26 ゲッケイジュ:裏切り 後編
温室で微睡み、いつもの幸せな夢に浸っていると、ふと目が覚めた。
カツン、カツンとヒールが地面を叩く音がする。
「瀧本さん?」
上半身を起こして辺りを見回すが、瀧本は見つからない。
代わりに、通路の向こうからあやのがこちらに歩いてくるのが見えた。
「あやの、さん?」
「……」
聞こえたはずの問い掛けに一切反応は無い。
(なんであやのさん、そんなに怖い顔をしているの?)
ぞくりとイヤな予感が背を走る。
いつも優しそうな微笑みを上品に湛えていたあやのの表情は険しく歪んでいる。
カツン、一際大きく音を立ててあやのは私の前で止まった。
「晃はわたくしのモノだと話したはずですわよね?!」
「え?あの……、なんの……こ、と、です、か?」
あやのがとても怖い顔で私を睨む。
東条があやののモノかどうかはよく分からないけど、確かにあやのは「晃のお嫁さんになる」と言っていた。
でも、だからといって何故、今、私が責められているのだろうか?
お見舞いに来ている事を言っているのだろうか?
そもそも私は東条に興味はないし、むしろ近寄りたくないくらいに怖いのだけれど。
「何のことかわからない」と口にした瞬間、あやのの怒りに火がついた。
「あんなに……、あんなに気に掛けてあげたのに……ッ!」
声は震え、涙を零すあやのは美しい。
けれど、とても怖い。
「晃を一番愛して、支えられるのはわたくしなの!決してポッと出の貴女のような教養のない小娘などではないわ!」
“教養のない小娘”
それは私の事だろうか?
敵意を込めた瞳が私の胸を貫く。
ズキリと痛みが走った。
「何も知らないフリをしてっ、晃を手玉に取って楽しいかしら?!」
「え?え?ちが……」
「違う」と否定しても、晃を誑かす下品な女だとか、その手には乗らないとか、沢山の暴言が返ってくるだけだった。
手玉に取るとか、誑かすとか全くの事実無根だ。
彼が欲しいのは私の『花』だけだ。
私は恋愛対象どころか、人扱いなんてされてはいない。
確かに最近直接危害を加えなくなったけれど、それは私が彼の顔を見て『花』を咲かせられる様になったからだ。
どれだけ言葉をつくして「何のことかわからない」「誤解だ」と繰り返しても信じてもらえない。
それどころかより一層怒り狂うだけだ。
「“知りませんでした”ですって?どの口がそんなことを言うのかしら!」
(もう、なんて言葉を返せばいいかわからない……っ)
悲しくて、悔しくて、溢れる涙を抑えきれず両手で顔を覆った。
でも、それは、あやのの怒りに油を注いだだけだった。
顔を隠している腕を強く引かれ、あやのの怒りに染まった顔でいっぱいになる。
パチン、と乾いた音が温室に響いた。
頬に鋭く走った痛みに、叩かれたのだと理解する。
「この泥棒猫が!」
言葉を吐き捨てたあやのの方が、ひどく傷付いた顔をしていて。
絶対に、何かを誤解している。
でも、あやのに浴びせ掛けられた言葉の数々が心をえぐって、苦しくて、悲しい。
叩かれた頬が痛くて、心はもっと痛くて、涙が止まらない。
萎えた足は、身体は、ちっとも動かず、腕だけをあやのに伸ばした。
「信じてよ……あやのさん……」
あんなに優しかったあやのが、こんなに恐ろしく思える日が来るなんて思ってもみなかった。
後から後から溢れる涙は、瀧本が戻って来てもしばらく止まらなかった。
あやのがブチ切れました。
詳しい事情は次回。
正直「泥棒猫」の件はマジで入れるか悩みましたが、あやのの性格なら言っても構わないだろうとゴーサインを出してます。
シリアスなシーンのはずなのに笑わされた方は申し訳ございません。
 




