16話 話しましょう
ルビナは馬車の窓を眺めてため息をついた。
窓にはルビナの隣に座るタイラーの顔が写っている。その顔色は冴えない。
サーカスの後からずっとこうだった。
いつもどこか上の空で、話しかけても一泊遅れる。感情の振れ幅がひどく狭くなったようで、笑うことがなくなった。
大きな音にはびくりと体を震わすようになったし、眠りは浅く、夜の間に何度か起き上がってはベッドから離れ、戻ってくるとルビナと離れて横になる。
だからルビナはいつも彼が離れると、逆に手を伸ばして体を触れさせた。これがいい対応かどうかはわからないが、距離を離されるのはなんだか我慢がならなかった。
それでも妊婦の夫として気遣おうという努力は感じる、
そして今日はルビナの体調を見てもらうため、医者のところへ二人で訪れるところだった。
「どうやら特に問題ないようですね。これなら長距離移動も耐えられるでしょう。ただ、馬車はやめた方がいいですね。機関車などにされてはいかがですか」
「そうですか」
タイラーがぼんやりと答えると、お医者様はおや、という顔になった。
「何か心配事がありますか?」
「……いえ、そんなことは。では数日後にこの街を立つ事にします」
タイラーの返事に、医師はルビナの方を見て目を合わせた。
「では、旦那さんは一度外でお待ちください。奥さんの様子を一応確認させてもらいますので」
タイラーは頷くと、のっそりと診察室から出て行った。
医師はその後ろ姿を見送り、ルビナに向き直った。
「何かお二人の間に問題がありますか?」
数回しかあったことのない医師にも、タイラーがおかしなことは伝わったようだ。ルビナはどう言ったものかと逡巡した。
「妊娠とは関係ないことなんですが、この間、彼のとても嫌な記憶を思い出させるようなものを見せてしまって。それからずっと落ち込んだままなんです」
医師はなるほど、と呟くと少し考えてから質問を続けた。
「その記憶というのは、辛い事ですか? その時ご主人はどんな様子でしたか?」
「……『辛い』だと思います。真っ青になって固まってしまって。こちらの声も聞こえていないようでした。それからはあんな風に、他のことに気を取られているような感じで。生気がないと言うか」
「なるほど」医者は顎に手をやって考えを巡らした。
ルビナは医師の言葉をまった。何かいいアイデアがあるのなら、素直に教えて欲しい。あんなのは見ていられない。元気に戻って欲しい。
「私は、二人で話し合うのがいいと思いますよ」
あまりに普通の発言に、ルビナはがっかりした。もっと何か、いいアドバイスがあると思ったのだ、話すなんて普通の事すぎる。
がっかりしているのはあからさまだったが、医師は気にせず続けた。
「私の考えですが、嫌な記憶というのは、心の中に閉じ込めておくから記憶が風化しないのだと思うんです。目にみえる傷ならいずれ見慣れるでしょう? 例えば手に怪我をしても、毎日見えるからいずれは慣れますよね。ですが顔にできた傷は長くなれることはない。鏡を見なければ思い出さないからです。そして記憶の中のものはもっと思い出さない。考える回数が少ないですからね。その代わり思い出す時はいつでも新鮮なショックのままで、毎回嫌な気分になるんじゃないかと思うんです」
なるほど、わからなくはない話だった。
「彼は今もまた、忘れよう忘れようと頑張っているからぼうっとしてしまうのかもしれませんよ」
「そういえば一度その話を聞いたあとは、とても明るくなっていました」
ルビナは公爵家に嫁いだその日に洗いざらい話を聞き、その後タイラーが明るくなったことを思い出した。
「やはり自分からその話をする事で考えがまとまるというのもあるのかも知れませんね。またそのようにしてみたらいかがでしょう? とことん話して、彼をその嫌な記憶になれさせては。根拠のない恐怖なんだと教えることは大事です。結局、過去のことは過去のことです。どうしようもないし、悩んでも仕方ない。変えられないことなのですから」
ルビナはその話を聞いて、医師にお礼を言って帰った。ルビナ自体も医師に話を聞いてもらえて楽になっていた。
確かに私がタイラーの為に出来ることなんて、話を聞くくらいのことしかないのも事実だ。過去は変えられないのだから。その傷を掘り返すことで、前進できるかもしれないのなら、試す価値はあると思う。
ルビナは帰りの馬車の中でタイラーの横顔をガラスの反射で確認しながら考える。
私が前世のナイフ投げだなどと伝えたらどうなるだろう。
そんなのありえない。
生まれ変わって、今は幸せになっていると言っても、彼の気持ちが楽になるとは思えなかった。
今でさえこんなに苦しんでいるのに、目の前で死んだ女が生まれ変わって自分の妻の座に収まっていると知って、彼がどう思うか想像もつかない。
普通に彼の話を聞こう。
ルビナはその日の夜、早速タイラーに切り出した。
「タイラー、ねえ、話をしましょう。私たち、サーカスを見に行ってからギクシャクしているわ」
タイラーの手を取り、彼の様子を窺いながら話しかける。彼は少し体を固くして、目を合わせずに言った。
「ああ、だがサーカスに近づかなければ普通に生きていける。それに私たちの国に、サーカスはくることはできない」
