20話 父と
タイラーは兄に呼び出されていた。
兄というのはこの国の王の事だ、タイラーは王城には仕事の都合でよく来ているが、兄の私室に二人きりの今日は、王と貴族というよりは兄弟としてここにいる。
「どうだ、結婚の方は」
「ええ、とても幸せです」
「そうか、よかった」
兄はしみじみといった。
タイラーの前の結婚は兄と議会の決めたものだった。
タイラーの前妻の不義の妊娠がわかったとき、兄は「別れてもいい」と言ったがタイラーは「自分の子として育てます」と言った。しかし王族の子として托卵を許すわけにはいかないと納得しなかった。兄が何か手を下したのかはわからないが、結果として前妻は男と一緒に消えた。
その時兄は何も言わなかったが、それ以降タイラーの女性関係には口を出さなかった。
しかしタイラーは女遊びなどしなかった。ただ真面目に生きてきた。楽しみも何もなく。
そうすることで、気づかないうちに兄に罪悪感を与えていたのかもしれない。
兄はとても嬉しそうに笑顔を見せていた。
「お前が幸せそうで、嬉しいよ。それで、奥さんの様子はどうだい?」
「ああ、もういつ生まれてもおかしくないと産婆に言われているから、毎朝目が覚めて隣の彼女を見るのが恐ろしい」
兄は笑った。
「生まれてしまえば気分も落ち着くさ。後はもう奥さんに頑張って産んでもらうだけなのだから、そんなにビクビクする必要はない」
「初めての子なんだ、そんな風に平気なふりはできない」
タイラーは派手にため息をついて、両手で顔を覆った。ここのところずっと気分が落ち着かないでいた。家に帰る頃になるとソワソワして、早く帰りつきたくなるし、朝目が覚めると慌てて隣で眠るルビナが苦しんでいないか確認してしまう。こんな日々があと何日続くのかと思うとそれだけで気疲れしてくる。
兄の方はすでに二人子供がいて、息子の王太子は婚約者を探すような歳だ。彼にこの気持ちを分かってもらうのは困難だろう。
はっはっはと笑いながら兄はタイラーの肩を掴んで揺すった。
「まあ、どちらにしてもいつかは産まれるんだ。その時が一番緊張するんだから、今からそんなのじゃ体力が持たないぞ」
全くその通りなのだが、分かっていたからと言って収まるものでもない。タイラーは適当に頷いて話題を変えることにした。
「それで、今日は話が目的で呼んだんですか? それとも何か用が?」
タイラーが訊ねると、兄は少し嫌な顔をした。これから話す事が本人にとっては好ましくないようだ。
「……ああ、そうだったな。父上がお前に会いたいと言っておいでだそうだ。……いや、会わせろと騒いでいるらしい。と言うのが正しいな」
「父上が……」
タイラーも兄の表情の意味がわかった。自分も気分が落ち込む。
二人とも、前王である父のことを好ましく思っていなかった。
あの男は愛情深い父親とは言い難い上、王としても碌なものではなかった。
二人で力を合わせて国を運営していてしみじみと思う。あの男は自分の欲だけで物事を判断していた。そして自分たちの母を虐待して疲れ果てさせ、早死にさせた。
今は議会と兄によって王位剥奪され幽閉されているが、それが許されている理由も、新王である兄に負のイメージがつかないようにする為以上の理由はなかった。酷い独裁者だった父は、処刑されてもなんの問題もなかった。だがタイミングを逃したがために、彼を生かし続けるしか無くなってしまった。国の運営の方が優先で、時間が経ってしまった今となっては、誰一人その汚れ仕事に目を向けるものがいないのだ。金が続く限りは、生かされ続けるだろう。
「話はおそらく、今お前が動いている法改正の事だろう。どこから聞きつけたのか。あの方にはもう関係のない話だと言うのに」
「分かりました、行きます」
タイラーが答えると、兄は渋い顔をした。
「いや、行く必要はない。伝えておきたかっただけだ。だが、お前が行きたいのなら、あの人の言葉にあまり耳を傾けるなとは言っておく。私はお前の考えを支持しているんだ。あの人の考えはこの国には必要ない」
兄は、王として、そして兄としての言葉をタイラーに伝えた。自分がいない状態で弟をあの暴君に合わせるのが心配なのだろう。タイラーは兄の心配をありがたく受け取った。兄はタイラーを今も心配し続けている。兄というのはそういうものなのかもしれない。
タイラーは落ち着いた笑顔で兄に答えた。
「はい、わかっています。話をしたらまた報告に来ます」
前王が居るのは、王城の敷地内の奥の奥にある暗い塔の中だ。足を踏み入れると、冷えた空気に包まれた。這い上がるような冷気が足元に満ちている。
ここに来たのはこれが初めてではないが、細かい記憶が残っていないくらいには久しぶりだ。父の入れられた部屋は階段をいくつも登った所にあることは覚えている。おそらくそこは快適に整えられているだろう。だから、どちらかといえば今タイラーを案内している騎士にこそ申し訳なさを感じる。ここで勤務するものは辛いだろう。目の前と後ろを歩く騎士たちの待遇が行き届いているかが酷く気になる。タイラーは帰ったらそれを確認することを心に留めた。
騎士に案内され、父親の部屋に入る。冬でもないのに室内には暖炉に火が入っていた。少し暑いが、やはり上に上がっても塔自体が冷気に包まれているようで仕方ないことに感じた。
