20 ルリタマアザミ:傷つく心 前編
「やあ、おかえり」
優しく、穏やかに溢れる声は、私を恐怖で縛り付ける。
指先がカタカタと小刻みに震え始めた。
全身から冷たい汗が噴き出してくる。
ふわりと『花』の香りが広がった。
「いいね、気が利くじゃないか。“ただいま”の代わりかい?」
穏やかに微笑んでいるはずなのに狂気が滲む。
ジリジリと後ろに下がって行くけれど、すぐ後ろには瀧本が立っているので、これ以上は下がれない。
「晃様、いけません。医療班を呼んでおりますのでお待ち下さい」
「そんな事は分かっているよ。君、最近栄養剤、飲んでないんだってね。ちゃんと飲まないと死んじゃうよ?それともオレとのキスの方が好み?」
私と東条の間に立つ瀧本に鋭い視線を一つ向けると、改めて私を見て、とんでもない事を言ってくる。
誰と、誰が、キス、するって?
考えただけでも胃がキリキリする。
確かに初日に夢を見たけれど、それは貴方が坊ちゃんだとは思っていなかったから。
衝撃的な発言に怒って良いのか、恥じらえば良いのか、わからない。
「ねえ、どっち?君にちゃんと栄養摂ってもらわないとさ、気軽に『花』を咲かせてもらえないじゃないか」
肉と魚どっちにする?くらいの気軽さで訊く内容では無いと思う。
東条は一体何を考えているのだろう?
何か言おうと開いた口を、なんと言って良いかわからず閉じる。
「キスが良いならいくらでもしてあげるからさ、もっと、もっと、いっぱい。『 花』咲かせてよ」
うっとりと私の首元に視線を送る東条。
リンゴーンとチャイムが鳴る。
普段は恐ろしいその音が、神の啓示に思える。
急いで玄関に向かうと、医療班の人達が現れた。
寝室で、手早く摘出してもらい、瀧本に頼んで栄養剤を出してもらう。
三本程一気に飲み干すと、瀧本に告げる。
「キスは絶対にイヤです」
「かしこまりました、その様にお伝えしてきます」
困った様な顔でそう答えた瀧本は部屋を出る。
代わりに名月が入って来た。
「失礼しますね」
「きゃあっ!」
一言断りをいれると、ヒョイっと私を抱き上げる。
所謂お姫様抱っこというやつだ。
驚いている間に、丁寧に車椅子に座らされた。
「あ、あの……どこに……」
動悸の激しい胸を押えながら問い掛ける。
名月は無言で車椅子を押す。
でも、この方向は良くない。
ここを右に曲がればすぐにあのサンルームがある。
ーーーメリ
間もなく痛みが首筋を、背中を、貫いていく。
でも痛みを訴えている暇は無い。
(いや、この先は嫌だ!)
車椅子から降りたいのに、今日の麻酔は効きすぎている様で、身体に力が入らない。
(いや、いや、いやっ!)
まるで喉に舌が張り付いたかの様に声も出せない。
心の中の抵抗虚しく、私はあっさりとサンルームに連れ込まれてしまった。
涼菜は偶然だと思っていますが、そんなに都合よく今日だけ麻酔が効き過ぎることなんてあり得ません。




