44 不思議な吾亦紅 : 変化
「おはよう涼菜、今日もいい天気だね」
「……おはよう、ございます」
爽やかな陽の光を背に、柔らかい笑みを湛えて東条が挨拶する。
何とか挨拶を返したけれど、いまだにこの状況に慣れないでいる。
待遇改善を直訴してから一週間経った現在、私の置かれた環境は目まぐるしく変わっていった。
一番大きな変化はコレ。
東条が何かにつけて会いに来る様になった事だ。
家族と面会したあの日から東条は明確に変わった。
まず、改めて謝罪を受けた。
空腹だったとはいえストレスを与える為だけ、自分の為だけに、私達家族みんなに辛い思いさせて申し訳ない、と頭を下げた。
私は喉の奥に何かがつっかえて、何も言葉が出てこなかった。
お父さん達は、大事な娘を傷つけた事はとても許せないけれど、自分達が言えた立場ではないから、と苦しそうに答えていた。
お父さん達が帰った後に、私ともっと仲良くなりたい、栄養不足で辛いからって許される事じゃないってわかってるけれど、今はそんな事したくないっていう事だけは理解して欲しい、と悲しそうに言われた。
そんな姿を見たら、許すしか、無かった。
精一杯謝る東条を見つめながら、 私も、逃げ回るのはやめようと決めた。
それからだ。
朝は登校前に必ず挨拶に来る。
必ず私の何処かを褒めてから、食事を一緒に摂る。
褒めるのはほんとに些細な事だ、今日は顔色が良いね、とか、髪型を変えたんだね、似合うよ、とかそんな感じだ。
それから、何気ない会話をしながら食後のお茶を飲み、見送られる。
東条の予定に余裕があれば、学校まで迎えに来る様にもなった。
理事長の息子の登場に、学校がざわつく。
やっと転校時の校長出迎えの噂が治った所だったのに……。
下校のタイミングに合わせて校門に車を着け、わざわざ降りて乗車をフォローしてくる。
初日には周りから悲鳴が上がった。
勿論私も固辞したが、捨てられた犬の目でしょんぼりされてしまって、罪悪感に押しつぶされそうになり、受け入れると、次からも当然の様に行われてしまった。
車に乗ってからは、その日学校であった事や、東条が面白いと思ったことなど、本当に取り留めのない事を話すのだけど、聞き上手で、話上手な東条にいつもあっという間にお屋敷に着いてしまう。
「今日は少し街を歩いてみない?」
「え?」
ウィンドウショッピングをしてみよう、と連れ出され、学生達に人気の街までやって来た。
カラフルで賑やかな店が立ち並び、見た事も無い様なお菓子や食べ物が売られている。
放課後の一時を友達や恋人達と楽しむ沢山の人達。
みんな笑顔で自由に振る舞い、とても楽しそうだ。
その場に居るだけで何だか心が浮き立つ、そんな街。
「ぅ、わぁ……」
空気に当てられ、わくわく、ソワソワしてしまって、あちこちキョロキョロ眺めてしまう。
あ、あっちのわたあめでっかい!三人でシェアしてる。
ふわっ!あれ、あのカップに入ったカットケーキ美味しそう……
見るもの、聞こえるもの、気になるものが多すぎて、目があと三つくらい欲しい。
「何か気になるものがあれば、是非プレゼントさせて欲しい」
周りの人達が見惚れる様な、甘い笑顔でそう言われた瞬間、急展開過ぎて気持ち悪い、何か裏があるのでは?と反射的に考えてしまった。
自分の考えにゾッとした途端、首の後ろに違和感が走る。
「つぅ……っ!」
立ち止まって、首を両手で抑え、痛みに耐える。
ぎりぎりとなにかを捻り取られる様な痛みで、蕾が付いたのだとわかった。
東条の顔色は悪く、唇も指先も震えていた。
ショックを受けたのだろう事は理解できたが、何に対してそうなったのかはわからなかった。
その日は気を利かせた後藤と名月が帰宅を促し、街をまともに歩く事も無く家路についた。
車の中では一言も喋らず、キツく目を瞑っていた横顔が印象的だった。
翌日から東条は、私と仲良くなりたいのだ、と今まで以上に私の部屋に入り浸る様になった。
ほんの少しの時間でも一緒に居たいと、大学の課題を持ち込んだり、稀に急ぎの仕事だ、と名月が書類を持ってきたりする様になった。
課題や仕事の合間にも、お互いの興味のある物や好きな物について色々話をする様になった。
私の宿題とかもあるのであまり沢山は話をしない事もあるが、何と無く東条の為人が見えてきた。
「晃様、こちらを」
「……これは、この支店の在庫を移動させて対応しろ。あと、この業者であれば急ぎで追加を用意してくれるはずだ」
「かしこまりました。その様に手配いたします」
基本的に穏やかで、トラブルには動じない。
働く社員達にも丁寧に対応している。
私にはさっぱりわからない内容だけど、バリバリと仕事をこなしていくその姿は、正直、……かっこよかった。
(おとなのだんせいだぁ…)
普段は優しげな表情が、キリッとするギャップは素敵かもしれない。
動悸が少し激しくなった胸をそっと抑えて、深呼吸する。
チラリと周りを見て、誰も私を見ていないことを確認すると、改めて宿題に取り掛かる。
普段ならすぐに終わる内容なのに、何故か上手く解けなくて、倍以上の時間が掛かってしまう。
それでも、課題の量や難易度の関係で東条よりも早く終わる。
宿題が終わったら本を読んだり、刺繍やお茶の淹れ方なんかを瀧本に習う様になった。
上手く淹れられた時は、東条や名月や後藤に振る舞う事もあった。
東条が何事もなかったかの様に課題も仕事も終わらせると、晩御飯の時間になる。
軽く三倍は食べている私の食事時間は長いが、東条は嬉しそうに、ただ食べている私を眺めている。
正直、少し気持ち悪い。
あまり見ないでほしいが、また、あの捨てられた犬の様な目をされるのが怖くて、視線を合わせずに食事を摂る。
そんな毎日の中で、今日は比較的早くお風呂まで終わって、ソファーで寛いで本を読んでいた。
唐突にバァンッと大きな音を立てて扉が開く。
「男女が親密になる為には、一緒に寝るのが一番だと聞いたんだ。だから今夜は一緒に寝よう!」
とんでも無い事を言いながら入ってきた東条に、悲鳴が上がる。
慌てて追いかけてきた名月が、東条を引き摺って連れ出して行ったが、まだ動悸が治らない。
だめだ、もう、とても疲れた。
……寝よう。
私は寝逃げする事にして、布団を被った。
瀧本が内鍵をしっかりと掛ける音がした。
これで安心して寝られる。




