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どんよりとした鈍色の空は、初夏だというのに寒気を感じさせる。こんな日に、父は霊園に埋められるのだ。
本当なら移民のせいもあり、墓標の下に埋められるスペースなどなかった。だが、父はあらかじめ用意していたのだ。
自分と、私と母の墓標を。死ぬ前から死んだ後のことを考えていた父は何がしたかったのか。燃やされて骨壺に押し込まれるのが嫌だったとか、そういう理由だろうか。
父の入った棺は、地の底へと沈んでいく。映画のようにさようなら、なんて幻聴は聞こえることもなく、私の父、小鳥遊ヒカルは地の底で眠りについた。
「行ってくるね、お父さん」
寒気を感じる霊園で父との別れを済ませると、タクシーを拾った。行き先は、横浜の先にあるスウィープだ。
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自動運転のタクシーから見える横浜の景色には、今もランドマークタワーは残っていて、等身大のロボットが大地に立っている。
「目的地まで、あと、五分です」
機械音声ではなく、録音された女性の声が、私の目指すスウィープの入り口までの時間を示した。気づけば、窓から見える景色から人の姿が消えていき、どこか寂しくなっている。
スウィープが乗っ取られたので、代わりの住居として造られた、広さも高さも均一なビルが立ち並んでいるが、あまり人の出入りも見受けられない。
スウィープとは、そういう場所なのだ。いつ、どこから銃弾が飛んでくるのか知れたものではない。入り口には防犯用のアンドロイドが立たされているが、止められはしない。ただ、この先には警察もアンドロイドもいませんよ、と忠告してくれるだけだ。
広さは約、東京ドーム二十二個分。ディズニーランドの二倍だ。私は近づくにつれ、動悸が激しくなるのを感じた。
大丈夫と自分に言い聞かせても、マフィアやテロリストの巣窟に女一人で足を踏み入れるという行為自体が、常人の考えの外だ。私も常人の一人。少し頭がよくて、ハーフで、古い映画好きの女子大生。恐怖を感じて当たり前なのだ。
「目的地に、つきました」
女性のアナウンスが流れ、ここまでの交通費を、すっかり廃れた紙幣で支払う。「ありがとうございました」。その言葉を皮切りに、扉は開き、深呼吸してから日傘をさしてタクシーを出る。来た道を戻っていくタクシーを見送って、真正面のスウィープを視界に捉える。
コンクリートの地面と、むき出しの茶色い地面が露になっているスウィープとの境目で、もう何度目かの深呼吸をする。
ここで、とある人物に用がある。名前しか知らないが、おそらく女性。父が今際の際に私に託した相手なのだから、相応の人物だろう。
行かなくては。私は境目を超える。ここからは、表の世界とは真逆の裏の世界だ。触らぬ神に祟りなしと、捨てられた地。砂埃が舞い、清掃もされていないようなので悪臭もする。
だとしても行かなくてはならないので、スウィープを歩き出した。
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どれほど歩いたか。時間は三十分と経っていないが、似たような景色ばかりで迷いそうだ。なにせ、スウィープは地図アプリやカーナビに登録されていないのだから。
自分の自分の頭に中に地図を作っていくしかない。誰かに聞ければいいのだが、それも難しい。
スウィープとならなければ移民たちの住む新たな地名が付いただろうこの地には、独特な景色がある。造りかけの建物に身を預ける、死んだように生気がない人々だ。肌の色も性別も様々で、心理学を学んできた身としては、希死念慮すら抱いているのではないかと心配になる。
破産して借金取りに追われたか。そもそも住む場所がなかったのか。骨組みだけの建物に身を預ける人々は、そういう絶望に包まれているように見える。