ああ、とルビナは嘆きたくなった。サーカスが国にないから大丈夫だなんて言ってほしくない。彼は法律を変えようとしていたはずなのに。
ルビナの身体に重苦しいものがのしかかった。
タイラーは今絶対にいい状態じゃない。こんな乗り越え方は良くない。
タイラーの手を強く握るが、彼の手から反応は返ってこない。
「ねえ、あなた、子供たちのために法律を変えるって言っていたじゃない」
「……だが、怖いんだ」
「ねえ、怖いことを話して」
「いやだ」
「ダメよ、話して頭の中を整理するの。あなたを苦しめているものはあなたの中にあるんだから、話してくれないと私にはわからないのよ。ねえ、私たち夫婦なのよ。喋って欲しいの、あなたの苦しみを教えて」
「最初に説明した以上のことはない」
タイラーの手にグッと力が入ったが、それはルビナの手を握り返したわけではなかった。ルビナの手の中で、自分一人で拳を作ってしまう。それが辛い。拒絶されている気がした。ルビナはタイラーの手を離して、冷たくて固まった身体を抱きしめた。
「……いいの、同じことで。今何を苦しんでいるのか、何回でも聞くから、何回でも話してちょうだい」
タイラーはしばらく何の反応もせず黙っていたが、やがて諦めたように「わかった」と呟いた。
タイラーはルビナの腕の中でぐったりと力を抜き、ぽつりぽつりと話した。
主に前世のルビナのことを。
ナイフを投げる彼女の姿に惹かれたこと、憧れたこと。
彼女が走ってきた時、初恋をした男の子のように胸がドキドキして嬉しかったこと、そのあと彼女がいくつもの剣で突き刺されたこと、彼女の死顔、騎士たちが虎を退治するため彼女をゴミのように捨てて足蹴にしたこと。
虎を殺したあと、その男たちが自分を取り囲んで体を心配する顔が、まるで化け物のように見えたこと。
彼女の死体が、いつまでもそこに転がされていたこと。
テントを見た時、彼女の体が刺されるところが一気に脳裏に蘇って、動けなくなったこと。記憶の世界から現実へ帰ってくるのに随分かかったこと。
彼女のことを怖がりたい訳ではないのに、そのシーンを思い出すと嫌な汗が出ることに罪悪感を感じること。
全ての出来事がタイラーがサーカスに興味を持たなかったら、起こらなかったと思ってしまうこと。
タイラーがやっと話すのをやめると、ルビナはタイラーの腕を撫出ていた手を止めて、顔を覗き込んだ。
「ねえ、大丈夫よ。きっとそのナイフ投げは今、天国で幸せにやってるわ。だって人を助けて死んだのよ? 神様は絶対彼女にご褒美をくれてると思うの」
「そんなことわからない」
「彼女はあなたのことを怨んでいないわ。だって、死ぬかもしれないのはわかっていたはずだもの。噛みついてやろうと走り出した虎の前に出てあなたを庇ったのよ?」
タイラーはそれを聞いても、苦しそうな顔をしただけだった。
「そんなのは綺麗事だ」
「……ごめんなさい。勝手なことを言ったわね」
ふと、ルビナは余計なことを言っているのだと気づいた。彼にとってナイフ投げがどう思っているかなんて関係ないのだ。
彼は事実がどうかではなく、自分の中の罪悪感に苦しんでいるのだ。
つい、自分の気持ちをしゃべってしまいたい衝動に駆られたことが情けなくなった。
「彼女を殺したのは騎士だ。彼女だってそんな目に遭わされるとは思わなかったはずだ」
「だったら怨まれるのは騎士のはずでしょ」
「あいつらの雇い主は私だ」
タイラーは即答した。しかしそんなのは貴族の価値観だ。ルビナにとって自分を殺したのはどう考えても騎士だ。でも彼がそう思うのなら仕方がない。ルビナはタイラーの発言を強い口調で訂正した。
「いいえ、雇い主はあなたの父親よ。そしてその人は愚かな命令をしていたの」
「……君ははっきり言うな。前王だぞ? 怖くないのか」
タイラーはフッと笑ったように思った。呆れた笑い方だが、感情が見えるのはいいことだ。ルビナは少し嬉しくなって茶化した。
「あら、私のことを捕まえる?」
「捕まえない。君がいなくなったら私は困る」
タイラーはいつの間にか身体があったかくなっていた。そしてルビナに抱きしめられていた腕を解くと、今度はルビナを抱きしめなおした。
その力強さにルビナは勇気づけられた。
「ありがとう、少し気が楽になった気がする」
「じゃあまた話しましょう? 明日にでも」
「明日もか? 毎日はつらいな」
「じゃあ毎日、今日は何を考えたのか話して。私も話すから。それを日課にしましょう」
ルビナはタイラーの目をじっと覗き込んだ。彼は困ったような顔をしていたが、少しして諦めた。
「君の言う通りにするよ。私は情けない夫だな。君より十四も歳上だというのに」
「気にしないで、私はきっと精神年齢が大人なの。それにあなたは私の旦那様よ。私の前では正直でいて」
タイラーはやっぱり情けないような顔でルビナを見つめたが、ルビナに頭を引き寄せられ額にキスをされると、困ったように微笑んだ。そしてルビナの顎を持ち上げ、唇にキスをチュッと返した。
それからタイラーはルビナの顔を眺めていたが、やがて物足りなかったように何度かキスを繰り返した。
そんな些細な触れ合いさえ久しぶりだったので、タイラーは気分が少し上向いたに違いない。
ルビナは久しぶりに安心できた。
読んでいただいてありがとうございます。