと」
「律儀、ですね」
「借りを返すだけだよ」
一度高速道路を降りることになるが、エルピスにとっても父は大切な人なのだ。ケジメをつけたいのだろう。私は了承して、自動運転のフィアットの中でトレジャラーを吸っていた。
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初夏だというのにひんやりとした空気の流れる霊園に、私はエルピスに連れられてやってきた。私はついさっき埋められた墓標までエルピスを連れていく。
エルピスは墓標を前に立ち尽くしていた。感情の感じ取れない顔つきからは、つかみどころのない自由人といった、短い時間で見出したエルピスの意志は感じ取れない。
「ウォッカ、だったよね。あなたが好きなのは」
エルピスは言うと、予備のマガジンが詰まる黒いカバンから、アインヘルムにあったウォッカの瓶を取り出して、墓標に流し落とす。酒が飲めないエルピスだが、時折父が遊びに行っていたというので用意していたという。ウォッカの水滴が墓標を伝って落ちていく様を見ながら、エルピスは空を見上げた。
「ボクの名前だけれどもね、親もいなかったから、勝手に決めたんだ。エルピス・フィクサーってね。でも、君の父親――ヒカルが教えてくれたよ。フィクサーは悪い意味があるから、変えたほうがいいって」
そうして道中で買いなおしたパーラメントを咥えて煙を吐き出すと、他にもたくさんのことを学んだと、過ぎ去った過去を思い返していた。
マフィアで高い地位にいたが故に、面倒をあまり見られなかったが、文字の読み方から多国語の喋り方まで教わったと。ついでに銃の撃ち方や、小柄な体を生かした戦い方を叩き込まれた。
パーラメントの煙が、まるで天の国へ届くように昇っていく様を見ていると、ここからが始まりだとエルピスは言う。
「ボクが必ず見つけ出す。裏の世界を自由に動けるボクが、イカレタ殺人鬼に報いを受けさせる」
もしかするとエルピスならば、一人でどうにかしてしまうかもしれない。解決することは望ましいことだが、私にはどうしても引っかかるものがあった。
「……その報復に、私も加えていただけないでしょうか」
なに……? エルピスは怪訝な顔をするが、私は本気だ。父の仇を、まるまる他人へ任せてはいけない。怖がりの私でも、それだけは心に決めていた。とはいえ、エルピスは的確に私を分析した。
「表の世界で平和に暮らしていた君に、なにができるっていうんだい。銃の撃ち方は学んでいても、人を撃ったことはないんだろう?」
確かにそうだ。何度も練習して、数十メートル先の的の真ん中を撃ち抜ける技量はあっても、人を撃ったことはない。それでも、私の意志は――覚悟は揺るがない。
「昔から、私は内気で人見知りで、こんな日傘をさしては変わり者を見る目で見られてきたボッチでした。ですが、父から学びました。覚悟を決める努力をしろと。どんな苦難も乗り越える覚悟を抱いたら、必ず実行して、成し遂げろと。私は、もう覚悟を決めました。スウィープに足を踏み入れる前から、この件に私も加わると決めていたんです」
「覚悟……ヒカルもよく口にしていたね。でも、人を撃つのはそんな簡単な事じゃないよ。万一にも撃った相手が死んでごらん? そうしたら、後戻りはできなくなる。一生、人を殺したという過去がついて回る。それでも来るのかい?」
試すようなエルピスへ、私は探偵の娘であることを忘れたのか、と言い返す。
「なにも、撃つだけが解決策ではありません。今回の一件で、私の推理が謎の人物の居場所を見つけ出せるかもしれません。何をするにしても、見つけなくては意味がありませんしね」
なるほど。エルピスがパーラメントを携帯灰皿に捨て、チームを組む、と言いだした。
「普段は一人で仕事をするボクが、君というクライアントを連れて行かなければならない。そこで、君がクライアントのままだったら、立場的にボクが下になる。一緒に報復に加わるのなら、僕たちはチームとして同一の立場にいなければならないね」
異論はない。私は頷いて肯定する。すると、エルピスはホルスターから拳銃を一丁取り出した。
「ここから、君とボクの復讐劇が始まるわけだけれども、相手はマシンガンを乱射する狂人だ。万が一撃ち合いになった時に、ボクだけが銃を持っていては不利だからね。このコルトディフェンダーを持っておいてくれ。それと、予備のマガジンもね」
渡されたコルトとマガジンは、小さいながらもずっしりと重い。人が人を殺すために作った武器なのだ。命の重さとでも言えるだろうか。とにかく受け取りはしたが、撃ち合いになどならないように祈りながら、私とエルピスのチームは動き出した。