タイラーは部屋の中に入ると、父の鋭い目に睨まれ、ひどく気まずく、肩身が狭いような気分になる。この男の前に立った途端に子供の頃の自分に帰ってしまったようだ。タイラーは目を逸らして、自分を帰り見た。自分は大人で、この男に支配される必要はないのだと納得させるのは骨が折れる気がした。だが自分の優先すべき人を想像する。それは兄ではなくルビナの顔だった。彼女を思い出すと、笑えるくらいストンと心が落ち着いた。さっきまで霧散してしまっていた勇気が新たに湧いてくる。
タイラーは父と二人きりになるのかと思ったが、騎士は出ていかず、二人の間を見張る為に騎士が数人室内に配置された。それもとても心強かった。
父は騎士たちに警戒されているだろう。何かをしそうな不穏さを持っている。
父をよく観察すると、彼は今も高級な衣装をつけていた。狭いが豪華な部屋に住み、偉そうに椅子にふんぞり帰っている。
顔は厳しく深いシワを増やしていたが、それは食事が足りていないというようなものではなく、ただ年齢を重ねた結果だと納得させられる姿だった。
タイラーは面会用に騎士が今用意した椅子に腰を下ろした。
「やっと来たか」
枯れた厳しい声をかけられた。父親は今も自分が統治者の様な気分でいるらしい。
タイラーは落ち着いて答える。
「何か意見があると聞きまして、一応訊いておこうかと」
「お前ごときが、偉そうに」
「今の貴方の立場よりは、偉いのではないかと」
父親は不快そうに鼻を鳴らした。指が椅子の肘掛けをぐっと掴んだのが目に入る。痩せて骨張った指が白く震えている。
「黙れ、不愉快な声を聞かせるな。私の話を聞け」
『私の話を聞け』その言葉が懐かしく感じた。この男は変わらない。子供の頃の嫌な感情を思い出しタイラーはここに来たことを後悔した。早く会話を終わらせて家に帰りたい。妻や自分の事を愛してくれるあの家に帰りたい。この父親の声を聞くことが、とてつもない苦痛だ。
タイラーは自分が、この父親を嫌悪していることをここにきて初めて、本当に理解した。
私は私のことを子供だとも思っていないこの男に対して、愛など持ち合わせていないのだ。昔はいつかは愛して、認めてもらえるのかもしれないと思っていた、だがこの男はそんなつもりは死ぬまでないのだ。それを求めるのは不可能だ。大人になって、やっと理解する事ができた。そんな男に対して期待する気持ちはいつの間にか消えていた。そして私も、今後この男を愛すことはない。
「お前は娯楽規制の法を廃止する気だと聞いたが、そんなくだらないことをするほど頭が悪かったか」
「あなたはそのことに口を出す権限はない」
「ええい、黙れ。お前のような愚か者、子供の頃に殺してしまうのだった」
「そうですか」
「しかも再婚相手に男爵令嬢を選んだだと? 王族というものをなんだと思っているのだ。くだらない、男爵家の娘だと……男爵など、クソだっ! クソッ! クソだ!」
父はブツブツと同じことを繰り返し始めた。タイラーは結婚のことを持ち出さても心を動かさなかった。この男に理解される必要もない。
男は同じ様なことを繰り返し続け、やがて新しい思考に行き着いた。
「くそっくそ、やはりあの息子ではダメだった、こいつもダメだ、私が王に戻らなければ……おいお前、私をここから出せ」
男は騎士に向けて命令した。彼らの役目が父を見張ることだと忘れてしまったように。
「父上、それは無理な相談です」
「私は王だ、父などではない」
「確かに、あなたは父ではないかもしれない、そして王でもない」
「私は王だっ! 命令をきけ! 貴様らは私の道具であるべきだ、貴様も! 貴様も! 貴様もだっ!」
タイラーは父の口の端から飛び散る泡を顔を背けて避けた。
どうやら父は本当に狂ったらしい。老いが彼を支配していた。老い、ボケて、狂っている。状況の判断もできず、冷静な思考もできない。こちらの言うことなど、理解せず、自分の思考しかない。だが、昔と何が違うだろう?
この男は昔から狂っていて、そしてさらに狂ったと言うだけだ。この男は何を言っても理解などしない。しかしタイラーは、父親と訣別するために自分の気持ちを口にすることにした。
「貴方は王ではない。そして私の父でもないと認めましょう。そして貴方はもう王に返り咲くことはない。簡単に死ぬこともできないでしょう。ここで、王位を剥奪された愚王だという事実と向き合いながら老いて死んでください。私は貴方に感謝したことはありません。楽しくない幼少期でした。母上も貴方に殺されたと言えるでしょう。ですがこの世に生み出してくれたことだけは感謝しましょう。私は今幸せです」
「くだらん、そんなことはどうでもいい! 市民に楽を許すな!」
狂った老人は、そのことを突然思い出して口に出した。そこまでの執着の理由はわからない。タイラーはわかりたくもない。どうせくだらない理由に違いない。この男に深みなどはない。
「国は人の集まりです。人々は喜びがなければ生活できない。生きられない。私たちの国はこれから喜びと楽しみを受けながら、あなたの代とは違い、とても国を栄えさせるでしょう。貴方は貴方の思う通り、一生楽しいこともなく生きてください。……もう会いに来ることはありません。さようなら」
タイラーは席を立つと、後ろで狂ったように怒鳴り続ける老人を残して部屋を出た。そして警備をしてくれている騎士たちに「苦労をかける」と声をかけ、労うことを約束し、塔を後にした。
兄の元に戻って、報告をしなくてはならない。大して伝えるべきこともないが、と思っていたがそうはならなかった。
兄の元に戻ると「奥方が産気づいたそうだ、急いで戻れ」と告げられ、タイラーは慌てて城を出た。