一応、そういう人たちも買い物はするようだ。掘っ立て小屋を勝手に作って、コンビニまがいな店も経営している。並ぶ商品をちらりと見れば、酒やタバコが通常の倍以上の値で売られている。それ以外には、明らかに違法な薬物や注射器が並んでいた。
絶望している人々の中には、手首を注射器の跡で赤く爛れさせ、よだれを垂らしたままの人もいる。いわゆる薬物中毒者だろう。純粋に関わりたくない。
とてもではないが、話しかけられる雰囲気はない。話したら、そちらの世界に飲み込まれてしまいそうだ。
しかしもっと危なっかしい景色もある。
どっしりと構えた厳つい建物。もはや隠す気もないのか、入り口付近に立つ黒いスーツとサングラスの男性は、腰のホルスターに拳銃をしまっている。
そういった人に囲まれた、ゴッドファーザーに出てくるような老人は、マフィアのボスなのか、テロリストの幹部なのか。道を聞くなんて、ことらから攫われに行くようなものだ。
ここはとことん私の知る世界とは違う。踵を返して帰りたい欲求にかられながらも、このスウィープで探す。父が言い残した、あの――
そこで思考は止まった。正確に言うのなら、止まらざるを得なくなった。右肩に、大きな男性の手が置かれたからだ。
恐る恐る振り返る。そこには、屈強で目つきの悪い黒人が三人立っていた。まだ若く、私とたいして変わらないだろうが、裏の世界の住民だと理解するのに時間はかからなかった。
「見かけない顔だ。外から来たのか?」
ニヤケ面の三人は、私を囲もうとしてくる。こんな状況の後に待っていることなど、容易に想像がつく。
連れ去られ、金目の物を奪われ、犯される。最悪、そのままどこかへ売り飛ばされても文句は言えない。
逃げなくては。まだ、横の二人はジリジリと囲もうとしている。私は父に習った通り、右肩に掛けられた手を取ると、そのまま背負い投げした。
こうなるとは予想もしていなかった黒人は、地面に背中を強打して唾を吐き出す。一瞬の事だったので、横の二人の反応も遅れた。逃げるなら、今だ。
日傘を畳んで、カバンに入れて走り出す。ロングスカートなので走りづらかったが、こちらから攻撃してしまった以上、向こうも容赦しないだろう。案の定、血相を変えて追ってきていた。
逃げるため、この三十分間を焦燥と共に思い返す。どこを曲がり、どこに繋がっていたか。土地勘のない私では、隠れられる場所など知らない。交番もないので、目指すはスウィープの境目だ。あそこまで行けば、防犯用のアンドロイドがいる。男三人に追われる私を捉え、脅威を査定した後に守ってくれる。それだけを希望に、ひたすらに走る。
しかし世界とは残酷なもので、うろ覚えな記憶は、造りかけの建物に囲まれた路地裏にたどり着いてしまった。
前も右も左も逃げ場なし。壁を上るなんて不可能で、薄暗い路地裏に、黒人三人が指の関節を鳴らして迫ってくる。
「こ、来ないで……」
もはや、できることは命乞いくらいだ。もちろん、男たちは聞く耳持たずといった様子だ。一歩、また一歩と距離を詰められ、ついに背中が行き止まりにくっついた。
「あ、あああ……」
なにもかも奪われる。金目の物。一生を添い遂げる相手と出会うまで守ると誓った貞操。尊厳。最悪の場合、この命すらも。
詰みだ。膝から崩れ落ちて、震えることしかできない。それでも、誰か。誰か助けてくれと、心が叫ぶ。それは声となって、路地裏に響いた。
「呼んだかな」
目を閉じて、最悪の未来に打ちひしがれていたら、路地裏の入り口から中性的な声がする。いったい誰だと目を開けて見れば、昼間だというのに薄暗い路地裏に、身長百五十センチあるかどうかも怪しい少年がいた。レイヤーカットで半ズボンを穿いて、紫のシャツに黒のベスト姿だ。
何をするというのだ。いったいなにが目的で、私の声に答えたのか。そもそも、スウィープに子供がいたのが驚きだ。
様々な疑問は、男たちの怒声でかき消された。お楽しみを邪魔されたからか、子供相手でも容赦なしといった様子だ。
「に、逃げて!」
何かの間違いでこんな掃きだめに来てしまった少年に、精いっぱいの思いやりを投げかける。三対一で、体格で比べたら話にならない事態に、逃げてくれとしか言えなかった。思春期の子供が描く、襲われている女性を颯爽と現れて助けるなんて都合のいい話などないのだから。
だが、少年は腕を組んで首をかしげていた。目の前には屈強な黒人がいるというのに、脅威の一つとも捉えていない様子だ。
「いい女を見かけたからついて来てみれば……ああ、もしかしてボクを知らないのかな? だとしたら、どこかの組織の新人かな。それか、表の世界だと生きづらいから、わざわざスウィープにやってきたチンピラかな。どちらにしても、いい勉強になると思うよ。この世界には、手を出してはいけない人がいるって知ることができるんだからさ」
呆れ、そして馬鹿にしている。キレたのか、黒人の一人が殴り掛かった。次の瞬間には、少年は殴り飛ばされている。
そう予想していただけに、この事態は想定外だ。
「軽いものだね」
慎重百九十に迫る身長の黒人は、少年が懐に飛び込んだことで、拳は空を切った。代わりに、真下から少年の拳が顎を強打する。その一撃で脳が揺れたのか、黒人の一人はその場に倒れた。
私も、他の二人も驚いて言葉が出ない。子供相手に、大の大人が一撃でやられたのだから。
「このやろう!」
そんな驚きを振り払って、また一人がナイフ片手に走り寄る。
しかし、少年はスライディングするように足元をすり抜けると、そのまま回し蹴りで体勢を崩し、また顎を殴って意識を奪う。
「痛たた……メリケンを持ってくるんだった」
信じられないことに、少年は二人を倒してしまった。残った一人は明らかに狼狽していたが、ホルスターから拳銃を取り出した。
「へぇ、デザートイーグルか。物騒で品のないものを持ち歩いているんだね」
そんなことを言っている場合か。最後の一人は少年目掛けてデザートイーグルを構える。今度こそ終わりだ。目を閉じて、「二発」の弾丸が放たれた音を耳にする。
――二発?
最後の一人の手から、デザートイーグルが宙を舞っていた。どういうわけか。少年に目をやれば、手のひらほどの拳銃を手にしていた。
「わかったかい? 裏の世界には、簡単に手を出してはいけない相手がいるってことを」
拳銃をなぜ持っているのか。それに薄暗く距離もあるというのに、デザートイーグルだけ弾き飛ばした。
この少年は何者なのか。安直な疑問が湧いたが、身の安全が守られて体の力が抜けた。
「まあ、そこの美人さんが無事だから殺しはしないよ。どこかの組織のメンバーなら、面倒ごとになるしね。だけど覚えておくんだよ? 裏の世界の何でも屋、アインヘルムのエルピス・リーラーを敵に回したらどうなるかってね」
冷汗をダラダラと流した黒人は、倒れた二人に肩を貸して、路地裏を出ていく。しかし、この耳でたった今聞いた。アインヘルムのエルピス・リーラーと。
「さてお嬢さん。君にスウィープは似合わない。早く出ていくことをお勧めするよ」
手を差し伸べて、立たせてくれたエルピス・リーラーは、そのまま立ち去りそうだった。
「ま、待ってください!」
そんな言葉しか出なかったが、エルピスは面倒くさそうに振り返った。
「仕事の依頼かい? だったらさっき言ったアインヘルムっていう事務所にきてくれないか。でも、これから映画を見る予定だから。仕事はたぶん受けないよ」
そう言い残し、エルピスは角を曲がって姿を消した。曲がり角まで急いだが、既に遠くにいて、とてもではないが追いつけない。
それでも、見つけた。アインヘルムのエルピス・リーラー。父が今際の際に頼るように言い残した相手。あんな子供だとは思ってもみなかったが、見つけて、事情を説明する必要がある。姿は見えなくなっても、探偵として、父からある程度は仕事の進め方を学んだ。ならば、人一人を見つけることくらい容易い。
まずはどこから調べるか。なんとしてもアインヘルムにたどり着くため、私の頭はフル回転した。